1975/01 - 1975/01
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片瀬貴文さん
1957年(昭和32年)、ガーナに始まる植民地独立の波は、ベルギー領コンゴにも波及する。
翌1958年には、ザイールと同じ部族、バ・コンゴ族の住んでいる隣国フランス領コンゴの独立が決まり、ザイールの人々に大きな動揺を与えた。
そして1959年はじめ、レオポルドヴィルにおける、全アフリカ人民会議出席者の報告会はデモに発展。
それを沈静させようとした軍隊の発砲が、デモ隊を刺激、暴動と化して全土に波及。
この動きに驚いたベルギーは、急遽準備不十分のまま、将来の独立を約束する。
しかしいったん高まった民衆の熱意は広がるばかりで、暴動は燎原の火のように各地に燃え盛り、ここにいたってベルギーはついに1960年はじめ「コンゴ独立円卓会議」を、ブラッセルに招集。
この年の6月30日を、独立の日と決めた。
あまりにも急だった独立への動きは、同時に多くの混乱をもたらせる結果となる。
ベルギー領コンゴはもともと各地に散在する部族ごとの独立性が強く、諸部族が連合することが出来なかった。
それどころか、部族間に抗争が激化する。
たとえば、カサブブ率いる「アバコ党」は、ザイール河口部に住むバ・コンゴ族のみの独立を指向。
独立を得るために、とりあえず連邦制を提唱。
バ・コンゴ族は15世紀にヨーロッパ人が訪れた頃、強力な王国を築いていたことがある。
チョンベがリーダーの「コナカ党」は、白人入植者も加わって、カタンガ単独での独立が望ましいと考えている。
この地域は遠隔地で、全土的な連帯感がなかった。
独立獲得に主導的役割を果たしたルムンバは、「コンゴ国民運動(MNC)」で、全土の中央集権的政権の設立を訴えていた。
強烈なカリスマを持つルムンバは、他のアフリカ諸国の政治家たちの受けがよく、コンゴ国内でも都市部のホワイトカラー層に強く支持されていたが、同時に独裁的な性格から党の内部に対立の火種を抱え、カサイ州南部ではこの対立に伝統的な部族対立が絡んで、大規模な流血沙汰が起こる。
これらの諸政党は、大衆の支持を得るために、より急進的な言動をとる傾向があった。
独立運動の指導者たちの多くは高等教育を受けておらず、
「独立すれば給料を2倍3倍にする」
「白人の女を買えるようにする」
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