2016/06/02 - 2016/06/02
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chiaki-kさん
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「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。」
これは杉原千畝がビザ発給の際に、ある難民にかけたことばの一部だが、千畝の人生も車輪のように上になったり下になったりの連続であった。
杉原千畝は1900年岐阜県生まれ、父は税務官吏で千畝を医者にしようと京城医学専門校(現ソウル大学医学部)を受験させたが、英語教師になるつもりだった千畝は白紙答案を提出する。
これに怒った父親とは勘当同然となり早稲田大学高等師範部英語科へ入学した千畝は、アルバイトをしながら勉強を続けるが、偶然目にした外務省留学生試験の記事を見て、これを受験、見事合格する。しかし希望した英語圏の学校は満席で、ハルピンでロシア語を学ぶこととなった。
1924年外務省書記として採用された千畝は満州国事務官となるが、満州国を支配する関東軍の横暴ぶりを見て、あっさり外務省を辞め、日本へ帰国してしまう。
1937年外務省に再雇用された千畝は今度はヘルシンキ日本公使館に勤務する。ノモンハン事件(ロシア革命に対する軍事干渉)に大きな損害を被った日本は、ヘルシンキを始めソ連周辺国に6人ものロシア問題専門家を送り込み、ソ連の諜報活動を行う。
1939年8月28日、リトアニアのカウナス日本領事館領事代理に杉原千畝が赴任する。ところがその4日後の9月1日、ナチスドイツがポーランドに攻め込みWW2が勃発する。9月17日には、開戦直前にヒトラーとスターリンの間に交わされた独ソ不可侵条約秘密議定書に基づきソ連がポーランド西部に侵攻、ついで、バルト3国もソ連軍に占領される。当時日本人が一人もいないカウナスにやってきた千畝の仕事はドイツ軍が、いつ、この条約を破棄し、ソ連と開戦するかを探り、日本へ報告することだった。
1940年7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館に、海外へ逃れるためのビザを取得しようとしていた。しかし、リトアニアはすでにソ連軍に占領されており、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。
(この続きは旅行記中に記述します)
写真は杉原千畝が書いた日本国通過ビザの拡大写真。記録が残るものだけで2139枚発行したが、1家族に1枚でよかったので約6000人近いユダヤ人の命がこのビザで救われたのだ。
2024/03/05 一部修正
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- フィンランド航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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6/2
ホテル・イビススタイル・ビリニュス最後の朝食は外のテラス席で。外は気持ちいいのだが基本的に喫煙席なので何処からかモックンのかほりが・・・ -
今日のメニューはこんな感じ。コーヒーはインスタントぽく、いまいち。
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8:30 ホテル出発。バスの窓には昨日昇ったTV塔が。
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ビリニュスからカウナスへ向かうA1号線沿いには、のどかな風景が続く。
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1時間ほどでリトアニア第2の都市カウナスに到着。
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カウナス郊外の高級住宅地に元日本領事館はあった。観光バス2台発見!
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お仲間かい。
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これが元日本領事館。当時あったはずの鉄柵は無くなっており、日本から送られたと思われる桜が植えられていた。
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2008年1月8日に、岐阜県加茂郡八百津町にある「杉原千畝記念館・山荘」を訪れたことがある。内部の写真は無いが資料はカウナスより多い位で、杉原千畝に興味はあるがリトアニアまでは、と思われる方にはお勧めの資料館。
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では、このへんから話の続きを・・・
6時少し前、表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、ヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った。(杉原千畝談) -
建物はその後何度も改築されているので原型をとどめていないが、この門だけは本物だとのこと。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としては、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を20日、日本滞在30日、計50日」を算出し、情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。 -
最初は他のグループとかち合わないよう、普段は使用しない上の部屋でビデオ上映を15分ほど見る。
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ビデオ終了後、下の階へ移動、何度も写真で見た執務室へ。
杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給し始めた。 -
机の上にあるものは全て後から設置したもので、ビザは本物のコピー。
多量のビザを手書きして万年筆は折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続く。一日が終わると、そのままベッドに倒れ込む状態になり、痛くなって動かなくなった腕を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。 -
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。
そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。 -
この部屋にあるものの中で唯一の本物がこの日章旗だそうだ。
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居室と思われる部屋の窓からは前の家と、カウナスの街が見える。
やがてドイツとソ連は開戦、ナチスに占領されたカウナスでは、設置されたゲットーに約3万のユダヤ人が押し込められ、わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害された。なお、リトアニア人はナチスをソ連からの解放軍と見て、ユダヤ人狩りにむしろ協力的だった。そんな理由もありリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼった。 -
部屋に飾ってあった写真。
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カウナス領事館時代の杉原一家と領事館のスタッフだろうか。
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正装した家族の写真も。
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居室でくつろぐスナップ写真。
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奥様の幸子さんは2008年10月に94歳で逝去されている。
1939年から1940年という千畝のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。「その赴任の時期は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」と生前、幸子さんは述べている。 -
話はまだ続く。まさにネバーエンディングストーリー。
リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストックに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、ウラジオストックの総領事館に行先国の入国手続きが完全なる者以外は船に乗せるな厳命した。
しかし、ここでも奇蹟は起きた。千畝の後輩でもあったウラジオストック総領事代理の根井三郎は官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。本省とのやり取りは五回にも及び、本来は漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。
敦賀港に上陸したユダヤ人達は全米ユダヤ人教会や日本のユダヤ人組織などの援助を得て神戸、横浜へ向かい、1000人程度はアメリカやパレスチナなどに渡った。(写真の図)
1941年12月8日、太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカへの渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー(上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになったが、もともと上海にはユダヤ人のコミュニティーがあり、待遇はヨーロッパのゲットーよりは良かったようだ。そして、強制収容所までは日本軍も作らなかったので、大部分のユダヤ人はそこで終戦を迎えることが出来た。 -
元日本領事館見学を終わりバスはカウナス市内へ。新市外を抜けてこんな橋を渡る。
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丘の上にあった展望台から見たカウナス旧市街。河の名はネムナス川、橋の名はアレクソト橋。
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聖ペテロ&パウロ教会の手前におもしろ顔をした建物発見!
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VILNIAUS UNIVERSITETAS (ビリニュス大学)だそうだ。
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ヴィタウタス大公教会。ヴィタウタス大公とは15世紀初頭にリトアニアの最盛期を築いた大公。(外観のみ見学)
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1946年、目盛りの中ほどまで洪水がきたそうだ。
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15世紀に建てられたゴシック様式の傑作、ベルクーナスの家(外観のみ)。
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市庁舎広場前にある真っ白な建物は、旧市庁舎。1542年に建築が開始されたが、現在の形は18世紀半ばのもの。現在は結婚登記所となっている模様。(外観のみ)
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足下には花で飾られたテントウムシが。
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15世紀に建てられた赤煉瓦の大聖堂、聖ペテロ&パウロ大聖堂。現在リトアニアのカトリック司教座聖堂となっているそうだ。ここは入場。
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教会の内部はこんな感じ。
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祭壇です。
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磔刑台のイエスと十字架にすがるマグダラのマリア。足下のドクロはアダムのものらしい。
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ヨハネ・パウロ2世も訪れているのね。
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世界に平和が訪れますように。
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観光の最後に寄ったのは13世紀に建てられたカウナス城。当時ネムナス川はドイツ騎士団領との境にあたり、何度もここで戦闘が行われた。もともと城は台形の城壁に4つの塔があったのだが、現在目にしているものは全て再建されたもの。
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TDさん曰く、来るたびにどんどん建物が大きくなっている。
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駐車場の向こうにヘンなものが・・・
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なんじゃこれ?
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観光を終了し、郊外にある SANDIJA という名のレストランで昼食。
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左上からとりあえずビール、シチューはおいしかった。まるでジャンボギョウザのような郷土料理。割ってみるとこんな感じ。
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昼食後バスはワルシャワを目指して出発。ネムナス川を渡っても・・・
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大勢の牛が草を食む草原を越えても・・・
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ワルシャワは遙か382km彼方!!!
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こんな片道1車線の道が延々続く。別編にも書くつもりだが、今回訪れた国々には高速鉄道が無い。高速道路も不完全。地下鉄も少ない。やはり長い間続いた社会主義体制のせいか公共インフラが未だ未発達な印象を受けた。
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そろそろリトアニアも終わるかという所にあったGSで15分休憩。バスのドライバーさんには2時間走って15分の休憩が義務づけられているのだそうだ。なお、今回トイレ休憩で何回もGSには止まったが、トイレは全て無料だった。さすがにドライバーさん、こういうことには詳しい。
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リトアニア・ポーランド国境。ここも昔の名残が残っている。
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ユニークなのは両替所が備わっていること。ポーランドはEU加盟国なのだが、通貨はいまだにズォッティを使用している。ここでまさかの両替を希望する男性が一人登場。TDさんからは成田で替えておくように言われていたのにねぇ・・・・
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両替の後、ポーランド入国。ショパンとコペルニクスの国にようこそ!
ところで、終わりの無い物語の最後?は杉原千畝のその後について。
リトアニア退去後の千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年、プラハの日本総領事館に勤務。その後ケーニヒスベルク、ブカレストなどヨーロッパ各地を転々とし、ブカレストでソ連軍に身柄を拘束される。オデッサ、ナホトカ、ウラジオストックと旅を続けた千畝達は1947年4月に博多港に引き上げる。
ところが日本に帰国した千畝を待っていたのは外務省からの退職通告書であった。「杉原はユダヤ人から金をもらっている」などというあらぬ噂を耳にした千畝は退職願いを外務省に提出して、以後外務省との接触を断った。その後、貿易会社、ニコライ学院教授、NHK国際局員などの仕事を転々とするがどれも長続きせず不遇の毎日が続いた。
転機が訪れたのは1968年。「杉原ビザ」受給者の一人で、イスラエルの参事官となっていたニシュリと28年ぶりに再会する。さらに1969年、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクは驚愕する。
1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢の為、千畝に代わって四男が出席した。そして1986年7月31日、86歳で杉原千畝は、その波乱に満ちた生涯を閉じた。
物語はまだ続く。1992年フジテレビが幸子夫人の手記を元に加藤剛主演で「命のビザ」を放送。1998年にはアメリカで映画「ビザと美徳」を放映。千畝の名が世間に知られるに従って、千畝が帰国後に冷たい対応しかしてこなかった外務省に批判が集中するようになった。そして2000年10月10日、外務大臣河野洋平は千畝生誕100年にあたり、今まで外務省がしてきたことに対する謝罪と、人道を優先した千畝の勇気ある判断を褒めたたえ、杉原千畝の名誉は回復された。
(物語関連の記事はWikipediaを参考にして作成しました)
これで「2016年 バルト3国&ポーランド旅行記4:カウナス」は終了です。本日も最後までご覧いただきありがとうございます。
2024/03/05 一部修正
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この旅行記へのコメント (2)
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- leslyさん 2016/06/23 22:45:02
- 杉原千畝
- 私がこの名前を知ったのは、テレビで放送された、日本のシンドラー杉原千畝物語、6000人の命のビザ、(反町隆史、飯島直子)でした。杉原さんには興味を持っていたのですが、カウナスという日本ではマイナーな場所、なかなか、知ることができなかったのですが、おかげでカウナスのことを知ることができました。ありがとうございます。
- chiaki-kさん からの返信 2016/06/25 09:21:37
- 私はフジTV版で知りました
- ・
leslyさん、こんにちは。
カウナス旅行記に”いいね”をありがとうございます。
私が杉原千畝の名前を知ったのは1992年にフジTVで放送
された加藤剛、秋吉久美子主演のフジテレビ版「命のビザ」
です。
その時は変わった外交官も日本には居たのだな程度にしか
思わなかったのですが、1994年に「シンドラーのリスト」が
日本で公開されてから、いつのまにか杉原千畝は
「日本のシンドラー」と呼ばれるようになりましたね。
2008年に岐阜県八百津町のある「杉原千畝記念館・山荘」
を訪れて、いつかはカウナスに行ってみたいな、という
気持ちを抱きました。
今回そんな夢が実現したのですが、カウナスには旧市街
もあり、きれいな町でした。(町外れには強制収容所
として約5万人のユダヤ人が虐殺された第9要塞跡もあり
ますが・・・)
この後、カウナスからワルシャワまで移動したのですが
高速道路の整備が遅れていて、7時間近くかかってしま
いました。詳細は続編をご覧ください。
では、また。
chiaki-k
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