内モンゴル自治区旅行記(ブログ) 一覧に戻る
  <br />2000・6・8〜6・12<br /><br />  モンゴルの入り口フフホト市は予想していたよりも遙に大きな近代都市であった。人口は30万人規模である。呼和浩特と表記するが蒙古語で青い城という意味である。中国の内蒙古自治区の首都で16世紀中頃、明の万暦帝の時、蒙古人によって建設された。17世紀には漢民族に服属した。市街は旧城(帰化)と新城(綏遠)との二つの城郭都市からなっていたが当時の面影を伝える建造物は殆ど残っていない。<br /><br />  朝9時にフフホトを出発してバスで一路、北方のシラムレンへ向かった。172kmほどの道程である。<br /><br />  内蒙古自治区は寒暖の差が激しく、年間の日照時間が3400時間もある雨の少ない地方である。盛夏には16度C〜27度C位の気温であるが冬は氷点下に下がり過去にマイナス53度Cを記録したこともある。盛夏でも朝夕の気温差が12度もあることが珍しくない。そして高地なので夏でも涼しく空気は乾燥していて爽やかである。フフホトの市街地は標高1100mの高地にあり北行するにつれて次第に高度も高くなっていく。<br /><br />  近代的なビルディングが立ち並ぶ市街地を通り抜けると草木の生えていない砂礫だけの荒蕪地が現れる。道路も舗装されていないがたがた道に変わる。道路の四辺を見ると水のない川の中を走っているのが判る。大洪水で土石流に削られてできた川底をならして道路にしているのである。川幅は100mもあるであろうか。大自然の脅威を実感させられる光景である。そのうち前方に陰山山脈が目近に見えるようになるが、この山も草木の生えていない禿山である。所々植林されて緑色になったゾーンも散見される。松やポプラの木の植林に成功して緑化が進んだところである。<br /><br /> 川底のがたがた道を通り抜けて陰山山脈の山中に入ると舗装道路に変わる。ここでは魚の鱗状に山肌のあちこちにぼこぼこ小さな穴が穿たれている。植林をするために穴をあけ化学肥料を入れて3年間ほど放置しておくと太陽熱や雨雪に晒されて肥料が土中に熟成浸透し地味が肥え樹木の苗木が根付くようになるのだという。このような人間の弛まざる営為によって根気強く緑化事業が進められている。農民達には一人につき年間10本の植樹が義務付けられている。これは完全に根付いた植木の本数で判定されることになっており、農民にとってはかなりの負担であることが窺われる。<br /><br />  前漢の歴史家司馬遷の書いた「史記」の「匈奴編」にはこの地方は原生林で動物達が棲息していたと記されている。そして狩猟民族である匈奴達の本拠地でもあった。何故現在のような不毛の荒蕪地になってしまったのか、その原因は謎とされている。住民が燃料にするため樹木を伐採し尽くしたため森林の自然治癒力が破壊されて荒蕪地になってしまったという説がある。そしてこの地では井戸を掘ってもなかなか良い水が出ないという。もし史記に書かれた通り、この荒蕪地がその昔原生林であったとしたら、天の恵みを破壊してしまった人間の愚かな行為が悔やまれる。<br /><br />  陰山山脈を越えると高地になる。そこでは現在、主としてポプラの植林が行われているが、努力が実って大きなポプラ林が形成されている地域もそこかしこに認められる。それにしても広大な大地であるから、植林に成功した林はほんの一部にしか過ぎない。この地を緑化するには気の遠くなるほど膨大な作業量の投入が必要である。そしてその作業は営々として続けられている。所々に「日中友好植樹林」という石碑が建っているのを目撃する都度、日本人として誇らしい気分になったものである。道中道路の拡幅工事が施されていたが、ところどころでは、作業員が長柄のスコップと鶴嘴を使って人海作業を展開していた。日本では見かけられなくなって久しい光景が残っていた。<br /><br />  このような荒蕪地に植林されて緑が次第に豊かになってきたなと思っているといつの間にか一面に短い草の生えている草原地帯に入っていた。ここでは草に混じってあやめに似た草花や白や赤色の小さな草花がちらほらと咲き誇っている。四囲は見渡す限りの大草原である。羊の群れがのんびりと草を食んでいて空は抜けるように青く、雲一つ見かけられない。そして所々に円筒に円錐を重ねたような白い布地の建物が建っている。移動式住居のパオである。モンゴル語ではゲルという。一か所に50戸ほどもこのパオが並んで建っている場所に我々のバスは到着した。ここがシラムレンである。<br /><br />  この地は1986年に政府によって開発された大草原の生活を体験するための観光施設である。バスが到着すると民族衣装を纏った若い男女が10人程歓迎の歌を歌いながらパイカル(白酒)を満たした杯を勧めてくれる。お客はこの杯を乾さなければならない。酒の飲めない人は形だけでも杯に口をつけて飲んだ振りをしなければならない。それがモンゴルの作法なのである。私は口一杯に含んで飲んでみたが、喉に焼けつくように強い酒である。度数は四五度もある。今夜の宿舎はパオである。<br /><br /> 一つのパオには6人が泊まれるようになっていて、布でできたバオの中の円錐型の天井には中央に明かり取り兼煙突用の穴が開いている。円形の床は半月形二つに区切られていて、一方の半月形は土間より30cmほどの高さに板間が設えられていて毛布が敷かれている。ここへ布団を敷いて六人が雑魚寝をするのである。他方の半月形部分には机と椅子が置かれていてお茶が飲めるようになっている。この寝所に隣接して水洗式の便器と洗面器の設置されたパオが設置されていて扉で繋がっている。ここには天井にシャワーのノズルがついていてシャワーも浴びられるようになっている。これは観光客用の特別仕様であって、一般家庭の遊牧用のパオにはシャワー設備も洗面器や便器も設備されていない。毎日入浴する習慣はないし、大草原に穴を掘って青空を見ながら大小の用を足すのである。一般民家を訪問してお茶を御馳走になった時のパオは入り口に、畳一枚分程の土間があるだけで残りの部分は床あげした板張りで一面に毛布が敷かれていた。<br /><br />  指定されたパオに手荷物を置いてから、草競馬と蒙古相撲を見学しに行った。内蒙古最大のお祭りであるナーダムは七月二五日から五日間盛大に行われ大変な賑わいをみせるそうだが、我々が見学した相撲と競馬は観光客用に特別に催される「さわり」の部分だけであった。それにしても民族衣装を纏って、十数頭の馬に騎乗した若者達が大草原を疾風の如く、自在に馬を操って疾駆する姿は勇壮であり、ジンギスハンが世界を征服した時の雄姿を彷彿とさせるものがあった。<br /><br /> この後体験騎乗に参加し大草原を馬で散歩した。私の乗った馬は最初こそ、御者が轡取りをしてくれていたが暫くすると引き綱を鞍にくくりつけて単独でやってみろと手真似で合図してから離れ去ってしまった。なんとか落馬しないで二時間を消化することができたが、突然走り出したり草を食みだしたりしてなかなか乗り手の意のままに動いてくれない。走らせようとして足の踵で馬の腹を蹴るのだが素知らぬ顔で悠々と歩いている。馬の意思に任すしかないと諦めていると突然走り出したりする。走りだすと内股がこすれて痛くなる。それでも慣れてきて振動に合わせて体を揺らせているといつのまにか与えられた二時間が経っていた。<br /><br />  乗馬を終わりバスに乗り換えて宿泊所まで帰ってきたが、思いもよらないほどの長距離を馬で移動していることがわかりびっくりした。折から夕日が大草原に沈むところであった。子供の頃歌った「ここは御国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて」という軍歌の一節を口ずさみ、歌詞の場面を脳裏に重ねて兵士達の心情を偲びながら落日を眺めていた。<br /><br />  夕食にはモンゴル料理を御馳走になった。牛肉と鶏と羊の肉が主となる料理で乳を加工した料理も品数豊富に沢山出てくる。小豆と米を混ぜたお粥や小麦粉で作られた饅頭もある。ご飯は短粒米で粘りがあり日本人の口にあう。野菜もあるが油で炒めてあるものが多い。しかし味付けはどの料理も思っていたほどしつこくなく、辛味が効いていて美味しいと思った。圧巻はメインディッシュの羊のローストである。首と手足と内蔵は取ってあるが子羊の胴体が皿に盛られてドーンと置かれるのである。現地の人々はこれを我先にとナイフで切り取って骨ごとかぶりつくのであるが、我々は頼んで細片に切りわけて貰った。<br /><br />  夜中に起き出して空を仰ぐと宿舎の照明も消えていて星が大きく輝いていた。天の半球一杯に無数の星が輝く様子は神秘の世界そのものであった。<br /><br />  朝再び民族衣装に身を固めた若い男女の別離の歌と杯に送られて、昨日きた道をフフホトへ向けて出発した。帰路蒙古民族の聖なる場所「オボ」を見学した。これは草原の中の小高い丘に設けられている道祖神のようなもので、石ころを半径3m高さ2m程の円柱状に積み重ねてある。屋根には細い木の枝が十数本建てられている。そしてオボの頂上の柱からは赤、青、白、緑、黄の五色の旗が四条の紐に結ばれて風に靡いている。赤は太陽、青は空、白は雲、緑は草原、黄は大地を象徴しているのだという。いかにも蒙古の自然を端的に表現していて面白い。蒙古の人達はこのオボにお参りして「ホンマミマミホン」という呪文を唱えながら左へ三周半、右へ三周半した後、正面に向かい五体投地の拝礼をするのだという。ラマ教の影響が認められて興味深いものがある。<br /><br />  王昭君の墓はフフホト市内の主たる観光地の一つで、広大な公園になっている。墓は公園内の高さ33mの丘の上に小さな宝形の屋根を柱だけで支えた建物が建っていて、この中に王昭君の衣冠姿を彫刻した石碑が飾られている。この丘の上からはフフホト市内が一望できる絶好のロケーションである。またこの墓の上り口の広場には王昭君と呼韓邪単于(こかんやぜんう)の騎馬姿の石像が飾られていて多くの観光客が記念撮影をしていた。因みに王昭君は紀元前33年頃の人で南郡の良家の娘であった。前漢の元帝の後宮に入ったが匈奴の王、呼韓邪の許へ献上され妻となった。<br /><br /> これには以下のような故事が伝えられている。当時勢威のあった匈奴の呼韓邪単于が元帝に妻を求めてきた。元帝は3000人ともいわれる妃嬪を寝所に仕えさせるのに肖像画の中から指名していた。後宮の女達は帝の指名を受けるために画工に賄賂を送って自分を美女に描かせることに意を用いた。容貌に自信のある王昭君は賄賂を送らなかったので醜女に描かれてしまった。帝は醜女の彼女を匈奴の王に贈ることにし、送別のために引見してみると絶世の美女であった。元帝は後悔しつつ彼女を匈奴の王へ贈った。<br /><br /><br />

大草原で遊牧民族の生活を体験

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2000/06/08 - 2000/06/12

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早島 潮

早島 潮さん


2000・6・8〜6・12

モンゴルの入り口フフホト市は予想していたよりも遙に大きな近代都市であった。人口は30万人規模である。呼和浩特と表記するが蒙古語で青い城という意味である。中国の内蒙古自治区の首都で16世紀中頃、明の万暦帝の時、蒙古人によって建設された。17世紀には漢民族に服属した。市街は旧城(帰化)と新城(綏遠)との二つの城郭都市からなっていたが当時の面影を伝える建造物は殆ど残っていない。

朝9時にフフホトを出発してバスで一路、北方のシラムレンへ向かった。172kmほどの道程である。

内蒙古自治区は寒暖の差が激しく、年間の日照時間が3400時間もある雨の少ない地方である。盛夏には16度C〜27度C位の気温であるが冬は氷点下に下がり過去にマイナス53度Cを記録したこともある。盛夏でも朝夕の気温差が12度もあることが珍しくない。そして高地なので夏でも涼しく空気は乾燥していて爽やかである。フフホトの市街地は標高1100mの高地にあり北行するにつれて次第に高度も高くなっていく。

近代的なビルディングが立ち並ぶ市街地を通り抜けると草木の生えていない砂礫だけの荒蕪地が現れる。道路も舗装されていないがたがた道に変わる。道路の四辺を見ると水のない川の中を走っているのが判る。大洪水で土石流に削られてできた川底をならして道路にしているのである。川幅は100mもあるであろうか。大自然の脅威を実感させられる光景である。そのうち前方に陰山山脈が目近に見えるようになるが、この山も草木の生えていない禿山である。所々植林されて緑色になったゾーンも散見される。松やポプラの木の植林に成功して緑化が進んだところである。

 川底のがたがた道を通り抜けて陰山山脈の山中に入ると舗装道路に変わる。ここでは魚の鱗状に山肌のあちこちにぼこぼこ小さな穴が穿たれている。植林をするために穴をあけ化学肥料を入れて3年間ほど放置しておくと太陽熱や雨雪に晒されて肥料が土中に熟成浸透し地味が肥え樹木の苗木が根付くようになるのだという。このような人間の弛まざる営為によって根気強く緑化事業が進められている。農民達には一人につき年間10本の植樹が義務付けられている。これは完全に根付いた植木の本数で判定されることになっており、農民にとってはかなりの負担であることが窺われる。

前漢の歴史家司馬遷の書いた「史記」の「匈奴編」にはこの地方は原生林で動物達が棲息していたと記されている。そして狩猟民族である匈奴達の本拠地でもあった。何故現在のような不毛の荒蕪地になってしまったのか、その原因は謎とされている。住民が燃料にするため樹木を伐採し尽くしたため森林の自然治癒力が破壊されて荒蕪地になってしまったという説がある。そしてこの地では井戸を掘ってもなかなか良い水が出ないという。もし史記に書かれた通り、この荒蕪地がその昔原生林であったとしたら、天の恵みを破壊してしまった人間の愚かな行為が悔やまれる。

陰山山脈を越えると高地になる。そこでは現在、主としてポプラの植林が行われているが、努力が実って大きなポプラ林が形成されている地域もそこかしこに認められる。それにしても広大な大地であるから、植林に成功した林はほんの一部にしか過ぎない。この地を緑化するには気の遠くなるほど膨大な作業量の投入が必要である。そしてその作業は営々として続けられている。所々に「日中友好植樹林」という石碑が建っているのを目撃する都度、日本人として誇らしい気分になったものである。道中道路の拡幅工事が施されていたが、ところどころでは、作業員が長柄のスコップと鶴嘴を使って人海作業を展開していた。日本では見かけられなくなって久しい光景が残っていた。

このような荒蕪地に植林されて緑が次第に豊かになってきたなと思っているといつの間にか一面に短い草の生えている草原地帯に入っていた。ここでは草に混じってあやめに似た草花や白や赤色の小さな草花がちらほらと咲き誇っている。四囲は見渡す限りの大草原である。羊の群れがのんびりと草を食んでいて空は抜けるように青く、雲一つ見かけられない。そして所々に円筒に円錐を重ねたような白い布地の建物が建っている。移動式住居のパオである。モンゴル語ではゲルという。一か所に50戸ほどもこのパオが並んで建っている場所に我々のバスは到着した。ここがシラムレンである。

この地は1986年に政府によって開発された大草原の生活を体験するための観光施設である。バスが到着すると民族衣装を纏った若い男女が10人程歓迎の歌を歌いながらパイカル(白酒)を満たした杯を勧めてくれる。お客はこの杯を乾さなければならない。酒の飲めない人は形だけでも杯に口をつけて飲んだ振りをしなければならない。それがモンゴルの作法なのである。私は口一杯に含んで飲んでみたが、喉に焼けつくように強い酒である。度数は四五度もある。今夜の宿舎はパオである。

 一つのパオには6人が泊まれるようになっていて、布でできたバオの中の円錐型の天井には中央に明かり取り兼煙突用の穴が開いている。円形の床は半月形二つに区切られていて、一方の半月形は土間より30cmほどの高さに板間が設えられていて毛布が敷かれている。ここへ布団を敷いて六人が雑魚寝をするのである。他方の半月形部分には机と椅子が置かれていてお茶が飲めるようになっている。この寝所に隣接して水洗式の便器と洗面器の設置されたパオが設置されていて扉で繋がっている。ここには天井にシャワーのノズルがついていてシャワーも浴びられるようになっている。これは観光客用の特別仕様であって、一般家庭の遊牧用のパオにはシャワー設備も洗面器や便器も設備されていない。毎日入浴する習慣はないし、大草原に穴を掘って青空を見ながら大小の用を足すのである。一般民家を訪問してお茶を御馳走になった時のパオは入り口に、畳一枚分程の土間があるだけで残りの部分は床あげした板張りで一面に毛布が敷かれていた。

指定されたパオに手荷物を置いてから、草競馬と蒙古相撲を見学しに行った。内蒙古最大のお祭りであるナーダムは七月二五日から五日間盛大に行われ大変な賑わいをみせるそうだが、我々が見学した相撲と競馬は観光客用に特別に催される「さわり」の部分だけであった。それにしても民族衣装を纏って、十数頭の馬に騎乗した若者達が大草原を疾風の如く、自在に馬を操って疾駆する姿は勇壮であり、ジンギスハンが世界を征服した時の雄姿を彷彿とさせるものがあった。

 この後体験騎乗に参加し大草原を馬で散歩した。私の乗った馬は最初こそ、御者が轡取りをしてくれていたが暫くすると引き綱を鞍にくくりつけて単独でやってみろと手真似で合図してから離れ去ってしまった。なんとか落馬しないで二時間を消化することができたが、突然走り出したり草を食みだしたりしてなかなか乗り手の意のままに動いてくれない。走らせようとして足の踵で馬の腹を蹴るのだが素知らぬ顔で悠々と歩いている。馬の意思に任すしかないと諦めていると突然走り出したりする。走りだすと内股がこすれて痛くなる。それでも慣れてきて振動に合わせて体を揺らせているといつのまにか与えられた二時間が経っていた。

乗馬を終わりバスに乗り換えて宿泊所まで帰ってきたが、思いもよらないほどの長距離を馬で移動していることがわかりびっくりした。折から夕日が大草原に沈むところであった。子供の頃歌った「ここは御国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて」という軍歌の一節を口ずさみ、歌詞の場面を脳裏に重ねて兵士達の心情を偲びながら落日を眺めていた。

夕食にはモンゴル料理を御馳走になった。牛肉と鶏と羊の肉が主となる料理で乳を加工した料理も品数豊富に沢山出てくる。小豆と米を混ぜたお粥や小麦粉で作られた饅頭もある。ご飯は短粒米で粘りがあり日本人の口にあう。野菜もあるが油で炒めてあるものが多い。しかし味付けはどの料理も思っていたほどしつこくなく、辛味が効いていて美味しいと思った。圧巻はメインディッシュの羊のローストである。首と手足と内蔵は取ってあるが子羊の胴体が皿に盛られてドーンと置かれるのである。現地の人々はこれを我先にとナイフで切り取って骨ごとかぶりつくのであるが、我々は頼んで細片に切りわけて貰った。

夜中に起き出して空を仰ぐと宿舎の照明も消えていて星が大きく輝いていた。天の半球一杯に無数の星が輝く様子は神秘の世界そのものであった。

朝再び民族衣装に身を固めた若い男女の別離の歌と杯に送られて、昨日きた道をフフホトへ向けて出発した。帰路蒙古民族の聖なる場所「オボ」を見学した。これは草原の中の小高い丘に設けられている道祖神のようなもので、石ころを半径3m高さ2m程の円柱状に積み重ねてある。屋根には細い木の枝が十数本建てられている。そしてオボの頂上の柱からは赤、青、白、緑、黄の五色の旗が四条の紐に結ばれて風に靡いている。赤は太陽、青は空、白は雲、緑は草原、黄は大地を象徴しているのだという。いかにも蒙古の自然を端的に表現していて面白い。蒙古の人達はこのオボにお参りして「ホンマミマミホン」という呪文を唱えながら左へ三周半、右へ三周半した後、正面に向かい五体投地の拝礼をするのだという。ラマ教の影響が認められて興味深いものがある。

王昭君の墓はフフホト市内の主たる観光地の一つで、広大な公園になっている。墓は公園内の高さ33mの丘の上に小さな宝形の屋根を柱だけで支えた建物が建っていて、この中に王昭君の衣冠姿を彫刻した石碑が飾られている。この丘の上からはフフホト市内が一望できる絶好のロケーションである。またこの墓の上り口の広場には王昭君と呼韓邪単于(こかんやぜんう)の騎馬姿の石像が飾られていて多くの観光客が記念撮影をしていた。因みに王昭君は紀元前33年頃の人で南郡の良家の娘であった。前漢の元帝の後宮に入ったが匈奴の王、呼韓邪の許へ献上され妻となった。

 これには以下のような故事が伝えられている。当時勢威のあった匈奴の呼韓邪単于が元帝に妻を求めてきた。元帝は3000人ともいわれる妃嬪を寝所に仕えさせるのに肖像画の中から指名していた。後宮の女達は帝の指名を受けるために画工に賄賂を送って自分を美女に描かせることに意を用いた。容貌に自信のある王昭君は賄賂を送らなかったので醜女に描かれてしまった。帝は醜女の彼女を匈奴の王に贈ることにし、送別のために引見してみると絶世の美女であった。元帝は後悔しつつ彼女を匈奴の王へ贈った。


  • 大草原のパオ

    大草原のパオ

  • 大草原の羊の群

    大草原の羊の群

  • オアシス

    オアシス

  • 競馬

    競馬

  • 荒蕪地

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  • 大草原の日没

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  • オボ

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  • フフホト。王昭君と和韓也単干の像

    フフホト。王昭君と和韓也単干の像

  • 馬揃え

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  • 民族音楽

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