小ナポレオンと呼ばれたオトコ
- 4.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
-
-
by ポポポさん(男性)
萩 クチコミ:2件
山田顕義は14歳で松下村塾の塾生になりその後先輩志士と伴に尊王攘夷運動に身を投じました。
大村益次郎の薫陶を受けてからは軍事の才能が一気に開花し、四境戦争(第二次長州征伐)から西南戦争に至るまで数々の戦場で指揮を執りましたが一度も負けたことがなく、ナポレオン法典に感銘を受けたことも相まって、小ナポレオンと呼ばれるようになりました。
函館戦争では山田の戦術により短期間で戦争を終結させ、大村益次郎亡き後は後継者として陸軍の創設に尽力しました。
山田顕義が軍事の天才振りを遺憾なく発揮したのが西南戦争です。
まず、山縣有朋ら陸軍首脳部の反対を押し切って谷干城を熊本鎮台司令長官に任命し、守りの布石を打ちました。
熊本城は、当時最強と謳われた薩摩反乱軍が北上する時に必ず守り切らないといけない重要な防御地点です。そのために硬骨の人物で信用に足る谷干城を司令長官に任命して、天下の堅城で薩摩反乱軍の進行を防ごうとしたのです。
各地域の戦術・戦略は山田自らが立案して反乱軍を各所で撃破したため、西郷から「用兵の天才、神のごとし」と言われて政府軍を勝利に導きました。
ちなみに日露戦争の時、満州軍総参謀長として陸軍全軍の戦略・戦術を立案して勝利に導いた児玉源太郎は、山田顕義が手塩にかけて育てた愛弟子でした。山田の天才と謳われた用兵術は、全て児玉に引き継がれたのです。
その後は陸軍部内で勢力を伸ばし政治力を強めようとする山縣有朋と反りが合わず、陸軍省を辞して司法大臣に就任、近代国家の骨格となる明治法典を編纂しました。一方子弟の教育にも尽力し、後の日本大学・国学院大学を創設しました。
生誕地には日本大学が創立90周年を記念して「顕義園」という公園を開設しました。現在ここには桜が植えられており、隠れた桜の名所となっています。訪れる人も少ないので桜の花を愛でながら、故人の果たしてきた偉大な足跡に思いを馳せてはいかがでしょうか。
ここは駐車場が無いので、車で来られた方は近くにある楫取素彦旧宅跡の駐車場(無料)を利用されるといいでしょう。
- 施設の満足度
-
4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2016/09/25
いいね!:2票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する