魚津城跡
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- 旅行時期:2022/07(約4年前)
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by taktak99さん(男性)
魚津 クチコミ:7件
魚津城は、松倉城を本拠とした椎名氏の支城の一つ。
1335年に椎名孫八入道によって築城されたという。
16世紀後半に椎名康胤が上杉氏から離反して武田氏に付くと、追討に出た上杉謙信により康胤は松倉城を追われ、魚津城も明け渡す羽目になった。
以後、魚津は上杉氏の越中支配に於ける重要拠点となる。
1582年の魚津城の戦いでは、織田信長側の柴田勝家・佐々成政・前田利家等の軍に包囲され、城兵は籠城を強いられる。上杉景勝が救援の為直ぐ側の天神山城にまで軍を進めるが、織田軍の圧倒的な兵力を前に、天神山城から動けなくなってしまう。救援は来ないと読んだ魚津城の兵は自刃し、城は織田軍に落ちた。
が、その直後に本能寺の変の報が届き、動揺した織田軍は直ちに撤退。もう一日持ち堪えていれば魚津城の兵は自刃せずに済んだという。
もぬけの殻となった城は上杉軍が奪回したが、翌年再度攻め込んだ佐々成政により落とされる。
1585年、柴田勝家に与していた成政は、豊臣秀吉に与した前田・上杉軍に攻められて降伏し、越中を去る。成政は謹慎後許されて肥後国を任されるが、功を焦るあまり統治に失敗してしまい、最終的に秀吉に切腹を命じられている。
成政が去った後、魚津城は前田利家の所領となった。
1595年に利家嫡男利長に新川郡が加増され、上杉家の越中衆から郡内の諸城を譲渡される。これにより上杉氏による越中支配は終わった。
前田氏の治下では青山吉次等が城代を務めたが、元和の一国一城令により廃城となった。
廃城後は加賀藩の古城御蔵屋敷として使用された。同様に蔵屋敷となった高岡城が城としての機能を残していたのを見る限り、前田氏は魚津城を便宜上廃城としたものの、いざという時にまた城として使える様維持していた可能性が高い。
ただ、明治維新後に神社として整備された高岡城とは異なり、学校用地に転用された魚津城は内外共に市街に飲み込まれ、遺構は無い。
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- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2024/04/07
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