2001/11/14 - 2001/11/21
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早島 潮さん
イタリア紀行更新=【美の扉】ウフィツィ美術館「自画像コレクション」2010.10.17 08:13
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/101017/art1010170814000-n1.htm
平成13年11月14日(木)
添乗員は大須久美子というがっしりした体格の大柄でベテランの女性である。
飛行機はアラスカ経由で北極の上空を飛んだ。ジャパンエアシステムとオランダ航空の共同運航便であった。
アムステルダム空港で乗り継ぎミラノのホテルへ到着したのは23時半であった。 就寝したのは24時5分であった。風呂へは入らなかった。時差8時間だから一日が32時間の長い一日は終わった。
平成13年11月15日(金)
ホテルの名前はレオナルド・ダ・ビンチホテルである。
昨夜風呂に入らなかったので朝早く起き出してシャワーを使った。睡眠も十分で気分爽快である。
最初にスカラ広場へバスでやってきた。ミラノは二回目の訪問なので目に馴染みのある光景が広がっている。スカラ座とマリノ宮、エマニュエル・アーケード、市庁舎に囲まれてスカラ広場は位置している。
広場の中央にはレオナルド・ダビンチ像が建っている。スカラ座はベローナからきたスカラ家がサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会を先ず建てその跡地に建てられたものである。1778年に開場し数多くのオペラの名作が上演されたことで知られている。
エマニュエル・アーケードは建築家ジュゼッピ・マンコーリによって建てられたドーム型の天井を中央に持つアーケードで文化人のサロンにすることが目的であった。 天井中央部の絵画の装飾が素晴らしい。今ではこのアーケードには商人が入って店舗を開いているがカフェも多く昔のサロンの名残をとどめている。
ミラノの大聖堂は通称ドーモと呼ばれ1386年にシャンガリアッチ領主の命によって建設が開始されおよそ500年かけて完成されたゴチック様式の教会である。総大理石作りで建物自体目を見張る程の豪華さであるが、とりわけ有名なのはキリストが磔り付けにされた時に使われたという釘が天井に吊るされていることである。釘を管理するためのゴンドラまでが特別に作られて吊るされていた。聖なる釘の日として 9月14日には儀式が行われる。
ゴチック様式では世界で第三番目の大きさを誇り4万人が収容できるという。面積は111、700m2である。フランスのナボレオン一世は1805年にここで戴冠式を行った。
次に城を見学した。14世紀にこの地を支配していたヴェスコンチ家がスフォルツァ家に代わりバルバロッサ(赤髭の野蛮人)の侵入を防ぐ目的で作られたのがスフォルツェ城である。
この城内にある博物館にはミケランジェロの未完のピエタという彫刻があり、作りかけの素材を再利用したためマリアの目が三つあったのが印象的であった。またマリアに抱かれたイエスのだらりと力なく下がっている様子はリアルに脱力感をよく表していた。
ミラノの守護聖人はローマ皇帝テオドシュウスを破門にしたサン・アンプロシュウスであり,市内至るところに銅像やモニュメントが残されている。
ミラノ市の人口は137万人でイタリア第二の大都市であり経済の中心地である。
昼食にエマニュエル・アーケード近くのレストランに入り、貝入りのスバゲッティーを注文して食べたが勘定に時間がかかって集合時間に遅れてしまった。しかも初めてイタリアの通貨を使用したので桁を間違えて56,000リラのところを5万リラ札1枚と1万リラ札6枚で計11万リラ支払ってしまうというチョンボを犯してしまった。このことに気がついたのは、ミネラルウオーターを買おうと思い財布を取り出しその中身が意外に少ないのを不審に思った時であった。
午後から280キロバスで走行してベニスに向かった。半日バスの中で窓外の景色をみたり居眠りして過ごした。
平成13年11月16日(土)
ヴェネチア近くのフェリー乗り場から船に乗りおよそ15分程で水の都の中心街へ到着した。
ヴェネチアは118の島を連ねてその上に建設された市街地で運河が縦横にはしり160の運河、400の橋、ゴンドラ等で知られる水の都である。中世にはオリエントとの貿易で栄えジェノバとともに地中海貿易の重要な拠点であった。
最初にアカデミア美術館を訪問した。この美術館は1500年代にヴェネチアの信仰団体の集会場として建てられたものが美術館として転用され保存されたものである。 ベネチァの豪商達が贅を凝らして営んだ集会場だけにその建物内部に使用されている建築素材や金を多用した装飾の豪華さには目を見張るばかりである。
この美術館にはベネチア派の作品が数多く展示されており、その特徴は華麗な色彩と豪華な官能美にあふれていることである。この派の確立者はベリーニ一族である。
ベリーニの後ジョルジョーネ、ティティアーノ、バルマ・ベッキョ、ティントレット、ベロネーズらが輩出して15〜16世紀に黄金期を迎えるのである。 注)ここにはウフィッツイ美術館所蔵のものの写真を転載した。
ルネッサンスの三大画家と言われるティティアーノ、ティントレット、ベロネーズの作品をはじめ、ロレンツォ・ロット、ベルナルド・ロッチ、ピェコロ、カルバッチョ等の名作の実物を間近に鑑賞することができ至福の一時を過ごすことができた。
アカデミア美術館に名残惜しみながらベネチアグラスの工房を訪問した。職人が長い棒の先に付けた高温のガラス素地を吹いて膨らませ、ぐるぐる回転させながら器用な手つきで容器の形に作り上げていく工程はとても面白い光景であった。赤色のベネチアグラスが最も高級品で材料の産出が少ないので海外への輸出はされていないというのは初耳であった。赤色の発色に金が使われているらしい。
監獄へ通じる橋を「溜め息橋」というがガラス工房の入り口から眺めることができた。
この町には自動車や自転車が一台も走っていないし、その姿すら見かけない光景が珍しいと思った。通路も狭く運河を船で往来するか歩くしか交通手段のない町であり自動車出現以前の町の雰囲気を体験するにはうってつけの町である。
サン・マルコ広場はさまざまな国からの観光客で混み合っていた。同時多発テロ以降観光客の数が激減したということであるが、それにもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。流石に世界一流の観光地である。
ここで目についたのが広場のそこかしこに高さ50cm位のところに畳一枚程の大きさの板が通路状に張りめぐらされていて、広場には水溜まりが出来ていることであった。満潮時には常時このような状態になり、大潮の時には40〜50cmにも水嵩が上がり広場全体が水浸しになるのである。二日前には最大2mも上がったという。
近代化の過程でベネチア近郊の工業地帯で地下水を汲み上げ過ぎたため地盤沈下が起こったことと近年の地球温暖化の影響で海水の水面が高くなってきているせいだと考えられている。近い将来ベネチアの市街地は水没してなくなってしまう運命にあるようである。
サン・マルコ寺院の内部まで床上浸水に晒されていて、足場板が設けられていたのは痛々しい限りであった。広場に溜まった水が侵入してくるのではなくて、寺院内部の床下から敷石の隙間を縫って浸水してくるということだから地盤沈下の激しさが窺われる。
このあとゴンドラに乗って市内を運河側から観察した。これはいわば町や建物の裏側を観察することであり、台所とおぼしき窓や物置部屋らしい壁面等が続いている。そして一階部分の部屋は使われていないものが多い。壁面の塗装ははげ落ち補修もされないまま放置されている建物が多い。窓に板を打ちつけて建物の過半が空き家になっていると想定されるアパート等も散見された。浸水が進んで住民が逃げ出している様子が窺われる。
ガイドに聞いた話であるがベネチアの町の住人の三大高所得階級は「あさり貝取り」「ゴンドラの船頭」「ガラス職人」であるというから現在のベニスの町の特徴をよく語っていて面白いとおもった。
昼食は各自の負担で好きな場所で食べることになっており、同行の橋田さんと二人で観光客が沢山入らないようなレストランを探して入ってみようということになり、やっと探しあてたレストランで取り敢えず、ワインを注文し、さて何を食べるかということでメニューを見たが、イタリア語で表記されていて英語の表記がされていないのでさっぱり判らない。変なものがでてきても困るので辛うじて「スパゲッティー」らしいと判る個所を指さして注文するとあさり貝のスパゲッティーがでてきた。このとき程海外旅行をして自力でレストランへ入り現地料理を堪能するには、せめて現地語でメニューが読めるだけの予習が必要であることを痛感したことはない。何時も添乗員付きで食事付きの旅行しかしていないのでこの思いは切実なものであった。
昼食後再び長駆バスでラベンナの町へ向かった。
ラベンナの町は6世紀頃形成されたこじんまりとした町である。ここではビザンチン様式のサン・ビターレ寺院を見学した。集中式と言われる建築様式に特徴があり、ステンドグラスが窓に使われるようになるまで多用されたという「太陽光を透過するアラバスター」の板が窓にはめ込まれていた。そこから射し込んでくる微かな淡い明かりと暗い教会内部を想像したとき中世の信仰生活の様子が偲ばれて感慨一入であった。
この町で神曲を書いたダンテの墓廟が残されている一角があった。町自体静かな佇まいで旧いものが大切に残されて現代人の生活とよく調和している町であると思った。
この後夕なずむ道をバスで再びフレンツェへ向かった。暗い夜道をアペニノ・トスコ・エミリアノ山脈を越えて夜遅くフィレンツエのホテルへ到着した。
平成13年11月17日(日)
宿泊したホテルは市の郊外だったのでフレンツェ市内中心街まで暫くバスで移動したが、街道の両脇に生い茂っている笠松の並木が印象に残っている。
「総ての道はローマに通ず」という諺があるが今通っているこの道路もローマ帝国時代に作られたものであろう。総て石で舗装されている。ローマ人の統治の基本的な考え方を偲ぶ一つの文化遺産である。今でこそ日本の道路も田舎道までアスファルト舗装されているが戦後まもない頃は舗装のされていない道が過半であった。占領軍の某将校が「日本には道路予定地はあっても道路はない」と言ったという言葉の意味が思い出される。
市内には市の条例でバスが乗り入れられないように規制されているので、指定の駐車場で下車してウフィツィー美術館へ向かった。通りに立ち並ぶメディチ家の居宅であったという豪壮な建物等に目を奪われながら歩いていくと通りの切れたところで、「オッ」「ワァッー」という感嘆の声が一様に上がった。大聖堂がいきなり視界に飛び込んできたのである。それは劇的な瞬間であった。
フィレンツェ大聖堂はここでもドーモと通称されているが正規の名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母寺)である。1296年アルノルフォ・ディ・カンピオが造営に着手し、ジョットー・A、ピサーノ・F、タレンティ・ブルネレスキらが次々と造営に関与して、1436年に完成した。高さ107mの丸屋根はブルネレスキが施工し、「トスカナ全土を覆う」といわれた程の巨大さを誇った豪華な寺院建築である。堂内にはミケランジェロのピエタやウッチェロの絵等がある。
今回の旅行の目玉の一つであるウフィッツィ美術館へ行った。
ウフィッツィ美術館の起源は1560年に遡り、メディチ家のコジモ一世(1519〜74) の要請でトスカーナ大公国の行政管理・司法オフィス( ウフィッツィ) のために[ 川沿いに空中に建つかのような] 二つの翼廊をもつ宮殿をヴァザーリが設計したことに始まる。その5 年後には同じくヴァザーリによって僅か数カ月で、ウフィッツィとメディチ家の住居ピッティ宮殿が繋がれ、ヴェッキオ橋の上を通ってサンタ・フェリチタ教会からボボリ庭園まで抜ける廊下が建設された。町の急所と最古の橋と権力の中枢を連結して階上を走るこのヴァザーリの廊下は世界で唯一の都市通路である。 そこにはルネッサンス期のフレンツェを金融業で蓄えた豊富な資金を背景に独裁権力で牛耳ったメディチ家の面目躍如たるものを偲ぶことができる。
今日のウフィッツィは比類ない芸術遺産を誇っており、中世から現代に至る絵画や古典彫刻、細密画、タベストリー等所蔵作品は何千点を数える。ウフィッツィが優れた美術館であるのは、その見事な建築や数々の傑作によるばかりでなく、四世紀に及ぶ美術品収集の歴史が町の文化変遷と一体となって展開してきたからにほかならない。 それはなによりもメディチ家を筆頭とする町の統治者達が美術品収集に熱意を注いできた結果である。
ルネッサンス期の作品を重点的に鑑賞して回ったが印象強く記憶に残るのはボッチェリーの「ヴィーナス誕生」、春」「東方三博士の礼拝」、レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」、「東方三博士の礼拝」「キリスト洗礼」、ミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」、ラファエロの「自画像」「ヒワの聖母」、「教皇レオ10世と枢機卿ジュリオ・デ・メディチと枢機卿ルイジ・デ・ロッシ」、ティツィアーノの「フローラ」「ウルビーノのヴィーナス」等であった。
シニョリーア広場で見ることのできるミケランジェロの出世作「ダビデ像」の彫刻や切り取った人間の首を手にかざす「ペルセウスの像」等も印象に残った。
アルノ川近くのサンタ・クルーチェ教会にはガリレオ、マキャベリー、ダンテ等が埋葬されているという。ダンテの墓廟はラベンナでも見たから分骨されたのであろうか。
午後から再びバスに乗って長駆レオナルド・ダ・ビンチの生家があるビンチ村へ向かった。山奥の小高い丘の上にあるレオナルド・ダ・ビンチの生家はオリーブ畑に囲まれた見晴らしの良い所にあり、日干し煉瓦を積み重ねて作られた住居跡は博物館になっていてレオナルド・ダ・ビンチがスケッチした飛行機や兵器や機械類の図面を基に作られた模型が展示されていて天才の先見性の一端を示す文物であった。実に閑静な場所である。
再びフレンツェへ戻りホテル近くのレストランで赤ワインを貰いリゾットを食べた。 リゾットといえばイタリア風のお粥であると理解し、歯ざわりの少ない食べ物は敬遠してきた口には初めての食べ物であったが、お粥とはまるで違っていてチャーハンか炊き込みご飯のような感覚のものでご飯に多少芯らしきものを感じたが、食べてみるとなかなか乙な味がした。ワインが安くて美味しいのが今回の旅行で最も嬉しいことの一つであった。
平成13年11月18日(月)
フレンツェのホテルを早朝出発して世界遺産に指定されている中世の城郭都市サン・ジャミアーノを訪問した。
カシア街道やフラジェリア街道の交叉する東西交通の要衝として1150年頃から自治都市として発展した町である。サン・ジョバンニ門を通り抜けてチステルナ広場まで行った。この町はドウモ(教会)を中心に形成されたこじんまりとした町でチステルナ広場には当時使っていた井戸が残されていた。
この広場にたって町の佇まいを観察すると長方形の高い塔が建物に付属して建っているのがいやでも目につく。有名なのはグロッサの塔である。54mの高さだという。 驚いたのはその数の多いことである。全盛期には町全体で72もあったという。これらの塔は権力や財力の象徴としての意味しかないというから古今東西を問わず人間の権力や財力への執念のすざまじさを垣間見る思いであった。
フレンチェ等とも戦ったことがあり、町の一番高い場所には城砦が築かれ遠くを見通せるようになっていたし、現在でも町全体が城壁で囲われていて、中世の生活がそのまま息づいているような町の佇まいである。
次いでピェンツァの町を訪問した。ここも世界遺産に指定されている町であり、近世忘れられていたのを或る建築家に紹介され、ルネッサンス様式の建物が沢山保存されていることで有名になった町である。法王ピウス二世が15世紀の建築家ロッセリーノを用いてルネッサンスのモデル都市を計画させたことがその起源となっている。この歴史的保存地区の周辺を取り囲んで閑静な高級住宅街が形成されている。ピェンツァの町では今回の旅行で初めて雨に遭遇した。
この日の旅程はシエナの町の訪問で終わるのだが、移動中にバスから眺めたトスカーナ地方の風物は印象に残る長閑で異国を感じる光景であった。
それは、あまり高くもない丘陵状の畑がうねりながら或いは重なり合いながら地平線の果てまで広がっているのである。糸杉が所々に立っていてこの光景にアクセントをつけている。畑は取り入れを終わって耕されたばかりのものもあれば、牧草が短く生えて緑色をしているものもある。放牧された牛の群れがのんびりと草を食んでいたりするといやがうえにも旅情をそそる。折から冬の短い太陽の日差しが我々の乗ったバスの影法師を大きく畑に写していくのである。
日本で似たような光景を敢えて探せば北海道は美瑛町の丘陵畠であろうか。ここトスカーナのはその数倍の広大さなのである。
黄昏近い頃やはり世界遺産に指定されているシエナの町へ到着した。ドウモを中心に広がった旧市街は小高い丘の上に纏まっており、バスから下車した位置から遠望するとここも都市国家であったことが一目で判る。
サンタ・バルバラの要塞、カンポ広場、大聖堂等を見学した。
大聖堂は1200年代に建築家ジョバンニ・ピッサーニによって、建設されマリアのために捧げられたゴシック様式とロマネスク様式の見られる教会である。一見して特徴的なのは建物に横縞模様が取り入れられており、アラビアの影響が入っていることである。このような様式をピサ様式というとのことである。
シエナ人はプライドが高く、フレンチェへの対抗意識が強くフレンチェの大聖堂よりも大きなものに建て替えようと計画したが、黒死病の蔓延で計画は頓挫し、外壁と建設予定地だけは当時のまま残っていて現在は駐車場に転用されている。
シエナは創設時から銀行業で成り立っている町で現在も市民の半数以上が銀行に係わる仕事に従事しているという。またシエナに本店を置く銀行は海外のどの支店であっても必ず一人はシエナ人を派遣している。
平成13年11月19日(月)
この日はヴァチカン市国の美術館で名画を堪能した。(ヴァチカン市国編で別掲)
平成13年11月20日(火)
朝7時頃ローマのホテルを出発してポンペイ遺跡とナポリの日帰り観光に出かけた。約3時間の走行の後ベスビオス火山が見え出した。ポンベイ遺跡に近づいたようである。
ポンペイは古くからオスキ人、サムニウム人という何れも古代イタリア人の一派が定住し、農業、商業、貿易で繁栄していた。ローマ時代には一段と発展し一世紀にはその絶頂に達したが、79年8月24、25日のべスビオス火山の大噴火により全市が噴砂と火山灰で埋没し二万人以上の住民のうち約一割の死者を出した。1738年以来組織的に発掘され、1860年以降は本格的な発掘調査が行われ現在も継続している。
都市は代表的なローマ帝国の都市の姿をどどめており、西南部の二つの広場を巡り公共浴場、劇場、体育場、神殿、市場、バジリカ等が配されている。また、建築、壁画、彫刻、調度品などもよく保存されていて当時の文化水準や風俗、生活の実体を知る貴重な資料を提供している。
ここで印象に残ったのは生き埋めになった人間が火山灰の中で腐敗し骨だけ残った火山灰塊を発掘し、残されていた人型へコンクリートを注入して被害者のコンクリート像を作り展示してあった姿である。説明がなければ人間がそのまま埋もれて炭化したミイラが残ったと思ったかもしれない。窒息死したであろうと思われる苦しそうな表情もよく再現されていた。
また路面に男根を型取って表示されている売娼宿の道標、売娼宿の狭い部屋や石製のベッド、更には部屋の壁に描かれたメニューとしての体位の絵なども残されていて、人類最古の職業と言われるだけのことはあるなとニヤニヤしながら説明を聞いていた。
このあとナポリの町をバスで観光しナポリ港が見下ろせる丘を回った後、ローマへ向かって夕暮れせまる帰り路を急いだ。ナポリは国際的な港町で治安が極端に良くないということで車から降りることは許されず、総て車窓からの観光となった。
海を前面に配し、ベスビオス火山を背景にして、山の斜面へ広がるナポリの町はとても美しい景観を作り出していた。しかし近くを通りすがりに眺めた限りでは建物の壁面の剥落は激しくかなり荒廃が進んでいるなとの印象である。聞くところによるとナポリでは造船に関係して生活している人が多く、造船業の斜陽化と折からの不況の影響でナポリ市内の失業率は50%を越えているということである。そのせいで町も荒れるのであろうか。
平成13年11月21日(水)
朝ホテルを7時20分に出発してレオナルド・ダ・ビンチ空港からオランダのスキボール空港を経由して帰国の途についた。
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ミラノ。スカラ座
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ミラノ。エマニュエルアーケード入り口
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ミラノ。エマニュエルアーケード内
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ミラノ。ドーモ内のステンドグラス
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ミラノ。ドーモ
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ミラノ城
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ミラノ城内博物館。ミケランジェロのピエタ
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ミラノ城内の庭園
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ベニスの波止場
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ベニスの街並み
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ベニスの街並み
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ベニス。
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ベニス
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サンマルコ寺院
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ラベンナの寺院
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ダンテの墓
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フレンツェ。大聖堂
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フレンツェ。ダビデの像
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フレンツェ
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ヴインチ村。レオナルド・ダ・ビンチの生家
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ヴインチ村。レオナルド・ダ・ヴインチの生家
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ジミアーノの城門
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シエナ。カンポ
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シエナ。ドーモ
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ロビンの街並み
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ロビンの街並み
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ポンペイの遺跡
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ポンペイ。ベスビオス火山
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ポンペイ。火山噴火の犠牲者
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ナポリの街並み
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ナポリ。ベスビオス火山
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ウフィッツイ美術館。ボッチェリーのビーナス誕生
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ウフィッツイ美術館。レオナルド・ダビンチの受胎告知
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ウフィッツイ美術館
レオナルド・ダビンチのキリスト洗礼 -
ウフィッツイ美術館。
ジョルジョーネのモーゼの火の試練 -
ウフィッツイ美術館。
ラファエロのヒワの聖母 -
ウフィッツイ美術館。
ティティアーノのフローラ
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