2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅
ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
期間:2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間の旅
10月20日(日);221km 、19.5℃、薄曇り、ここまで1週間の走行距離は1,366km
6:30起床、朝食(8:00 ~8:30)後、9:2 0にLembeck をスタート。->L?・A31・A3・A52・L? 78km Duesseldorf ->L?・A52・A57・B57(Xanten)・B67・L? 97km Isselburg-Anholt ->L?・B67・B57・L? 46km Weeze・Hertefeldヘルテフェルト城 18:00到着。
*アンホルトの城を出発したのが午后5時でしたので、さすがに暗くなり始めて、焦る。今夜の古城ホテルの地図はHPからコピーしていたが、Weezeヴェエツェの村までは来たものの、古城ホテルへの道が分からない。
偶々、村の入り口に小動物公園があり、子供をそこで遊ばせて帰途に着く親子ずれに場所を聞く事が出来た。この動物公園を真直ぐ行けば良いのだが、車は入れないから、国道B9に出て、迂回しなさいとアドバイスされた。
幸い、距離も近く、古城ホテルの中庭に入ると、背の高いオーナー夫人が出てきた。
ホテルのオーナー夫妻はアジア趣味がある様子で、案内された部屋内は仏像、行燈、畳、竹細工、茶器などが置かれていた。
面白い事に2階の部屋には浴室やベッドが置かれ、階上への螺旋階段を登ると、3階に畳の敷かれたアジア風の寝室があった。所が、これが沈んでしまう様なベッドで、結局、2階で就寝することにした。オーナー夫婦ともに背が高い所為か、シャワー設備、鏡、トイレの便器、衣類架け等すべてが高過ぎた。(多分オランダに近い地域故、皆さん背が高い)
(1泊)⑦Schlossruine Hertefeld古城ホテル シュロスルイネ ヘルテフェルト
D-47652 Weeze 、Hertefeld 1
Tel. +49-(0)2837-2035
http://www.hertefeld.com/de
“Superior”DZ(45㎡の広い部屋・2&3階)はEuro119+朝食Euro13x2=26
合計Euro145(19,824円)。
この部屋はホテル棟の右から3つ目、事務所のすぐ上にあった。
Hotel Garni ;4星・全6+18=24室。つまり夕食用のレストランが無いので、数百メートル離れた村内のレストランで食べる事になる。
朝食はBarockturmバロック様式の塔の真下にあるKreuzgewoelbeクロイツ丸天井レストランにて頂く。塔内の上階にはHertefelder Suiteヘルテフェルト・スイートという豪華な部屋があるらしいが、この塔の後ろは壁だけが残るシュロスルイネ(城址)があり、古城ホテルの名はそこからとっている。
Weezeヴェーツェの町はレンベックからは西に55kmの独蘭国境にあり、古城ホテルのヘルテフェルトはB9に沿った村の郊外にある。近くにFlughafen Weezeヴェーツェ空港(Flughafen Niederrheinニーダーライン空港)が2003年に民間運航を開始している。
年間152万人の利用客があり、ヨーロッパ内でも急速に利用を伸ばしている空港の1つだそうだ。かつては独空軍、第二次大戦後は英空軍が使用していた軍用空港であった。
ヘルテフェルト城の歴史:
騎士の居城として、1317年に初めて歴史資料に登場する。Hertefeldヘルテフェルト家であったと思われるが、この頃、城主のStephan IIvon Hertefeldシュテファン2世は近くのKleveクレーフェ伯の封土を受けていたようである。
19世紀、この家系は姪Alexandrineアレクサンドリーネに相続され、彼女の長男にドイツ史で知られるPhilipp Friedrich Alexander Fuerst zu Eulenburg und Hertefeld, Graf von Sandelsフィリップ・フリードリヒ・アレグザンデル・オイレンブルク・ヘルテフェルト侯爵、ザンデルス伯爵(1847~1921年)がいる。
ドイツ帝国時代の外交官であり、政治家で、プロイセン王国内相のフリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルクは叔父、また、宰相を務めたボート・オイレンブルク伯爵は兄にあたる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の側近として重用されたが、ハルデン・オイレンブルク(同性愛のスキャンダル)事件により政治生命を断たれた。
次男のBotho Sigwart zu Eulenburgボート・ジグバルト・オイレンブルク伯爵は作曲家になり、ヘルテフェルト城で最も長い間、過ごしたと云う。
彼のオペラ“Die Lieder des Euripidesエウリピデスの歌”は1915年、シュトゥットガルト王立劇場で初演された。
(尚、ギリシア悲劇ではアイスキュロス・ソポクレスス・エウリピデスが三大悲劇詩人と言われている)
オイレンブルク伯爵が居城としていたブランデンブルク州のSchloss Liebenbergリーベンベルク城は第二次大戦後の東独の土地改革で明け渡し、Niederrhein二ーダーライン地方のヘルテフェルト城に侯爵家家族は居を移した。
現在もその子孫がホテルを経営している。
上述したようにFuerst zu Eulenburg und Hertefeldオイレンブルク・ヘルテフェルト侯爵家はその歴史の変遷の中で、いずれも12世紀にその祖を辿ることができる二つの家系が一緒になったものである。
ヘルテフェルト城は城址あるいは廃墟というSchlossruineシュロスルイネが使われているだけに、第二次大戦の最後の日にヘルテフェルトの町や城はナチス政権のSS軍団により、焼き払われています。敵方の隠れ場所になる可能性のある場所を破壊したのです。
1992年、地域で起こった地震で、北東の壁に大きな割れ目ができた。
2000年以来、英国とフランス風の庭園も整備されて、美しい景観を保っている。
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セピア色の思い出:ジュリアナ女王が度々訪れた由緒あるホテル プリンセス ジュリアナ
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