原三渓の偉大な遺産
- 4.5
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
-
-
by norisaさん(非公開)
本牧・根岸・磯子 クチコミ:1件
三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原三溪によって、1906年(明治39)に公開されました。
何と!175000平米に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。
この広大な庭園には重要文化財10棟など重要な建物が多数移築されています。
原三渓は現在の岐阜県岐阜市柳津町で代々庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。
幼少の頃非常に優秀だったそうで、絵、漢学、詩文を学び、1885年東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。
1888年頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍したことから彼の華麗な経歴が始まりました。
しかし、大きな庄屋の長男として跡を継ぐべき彼が婿養子になったのは、もちろん実家の理解もあったのでしょうが、原家がこの時点まででかなり成功を収めた商家だったこともあるのでしょうーーー。
彼は婿養子として原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として大成功を収めました。
さらに、実業家以外にも多彩な能力を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧へ移すと古建築の移築を開始し、1906年にこの三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。
さて、多くの重要文化財の建物の一角に三渓記念館があります。
多くの貴重な資料がありますが、残念ながら撮影禁止!という4トラベラー泣かせの記念館ですーー。
この地は新進芸術家の育成と支援の場ともなり、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれたそうです。
和辻哲郎、安倍能成、芥川龍之介、さらには夏目漱石など名だたる文化人、文豪とも親交があったようです!
彼は商才に優れていたばかりではなく、絵画や文学などの芸術的センスもあり、理解も人並み外れてできた人物だったに違いありません。
この三渓園のシンボルとも言える塔は元は京都の燈明寺(今は廃寺)にあったものですが、現在関東にある塔としては最古のもので1457年に建設されたものですから550年ほど前のものになります。
この他にも古民家などもあり、この素晴らしい庭園を原三渓個人の支出で成し遂げたことに驚嘆します。
駐車場も完備されています。
- 施設の満足度
-
4.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.5
クチコミ投稿日:2020/03/02
いいね!:41票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する