2014/11/03 - 2014/11/03
85位(同エリア346件中)
ケーさん
日本100名城巡り
☆5城目☆人吉城(No.93)
人吉城(別名「繊月城」「三日月城」「相良城」「球磨城」)は、熊本県人吉市麓町にある平山城で、35代670年続いた相良氏の居城です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー ANAグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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一泊二日で行く初熊本旅行!
1日目は熊本城と人吉城、2日目は阿蘇山へ。
日程:
11/3(月)羽田空港→熊本空港→熊本城→人吉城跡 人吉(泊)
11/4(火)人吉→阿蘇山→熊本空港→羽田空港
関連旅行記:
●初秋の熊本☆お城巡りと阿蘇の旅
http://4travel.jp/travelogue/10950585
●熊本城ちょこっと旅 〜日本100名城巡りの巻〜
http://4travel.jp/travelogue/10948678
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熊本旅行1日目
2014年11月3日(月)
熊本空港に9:10到着後、熊本城を見学してからタクシーでJR熊本駅まで移動して来ました。
今日のこれからの予定。
熊本(14:00発)→八代(14:35着) JR鹿児島線 普通(35分)
八代(14:44発)→人吉駅(15:58着) JR肥薩線 普通(14分)
JR人吉駅(15:58発)→人吉城跡(16:18着) 徒歩15〜20分
人吉城歴史館、人吉城跡見学(約2時間)
人吉城跡(18:18発) →旅館・清流山水花あゆの里(18:28着) 徒歩10分
ホームに「あそぼーい!」(ASO BOY)というかわいい列車が停まっていました。 -
熊本〜阿蘇・宮地行きの特急なんですねー。
窓から中を見てみたら、くろちゃんシートや木のボールが入ったプールなど、子供の遊び場もあり、楽しい造りになっていました。
いいな〜これ乗りた〜い
しかし阿蘇には明日人吉から行くので残念ながらこの列車には乗れません。 -
私たちが乗った電車はこちら。
14:00発のJR鹿児島線の各停です。
新しくて綺麗な電車でした。 -
ボックスタイプの椅子ですから、お弁当も食べられます。
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飲食店で食べている時間はないので、電車の中で食べようとJR熊本駅前でお弁当を買いました。
私は「とり天赤鶏めし」弁当。
ちゃんと味がついていて唐揚げだと思って食べていたのですが、途中で唐揚げの下に天つゆと書いてある小袋があるのを発見!
そうです。唐揚げじゃなくて「とり天」とは鶏の天ぷらのことだったのです。とり天は半分食べちゃったけど、天つゆを開けてつけて食べると味ががらっと変わりました。固めの唐揚げが、天つゆにつけることによって衣が柔らかくなっていい感じになりました。そして、天つゆは私の好きなポン酢しょうゆのような味です。材料名を見たら酢醬油と書いてありました。これが熊本風なのでしょうか!?熊本料理ってめっちゃ私好みです。 -
友達の「肥後あか牛しぐれ弁当」。1,100円ぐらい。最初これを買おうと思ったのですが、中身が見えなかったのでやめておきました。味見させてもらったら玉ねぎに見えたのはささがきごぼうで、こっちのお弁当もおいしかったです。
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熊本駅から普通列車に乗って約40分。
八代(やつしろ)駅に到着。
ここで乗り換えです。 -
14:44八代発人吉行きのJR肥薩線の普通列車です。
普段の生活で単車両を見ることはないので珍しかったです。 -
15:58 人吉駅に到着です。
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人吉駅。
人吉は熊本県ですけど鹿児島県寄りなので熊本空港より鹿児島空港の方が近いようです。 -
15時58分着の電車でしたから、時刻は16時になって、人吉駅前にあるからくり時計が動いていました。
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「からくり時計」について
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明日も旅館から駅まで歩いて行く予定ので、道を覚えるためにも人吉城歴史館までは徒歩で。
人吉城歴史館の簡易地図だけを頼りにぽてぽて歩きます。
途中でおいしそうな和菓子屋さん「堤製菓本舗」がありました。
みたらし団子が食べたかったけど、目的地の人吉城歴史館の閉館時間は17時。時間がないので我慢します。 -
せっかくなので小京都と呼ばれている「鍛冶屋町通り」を通り抜けました。
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「みそ醤油蔵(釜田醸造所)」
こちらは、創業70年のみそとしょうゆを製造する蔵元で、人吉地域で唯一、天然のもろみを使用している蔵で、蔵の見学ができるそうです。
※見学(要予約)時間:9時〜16時 -
鍛冶屋町の歴史
「鍛冶屋町の歴史 城下町形成の過程で商人及び職人の住居区すなわち町人町は、球磨川の北側に設定され、文禄三年(1594)、整然とした区画に整備して、郡内各地の商人・職人をここに移住させた。 職人町は、大工町・鍛冶屋町・紺屋町が定められた。鍛冶屋町には、鍛冶職人を移住させた。
『鍛冶ハ金ヲ首トルヲ以て金姓也、金ハ西ヲ主トル故西同心ト定メラル、鉄砲組ナリ』とあるように、この町の住人は職人でありながら、鉄砲組として藩軍事力の一部を担い、西同心と称されていました。当町の鍛冶がすべて鉄砲鍛冶であったのではなく、農具・刀を専門とする鍛冶もおり、その最高位に鉄砲鍛冶が位置づけられていた。
現在、町内はもとより市内各所に鍛冶屋があり、職人町の伝統は受け継がれている。(参考文献:「歴史地名辞典」)
1995年 人吉市」
写真上 「ウンスンカルタ」の説明版
写真下左「鍛冶屋町の歴史」の説明版
写真下右「ひとよしの伝統 臼太鼓踊り」の絵の石畳。 -
16:31 ようやく人吉城歴史館にほど近い球磨川に架かる水ノ手橋までたどり着きました。
予定では15〜20分の予定でしたが、ここまで来るのに30分ぐらいかかっちゃいました。
歴史館は右前方にあります。 -
左には人吉城跡の石垣が見えます。
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人吉城歴史館に到着。
時間は16時35分。
17時閉館ということを了承し、入場料200円を支払って(入場券はありません)館内に入り、まず最初に100名城スタンプを押します。 -
人吉城歴史館のパンフレット
「相良氏とは」 〜人吉を拠点に670年間続いた武家〜
時は、約800年前、相良長頼は、鎌倉幕府の源頼朝の命を受け、建久9(1198)年、遠江国相良庄(静岡県牧ノ原市相良)からこの人吉庄にやってきて、地頭になった。室町時代には、薩摩、日向に兵をさしむけて領地を拡大。やがて、第11代長続が上相良氏を滅ぼし球磨郡内を統一し、第12代為続が八代の名和氏のお家騒動に乗じて八代と豊福を手に入れるなど、戦国大名としての階段を登っていった。その後、第16代義滋は芦北を制圧し、三郡支配(球磨・八代・芦北)をおこなうが、天正9(1581)年の「水俣合戦」で島津義久に敗れ、芦北・八代を失うことに。天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征伐に敗れて秀吉に降伏し、球磨郡のみの支配を許された。この時の当主は、第20代長毎である。長毎は、この頃から中世の人吉城を近世の城に修築。自然の地形を防御に活かした山城から、石垣造りの城へと修築した。二の丸・三の丸・球磨川・胸川沿いの石垣がその時のものである。さらに、豊臣秀吉の朝鮮出兵に出陣した。「関ヶ原の戦い」(1600年)では、重臣相良清兵衛の機転により、豊臣方から一転し徳川方についた。相良家も近世大名として明治4(1871)年の廃藩置県まで、この球磨郡の領主を務めた。 -
人吉城歴史館のパンフレット
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人吉城歴史館は2005年にオープンしたそうで、まだ新しくて綺麗な建物でした。
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歴史館で「相良清兵衛の地下室」が見られるというのは事前に調べていたので、地下室に行こうとしたらドアには鍵がかかっていました。貴重な遺構だから勝手に入れないようになっているのか、閉館時間が近いからなのか、どちらかは不明です。
スタッフさんが上からも見えますよと言ったけれど、中に入りたいとお願いすると鍵を開けて案内してくれました。地下室に降りるにあたり、履物もスリッパから専用のサンダルに履き替えます。
鍵を開けてくれるだけかと思っていたら、スタッフさんは地下室についての説明もしてくれました。閉館時間近くなのに申し訳なかったですけど、貴重なお話も聞けて地下室も見られてよかったです。
写真は降りてきた階段とはまた別の奥にあった階段。 -
「地下室遺構(相良清兵衛屋敷の地下室)」【パンフレットより引用】
清兵衛はなぜ、この施設を造ったのか?
◎発見された場所は
2つの地下室は、寛永17年(1640年)「お下の乱」を描いた人吉城絵図では、家老の相良清兵衛屋敷内にあった二階建ての「特仏堂」、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置にあたるところから発見された。
なぜ、この様な施設を造ったのか・・・
◎地下室の特徴は
二つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形大型の井戸、黒色の小石敷き、その下のスギ板敷きなど、構造が酷似する。
なぜ、長男 内蔵助の家にまであるのか・・・
◎作られた時期、壊された時期は
江戸時代の慶長年間(1596〜1614)に建造され、寛永17年(1640年)の「お下の乱」の直後に破壊されて埋められる。
なぜ、破壊されたのか・・・
◎日本での発見例は
井戸を持つ地下室は、同様な発見例が世界にない。
なぜ、人吉城の相良清兵衛屋敷だけに存在するのか・・・ -
ひときわ大きな石の角には小さな石がはめこんであります。
これはここに来た人に見せるための飾り石なのではないかということです。 -
地下室が何に使われていたかは未だに不明です。
隠れキリシタンの礼拝所だったのではないかという説もあるようです。
この井戸の中からは刀が発見されて、その刀は歴史館の中に展示されていました。
なぜ刀を井戸に沈めたんでしょうかね〜。
神秘的な謎に包まれた地下室の遺構でした。 -
人吉城歴史館では、平成26年度特別展「明治・大正時代の人吉七町」(平成26年10月3日(金)〜12月7日(日)まで)が開催されていました。
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展示品いろいろ
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展示品いろいろ
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閉館時間になり人吉城歴史館を出ます。
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歴史館の外に定番の顔出しパネルがありました!
「相良の殿様 人吉城築城 第二十代当主 相良長毎(さがらながつね)」 -
史跡人吉城(繊月城) 日本百名城の碑
「中世城郭の特色を色濃く残す、相良氏歴代の居城」
その後方には、大台所跡・御厩跡(おおだいどころあと・おうまやあと)が見えています(写真撮り忘れました) -
後方には、樹木の生い茂る人吉城跡の丘が見えます。
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下台所跡・犬童市衛門屋敷跡(しもだいどころあと・いんどういちえもんやしきあと)
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井戸
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大井戸遺構(相良内蔵助屋敷の地下室)
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大井戸遺構(相良内蔵助屋敷の地下室)
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大井戸遺構(相良内蔵助屋敷の地下室)
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大井戸遺構(相良内蔵助屋敷の地下室)
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「清兵衛門址」(御館(みたち)への西側の門跡)
正面入り口まで回らずに、どこだかよくわからずにこちらの近い方の入口から人吉城跡に入ります。 -
相良神社が建っている御館(みたち)跡
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庭園
カルガモが陸に上がってくつろいでいました。 -
標識を頼りに階段を上ります。
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三の丸に到着しました。
日も暮れてきてだんだん暗くなってきました。
照明もないので急がないと真っ暗になってしまってまずいです。 -
三の丸跡の展望台から見る球磨川にかかる水ノ手橋
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「於津賀(おつが)社跡」【案内板より】
初代・相良長頼(さがら ながより)の入国前の人吉城主であった平氏の
代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)を祀る霊社跡。第2代・頼親が建立し、
初めの頃、御墓(塚)大明神という。文明16年(1484)に再興され、元和年中
(1620年頃)に於津賀と改め、寛永7年(1630)に造替された。
社殿は南向きで、板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の2棟があり、現在
その礎石が残っている。
平成5年3月 人吉市教育委員会 -
ここは於津賀社跡で、三の丸跡の西部下段です。
三の丸の北部は二段に分かれています。 -
三の丸跡
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三の丸跡
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三の丸跡の上の段に上ります。
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三の丸跡
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三の丸跡(二の丸西側)から見た二の丸の石垣。
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三の丸跡
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三の丸跡
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三の丸跡(二の丸西側)から見た二の丸の石垣。
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人吉城歴史館でいただいてきた人吉城跡の資料。
石垣の積み方の説明が書かれています。 -
「二の丸跡」【案内板より】
戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする 山城であり、この場所は「内城」と呼ばれる婦女子の 生活する地区であった。天正17年(1589)、 第20代長毎(ながつね)によって、近世城としての 築城が始まると、本丸や二の丸の場所となり、 慶長6年(1601)には石垣が完成している。
二の丸は、江戸時代の初め「本城(本丸)」と 呼ばれているように、城主の住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。周囲の石垣上には、瓦を張りつけた土塀が立ち、北東部の桝形には櫓門式の「中の御門」(2.5間×9.5間)があり、見張りのための番所が置かれた。また、北辺には御殿から三の丸へ下る「埋御門(うずみごもん)」が土塀の下に作られ、この他に「十三間蔵」(2間×13間)や井戸があった。
三の丸は二の丸の北・西武に広がる曲輪(くるわ)で、西方に於津賀社と2棟の
「塩蔵」(2.5間×6〜7間)を、東の「中の御門」近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。その周囲には当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹芝かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的もあった。
「二の丸御殿」
享保4年(1719)の「高城二ノ丸御指図」によれば、 御殿は北側を正面とするように配置され、 「御広間(4間×9間)」・「御金ノ間(6間四方)」・ 「御次ノ間(4間×6間)」の接客・儀式用の表向建物と 「奥方御居間(3間×」8間)」・「御上台所(3間×9間)」・ 「下台所(5間×8間)」の奥向の建物の合計6棟からなる。 これらの建物は、全て板葺の建物で、相互に廊下や小部屋で つながり、建物の間には中庭が作られている。 この内、「御金ノ間(おんきんのま)」は襖などに金箔が張られていた書院造の 建物で、城主が生活・接客する御殿の中心となる建物である。
平成5年3月 人吉市教育委員会 -
二の丸跡
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本丸跡に到着。
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「本丸跡」【案内板より引用】
本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。
中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。 -
本丸跡
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本丸跡
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二の丸に降ります。
帰りは来た時とは違う正規のルート(?)で降りていきます。 -
「中御門跡」
中御門は三の丸から二の丸へと入る門で、門の奥の石垣は二の丸跡です。 -
三の丸に降ります。
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「御下門跡(おしたもんあと)」【案内板より】
御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)、桁行10間(20m)の櫓をわたし、その中央下方の3間分を門としていた。門を入った奥には出入り監視のための門番所があった。 -
御下門跡(おしたもんあと)
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御下門跡
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上から見下ろす御下門跡
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御下門跡の階段下前にあった東西南北表示には相良氏の家紋「剣梅鉢」が入ってました。
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「犬童球渓(いんどうきゅうけい)の歌碑」
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掘合門(ほりあいもん)
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「掘合門(ほりあいもん)(復元建造物)」【案内板より】
堀合門は城主が住む御館の北側にあった裏門で、文久2年(1862)の「寅助火事」でも焼失をのがれました。明治4年(1871)の廃藩置県後は、城外の士族で ある新宮家に移築され、人吉城唯一の現存する建造物として、市の有形 文化財に指定されています。形式的には棟門と呼ばれるもので、化粧垂木に 強い反りを持たせた屋根の優美な曲線が特徴的です。
門跡の発掘調査 では、門柱を建てた2つの礎石跡とその両側にあった排水溝が確認された。 この門は、旧位置での発掘結果や移築され現存する門、絵図に描かれた 姿に基づいて、平成19年度に塀や排水溝と共に復元したものである。 (人吉市教育委員会の案内板より)
堀合門は、城主の住む御館の北側入口に置かれた門。江戸時代末期の大火事でも焼け残り、廃藩置県後、城内建物を取り壊す時に、土手町に住む新宮家に移築されました。
門は薬医門形式で、現存する唯一の人吉城の建造物であり、「市指定有形文化財」となっています。
平成20年3月 人吉市教育委員会 -
「大村米御蔵跡・欠米蔵跡」【案内板より】
人吉藩では藩内12カ所に米蔵を置き、このうちの間(村)蔵と大村蔵は、それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。大村米御蔵(西側礎石群)には隣接して欠米御蔵(東側礎石群)があった。両方とも瓦葺で4間×10間の長大な建物であった。発掘調査で『御用米』『免田納米』『上村納米』と墨書した木札が出土している。右手の門は堀合門である。 平成4年3月 人吉市教育委員会 -
「人吉城跡碑」
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「史跡 人吉城跡」【案内板より】
人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼(さがらながより)が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言います。
人吉城が史料に初めて出るのは、大永4年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や堀切によって守られていた城でした。
室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。
人吉城が石垣造りの近世城郭として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断しながらも、51年後の寛永16年(1639)に現在見られる石垣が完成しています。
球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水ノ手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200mもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに2階建ての護摩堂が建てられ、二ノ丸と三ノ丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。
水ノ手門近くの「武者返し」と呼ばれる石垣には、幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれたものとして有名です。
城内の建造物は、廃藩置県の後に取り壊されて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。 -
「武者返し(むしゃがえし)」【案内板より】
御館北辺の石垣上には、絵図にみえる長櫓があり、文久2年(1862)の寅助(とらすけ)火事で焼失した。翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、その上端に槹出工法(はねだしこうほう)による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。
この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年(1853)に品川台場(東京)で初めて導入され、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されており、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。
石垣の写真失敗しちゃいました。とほほ -
「水ノ手門跡(みずのてもんあと)」【案内板より】
慶長十二年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。
水運を利用するため、川に面した石垣には7か所の船着場が造られ、
その中で最大のものが「水ノ手門」である。
この門は寛永17年(1640)以前から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。
享保13年(1728)、「御修理場御本帳写(ごしゅうりばごほんちょううつし)」によると門の規模は三間で、門の内側に板葺きの御番所、茅葺の船蔵があった。
平成11年度の発掘調査の結果、門は大きく壊されていたが、 階段や排水溝が確認された。川側にあった船着場は石張りの傾斜面となっていて、水位の増減に対応できるように工夫されていた。
水ノ手門近くにある大村米蔵跡・欠米蔵跡の発掘調査では、「御用米」「免田納米」「上村納米」といった木札が出土していて、免田や上村方面から年貢米が球磨川の水運を利用し、この門から城内に運び込まれいたことがわかる。
平成19年3月 人吉市教育委員会 -
水ノ手門跡復元模型
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水ノ手門跡
さすがにもう暗くなり、旅館の夕食の時間もあるので、まだ名残惜しいですが人吉城を後にします。 -
水ノ手橋から見る長堀櫓と武者返しの石垣が美しいです。
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歴史館で捺印したゴム印式の名城スタンプです。
スタンプと同じ景色の写真は撮れませんでした。
球磨川の中州から撮影したらこんな感じになるそうです。
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