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住吉行宮跡 (住吉行宮正印殿址)

名所・史跡

住吉行宮跡 (住吉行宮正印殿址) 施設情報・クチコミに戻る

住吉行宮正印殿址〔史跡〕

  • 5.0
  • 旅行時期:2013/02(約13年前)
横浜臨海公園さん

by 横浜臨海公園さん(男性)

住吉・平野 クチコミ:10件

該殿は、第39代津守家当主 國基(つもり くにもと)(萬寿3年(1026年)8月21日?康和4年(1102年)8月22日)が康和3年(1101年)3月に該家邸宅敷地内に造営。
第96代 後醍醐天皇(ごだいご てんのう)(正應元年(1288年)11月26日?延元4年(1339年)9月19日)は、元徳2年(1330年)に比叡山延暦寺に於いて大供養を営む際に、当時の第51代津守家当主 國夏(つもり くになつ)(正應元年(1288年)?正平7年(1352年)に対し、該供養舞楽に於いて太鼓を敲く旨仰せになり、大供養当日、國夏は比叡山に馳せ参ずる途上で事故に遭遇し延暦寺に到着した際に既に舞楽が開始され、丁度、太鼓を敲く場になり、然し、太鼓が設置されている場は遠く、誰もが國夏は間に合わぬと一同固唾を呑んだ矢先、國夏は慌てず履いていた沓を脱ぎ太鼓に向かい投げつけ見事に音節に合せ、即断さに満座一同を感服し、後醍醐天皇は國夏の機転に対し、同日、正4位下に叙した。
更に。延元2年(1337年)に、後醍醐天皇は國夏に御召鳳牛車を与え、津守家では正印殿車舎に秘蔵され現在は該車車輪のみ残存する。
正平7年(1352年)3月14日に、第97代 後村上天皇(ごむらかみ てんのう)(嘉暦3年(1328年)?正平23年(1368年)3月29日)は、大和國賀名生宮から住吉に行幸され、到着当初は國夏邸に18日間滞在されたが、國夏は正印殿を改装し後村上天皇行在所とした。
後村上天皇は、正平15年(1360年)11月に該社を再訪され、以後、正印殿に8年余滞在され京都還御の機を狙ったが、悲願叶わず、正平15年(1368年)3月29日に該印殿に於いて崩御された。
直ちに、該殿に於いて、寛成(ゆたなり)親王が践祚され、第98代 長慶天皇(ちょうけい てんのう)(皇國4年(1343年)?應永元年(1394年)8月29日)として即位された。
然るに、同年、南朝方有力武将の1人 楠木正儀(くすのき まさのり)(元徳2年(1330年)??元中6年(1389年)?)が北朝方に降伏した事で、長慶天皇は践祚9ヵ月後に吉野に移遷された。
その後、該殿は、天正17年(1589年)に、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日??慶長3年(1598年)9月18日)が、母 大政所(おおまんどころ)(永正10年(1513年)?天正20年(1592年)8月29日)の病気平癒と延命祈願の為に該社参拝時、徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日?元和2年(1616年)6月1日)が慶長19年(1614年)に大坂夏ノ陣の際に戦勝祈願参拝、及び、明治元年(1868年)6月10日に、明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日?明治45年(1912年)7月30日)が行幸された際に該殿を利用された。
然るに、明治4年(1871年)7月1日附 大政官布告第235号に基き、歴代宮司家たる津守家は神職世襲が禁止された事で、次第に没落を余儀なくされ、明治14年(1881年)に該殿敷地大部分を手放さざるを得ず、屋敷は解体され広大な敷地は次第に民有地から住宅地や学校等々に変貌を遂げた。
大正から昭和期にかけて当時の土地所有者が大阪府に寄贈し整備された。
現在では、該殿最盛期の1/30たる約160坪程度の土地が史跡として残存しているに過ぎない。
昭和13年(1938年)6月 大阪府史跡指定。
昭和14年(1939年)3月7日 国史跡指定。



住吉行宮正印殿址(すみよし あんぐう しょういんでん あと)
大阪市住吉区墨江2-7-19
一般非公開
南海電気鉄道本線住吉大社駅 徒歩8分
http://www.sumiyoshitaisha.net/

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
3.0
人混みの少なさ:
5.0
バリアフリー:
1.0
見ごたえ:
5.0

クチコミ投稿日:2013/02/04

いいね!:59

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