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エリトリア<br /><br />*アフリカ一若い国<br />エチオピアから30年に及ぶ戦いの末独立を勝ち取ったアフリカで一番新しい独立国、それがエリトリアだ。この地を失えば紅海へのルートを失い内陸国になってしまうエ<br />チオピアは、エリトリア独立をなかなか容認せず、エリトリア独立戦争は30年にも及<br />んだ。そんなエリトリアでは自由よりも快適さよりも平和と協調がより重要の価値に<br />なっているように見えた。<br />例えば、店の看板・広告・車のナンバー・・・目にする文字全てがティグリニア文字<br />(エチオピアのアムハラ文字と共通)、アラビア文字、そしてローマ字の3種類表記<br />だ。田舎の村では、ローマ字表記ないものがあったが、ティグリニア・アラビアの文<br />字はいつも仲良く並んでいた。この国ではキリスト教(ティグリニア文字使用)・イ<br />スラム教徒(アラビア文字使用)が50%ずつ丁度拮抗しているそうだ。南に「キリスト教国」エチオピアを、西に「イスラム教国」スーダンを抱える小国エリトリアは、ひとたび宗教対立・民族対立が顕在化してしまえば常に周辺国の介入を招き戦争に突入してしまう危険がある。30年掛けて勝ち取った平和を大切に守っていこうという意気込みが、看板一つ一つから伝わってくるような気がした。<br />なお、キリスト教といっても、この国の主流はカトリックでもプロテスタントでもな<br />い。ヨーロッパ列強がアフリカに進出してくるはるか以前から存在していた正教<br />(オーソドックス)だ。英語の分かるエリトリア人は、Greek(ギリシア正教)だと<br />いっていた。対エチオピア感情が悪いので認めたくないのは分かるが実際にはエチオ<br />ピア正教と教義が同一だ。<br /><br />*30年ぶりの帰国<br />いつかエチオピアから陸路で行くと決めていた国、エリトリア。一向に開かれない陸路国<br />境をあきらめ、空路訪問することにした。まず問題になるのが入国ビザの手配だ。かつて在日エリトリア大使館がなかった頃は在中国大使館と国際電話・FAXでやり取りしたが結局ビザは取れず、さらにイエメ<br />ン他周辺国でビザを取得しようとしたときも大使館閉鎖またはビザ取得に時間がかか<br />るということであきらめ、結局ビザが取れないがために行きそびれてしまっていたのだ。近時開設された在日エ<br />リトリア大使館でようやく取得したビザに興奮していると、今度は別の問題が。カイロ-アスマラの直行<br />便は乗客過少のため日本発直前にキャンセルを決定したというのだ。周辺に友好国が少ないエリトリア<br />では当然空路アクセスも限定される。2日後のジェッダ経由で入国せざるをえない。<br />私としては数ある苦難を乗り越え待ちに待った訪問のつもりだった。しかし、私よりも遥かに渡航を待ちわびていた人がいた。<br /><br />それは、JEDからの飛行機隣の席の「エリトリア人」S氏、なんと30年ぶりに母国に<br />「帰国」するのだという。39歳のS氏は9歳で戦火を逃れ両親とスーダンに出国、長いサウジ亡命<br />生活を経て、今はイギリス在住、イギリス国籍を保有している。ビデオカメラ片手に<br />静かに興奮しているS氏に私は尋ねる。1993年5月に国が独立してから12年もたつと言<br />うのに、今まで何故戻ってこれなかったのかと。エリトリア系妻との間に4人の子供<br />を持ち、ロンドンで小さな食材店を営むS氏は私に答える。「That is the life!」<br /> 人生とはそんなものらしい。<br /><br />機内を見渡すと、散見される赤白チェックのカフィーヤ(典型的サウジ風着こなし)<br />を被った男たち。彼らも長くサウジ生活を送ってきた「エリトリア人」だそうだ。S<br />氏は、国民食インジェラも、蒸し暑い環境も大好きだと言う。奥さんはエリトリア系で家庭では。誘惑の多いロンドン暮らしにもかかわらず酒は飲まない敬虔なムスリムで、子供たちをコーラン学校に通わせているという。S氏は30年間の異国暮らしを経てもなお「エリトリア人」なのだ。<br /><br />* 深夜の屋台で Y君のこと<br />フレンドリーな挨拶はあたりまえ、英語もなぜかよく通じるこの国で、フレンドリー<br />に英語で話し掛けてきたYに、はじめは違和感を覚えなかった。なにより、屋台で現<br />地食を素手で食べている彼は現地人にしか見えなかった。でもいわれてみれば彼は現<br />地では見られないデニムの短パンを履いているし、現地の人は彼に英語で話し掛けて<br />いる。アメリカ育ちの彼は、本当に現地語が話せないのだ。そしてアメリカに住んで<br />いなければ習得し得ない流暢なアメリカの黒人英語を話している。落ち着いた性格。<br />うそつきではなさそうだ。彼の、モロッコでの、アメリカでの、イスラエルでの、そ<br />してケニアでの信じられないような一連の話はきっと本当なのだ。<br />冷戦下ではエチオピアをサポートしたソ連に対抗し、アメリカがエリトリアに拠点を<br />置いたのだろうか、Yによるとエリトリアに米軍基地があったらしい(真否未確認、<br />というか確認できないので間違いではないか)。アメリカ軍人だった養父とともにア<br />メリカに渡り、アメリカで育ったが、わけあって一人マッサワに住むY。仕事もな<br />く、夢もない。町全体が遺跡のようなマッサワの蒸し暑い夜、猥雑な音楽をバック<br />に、僕らは、夜更けまで話しこんだ。<br /><br /><br />* 日系米人Oさんのこと<br />何度も間違えながら思い出し手帳に書いてくれた縦書きの名前には見たことのない虫偏の漢<br />字が含まれていた。人の名前に虫偏はありえないでしょう・・・と思いつつ、帰国後調べて<br />みると、「蛟(みずち)」、龍の一種らしい。太平洋戦争中日系アメリカ人を強制収<br />容するためのキャンプである、悪名高きマンザナールその他3つのキャンプを転々と<br />しながら幼少時を過ごしたO氏は、マンザナール「同級生」のゴードンサトウ氏のマ<br />ングローブ植林プロジェクトを視察するため1999年にマッサワを訪れた。その数ヵ月<br />後には、この地でリタイアすることを決意し、移住。以来、6年になる。日本には戦<br />後日本に戻った父とともに数年博多に住んでいるということで、片言はなせる日本語<br />は博多弁だ。「(終戦直後は食べ物がなくて、)町の人、困っとったんよー」。珊瑚でできた古い家が並ぶ、蒸し暑く眠たい港町マッサワ、波乱万丈の人生を送ってきたOさんがゆっくり老後を楽しのにぴったりのような気がした。<br /><br />*勤勉で清潔好きな国民性<br />オイルマネーで外国人労働者に清掃させているリビアは別として、自国民が自らの意<br />思と努力ででこれだけ清潔さを保持しているアフリカの国を私は知らない。首都のアスマラと<br />マッサワを結ぶルートしか知らないが、道端のごみが少ない。朝6じ頃アス<br />マラの町を散歩してみると、雑巾で車体をぴかぴかに磨いているタクシードライ<br />バー、店の窓を腰をかがめて拭く女の子、家の前を箒がけしているおばちゃん、そん<br />な人たちを多く目にする。綺麗なことは気持ちのいいこと、アフリカを旅していると<br />忘れかけてしまう感覚を取り戻すことができる。<br /><br />その他<br />*両替レート撮影で尋問<br />世界には、独自の通貨というものがありながら、外国人旅行者には外貨払いが法律上または事実上強要される国々が存在する。北朝鮮などの孤立した国、セイシェルなど観光地もそうだった。国家が外貨獲得に必死なのだ。エリトリアも国家による外貨コントロールが厳しい点は共通だが、特殊なのは、現地通貨を使用すること自体はでき、ただ一定の銀行で公定レートで両替しなければならないという点。アルジェリアと一緒だ。このような国はたいてい闇レートというものが存在するのだが、現地人には外国人と両替に応じたり外貨を直接受領すると罰則が適用されてしまう。外貨払いを直接町ですることはできず(罰則を恐れて町の人が受け取ってくれない)、両替は多めにしなければならないが、いったん現地通貨にしてしまうと外貨に際両替するのはとても大変、という困った国なのだ。タクシードライバーによると外貨管理は年々厳しくなっているそうだ。ユニークな公定レート一覧表を記念に撮影しようとすると、・・・・。両替レートは重大な国家機密らしい。国民の外貨取得の自由を規制している点がニュースになってしまうのを恐れているのではないか。<br /><br />http://4travel.jp/traveler/km/profile/

Eritrea

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2005/04 - 2005/05

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km777

km777さん

エリトリア

*アフリカ一若い国
エチオピアから30年に及ぶ戦いの末独立を勝ち取ったアフリカで一番新しい独立国、それがエリトリアだ。この地を失えば紅海へのルートを失い内陸国になってしまうエ
チオピアは、エリトリア独立をなかなか容認せず、エリトリア独立戦争は30年にも及
んだ。そんなエリトリアでは自由よりも快適さよりも平和と協調がより重要の価値に
なっているように見えた。
例えば、店の看板・広告・車のナンバー・・・目にする文字全てがティグリニア文字
(エチオピアのアムハラ文字と共通)、アラビア文字、そしてローマ字の3種類表記
だ。田舎の村では、ローマ字表記ないものがあったが、ティグリニア・アラビアの文
字はいつも仲良く並んでいた。この国ではキリスト教(ティグリニア文字使用)・イ
スラム教徒(アラビア文字使用)が50%ずつ丁度拮抗しているそうだ。南に「キリスト教国」エチオピアを、西に「イスラム教国」スーダンを抱える小国エリトリアは、ひとたび宗教対立・民族対立が顕在化してしまえば常に周辺国の介入を招き戦争に突入してしまう危険がある。30年掛けて勝ち取った平和を大切に守っていこうという意気込みが、看板一つ一つから伝わってくるような気がした。
なお、キリスト教といっても、この国の主流はカトリックでもプロテスタントでもな
い。ヨーロッパ列強がアフリカに進出してくるはるか以前から存在していた正教
(オーソドックス)だ。英語の分かるエリトリア人は、Greek(ギリシア正教)だと
いっていた。対エチオピア感情が悪いので認めたくないのは分かるが実際にはエチオ
ピア正教と教義が同一だ。

*30年ぶりの帰国
いつかエチオピアから陸路で行くと決めていた国、エリトリア。一向に開かれない陸路国
境をあきらめ、空路訪問することにした。まず問題になるのが入国ビザの手配だ。かつて在日エリトリア大使館がなかった頃は在中国大使館と国際電話・FAXでやり取りしたが結局ビザは取れず、さらにイエメ
ン他周辺国でビザを取得しようとしたときも大使館閉鎖またはビザ取得に時間がかか
るということであきらめ、結局ビザが取れないがために行きそびれてしまっていたのだ。近時開設された在日エ
リトリア大使館でようやく取得したビザに興奮していると、今度は別の問題が。カイロ-アスマラの直行
便は乗客過少のため日本発直前にキャンセルを決定したというのだ。周辺に友好国が少ないエリトリア
では当然空路アクセスも限定される。2日後のジェッダ経由で入国せざるをえない。
私としては数ある苦難を乗り越え待ちに待った訪問のつもりだった。しかし、私よりも遥かに渡航を待ちわびていた人がいた。

それは、JEDからの飛行機隣の席の「エリトリア人」S氏、なんと30年ぶりに母国に
「帰国」するのだという。39歳のS氏は9歳で戦火を逃れ両親とスーダンに出国、長いサウジ亡命
生活を経て、今はイギリス在住、イギリス国籍を保有している。ビデオカメラ片手に
静かに興奮しているS氏に私は尋ねる。1993年5月に国が独立してから12年もたつと言
うのに、今まで何故戻ってこれなかったのかと。エリトリア系妻との間に4人の子供
を持ち、ロンドンで小さな食材店を営むS氏は私に答える。「That is the life!」
 人生とはそんなものらしい。

機内を見渡すと、散見される赤白チェックのカフィーヤ(典型的サウジ風着こなし)
を被った男たち。彼らも長くサウジ生活を送ってきた「エリトリア人」だそうだ。S
氏は、国民食インジェラも、蒸し暑い環境も大好きだと言う。奥さんはエリトリア系で家庭では。誘惑の多いロンドン暮らしにもかかわらず酒は飲まない敬虔なムスリムで、子供たちをコーラン学校に通わせているという。S氏は30年間の異国暮らしを経てもなお「エリトリア人」なのだ。

* 深夜の屋台で Y君のこと
フレンドリーな挨拶はあたりまえ、英語もなぜかよく通じるこの国で、フレンドリー
に英語で話し掛けてきたYに、はじめは違和感を覚えなかった。なにより、屋台で現
地食を素手で食べている彼は現地人にしか見えなかった。でもいわれてみれば彼は現
地では見られないデニムの短パンを履いているし、現地の人は彼に英語で話し掛けて
いる。アメリカ育ちの彼は、本当に現地語が話せないのだ。そしてアメリカに住んで
いなければ習得し得ない流暢なアメリカの黒人英語を話している。落ち着いた性格。
うそつきではなさそうだ。彼の、モロッコでの、アメリカでの、イスラエルでの、そ
してケニアでの信じられないような一連の話はきっと本当なのだ。
冷戦下ではエチオピアをサポートしたソ連に対抗し、アメリカがエリトリアに拠点を
置いたのだろうか、Yによるとエリトリアに米軍基地があったらしい(真否未確認、
というか確認できないので間違いではないか)。アメリカ軍人だった養父とともにア
メリカに渡り、アメリカで育ったが、わけあって一人マッサワに住むY。仕事もな
く、夢もない。町全体が遺跡のようなマッサワの蒸し暑い夜、猥雑な音楽をバック
に、僕らは、夜更けまで話しこんだ。


* 日系米人Oさんのこと
何度も間違えながら思い出し手帳に書いてくれた縦書きの名前には見たことのない虫偏の漢
字が含まれていた。人の名前に虫偏はありえないでしょう・・・と思いつつ、帰国後調べて
みると、「蛟(みずち)」、龍の一種らしい。太平洋戦争中日系アメリカ人を強制収
容するためのキャンプである、悪名高きマンザナールその他3つのキャンプを転々と
しながら幼少時を過ごしたO氏は、マンザナール「同級生」のゴードンサトウ氏のマ
ングローブ植林プロジェクトを視察するため1999年にマッサワを訪れた。その数ヵ月
後には、この地でリタイアすることを決意し、移住。以来、6年になる。日本には戦
後日本に戻った父とともに数年博多に住んでいるということで、片言はなせる日本語
は博多弁だ。「(終戦直後は食べ物がなくて、)町の人、困っとったんよー」。珊瑚でできた古い家が並ぶ、蒸し暑く眠たい港町マッサワ、波乱万丈の人生を送ってきたOさんがゆっくり老後を楽しのにぴったりのような気がした。

*勤勉で清潔好きな国民性
オイルマネーで外国人労働者に清掃させているリビアは別として、自国民が自らの意
思と努力ででこれだけ清潔さを保持しているアフリカの国を私は知らない。首都のアスマラと
マッサワを結ぶルートしか知らないが、道端のごみが少ない。朝6じ頃アス
マラの町を散歩してみると、雑巾で車体をぴかぴかに磨いているタクシードライ
バー、店の窓を腰をかがめて拭く女の子、家の前を箒がけしているおばちゃん、そん
な人たちを多く目にする。綺麗なことは気持ちのいいこと、アフリカを旅していると
忘れかけてしまう感覚を取り戻すことができる。

その他
*両替レート撮影で尋問
世界には、独自の通貨というものがありながら、外国人旅行者には外貨払いが法律上または事実上強要される国々が存在する。北朝鮮などの孤立した国、セイシェルなど観光地もそうだった。国家が外貨獲得に必死なのだ。エリトリアも国家による外貨コントロールが厳しい点は共通だが、特殊なのは、現地通貨を使用すること自体はでき、ただ一定の銀行で公定レートで両替しなければならないという点。アルジェリアと一緒だ。このような国はたいてい闇レートというものが存在するのだが、現地人には外国人と両替に応じたり外貨を直接受領すると罰則が適用されてしまう。外貨払いを直接町ですることはできず(罰則を恐れて町の人が受け取ってくれない)、両替は多めにしなければならないが、いったん現地通貨にしてしまうと外貨に際両替するのはとても大変、という困った国なのだ。タクシードライバーによると外貨管理は年々厳しくなっているそうだ。ユニークな公定レート一覧表を記念に撮影しようとすると、・・・・。両替レートは重大な国家機密らしい。国民の外貨取得の自由を規制している点がニュースになってしまうのを恐れているのではないか。

http://4travel.jp/traveler/km/profile/

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