五品嶽
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- 旅行時期:2023/07(約2年前)
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by worldspanさん(男性)
帝釈峡・比婆山・神石高原 クチコミ:14件
広島の備後の国には西城と東城という町がある。これは姉妹的な関係にある。室町時代に東城を治めた宮氏と言う国人が勢力を誇っていたが、宮景友が1521年から1530年頃に東城の西に五品嶽城を築城し拠点としていた。
宮景友は1533年に五品嶽城から西側におよそ15キロ離れた地に大富山城を築城し拠点を移した。そのため、東側に位置する五品嶽城を「東城」、西側に位置する大富山城を「西城」と呼ばれるようになったと言われている。
戦国時代に突入すると、毛利元就が勢力を拡大し、宮氏は毛利の傘下に入り、所領は安堵されていたが、安土桃山時代に毛利輝元が豊臣秀吉政権に組みし、1590年の北条氏政・氏直に対する小田原征伐の遠征の際、宮広尚が兵役を抑えるために所領を過小申告したことが発覚し、毛利輝元の怒りを買った。そのため宮広尚は山陰へ転封された。
関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長2カ国に転封され、芸備は福島正則の統治となり、西城の大富山城は廃城となり五品嶽城には福島正則の家老が入城した。この家老長尾一勝が東城の城下町を整備し現在の東城の町並みの原型を作ったと言われている五品嶽城は1615年に廃城となったが、当時の趣を残す貴重な城跡として注目を集めている。
- 施設の満足度
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4.0
クチコミ投稿日:2023/07/08
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