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平成13年7月9日(月)<br /> 今日から満州行きである。横浜発13時の成田エクスプレス迄には30分も余裕があった。途中コスモス文学を読みながら成田へ到着した。<br /><br /> 搭乗券を受け取ってから顔合わせがあり、21人の参加であるという。顔ぶれは何れも初老の人達でいつもとかわりばえしないが、今回は単身参加者が相当多いようだ。多分昔満州に住んでいたとか満州で生まれたとか何らかの事情を抱えた人達であろう。戦後56年も経っているので、昔住んでいたとしても中学生か小学校高学年でないと記憶も覚束ないだろうから、現在の年齢は70歳以上ということになる。現に80歳の老婦人が娘二人に付き添われて参加していた。満州のようなあまり有名でもないところへ来るぐらいだから海外旅行については経験豊富な人達ばかりであろう。添乗員は谷藤志乃さんという岩手県出身の若い女性である。<br /><br /> 16時56分に始動した飛行機は17時14分にテイクオフして大連へ向かった。大連空港への着地は18時40分(現地時間)であった。時差一時間だから実飛行時間は2時間30分程である。機上から一見しても大連空港の近くには瀟洒な建物が立ち並び美しい町だとの予兆がある。街中へ入るとなるほど北方明珠ともいわれるだけあって大連は美しい都市である。坂が多いので自転車が少ない町でもある。街路樹はポプラとプラタナスが多く、マロニエの木にアカシアもある。街路灯がすずらんの花型に作られていて印象的である。信号が非常に少ないとの印象が強い。<br />   <br /><br /> ガイドは羅雲さんといい、日本に6年滞在して朝日新聞の配達をして学資を稼いだという。若い世代のせいか共産主義についても醒めた見方をしているようだ。ガイドの用意した通貨を一万円だけ両替して貰ったが余りそうである。一元約15円の交換率である。建物の隈取りの真っ赤な照明が印象的であった。テレビではNHKの放送が見られた。すぐ床についた。<br /><br />平成13年7月10日(火)<br /> 朝食が済んで時間があったので中山広場まで出てみた。太極拳をやっている人々、手に手に旗を翻しながら伝統の踊りに打ち興じる人々で賑わっていた。昔の大和ホテルの側に佇み公園内の動きを眺めていた。その時発見したことは電線が空中を走っていないことである。それだけでも美しい町作りが出来ている。<br /><br /> ホテルを出て旅順に向かった。道すがら観察した大連市中は予想していた以上に大きな町であり、かつ綺麗な建物が並んでいるうえ新しくクレーンも立ち並んでいて発展している町だとの印象が強い。市内人口は890万人だといい,郊外人口が270万人だから1160万人の大都会である。<br /><br /> 日本の統治は1905年〜1945年でその前はロシアの南下政策の影響もあってロシアの影響を強く受けている。現在の発展状況は開放政策以後のことで、ここ4〜5年の間に発展し大きくなったという。中国の市制は日本と逆で市の下に県がくるから人口の見方に注意が必要である。<br /><br /> 日露戦争の激戦地東鶏冠山と203高地を見学した。<br /><br /> 旅順要塞の攻撃では第三軍の司令官乃木希典が二人の息子を失い、多くの兵を消耗(六万人)しながら三回にわたる総攻撃でも奪取できず、司令官が児玉源太郎に替わり東京湾観音崎砲台に取り付けられていた臼砲を急遽運びこむことによって砲撃を加え、やっとの思いで奪取した203高地は当時ロシアから運んだと言われるセメントで固めた頑丈なトーチカが作られていてその残骸がまだ残っていた。日本軍が破壊して突破口を開いたとされる爆破の後も残っていて今は観光の名所になっている。爆破の時コンドラチェフというロシアの有能な司令官が爆死したと言われる場所も残っていた。周囲には樹木や草が生い茂り、静かなところでトーチカの残骸がなければなんの変哲もない場所である。  <br /><br /> 急峻な坂を籠にゆられて行く観光客を横目で見送りながら、ようやくの思いで登りつめた地点には砲弾型の慰霊碑が建っており、遙か下方に旅順港が見下ろせる。この地へ臼砲を運び込み旅順港を砲撃したのである。旅順港は軍港なのでまだ外国人には開放されていないので山の上から遙か下方に眺めるしかない。<br /><br /> 大連から旅順に赴く通りの海岸には昆布の養殖が行われていて取り入れの舟が沢山浮いていた。大連市の特産物であるという。<br /><br />  再び大連市内へ戻り、中山広場沿いに建っている旧横浜正金銀行、大和ホテル等を見学した。中山広場に集まる群衆の数の夥しさにも一驚であった。<br /><br /> 夜は夜行寝台車でハルピンに向かった。四人のコンパートメントになっており、上段へ寝たが夜中に英語で寝言を言ったらしく、ひとしきり話題にされてしまった。山越さんは中国愛好者で十三回目の訪問という。佐野さんは辺境が好きで全くの一人旅もするらしい。熊谷さんは夫婦連れで70歳になる元国鉄職員である。この人も独学で中国語を勉強したといいかなり話す。今回の旅行では中国語を話す人が少なくとも三人はいた。刺激を受けて帰宅したら早速中国語の勉強を始めようと思った。中国へは今後何回も訪れることになるであろうから<br /><br />平成13年7月11日(水)<br /> 朝7時過ぎにハルピン駅に到着して駅近くのホテルまで朝食を摂りに赴いたが雑踏で身動きも容易に出来かねる賑わいである。大都会の駅頭ではいつも見かける光景である。山間部から出てきた人が相当いる筈である。何しろ12億9000万人の人口を抱える中国である。その一割に相当する人間が盲流と称する移動労働者である。所謂出稼ぎ労働者なのである。<br /><br /> ガイドは朝鮮族の金竜珠さんで、説明の中にユーモアがある。<br /> ハルピンとは満州語で網を干しているところという意味なのだという。松花江で満州族が漁をしていたのがハルピンの起源である。松花江を渡った地にある太陽島公園で新潟庭園を見た。ハルピン市と新潟市は姉妹都市なのである。    <br /><br /> 金竜珠さんの話によれば、青森県や新潟県から一週間の予定でやってきた花嫁募集ツァーの案内をしたこともあるという。日本の農村の後継者不足、嫁不足はそこまで深刻であるのかという驚きとともに日本海側の日本の地方都市とこのハルピン市の絆がそこまで強くなっていることも新鮮な発見であった。<br /><br /> 次いで虎北園というシベリア虎30数頭を飼育しているサファリパークへ行った。種族保護のため国で飼育していたが餌代に困ってサファリパークにしたところ、観光客が買って与える餌だけで間に合うようになり、累積赤字が解消したというから面白い話である。<br /><br /> この後、ハルピン博物館を見学した。この街には高々200年程の歴史しかないので見るべきところも少ない。予想していた程には美しい町ではなかった。<br /><br />平成13年7月12日(木)<br /> 翌朝再び列車で午前中かけて長春へ出掛けた。昔新京と言われた都市で旧関東軍や満州鉄道が大陸経営の拠点とした所である。皇帝溥義が日本軍部の傀儡政権として王宮を営んだ場所でもある。中国共産党はこの政権を認めていないので王宮は偽王宮と呼ばれている。故宮などと比べると遙かに貧弱な建物で、皇帝溥義の苦悩がよく判る気持ちであった。偽満州国務院などの建物も残されていて昔、ここへ住んでいた日本人にとっては懐かしい建物であろう。昼食時に土砂降りであったが、うまい具合に雨も上がってほっとした。<br /><br />平成13年7月13日(金)<br />  旅程の都合で朝早く5時半に朝食を摂る予定であったが、準備が出来ていなくてガイドの肖さんも一寸困っていた。マンマンデーはお国柄であり、日本人は時間に几帳面過ぎるのである。結局6時からの朝食になった。<br /><br /> 再び列車で瀋陽(旧奉天)へ向かった。<br /><br /> この町の駅は新築されたばかりでとても立派であったし,町中が建設ラッシュであった。中国で北京、上海、天津に次いで四番目の都市だというから人口も1200万人(郊外地含む)あるという大都会である。これから発展する都市だという印象が強い。オリンピックの北京開催が決まった日でもあり、いずれ開発が目まぐるしい勢いで進むことであろう。<br /><br /> 午後から北陵と故宮の見学をした。ここ瀋陽は清朝ゆかりの地で、開祖ヌルハチ(太祖)が遼陽からこの地へ1625年遷都して北京へ遷都するまで約20年間国府とした所である。もっともヌルハチは瀋陽へ遷都した翌年没している。ヌルハチの墓地もこの瀋陽の地にあるのだが、時間の都合で見学はできなかった。北陵には二代皇帝大宗ホンタイジの妃が葬られているのである。<br />   <br /><br /> 創始者達はいずこの国も質実剛健である。この瀋陽の故宮もその雰囲気はふんぷんと匂っており、清朝の軍事行政組織の根幹である八旗の統括者の事務所が八つ八の字型に並んでいるのが珍しい構えであるが、北京の故宮に較べれば十分の一の規模で建物も小さく、即戦体制がとれるような配置になっている。この八旗軍団が肥大化し脆弱華美に流れ形骸化した時、清朝没落の遠因を作ることになったのである。<br />      <br />平成13年7月14日(土)<br /> 再び瀋陽駅から大連まで午前中かけて列車で移動した。今回の列車は車両も新しく快適な旅であった。車窓から眺められる光景は山がみえず一面玉蜀黍畠である。コーリャンもある筈なのだが見当たらない。幼少の頃食料不足で朝から晩まで食べさせられたコーリャン畠が見られないのは何となく寂しい気持ちである。コーリャンよりも玉蜀黍のほうが市場価値が高いのであろうか。こんなところにも開放政策を取り入れて資本主義化した中国共産主義の変容を見た思いである。<br /><br /> 「瀋陽」という地名は現在の中国語では「沈+こざと偏に日」と記し、「太陽が沈む」地という意味になるのが面白い。そして車窓越しに広野を眺めるとき「ここは御国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下・・・」という軍歌の一節を思いだしていた。更に、当時の軍部や若人達の満州平野へかけた夢と野望に思いを致すと感慨一入なるものがあった。<br /><br /> 昼食後は自由行動となったので、中国語の話せる山越氏と一緒に繁華街へ探訪に出かけた。物資は豊富で活気があり、これが社会主義の国かと首を傾げたくなるような品揃えと賑わいであったし、日本の繁華街と見紛いそうな雰囲気であった。<br /><br /> 家庭教師を希望する学生達が生徒を募集するために首から看板をぶら下げて繁華街に行列して多数立っている風景は珍しかった。カメラを向けると途端に看板を隠してしまいうまく収めることができなかった。しかも、その中の一人の若い女性がつかつかと歩みよってきて何か言っているがよく判らない。「I can not speak Chinese.I can not understand what you say.」と言い返すと何事もなくそのまま立ち去って行った。同行の山越氏の解説によれば、無断で写真をとったことに対して抗議をしにきたのだという。中国ではよくあることで、カメラを向ける時にはよほど注意が必要だと教えられた。一人子政策をとる中国では子供の教育費には惜しみなく金を投じる現在の中国社会の世相を窺わせる光景であった。<br /><br /> 暑いのでその後まもなくホテルへ帰ってNHKテレビを見て過ごした。<br /><br /><br /> 夕食にはテレビ塔のある高台で海鮮料理を賞味した。この高台へ来る途中で山腹に瀟洒で高級感溢れる分譲マンション群を目撃したが、ガイドの説明によれば交通手段が乗用車しかないので、全然買い手がつかず全戸空室であるという。これに反して交通便利な立地条件の場所に建設された同等クラスのマンションは売り出しの即日完売になったという。マーケットリサーチをせずにただ持ち家ブームに乗って一儲けしようと企んだ不動産屋の失敗作だと解説していた。いかにも現代の建設ブームに沸く中国によくありそうな話であった。また一等地に韓国の「現代建設」が着工したが外側だけ出来ただけで会社の経営がおかしくなり、内装は行われないで未完のままになっているという高層ビルの傲然と佇立する雄姿も哀れを催す風物であった。夜景をみてからホテルへ帰った。<br /><br />平成13年7月15日(日)<br />  朝5時に目が覚めた。今日は昨日に続き、帰るまで自由時間であるが、暑いし歩いてみたいと思う場所もないので、テレビを見て過ごした。うまい具合にNHKの参議院選挙を前にした党首討論会があったのでずっとこれを見ていた。小泉首相の人気に対抗すべき政策もなく、各野党とも攻めあぐんでいる様子がありありで、勝負あったとの感じである。只一人小沢党首だけが、なるほどと思わせる発言をしていただけである。<br />  12時発の飛行機で帰ってきた。日本はとても暑い。

赤い夕日に照らされて列車で満州平野を縦断

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2001/07/09 - 2001/07/15

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16

早島 潮

早島 潮さん

平成13年7月9日(月)
 今日から満州行きである。横浜発13時の成田エクスプレス迄には30分も余裕があった。途中コスモス文学を読みながら成田へ到着した。

 搭乗券を受け取ってから顔合わせがあり、21人の参加であるという。顔ぶれは何れも初老の人達でいつもとかわりばえしないが、今回は単身参加者が相当多いようだ。多分昔満州に住んでいたとか満州で生まれたとか何らかの事情を抱えた人達であろう。戦後56年も経っているので、昔住んでいたとしても中学生か小学校高学年でないと記憶も覚束ないだろうから、現在の年齢は70歳以上ということになる。現に80歳の老婦人が娘二人に付き添われて参加していた。満州のようなあまり有名でもないところへ来るぐらいだから海外旅行については経験豊富な人達ばかりであろう。添乗員は谷藤志乃さんという岩手県出身の若い女性である。

 16時56分に始動した飛行機は17時14分にテイクオフして大連へ向かった。大連空港への着地は18時40分(現地時間)であった。時差一時間だから実飛行時間は2時間30分程である。機上から一見しても大連空港の近くには瀟洒な建物が立ち並び美しい町だとの予兆がある。街中へ入るとなるほど北方明珠ともいわれるだけあって大連は美しい都市である。坂が多いので自転車が少ない町でもある。街路樹はポプラとプラタナスが多く、マロニエの木にアカシアもある。街路灯がすずらんの花型に作られていて印象的である。信号が非常に少ないとの印象が強い。
   

 ガイドは羅雲さんといい、日本に6年滞在して朝日新聞の配達をして学資を稼いだという。若い世代のせいか共産主義についても醒めた見方をしているようだ。ガイドの用意した通貨を一万円だけ両替して貰ったが余りそうである。一元約15円の交換率である。建物の隈取りの真っ赤な照明が印象的であった。テレビではNHKの放送が見られた。すぐ床についた。

平成13年7月10日(火)
 朝食が済んで時間があったので中山広場まで出てみた。太極拳をやっている人々、手に手に旗を翻しながら伝統の踊りに打ち興じる人々で賑わっていた。昔の大和ホテルの側に佇み公園内の動きを眺めていた。その時発見したことは電線が空中を走っていないことである。それだけでも美しい町作りが出来ている。

 ホテルを出て旅順に向かった。道すがら観察した大連市中は予想していた以上に大きな町であり、かつ綺麗な建物が並んでいるうえ新しくクレーンも立ち並んでいて発展している町だとの印象が強い。市内人口は890万人だといい,郊外人口が270万人だから1160万人の大都会である。

 日本の統治は1905年〜1945年でその前はロシアの南下政策の影響もあってロシアの影響を強く受けている。現在の発展状況は開放政策以後のことで、ここ4〜5年の間に発展し大きくなったという。中国の市制は日本と逆で市の下に県がくるから人口の見方に注意が必要である。

 日露戦争の激戦地東鶏冠山と203高地を見学した。

 旅順要塞の攻撃では第三軍の司令官乃木希典が二人の息子を失い、多くの兵を消耗(六万人)しながら三回にわたる総攻撃でも奪取できず、司令官が児玉源太郎に替わり東京湾観音崎砲台に取り付けられていた臼砲を急遽運びこむことによって砲撃を加え、やっとの思いで奪取した203高地は当時ロシアから運んだと言われるセメントで固めた頑丈なトーチカが作られていてその残骸がまだ残っていた。日本軍が破壊して突破口を開いたとされる爆破の後も残っていて今は観光の名所になっている。爆破の時コンドラチェフというロシアの有能な司令官が爆死したと言われる場所も残っていた。周囲には樹木や草が生い茂り、静かなところでトーチカの残骸がなければなんの変哲もない場所である。  

 急峻な坂を籠にゆられて行く観光客を横目で見送りながら、ようやくの思いで登りつめた地点には砲弾型の慰霊碑が建っており、遙か下方に旅順港が見下ろせる。この地へ臼砲を運び込み旅順港を砲撃したのである。旅順港は軍港なのでまだ外国人には開放されていないので山の上から遙か下方に眺めるしかない。

 大連から旅順に赴く通りの海岸には昆布の養殖が行われていて取り入れの舟が沢山浮いていた。大連市の特産物であるという。

  再び大連市内へ戻り、中山広場沿いに建っている旧横浜正金銀行、大和ホテル等を見学した。中山広場に集まる群衆の数の夥しさにも一驚であった。

 夜は夜行寝台車でハルピンに向かった。四人のコンパートメントになっており、上段へ寝たが夜中に英語で寝言を言ったらしく、ひとしきり話題にされてしまった。山越さんは中国愛好者で十三回目の訪問という。佐野さんは辺境が好きで全くの一人旅もするらしい。熊谷さんは夫婦連れで70歳になる元国鉄職員である。この人も独学で中国語を勉強したといいかなり話す。今回の旅行では中国語を話す人が少なくとも三人はいた。刺激を受けて帰宅したら早速中国語の勉強を始めようと思った。中国へは今後何回も訪れることになるであろうから

平成13年7月11日(水)
 朝7時過ぎにハルピン駅に到着して駅近くのホテルまで朝食を摂りに赴いたが雑踏で身動きも容易に出来かねる賑わいである。大都会の駅頭ではいつも見かける光景である。山間部から出てきた人が相当いる筈である。何しろ12億9000万人の人口を抱える中国である。その一割に相当する人間が盲流と称する移動労働者である。所謂出稼ぎ労働者なのである。

 ガイドは朝鮮族の金竜珠さんで、説明の中にユーモアがある。
 ハルピンとは満州語で網を干しているところという意味なのだという。松花江で満州族が漁をしていたのがハルピンの起源である。松花江を渡った地にある太陽島公園で新潟庭園を見た。ハルピン市と新潟市は姉妹都市なのである。    

 金竜珠さんの話によれば、青森県や新潟県から一週間の予定でやってきた花嫁募集ツァーの案内をしたこともあるという。日本の農村の後継者不足、嫁不足はそこまで深刻であるのかという驚きとともに日本海側の日本の地方都市とこのハルピン市の絆がそこまで強くなっていることも新鮮な発見であった。

 次いで虎北園というシベリア虎30数頭を飼育しているサファリパークへ行った。種族保護のため国で飼育していたが餌代に困ってサファリパークにしたところ、観光客が買って与える餌だけで間に合うようになり、累積赤字が解消したというから面白い話である。

 この後、ハルピン博物館を見学した。この街には高々200年程の歴史しかないので見るべきところも少ない。予想していた程には美しい町ではなかった。

平成13年7月12日(木)
 翌朝再び列車で午前中かけて長春へ出掛けた。昔新京と言われた都市で旧関東軍や満州鉄道が大陸経営の拠点とした所である。皇帝溥義が日本軍部の傀儡政権として王宮を営んだ場所でもある。中国共産党はこの政権を認めていないので王宮は偽王宮と呼ばれている。故宮などと比べると遙かに貧弱な建物で、皇帝溥義の苦悩がよく判る気持ちであった。偽満州国務院などの建物も残されていて昔、ここへ住んでいた日本人にとっては懐かしい建物であろう。昼食時に土砂降りであったが、うまい具合に雨も上がってほっとした。

平成13年7月13日(金)
旅程の都合で朝早く5時半に朝食を摂る予定であったが、準備が出来ていなくてガイドの肖さんも一寸困っていた。マンマンデーはお国柄であり、日本人は時間に几帳面過ぎるのである。結局6時からの朝食になった。

 再び列車で瀋陽(旧奉天)へ向かった。

 この町の駅は新築されたばかりでとても立派であったし,町中が建設ラッシュであった。中国で北京、上海、天津に次いで四番目の都市だというから人口も1200万人(郊外地含む)あるという大都会である。これから発展する都市だという印象が強い。オリンピックの北京開催が決まった日でもあり、いずれ開発が目まぐるしい勢いで進むことであろう。

 午後から北陵と故宮の見学をした。ここ瀋陽は清朝ゆかりの地で、開祖ヌルハチ(太祖)が遼陽からこの地へ1625年遷都して北京へ遷都するまで約20年間国府とした所である。もっともヌルハチは瀋陽へ遷都した翌年没している。ヌルハチの墓地もこの瀋陽の地にあるのだが、時間の都合で見学はできなかった。北陵には二代皇帝大宗ホンタイジの妃が葬られているのである。
   

 創始者達はいずこの国も質実剛健である。この瀋陽の故宮もその雰囲気はふんぷんと匂っており、清朝の軍事行政組織の根幹である八旗の統括者の事務所が八つ八の字型に並んでいるのが珍しい構えであるが、北京の故宮に較べれば十分の一の規模で建物も小さく、即戦体制がとれるような配置になっている。この八旗軍団が肥大化し脆弱華美に流れ形骸化した時、清朝没落の遠因を作ることになったのである。
      
平成13年7月14日(土)
 再び瀋陽駅から大連まで午前中かけて列車で移動した。今回の列車は車両も新しく快適な旅であった。車窓から眺められる光景は山がみえず一面玉蜀黍畠である。コーリャンもある筈なのだが見当たらない。幼少の頃食料不足で朝から晩まで食べさせられたコーリャン畠が見られないのは何となく寂しい気持ちである。コーリャンよりも玉蜀黍のほうが市場価値が高いのであろうか。こんなところにも開放政策を取り入れて資本主義化した中国共産主義の変容を見た思いである。

 「瀋陽」という地名は現在の中国語では「沈+こざと偏に日」と記し、「太陽が沈む」地という意味になるのが面白い。そして車窓越しに広野を眺めるとき「ここは御国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下・・・」という軍歌の一節を思いだしていた。更に、当時の軍部や若人達の満州平野へかけた夢と野望に思いを致すと感慨一入なるものがあった。

 昼食後は自由行動となったので、中国語の話せる山越氏と一緒に繁華街へ探訪に出かけた。物資は豊富で活気があり、これが社会主義の国かと首を傾げたくなるような品揃えと賑わいであったし、日本の繁華街と見紛いそうな雰囲気であった。

 家庭教師を希望する学生達が生徒を募集するために首から看板をぶら下げて繁華街に行列して多数立っている風景は珍しかった。カメラを向けると途端に看板を隠してしまいうまく収めることができなかった。しかも、その中の一人の若い女性がつかつかと歩みよってきて何か言っているがよく判らない。「I can not speak Chinese.I can not understand what you say.」と言い返すと何事もなくそのまま立ち去って行った。同行の山越氏の解説によれば、無断で写真をとったことに対して抗議をしにきたのだという。中国ではよくあることで、カメラを向ける時にはよほど注意が必要だと教えられた。一人子政策をとる中国では子供の教育費には惜しみなく金を投じる現在の中国社会の世相を窺わせる光景であった。

 暑いのでその後まもなくホテルへ帰ってNHKテレビを見て過ごした。


 夕食にはテレビ塔のある高台で海鮮料理を賞味した。この高台へ来る途中で山腹に瀟洒で高級感溢れる分譲マンション群を目撃したが、ガイドの説明によれば交通手段が乗用車しかないので、全然買い手がつかず全戸空室であるという。これに反して交通便利な立地条件の場所に建設された同等クラスのマンションは売り出しの即日完売になったという。マーケットリサーチをせずにただ持ち家ブームに乗って一儲けしようと企んだ不動産屋の失敗作だと解説していた。いかにも現代の建設ブームに沸く中国によくありそうな話であった。また一等地に韓国の「現代建設」が着工したが外側だけ出来ただけで会社の経営がおかしくなり、内装は行われないで未完のままになっているという高層ビルの傲然と佇立する雄姿も哀れを催す風物であった。夜景をみてからホテルへ帰った。

平成13年7月15日(日)
朝5時に目が覚めた。今日は昨日に続き、帰るまで自由時間であるが、暑いし歩いてみたいと思う場所もないので、テレビを見て過ごした。うまい具合にNHKの参議院選挙を前にした党首討論会があったのでずっとこれを見ていた。小泉首相の人気に対抗すべき政策もなく、各野党とも攻めあぐんでいる様子がありありで、勝負あったとの感じである。只一人小沢党首だけが、なるほどと思わせる発言をしていただけである。
12時発の飛行機で帰ってきた。日本はとても暑い。

  • 大連空港

    大連空港

  • 二0三高地

    二0三高地

  • 二0三高地のトーチカの跡

    二0三高地のトーチカの跡

  • 二0三高地トーチカ内

    二0三高地トーチカ内

  • 二0三高地に建っている記念塔

    二0三高地に建っている記念塔

  • 二0三高地より旅順港を望見

    二0三高地より旅順港を望見

  • 大連市内。旧横浜正金銀行

    大連市内。旧横浜正金銀行

  • 大連市内。旧大和ホテル

    大連市内。旧大和ホテル

  • ハルピン。サファリパークのベンガル虎

    ハルピン。サファリパークのベンガル虎

  • 虎の子を抱く日本人観光客

    虎の子を抱く日本人観光客

  • ハルピン駅

    ハルピン駅

  • ハルピン。ソフィア教会

    ハルピン。ソフィア教会

  • 瀋陽故宮

    瀋陽故宮

  • 瀋陽故宮

    瀋陽故宮

  • 大連市内、人民広場

    大連市内、人民広場

  • 大連市内。家庭教師達

    大連市内。家庭教師達

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