氷川神社〔神社〕
- 5.0
- 旅行時期:2012/10(約13年前)
-
-
by 横浜臨海公園さん(男性)
大宮 クチコミ:7件
氷川神社(ひかわ じんじゃ)は、第5代孝昭帝(こうしょう てんのう)御代3年(前473年)4月末日に於ける記述に、出雲國氷ノ川上に鎮座する杵築大社を遷し、氷川神社の神号を賜ふと伝承され、氷川とは、出雲國斐伊川(ひかわ)に因むものとされている。
御祭神は、
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおむちのみこと)
の御3柱で、何れも出雲國の神である。
更に、神紋が八重紋から、氷川神社の祖は出雲國たる事は紛れも無い事実であり、古代期に於ける出雲國への大和朝廷進出の煽りを受け、早くに大和朝廷に従属した者達に対し、東夷平定の為に渡来土着させたるとの解釈も成立し得ると推定される。
公史料上に於ける該神社初見は、平安期たる大同元年(806年)編纂の新抄格勅符抄(しんしょうちょくふしょう)に於いて、天平神護2年(766年)7月24日記述に、武蔵國に於いて唯一朝廷より封戸3戸が寄進された旨の記録が存在する。
延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳(えんぎしき しんめいちょう)に於いて、氷川神社 名神大月次新嘗(めいじんだいつきなみ にいなめ)なる記述が存在し、当時の武蔵國に於ける他式内社が全部小社格に列せられているにも拘らず、該社は名神大社たる待遇を受けている。
日本三代実録(にほん さんだいじつろく)(延喜元年(901年)には、
天安3年(859年)1月27日 従五位上
貞観5年(863年)6月8日 正五位下
7年(865年)12月21日 従四位下
11年(869年)11月19日 正四位下
天慶2年(878年)12月2日 正四位上
の記述が在り、武蔵國に於いて最上位たる事が観られる。
古代期に於ける奉斎氏族は丈部(はせべ)氏である。
平安中期編纂の 続日本記(しょく にほんき)(延暦16年(797年)に於いて、丈部直不破麻呂(はせべのつかのあたいまろ)(生没不詳)は、藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)(慶雲3年(706年)〜天平宝字8年(764年)10月21日)が恵美押勝(えみのおしかつ)と改名後、叛乱事件を起こした恵美押勝ノ乱(天平宝字8年(764年))鎮圧に功績に拠り、同年10月7日に外従五位下に叙された事は、前述3戸寄進受領の前提となるものと考えるべきである。
不破麻呂は神護景雲元年(767年)12月8日に、武蔵國造に任命され文字通り武蔵國筆頭たる身分を得る。
不破麻呂子孫とされる武蔵武芝(むさしの たけしば)(生没不詳)は、将門記(しょうもんき)に於いて、天慶の乱(てんぎょうのらん)(天慶元年(938年))の際に興世王(おきよおう)鎮定の記述が現存する。
鎌倉期に於ける風土記稿(ふうどきこう)記述に拠れば、以仁王(もちひとおう)に拠る平家追討令旨を受け、治承4年(1180年)に伊豆國に於いて挙兵した源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日〜建久10年(1199年)2月9日)は、武蔵國入国と共に、土肥実平(どい さねひら)()に対し、該社再建、並びに、社領寄進を実行したが、此れは、当時の武家の台頭と共に律令制度の矛盾が表面化し、京都朝廷に於ける勢力低下が社寺に対する有力保護が覚束無くなり、全国各地に所在した神社、寺院に対する荒廃が顕著になっていた事に他ならない。
南北朝に於ける寄進状写に、足利尊氏(あしかが たかうじ)(嘉元3年(1305年)8月18日〜正平13年(1358年)6月7日)は、建武3年(1336年)に該社に参詣の際に足立郡大調郷を寄進している。
また、該当時に於ける神仏習合に就いて、該社社僧に於ける壇那職を熊野御師浄範が熊野國那智山道賢僧都に譲渡する旨、應安元年(1336年)の檀那職譲状に記述が存在する事から、即ち、当時の該社に有力修験が存在した事が立証可能であり、男体社、女体社、及び、簸王子社の3社をして氷川大明神(ひかわ だいみょうじん)と称していた事は熊野三所権現影響下に在り、神社勢力より仏教勢力が強大だった事を示すものである。
戦国末期、相模國小田原城主 北條氏直(ほうじょう うじなお)(天文7年(1538年)〜天正18年(1590年)8月10日)は、該社に対し、元亀3年(1571年)に諸人違乱の禁制(しょにん いらんのきんぜい)を発したが、該当時の該社内神仏間に死者が生じるほど勢力争いが激化し、深刻な状態になっていたものと推定される。
徳川家も氷川神社を崇敬したが、徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月13日〜元和2年(1616年)6月1日)は、江戸入府の翌年天正19年(1591年)に足立郡高鼻村100石寄進を皮切に慶長9年(1604年)には該郡上落合村200石を加増寄進した。
徳川幕府は足立郡に当時12平方キロメートルに亙り所在した見沼(みぬま)を新田開拓に役立てるべく干拓事業を立案し寛永6年(1629年)に造成開始し享保12年(1727年)に竣工させたが、無沼溜井造成の為に水没朱印地が発生した為に、該水没地51石の代替地として承應3年(1696年)に、新開村、田島村計46石、及び、大宮本村4石が代替朱印地として付与され、社領を以って社殿造営、及び、修復に充当されたが、享保年間(1716〜1736年)ともなると、幕府も財政困窮化が深刻な状態となり、第8代将軍 徳川吉宗(とくがわ よしむね)(貞享元年(1684年)11月27日〜寛延4年(1751年)7月12日)は、享保の改革(きょうほのかいかく)の一環として財政窮乏から社寺修復料助成を廃止した為に、明和元年(1764年)に、該社は修復料調達を理由に寺社奉行に対し富突興行願書、即ち、富籤販売許可願を提出し江戸深川法乗院に於いて実施した。
富突興行とは、箱内の板札を銛で突き刺し取り出された札番号を当選としたもので、昨今に於ける宝くじと同じであるが、幕府は派手な行動が目に余るとして富突興行を度々禁止したが、庶民人気が衰える筈も無く、該収益は莫大とされた。
該社は、王政復古の大号令と共に廃仏毀釈の渦に巻き込まれ、慶應4年(1868年)7月に神仏分離令が発せらると同時に、境内に存在した観音寺社僧 隆山は明治元年(1868年)10月に満福寺に退去させられると同時に、該寺に安置されていた氷川大明神 本地聖観音像は川島町高徳寺に移設を余儀無くされた。
明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)は、明治維新と共に江戸から改名されたばかりの東京に京都から遷奠されたが、明治元年(1868年)10月17日に勅書を発布し、新政府が祭政一致の方針に基き、該社をして 武蔵國鎮守勅祭社 と定義し、明治維新に於ける意義と、その後に於ける明治国家の在り方を規定した。
勅ス
神祇ヲ崇メ祭祀ヲ重ンスルンハ皇國ノ大典ニシテ政教ノ基本ナリ
然ルニ中世以降政道漸ク衰エテ祀典挙ラス 遂ニ綱紀ノ不振ヲ馳致セリ
朕深ク之ヲ慨ク
方今更始ノ秋 新ニ東京ヲ置キ親臨シテ政ヲ視 将ニ先ス祀典ヲ興シ綱紀ヲ張リ以テ祭政一致ノ道ヲ復サントス
乃チ武蔵國大宮驛氷川神社ヲ以テ当國ノ鎮守ト為シ親幸シテ祭ル
自今以降歳コトニ奉幣使ヲ遣シ以テ永例ト為サン
明治天皇は同年10月28日に該社を行幸され、天皇御自身をして御親祭を執行された。
昭和15年(1940年)は、神武帝(じんむ てんのう)(庚午元年(前711年)2月13日〜神武76年(前585年)4月9日)が、神武元年(前660年)2月11日に橿原の地に於いて即位をされ2600年目たるを記念し、該社は国営造営工事として内務省神社局主導の下に大規模な造営改築工事が実施され面目を一新する。
明治4年(1871年)7月1日 官幣大社指定
氷川神社(ひかわ じんじゃ)
さいたま市大宮区高鼻町1−407
?: 048−641−0137
3月1日〜4月30日 9〜10月 5:30〜17:30
5月1日〜8月31日 5:00〜18:00
11月1日〜2月28(29)日 6:00〜16:30
東北本線さいたま新都心駅東口 徒歩5分
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2012/10/25
いいね!:56票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する