「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の影響から、捕虜になることを不名誉とした日本兵は、1944年8月5日午前2時、脱...
続きを読む走を敢行した。脱走といってもオーストラリアは島国のため、外部に脱出が可能とも思えず、彼らの多くは脱走を名目として実は戦死を企図していたのだった。
1104人の日本兵は、キッチンから持ち出したフォークとナイフを武器に、管制塔に向かって絶望的な突撃を敢行した。管制塔の上には機関銃があり、これを奪取すれば日本兵はオーストラリア兵より圧倒的に多数なため、絶対優位に立つことができるのだ。
見張りのオーストラリア兵は、上等兵ベンジャミン・ハーディとラルフ・ジョーンズただ2人だった。彼らは暗闇のなか四方八方から「バンザイ」を叫びながら突撃する日本兵に、闇雲に機関銃を連射した。日本兵たちは次々と倒されていった。こうして幾人もの屍を築いた後、日本兵はついに2人の見張りを殺害し、管制塔の奪取に成功する。形勢は完全に逆転したかに思われた。
やがて眠っていたオーストラリア兵たちが次々と現れた。日本兵は機関銃を撃とうとしたが、発射できなかった。ジョーンズ上等兵が死の直前に、機関銃のボルトを外し使用できないようにしたのである。
その後は一方的な殺戮が続いた。フェンスにしがみついた日本兵はことごとく撃たれた。このころ、日本兵は各所で次々に自決を始めた。
それでも359人の日本兵が、外部に脱出した。だが彼らは本来脱走を目的としていなかったため、途方に暮れた。2人の日本兵が近隣の農家に押し入って食料を求めると、メイ・ウィアー夫人は紅茶とスコーンを与えた。2人は行くあてもなく、ただおとなしく家にいて、無抵抗のまま再び捕虜として連れ戻された。この2人は後年、ウィアー夫人を訪問して礼を述べている。その他の脱走した日本兵は、ほとんどが数日のうちに捕まり、一部は自決した。
カウラ事件は日本人231名、オーストラリア人4名の死者を出して終わった。
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投稿日:2015/06/04