藩主とともに歩んだ菩提寺
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- 旅行時期:2016/02(約10年前)
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by k2ugさん(男性)
山口市 クチコミ:15件
毛利氏の祖は源頼朝の側近・大江広元、多くの功績によって得た所領のうち、相模国毛利荘を受け継いだ四男李光が毛利を名乗ったことに始まり、承久の乱などの戦功により幕府内での地位を高め、その後の浮沈を乗り越え、南北朝の動乱期に安芸国吉田荘に移ってきたようです。
室町後期の安芸は、管領・細川氏や尼子氏など東の幕府勢力と、西の守護大名・大内氏との激しいつばぜり合いの中、27歳で家督を継いだ毛利元就がじわじわと勢力を拡大し、次男は吉川家へ、三男は小早川家へ養子に出し、大内氏が殺害された混乱に乗じて、所領を大きく拡大、出雲尼子氏との戦いで長男隆元は喪ったものの、中国8カ国を一代にして治める西国最大の戦国大名になり、元亀2年、吉田郡山で老衰のため75で亡くなりました。
山口市にある臨済宗建仁寺派洞春寺は、毛利元就の菩提寺で、この地には大内泰見が建立した国清寺があり、毛利家が防長に移ってきてから毛利隆元の菩提寺となっていました
もともと毛利元就の孫・輝元によって安芸吉田城内に開基されたのが始まりで、関が原の役の後山口市に移り、萩に城が築かれると萩へ移り、維新に際して山口市に屋形ができるとこの場所に移るといった変遷をたどり、現在に至ったようです。
藩主とともに転生し、栄枯盛衰を見つめてきた菩提寺には、国清寺創建当時と考えられている山門があり、厨子裏の銘板に永享2年(1430)建立と記された観音堂があり、14世紀の中頃からおよそ200年に渡って勢力を誇った大内氏の文化と、それを継承した毛利氏の文化が色濃く残り、西の京として繁栄を極めた栄華の一端がうかがえました。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 貸し自転車で回った
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日で人の気配はなかった
- 見ごたえ:
- 4.5
- 由緒ある建造物
クチコミ投稿日:2016/03/19
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