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大阪・中之島界隈<br /> 中之島は、大阪市北区、堂島川と土佐堀川に挟まれた、東西約3km、面積723,266?の細長い中洲。東半分は東西に横たわり、西半分は南西方向に位置し、形状はブーメラン型。現在の東端は天満橋と天神橋の中間あたりだが、江戸期は難波橋の手前(現在の中央公会堂あたり)、明治9年ごろにようやく難波橋に先端が届き、鉄橋が架けられた。その後も土砂の堆積が進み、大正初年には天神橋を越えた。

大阪・中之島界隈

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2010/05/26 - 2010/05/26

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kubochan

kubochanさん

大阪・中之島界隈
 中之島は、大阪市北区、堂島川と土佐堀川に挟まれた、東西約3km、面積723,266?の細長い中洲。東半分は東西に横たわり、西半分は南西方向に位置し、形状はブーメラン型。現在の東端は天満橋と天神橋の中間あたりだが、江戸期は難波橋の手前(現在の中央公会堂あたり)、明治9年ごろにようやく難波橋に先端が届き、鉄橋が架けられた。その後も土砂の堆積が進み、大正初年には天神橋を越えた。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄

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  • しじみ橋<br /> かって北新地にかつて存在した河川。 堂島川の分流。 俗に曽根崎川と言い、近松門左衛門の「曾根崎心中」や「心中天網島」にも登場する。 <br />・蜆川は、堂島蜆が多く取れた、あるいは改修が繰り返されて川幅が縮んだので「ちぢみ川」が訛った、とも言われている。

    しじみ橋
     かって北新地にかつて存在した河川。 堂島川の分流。 俗に曽根崎川と言い、近松門左衛門の「曾根崎心中」や「心中天網島」にも登場する。 
    ・蜆川は、堂島蜆が多く取れた、あるいは改修が繰り返されて川幅が縮んだので「ちぢみ川」が訛った、とも言われている。

  • 中之島界隈蔵屋敷跡図<br /> 江戸時代・・・大坂が天下の台所と言われた江戸時代は、旧淀川の堂島川や土佐堀川の水運を利用するために、各藩の蔵屋敷が立ち並び、ここに全国各地の物資が集まる様になった。蔵屋敷の機能は、①領内の非自給物資(高級衣料品、美術品、武具など)の調達、②蔵物の売却、③資金調達。

    中之島界隈蔵屋敷跡図
     江戸時代・・・大坂が天下の台所と言われた江戸時代は、旧淀川の堂島川や土佐堀川の水運を利用するために、各藩の蔵屋敷が立ち並び、ここに全国各地の物資が集まる様になった。蔵屋敷の機能は、①領内の非自給物資(高級衣料品、美術品、武具など)の調達、②蔵物の売却、③資金調達。

  •  大坂が「天下の台所」といわれたのは各藩が蔵屋敷を大坂に設けたことに起因する。最初の蔵屋敷は、天正の頃の加賀前田藩。 年貢米、その他各藩の特産品は蔵屋敷で払下げられ、売却されたがこの代金は各藩の財政上大きな比重を占めていた。<br /> 江戸時代、蔵屋敷は交通の便の良い所、つまり河川に面したところにその殆んどが設置され、更にその中の殆んどが堂島と中之島付近に設けられた。文化11年(1814)には中之島に41、堂島に15の蔵屋敷が、また天保年間(1830-1834)にはこの地区に125の蔵屋敷があったと伝えられる。<br />

     大坂が「天下の台所」といわれたのは各藩が蔵屋敷を大坂に設けたことに起因する。最初の蔵屋敷は、天正の頃の加賀前田藩。 年貢米、その他各藩の特産品は蔵屋敷で払下げられ、売却されたがこの代金は各藩の財政上大きな比重を占めていた。
     江戸時代、蔵屋敷は交通の便の良い所、つまり河川に面したところにその殆んどが設置され、更にその中の殆んどが堂島と中之島付近に設けられた。文化11年(1814)には中之島に41、堂島に15の蔵屋敷が、また天保年間(1830-1834)にはこの地区に125の蔵屋敷があったと伝えられる。

  • 中央公会堂<br /> 中之島のシンボルとして親しまれている大阪市中央公会堂。赤レンガの壁と青銅のドームとのコントラストが美しい建物は、ネオ・ルネッサンス様式の傑作のひとつで、中之島の他の建築群と共に、美しい景観を呈している。<br />・大正7年(1918)11月に株の仲買人岩本栄之助が父の遺産と私財をあわせた100万円を大阪市に公共施設建設に寄付し、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。<br />

    中央公会堂
     中之島のシンボルとして親しまれている大阪市中央公会堂。赤レンガの壁と青銅のドームとのコントラストが美しい建物は、ネオ・ルネッサンス様式の傑作のひとつで、中之島の他の建築群と共に、美しい景観を呈している。
    ・大正7年(1918)11月に株の仲買人岩本栄之助が父の遺産と私財をあわせた100万円を大阪市に公共施設建設に寄付し、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。

  • 中央公会堂

    中央公会堂

  • 中央公会堂

    中央公会堂

  • 中央公会堂

    中央公会堂

  • 大阪府立中之島図書館<br /> 古代ローマの神殿を思わせる重厚で厳かな外観の図書館。玄関にどっしり構えた4本の列柱と緑色のドームが印象的な建物は、重文指定。  <br />・明治33年住友家から建築費、図書購入費の寄付を受け、同37年開館。大正11年には同じく住友家の奇付で、左右両翼の閲覧室が増築され、ドームの銅屋根や玄関の石柱群などは当時のまま。

    大阪府立中之島図書館
     古代ローマの神殿を思わせる重厚で厳かな外観の図書館。玄関にどっしり構えた4本の列柱と緑色のドームが印象的な建物は、重文指定。  
    ・明治33年住友家から建築費、図書購入費の寄付を受け、同37年開館。大正11年には同じく住友家の奇付で、左右両翼の閲覧室が増築され、ドームの銅屋根や玄関の石柱群などは当時のまま。

  • 中之島公園

    中之島公園

  • 中之島公園

    中之島公園

  • 大阪会議開催の地<br /> 明治8年(1875)明治維新新政府強化のため大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが大阪北浜の料亭「加賀伊」で行った会議が「大阪会議」といわれる。

    大阪会議開催の地
     明治8年(1875)明治維新新政府強化のため大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが大阪北浜の料亭「加賀伊」で行った会議が「大阪会議」といわれる。

  • 中之島界隈の変遷の写真の展示

    中之島界隈の変遷の写真の展示

  • 文化庁の登録有形文化財

    文化庁の登録有形文化財

  • 文化庁の登録有形文化財

    文化庁の登録有形文化財

  • 大阪証券取引所

    大阪証券取引所

  • 淀屋の碑<br /> 淀屋初代の常安は、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い、財をなした。その後大坂の陣では徳川方にくみし、大坂三郷の惣年寄にもなり、中之島の開拓にも尽力。2代个庵(コアン)のとき、靭(ウツボ)に海産物市場を開き、また西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、2代で巨万の富をきづいた。  その屋敷はこの付近から北浜にかけ百間四方(約33,000?)の広さをもち、内装も当時珍重したガラスを多用し豪奢をきわめ、幕府や諸大名への貸金は莫大な額に上がった。5代目辰五郎のとき(宝永2年、1705)驕奢な生活は町人身分を越えるものとされ、幕府により全財産を没収、所払いにあい、さすがの淀屋も没落した。<br /><br />

    淀屋の碑
     淀屋初代の常安は、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い、財をなした。その後大坂の陣では徳川方にくみし、大坂三郷の惣年寄にもなり、中之島の開拓にも尽力。2代个庵(コアン)のとき、靭(ウツボ)に海産物市場を開き、また西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、2代で巨万の富をきづいた。  その屋敷はこの付近から北浜にかけ百間四方(約33,000?)の広さをもち、内装も当時珍重したガラスを多用し豪奢をきわめ、幕府や諸大名への貸金は莫大な額に上がった。5代目辰五郎のとき(宝永2年、1705)驕奢な生活は町人身分を越えるものとされ、幕府により全財産を没収、所払いにあい、さすがの淀屋も没落した。

  • 林 市蔵の像<br /> 方面委員(現 民生委員)制度の設置に尽力

    林 市蔵の像
     方面委員(現 民生委員)制度の設置に尽力

  • 蛸の松<br /> 堂島川の右岸・田蓑橋北詰の袂にある、松の木の名称。<br /> 最初の蛸の松は、堂島川の左岸・現在の田蓑橋南詰のもう少し下流側、玉江橋との中間ぐらいの位置にあった。 枝振りが蛸の泳ぐ姿に見えるということから、「蛸の松」と呼ばれるようになった。 その松の木は慶安年間に福島正則が植えたといわれており、その後、すぐ近くに屋敷を構えていた浅野氏が毎年扶持十石を与えて維持したという。

    蛸の松
     堂島川の右岸・田蓑橋北詰の袂にある、松の木の名称。
     最初の蛸の松は、堂島川の左岸・現在の田蓑橋南詰のもう少し下流側、玉江橋との中間ぐらいの位置にあった。 枝振りが蛸の泳ぐ姿に見えるということから、「蛸の松」と呼ばれるようになった。 その松の木は慶安年間に福島正則が植えたといわれており、その後、すぐ近くに屋敷を構えていた浅野氏が毎年扶持十石を与えて維持したという。

  • 蛸の松<br />

    蛸の松

  • 中津藩蔵屋敷跡<br /> 天保5年(1834)12月12日、福沢諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生誕。父百助は諭吉1歳8か月のとき急死、そのため母に連れられ中津へ戻り、儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。諭吉の大阪在住は4年程だが、藩屋敷に寝泊まりいていた。

    中津藩蔵屋敷跡
     天保5年(1834)12月12日、福沢諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生誕。父百助は諭吉1歳8か月のとき急死、そのため母に連れられ中津へ戻り、儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。諭吉の大阪在住は4年程だが、藩屋敷に寝泊まりいていた。

  •  福沢諭吉誕生の地

     福沢諭吉誕生の地

  • 国立国際美術館

    国立国際美術館

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