カンボジアで殉職した国連ボランティア、中田さんのモニュメントの小中学校。
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- 旅行時期:2012/05(約14年前)
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by arfaさん(男性)
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『私たちは中田厚仁さんを忘れない』
日本ではもう風化しつつありますが、カンボジアの民主国家の建立に命を散らせた人がいました。国連選挙監視員ボランティアの中田厚仁さんと文民警察官高田晴行さんです。このアツ小中学校は中田厚仁さんゆかりの学校です。
「I'm dying.私は死んでいきます。)」この言葉を最後に、国連カンボジア暫定統治機構のボランティアとしてカンボジア初の国政選挙実施のため、支援活動中の中田厚仁さんは、何者かに三発の銃撃をうけ、'93年4月8日25歳という若さで生涯を閉じました。子供の頃商社マンであった父武仁氏の転勤に伴い、赴任したポーランドでアウシュビッツ強制収容所を訪問し虐殺に激しい怒りを覚え大阪大学卒業後、無政府状態のカンボジア初の国政選挙支援のボランティアとして地雷の埋蔵量・武装ゲリラ数とも最低最悪の状況にあり最もクメールルージュと政府軍の衝突が激しいコンボントム州プラサットサンボ郡を希望し郡選挙監視員(DES)となりました。車が駄目だとカヌーで、カヌーも駄目だと二時間も泳いで各村を選挙の理解のため説得に廻ったといいます。
国際連合ボランティアには、中田さんの廻る地域の沢山の危険情報が寄せられており、また直接殺害の脅しも受けていたそうです。それでも活動を止めずカンボジアの平和のため選挙を成功させようと活動されていました。
結果、ポルポト派とみられる集団に銃撃され命を落としましたが選挙では最も厳しいエリアと言われたプラサットサンボ郡の投票率は99.99%とカンボジア全土の90%強を大きく上回りました。お母さんの「なんであなたがいかなければならないの」という訴えに答えた中田厚仁さんの言葉は、『だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕はその誰かになりたい。』
中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地でしたが総選挙が終わり、カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々を統合して新しい村が作られました。
彼らは、1995年この村を「ナカタアツヒト・コミューン」と名付けました。村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいます。この村が1998年に洪水により水没した時、中田厚仁さんのお父さん、武仁さんは募金を募り渡そうとしましたが村長は「私達は作物が水に浸かってしまい、食べる米が欲しい。しかし、今食べる事よりも将来のためにそのお金で学校を作ってください。」と希望され小学校が建立されました。
現在では中学校も併設されて村の生徒がここで勉強に勤しんでいます。
私が訪れた時は夏休みで生徒はいませんでしたが道路に面した門柱に『アツ小学校・中学校』と書かれているのが目を引きます。校庭には中田厚仁さんのお墓とイニシャルのAを象ったモニュメントが建っています。
- 施設の満足度
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2.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- 観光の所要時間:
- 1-2時間
- アクセス:
- 1.0
- 交通はクルマかバイクのみ
- 景観:
- 1.5
- 普通の建物です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 普通の学校ですから
クチコミ投稿日:2012/06/27
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