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もっとも資料的価値のある北前船の寄港地は、ココかも

  • 5.0
  • 旅行時期:2024/02(約3ヶ月前)
せらおさん

by せらおさん(男性)

大崎下島・豊島・下蒲刈島 クチコミ:1件

「北前船の寄港地」が、日本海から瀬戸内へと点在していますが
私達が知る限り、おそらくココが「最も良く保存」され
「当時の存在意義も大きかった」港町です。

呉駅の観光案内所で情報を得て
「サイクリングルートの下見」的に訪れることを決めた、「とびしま海道」の先端部にあたるこのエリア。
自転車ルートとしては、しまなみの島や今治へとフェリーがあるぞ、などと調べを進めるなか、
全国を旅する中で夫婦そろって興味を持つに至ったテーマが「北前船」。なので、
観光ガイドに入っている、この文字。。。見落とすわけには行きません。

呉の町からバイパスを30分ほど車で走ると「とびしま海道」の入り口である、有料の大橋。
そして、そこから島伝いに30分。ココ「御手洗地区」へと、まっすぐ向かいました。

同地を訪れ、街歩きを始める前に、まず、観光案内所で話を聞いたのですが
一番気になっていたのが「御手洗地区の対岸の島からが、愛媛県」
という、この位置関係。

「安芸と、伊予のさかい目にある町だから、関所としても機能したのかな?」
などとテキトーに予想していたのですが。。。
なんと、案内所のおばさま、おじさま方からの第一声が「そもそもココは伊予なのよ」
でした。
秀吉さんが半ば無理やり安芸に併合するまで、西どなりの「豊島」と、この「大崎下島」は、伊予だったの。お金が儲かりそうだから?なのか、秀吉さんが、無理やり安芸に藩替えをしちゃったのよ。と。。

今はココまであるいは、もう一つ先の島(ココだけ愛媛県)まで橋を伝って移動できる「とびしま海道」ですが、エリア内の資料館などを見ていても2008年に「豊島大橋」ができるまで、以前の「伊予と安芸」の地域境のとおり、豊島の手前で陸上交通は途切れたままだったのだ、とか。

もう、こういう話、大好物なんですよ(笑)

そして、北前船の寄港地について、良く出てくる「風待ち、潮待ちの港」という単語。
ですが、実は、日本海側の寄港地は、事実上「風待ち」の港であって「潮待ち」ということは、めったにありません。

瀬戸内海は、太平洋と接続している場所が、西端と東端にある
いわば「巨大な塩水湖」です。
太平洋から押し寄せる上り潮と、太平洋へと流れ出る下り潮が
一日のうち、4回、大潮、小潮などの差こそあれ、「必ず」発生する。
この「潮の流れを利用して、安定した海運が可能」であるからこそ
こうやって「潮待ち」をする価値がある。わけです。
超省力海運。ですよね。

「潮待ちの港」としては、ポニョの町「鞆の浦」の方が、先に有名になっちゃった。
ということを否定するつもりはありません。が
鞆の浦が、福山の城下から、ほど近い距離にあるのに対して
ここ「御手洗」の町は、「海からのアクセス以外、あり得ない」島の「大都会」

村上水軍による「水先案内」によって、安全な航海が約束された、このエリア。
時間もかかり、風の運任せの要素がより強い「地廻り(本土の港ホッピング)航路」を使わない、大多数の「瀬戸内の海運」を担当する船が、ココに寄港し
「来たときと同じ向きに、潮が動き始めるタイミング」を待ち、
また、瀬戸内で3箇所だけが許された「米を貯めるだけでなく売買も可能」な港として、大いに栄えたことでしょう。

古い寺社の石垣が「昔の海岸線」で、そこから海側へと、幕府、藩の許可を得て埋め立てが行われる。その結果、ブラタモリで出てくるような「海岸線があったところで折れ曲がる路地」とかも散見されるし
それらを遡って確認できる地図資料もちゃんと残っている。展示されている。

さらには「日本ではほぼココだけ」という「伊能忠敬が測地をしているところを絵図にして残してある」なんてもの、まあ、大興奮できちゃう資料。

街なかを散策していると、白い土壁が印象的な、古い木造の住居の路地に面したところに、それぞれ「18◯◯年ごろの建築と見られる」なんて木札が、軒並みかかってて、それにもびっくり。
江戸期、この狭いエリアに4軒もの遊郭が競うように営業していた、ということでもわかるように、ここは「とても豊かな街」だったことは確実。。。なのですが
2008年になるまで「船でしかアクセスできない」場所だったことが幸いして、平成の世になるまで、バブルの開発から取り残され
また、昭和の後半、明らかに「稼げない地」としての(福山市のベッドタウンたり得た鞆の浦とは対照的)時代を送ったこともあって、広島や大阪で一旗揚げた子孫が居ても「御手洗の実家を建て替える」ということが、ほとんど起きなかった。のだそうで。

そこへ、平成3(1991)年。台風19号によって大規模な高潮被害が発生し、国レベルの「調査」が入ります。1年前に、広島の大学教授によって、その資料的価値が公になって居た、とは言うものの、町並みを修復保存するようなお金は、どこにも無い。。。
はずだったものがココで「歴史的な資料価値がある港町が、台風の被害を受け、復旧、復興を補助されるべき場所」としてクローズアップ。されたのです。
3年後。平成6(1994)年に「重要伝統的建造物群保存地区」として国から選定を受けるに至ります。
時期的、時代的に、最高のときに、選定が成されたと、思います。台風さまさまデス。

そして、きっちりと国のお金を使って、調査、復旧、町並みの保存が始まり、そして、2008年に「豊島大橋」が架橋されて、車でのアクセスが可能に。ようやく「観光」が御手洗の街を潤す、その土台が完成しました。

隣接する「しまなみ海道」の隆盛に、「とびしま海道」というネーミングで、全域の観光振興も始まり今に至ります。
ここ「御手洗」は、「今、日本人が目指すべき観光地」として、もっとクローズアップされるべき。です。

訪れるみなさまには、是非、観光案内所でしっかりと歴史をひもとく話、ストーリーを聞き、その後、点在する資料館で、自ら、その内容を補完し、深く味わっていただければ、と思います。

今回、御手洗にはランチを含め、4時間半の滞在でしたが、ぜんぜん、、足りませんでした(笑)

次回、なんなら、「今治」から海路を伝って御手洗に入る。など、そう言う楽しみ方もしてみたい。と思っています。案内所のおばちゃんも「今でこそ呉方面に行くけど、橋がかかるまで「買い物は、今治に行くのが当たり前だった」って話です。
今でも、この島、この地区は、広島県にあっても「伊予の一部」なのかもしれません。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
カップル・夫婦
アクセス:
3.0
とびしま海道の、ほぼ先っちょです。
人混みの少なさ:
3.0
週末は、東西2個所の駐車場が混雑することも。
バリアフリー:
3.0
エレベータはなくても、昇降椅子のある施設もあり。

クチコミ投稿日:2024/02/20

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