戦争中10万人からの日本人が住んでいた虹口に今も多くの建物が残っています。
- 4.0
- 旅行時期:2015/07(約10年前)
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by 中国の風景さん(男性)
上海 クチコミ:1241件
ディックミネの夜霧のブルースの歌詞に「夢の四馬路(スマロ)か虹口(ホンキュ)の街か」とあります。虹口(ホンキュ)は各国の共同租界でしたが特に日本人が多く住んでいた所でした。阿片戦争で勝利した英国は1842年、南京条約調印後、1843年上海に英国租界を開設、続いて1849年仏国(法国)が租界を開設します。米国(美国)は遅れて1854年に租界を開設、遅れた為蘇州河の北側となりました。其の後仏国租界と共同(公共)租界に分かれ二度、三度と拡大して行きました。1884年、日清戦争に勝利した日本は1896年、日清通商航海条約で上海への日本の進出を清国が承認しました。しかし日本租界設置は英米の反対により却下され、共同租界の一画にある虹口地区が通称「日本租界」と呼ばれるように成りました。其の後、通称「日本租界」は四川北路と呉淞路の2つの大通りを北へと共同租界の外へ拡大して行きました。四川北路の北の端、虹口公園を射撃練習場に、虹口公園正門前に日本海軍特別陸戦車隊本部があったのでここに10万人もの日本人が住んでいました。 現在でも虹口エリアには当時の建物が数多く残っています。上海政府はこれらを上海優秀歴史建築として保護保存しています。上海の建物は住宅、学校、会社などに活用しながらの保存です。通称「日本租界」は虹口越界築区域(旧日本人街)が名称で「日本租界」は存在しません。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- 観光の所要時間:
- 2日以上
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄四川北路駅他
- 景観:
- 4.0
- 多くの建物が保存されています。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2015/09/06
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