悲劇の戦艦陸奥を語っています。
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- 旅行時期:2017/10(約8年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
周防大島 (屋代島) クチコミ:3件
山口県周防大島町にある陸奥記念館は、悲劇の戦艦陸奥を今に伝える資料館です。大正10(1921)年に就航した戦艦陸奥は長門型戦艦2番艦として起工されたもので、第二次世界大戦前の我が国では戦艦長門とともに大日本帝国に於ける軍備の象徴として国民から長く愛されていたそうです。
長門と陸奥は交互に連合艦隊の旗艦に就いており、世界七大戦艦の一隻として知られていました。そんなカリスマ性を持っていたことから当時の海軍兵学校では、長門と陸奥の四十糎砲が太平洋を睨んでいればアメリカは攻めてこないと語り続けられていました。
時代は流れて第二次世界大戦が勃発し、戦況が徐々に悪化する時代にあっても起死回生の切り札として大和・長門・伊勢・日向・山城・扶桑等の戦艦部隊と同様に温存されていましたが、昭和18(194)年6月8日に原因不明の大爆発を起こし、停泊していた広島湾沖柱島泊地にて沈没しました。三好輝彦艦長以下乗員1,474名のうち助かった者は353名とされており、その犠牲者の中には三好艦長等艦主要幹部の他艦務実習で数時間前に乗り込んだ予科練甲飛第十一期練習生124名が含まれています。
当初陸奥の爆発要因は米潜水艦の雷撃によるものだとされたようですがその後撤回されています。原因は諸説あり未だわからないままになっています。ちょうど山本五十六元帥の戦死やアッツ島玉砕など、暗いニュースが続いていた時期と重なり陸奥爆沈のニュースには緘口令が敷かれたために多くの国民がその事実を知ったのは終戦後のことだったといわれています。
終戦後に多くの艦船や潜水艦がGHQによって爆破処分されたものとは異なり、陸奥は今なお沈没地点の海底に残っています。サンフランシスコ講和条約締結後に日本が主権を回復した後に数回船体の引き上げが試みられたものの、全部を引き上げるには至っておらずその一部が海底に眠っています。
昭和45(1970)年から昭和53(1978)年にかけて行われた引き揚げ作業の結果、船体の75%と多くの遺品や遺骨が引き上げられました。その遺物の展示施設の建設構想が持ち上がったことにより旧東和町が事業主体となり昭和47(1972)年に旧陸奥記念館が完成し、その後平成6(1994)に現在の場所に移設されました。記念館入口には艦首錨及び錨鎖が置かれており、また記念館隣の丘には屋外展示物としてスクリュー・14糎副砲・艦首先端部が安置され、その脇には陸奥爆沈犠牲者と予科練甲飛第十一期練習生の慰霊碑が建立されています。そして陸奥が眠る場所を指し示す矢印とその海が一望できるようになっており、訪れる者すべてに静かに戦中の出来事を語っています。
戦艦陸奥の引き上げられたパーツは色々な場所で活用され、訪れるものにその存在感を示しています。その中核として造られた陸奥記念館には、遺品を含めた兵士や船員の生活、そして戦艦陸奥という艦艇について静かに訪れる者に訴え掛けています。周防大島という場所は決して交通の便が良いわけではなく、行くだけでも結構骨の折れる場所ではあるとは思います。しかし戦闘によって喪失したものではない戦艦陸奥であるから是非論を抜きにして見学できる場所となっているようにも思えます。
戦艦の記念館という名前で行く価値を判断することは単なる『食わず嫌い』ではないかと私自身は思います。午前中に大津島の回天記念館を訪れて、約100km離れた場所に移動することは本当に大変でしたが、回天記念館とは違うインパクトに苦労して訪れた甲斐があったと改めて思いました。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 大畠駅からバスで1時間程。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 苦労してでも行く価値はあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 来館者は私だけでした。
- 展示内容:
- 5.0
- 戦艦陸奥の多くがわかります。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープと自動ドアが完備されています。
クチコミ投稿日:2018/02/16
いいね!:12票
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