1975/01 - 1975/01
19位(同エリア296件中)
片瀬貴文さん
現地人の教育レベルは、1959年時点で小学生146万、中学生は3万弱、1955年から進学が認められた大学卒業者は、1960年時点で21人だった。
医者、弁護士、中学教師をはじめ、行政面でも責任ある仕事はベルギー人が独占。
人口の8割は田舎で、通貨経済以前の生活を続けていた。
植民地化される以前に日常頻繁に行われていた部族間の戦争は、ベルギーの強権によって抑えられていたが、一気に爆発する。
一方ベルギー人の入植者は、1957年まで参政権を持たず、現地人独立運動に対する対抗勢力にはなりえなかった。
ベルギーとしては、黒人は依存心が強いから独立後もベルギー無しではやっていけないと考えたらしい。
なるべく早期独立を受け入れ、友好関係を結びたいとの思惑だったのだが、独立まで半年とはあまりにも短い準備期間であった。
独立後の政権を決める選挙戦は、円卓会議に参加した諸派の代表たちが帰国した時点で始まった。
開票の結果、第1党はMNCとなったが、ルムンバは「国民政府」の樹立を望み、10党で連立政権を組織。
国家体制は、大枠では中央集権制で、各州が独自の州政府と州議会を持つ、という曖昧なものであった。
最も強硬な地方分権論者であるコナカ党首のチョンベはあえて総選挙には出馬せず、地元カタンガ州の地方選挙に出てそちらで当選、カタンガ首相となった。
カタンガ州は銅やコバルト、ウランなどの天然資源に恵まれ、コンゴ全体の外国貿易額や歳入の半分近くを占めていた。
カタンガ産出のウランは、日本に投下された原子爆弾に使用されている。
独立前後の不穏な空気に動揺した多くの白人たちは、競って帰国しようとマタディの港に集まり、そのホテルを襲った現地人が強姦や殺戮を重ねた。
失業者は増え、物価は急激に高くなり、独立直後に各地でストが続発。
軍隊にも反乱が起こって、残留白人の生命さえも脅かされるまでに発展する。
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