観音堂が寂れていてちょっと残念です。
- 3.0
- 旅行時期:2014/08(約10年前)
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by まいこさん(男性)
逗子・葉山 クチコミ:1件
板東三十三カ所第2番札所で、逗子駅から歩いて10分ほどのところにあります。鎌倉市からもそれほど離れているわけでもないのに、鎌倉市内の喧噪とは全く縁がない、ひっそりとした風情です。ただ、静かで落ち着きのある感じ、とは若干異なっており、少し奥まったところにある観音堂などには人があまり訪れていないような印象すらあり、干上がった手水鉢、固く閉ざされたお堂の扉などをみるにつけ、なんか寂れてるなあという感想を抱いてしまいました。納経所を観音堂の横に設けるなどすれば観音堂の管理も行き届きやすいので、参拝する人も増えるとおもうのですが。
以下、山門脇に掲げられていた寺伝の一部。西国三十三カ所に関しては、まだ花山法皇が巡礼した、といわれれば、そういうこともあるかもしれんなあ、と思わなくもないのですが、さすがに坂東下向となると眉唾にもほどがあるので正直白けてしまうところもあります。箔をつけるためにビッグネームを持ってきたいというのはいつの世の中にもあることなのでしょうが、わざわざそんなことしなくても良いのにと思わざるを得ませんでした。
岩殿寺縁起
相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山岩殿寺となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。それゆえ、当山は徳上、行基両聖人の開基といわれている。また、大悲殿前から南海を見渡せるので、当山海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
正暦元年庚寅春三月十七日六十五代花山法皇が来山され、ご自身導師とされて百僧法要御供養を営なまれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
又、了安四年四月十八日七十七代後白河法皇が来山され、ここを板東三十三カ所第二番の霊場と長田眼になった。なお、源頼朝が蛭が児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現れてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折り、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立ち直れたと言うが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人となって頼朝を房州崎に渡し、たちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の二月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年乙末の二月二十三日には頼朝公幕下参詣。建久三年巳卯の五月八日には後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命により僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。
しかし、その後また、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜り、その徳沢に潤い、天正十九年十一月には県令長谷川七衛門長綱が荘厳なる堂宇を再建し、かつ申し請けて寺領五石の御朱印を賜ったという。
(以上「東鑑」「三浦群誌」「相模風土記」および土地旧家覚書による)
- 施設の満足度
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2014/10/02
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