1991/05/10 - 1991/05/23
25位(同エリア89件中)
がおちんさん
黔東南ミャオ族トン族自治州へやって来ました。
今回はバスに乗って、のんびりと車窓の風景を楽しむ旅です。
凱里を起点に台江・施洞・鎮遠・施秉・黄平・凱里と、ゆっくり6日間かけてまわりました。
田舎道を走っていると日本の昔を思わせるような農村の眺めや、ミャオ族の古い木造建築の家が目に入ってきて、心にジーンと響くものがありました。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
-
1991年5月10日(金)
雲南の留学も終わり、中国最後の旅は貴州省の黔東南苗族侗族自治州に行くことにした。
まずは昆明から夜行列車で貴陽へ。硬臥にて639kmの移動だ。 -
1991年5月11日(土)
貴陽で列車を乗り換え、普快の硬座で凱里に向う。料金は8元。
凱里駅から市街までミニバスで移動中、客を拾うために別のミニバスと競い合った運転手がスピードを出しすぎ、接触事故をおこした。
乗客の安全は無視かよ(怒)。 -
凱里の市場にて。
結った髪と腹掛けが愛らしい、苗族の女性。 -
姉御の髪型も見事だ。
黒髪って美しいなと思う。 -
初めて見た帽子は、革家(ミャオ族の支系)の人。
貴州もいろいろな少数民族が住んでいる。 -
凱里でお気に入りになった小吃(スナック)は焼き豆腐とおでん。
辛くて、ちょっと臭いのが美味しいのだ。 -
こちらはチマキ。
昆明では見かけないスナックを食べ歩く。 -
凱里の街を歩いていたら、苗族のおじさんに話しかけられた。
妻が提げていた基諾族のバッグを指差し、「これは少数民族の品だ。お前達は少数民族に興味があるのか」と聞かれたので、「はい」と答える。
おじさんは美術の教師をしているPさんといい、夕食をご馳走してくれた。白酒が入った途端にノリノリ状態になったのは、さすがミャオ族だ。私と妻が飲めると知って、とても喜んだ。
写真は、年末に西江に行った時のPさん。横を向くポーズはわざとだった。 -
1991年5月12日〜16日
凱里には6日間滞在した。街のはずれに民族博物館があるので2度ほど行ってみるが、2度とも閉まっていた。
Pさんに話すと、普段は開けていないのだという。なんという博物館だ(笑)。
「館長と知り合いだから、連絡してやる」ということになり、翌日博物館に入ることが出来た。新しい建物には、まだ展示物も少なくガラーンとしており、マネキンに着せた少数民族の衣装や刺繍、農民画といったものを見学する。
入館料はサービスしてくれた。 -
ミャオ族の民族衣装につけられる刺繍。
古いものだと、100年ぐらい昔のものだという。
龍や蝙蝠の図案が多く、独自のデザインが素晴しい。 -
シンメトリーの龍。
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ぐるぐる巻きの龍。
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ポップなセンスが爆発した龍。
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苗族や侗族の女性は子供の頃から刺繍に親しむため、自然と民族的なデザインが身につくそうだ。そのセンスを生かした絵が「農民画」である。
絵画の勉強をしたことのない少数民族の人たちが書いた絵は、カラフルで躍動力に満ち、前衛的にすら見える。 -
絵に描かれる題材は村の生活風景を描いたものが多い。
赤子をおんぶした母、戯れる犬、鶏に豚。 -
こちらは魚釣りをする子供。
Pさんたちが農村に出向いて書かせた絵もあるという。
後年、農民画は有名になり、貴州省や広西省で描かれた農民画が、香港や北京の画廊などでも売られるようになった。 -
1991年5月17日(金)
バスに乗って黔東南をめぐる旅に出発。
4日後に黄平で祭りがあるそうなので、それまで田舎を周遊することにした。
まずは台江へ。 -
文昌宮という古い建物があった。
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文物管理所という看板もあったので中に入ってみる。
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文昌宮の内部。
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中に入ると、貴州省に住む少数民族の紹介や刺繍の陳列があった。
近くの刺繍工場にて適正値段で刺繍が買えると教えてもらい、行ってみた。
ここで壁掛け用の刺繍を購入する。 -
台江ではもうひとつ欲しいものがあった。
それはミャオ族の楽器・蘆笙(ろしょう)だ。
先月、西双版納で会った田中一夫さんというプロカメラマンに、「台江に蘆笙を作ってる人がいる」と教えてもらい、買いに来たのだ。
しかし、こんな田舎にそんな人がいるのかなあ? -
村が見えた。
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水牛を連れて歩く少女。
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おじさんの掛け声とともに働く水牛。
上手に回り込み、行ったり来たりしていた。
一緒に頑張っているんだな。 -
川沿いでミャオ族の女性が何かしている。
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藍染の布を川で洗っているのだ。
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こうやって民族服がつくられるんだな。
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村に着いた。
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蘆笙を作成中のおじさん。
彼の作る蘆笙はみやげ物ではなく、祭りなどで使う本物。その音色は高らかで柔らかい。
魂を揺さぶられるような蘆笙の和音に聴き入ってしまった。
いちばん小さいものを買う。 -
蘆笙を吹きながら、田んぼのあぜ道を歩く妻。
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のどかな田園風景の中を歩いて台江に帰った。
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1991年5月18日(土)
今日は施洞方面へ向う。 -
小江河の渡し場にて。
川の色は青黒い。 -
バスも船に乗って渡るのだ。
車体についたゲ○の跡が、悪路を物語る。 -
子供たちが川で野菜を洗っていた。
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施洞に到着。
タイムスリップしたような町だった。 -
子供もなぜか渋い。
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古い家と、そこに暮らす人々。
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路上で葬式が行われていた。
棺の前にひざまずいた3人の女が、大声を上げて泣いている。
泣き女だった。
よく見ると、彼女らは顔を真っ赤に泣きはらしながらも互いに小声で喋ったり、冗談を言って笑ったりしている。
体をはったプロの仕事なのだった。 -
頭に白い布を巻いているのは遺族だ。
線香が焚かれる中、立ったまま飯をかっこんでいた。 -
施洞には鎮遠方面に向うバスが無い。
町沿いを流れる清水江を舟で渡り、対岸の馬号に向う。 -
小雨の降る中、船頭のおじいさんは裸足で舟を操る。
鳥居龍蔵博士も、このような光景を目にしたのだろうか。 -
馬号に着くも、先へ向うバスが無かった。
台江からの移動はたった39kmだったが、今日はこれまで。
とってもスローな旅。 -
馬号は旅社が一軒あるだけの村だった。
店は無いので、宿で夕食の世話になる。
これがメチャメチャ美味かった。 -
熱々の鉄鍋の中に、燻製肉と菜っ葉をぶっこんで食べる。
火鍋のように辛くもなく、ほっかほかのご飯はオヒツごと出された。
「これで足りるか?」と宿の人。
客を満腹にさせようとする気持ちが嬉しい。 -
1991年5月19日(日)
馬号から鎮遠へ向う。 -
鎮遠は舞陽江のほとりにある漢族の街。祝経橋には楼閣が立つ。青龍洞や古い街なみも撮ったのに写真を紛失してしまい、鎮遠の写真はこれ一枚だけ(涙)。
明治35年10月8日、鳥居龍三はここに滞在しており、鎮遠府の知府よりマントウ2皿、鮑と鶏肉の汁、豚のカレーなどを贈られている。彼によると鎮遠はもともと苗地であったのをシナ政府が征伐して他に追いやったとあり、ここに住む漢族は雲南や湖南から来た者が多いそうだ。(『中国の少数民族地帯をゆく』より) -
午後14時半の施秉行きバスに乗る。
私達がこれから向う施秉、黄平の道は、89年前に鳥居博士が馬で行ったルートだ。彼は46日かかって雲南府(昆明)に到着し、路南や弥勒、通海などを訪れている。 -
時代は変わっても、舞陽江の流れや山の眺め、古いミャオ族の家々は変わらない。
明治時代に鳥居龍三もこういう風景を見ながら旅したのだろうか。 -
施秉に着いた。
路上のカゴ屋は修理も販売もする。
この日泊まった旅社にはシャワーがあったが、頭を洗っている最中に断水し、泡だらけのままになってしまった。もう最悪。
明日は祭りを見るため、黄平に行く。
苗族の祭り・黄平飛雲崖の四月八〜貴州の旅1991に続く
http://4travel.jp/travelogue/10676251
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