紫苑(シオン)の花咲く、弘仁寺 山の辺の道 ?
- 4.5
- 旅行時期:2015/09(約10年前)
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by ガッサンさん(非公開)
奈良市 クチコミ:35件
2日目、近鉄が作成した、今どき珍しい手書きの精巧な地図「てくてくまっぷ」をたよりに【北・山の辺の道コース?】山村町バス停〜弘仁寺〜白川ダム〜石上神宮〜大和神社お旅所〜長岳寺〜トレイル青垣までのコースを歩いた。
山村町バス停からかなり歩いた感じだが弘仁寺まで2.74?。上ッ道山の辺の東、大和高原を望む麓に青松の小阜がある。小倉山の峯を並べるこの山を虚空蔵山(こくぞうさん)またの名を如意山と称し、その山ふところの南腹に弘仁寺があった。
訪ねたとき、住職は不在だった。住職も種々用事がある。常にいるとは限らない。御朱印帳を手にした人がざわついていた。本来、参拝者が写経をお寺に納めた際にいただく印だったらしい。それがいつの頃からか、納経しなくても参拝の証しとして頂けるようになった。ざわつきに気が付いたのか、奥から私服姿の婦人で出てきた。・入山料・拝観料を支払うと弘仁寺のパンフレットを配り、本堂に案内され、靴を脱ぎ本堂に正座した。すると、滞ることなく説明を始めた。
一説には、嵯峨天皇の夢に、老人があらわれて 「奈良の南に霊山がある。もろもろの仏があらわれて、お経の声がたえない。ここに寺をたてて、衆生を利益されたい。」と 申された。夢から目覚めた嵯峨天皇がその地を 探されたところ、現在の虚空蔵山にあたる場所がわかり、お喜びになった嵯峨天皇が建立された(815年創建)という物語。 他説には、虚空蔵山に流星が落ちるのを見た弘法大師が霊山として開基した(807年創建)という物語。
戦国時代には、松永久秀の兵火により伽藍の大部分が焼失した(1572年)が、江戸時代に 宗全によって再興された(1629年)。現在の建物はその当時のものです。 一時、戦災により荒廃した時期もありましたが、平安時代初期から現在に至るまで、法灯を守り続ける、格式の高い寺である。
- 施設の満足度
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4.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/11/05
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