2005/04/02 - 2005/04/02
42位(同エリア145件中)
ねいちゃさん
昨年(2004年)川中島に赴いたのを機に、
今年(2005年)は古戦場めぐり第二弾として
長篠へ行こうと計画いたしました。
もちろん、ただ単に古戦場行くだけではもったいないので
温泉何ぞを絡めつつの道中ですが、この頃ってあんまり
写真もしっかり撮ってないんですよねー。
ま、とりあえず・・・
今回は「長篠合戦」を語ることにしましょう。
(って、「語る」こと前提かい・・・写真は?)
<旅程>
4月1日
セントレア→知多半島・内海
4月2日
岡崎城→長篠古戦場→長篠城
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
いきなりの温泉料理ーーーっ。
何なんでしょ、この旅行記。
毎年4月当初は激務なのですが、
こん年だけぽっかりと空いた二日間。
「温泉行く?」「行くぅーーー」となって
史跡巡りよりも温泉がメインみたいな。
写真は南知多温泉郷にある「粛海風」さん。
ここはね、屋上に露天湯があって混浴みたいな感じで
景色がムチャいいところ。
時間制の貸切露天風呂もあって、
だぁーれもいない夜の露天風呂で心の洗濯。。。 -
「あわび」です。
まるごとです。
このコリコリとした食感が・・・。
あ、みなさん「よだれ」出てますよ。
この日は確か開港直後のセントレア
中部国際空港をちらっと見学しただけで
かなり早くにホテルに到着し
夕方からのんびりお湯に浸かってましたねー。 -
喰っちゃ風呂、喰っちゃ風呂のくり返し・・・。
気がついたらもう早朝。
日頃の行いのせいか、晴天でーーーー?
む?なんか曇ってますね?
普通ならとびっきりの絶景が
迎えてくれるハズなんですが・・・
まぁ、いいや。朝風呂行こうっと。 -
ココ、快晴なら笑うほどの景色でしょうね。
さぁて、出発。
温泉三昧のせいか、まだ指がふやけています。
もちろん・・・ウソです。
臨場感を出すための脚色ですっ。 -
知多半島を北上し「野間灯台」にやってきました。
広がる空と海、一面のブルーの中に
ひときわ目立って映える高さ18mの灯台。
伊勢湾航路の守り神として、
また知多半島のシンボルとして親しまれています。
潮風と波が、ロマンティックな気分を盛り立てます。
特に夕日のきれいなスポットです。
(美浜町公式WSより紹介文抜粋)
一面ブルーって・・・グレーじゃん。
ま、天気ばかりはどうしようもないですが。 -
ところで、よくご覧になると
灯台の周りの2.5mの高さの鉄柵。
なんかぶら下がってるのがわかるでしょうか?
これはね、恋人同士がこの柵に南京錠を掛けると
恋愛が成就するというジンクスで有名らしいのです。
この手の話、イタリアでもありましたねー。
ていうか、イタリアの方が本場だったかもしれませんが。
この当時は、このジンクス
さしてメジャーではなかったので
大したことはありませんが、
今は凄いことになってるそうですよ。
成就して欲しい恋愛ねぇー、もう私はイイですっ! -
中埜酒造−酒の文化館
こちらは愛知県半田市にある
中埜酒造さんの博物館です。
目的があって来たわけではないのですが
「酒」という甘美な響きに誘われて
導かれてしまいました。
http://www.nakanoshuzou.jp/sake/index.html -
岡崎城
寄り道?をしながら、「岡崎城」までやって来ました。
岡崎城は1450年代半ば、三河国の守護仁木氏の
守護代西郷氏が建てたもので、それを家康の祖父である
松平清康が奪い、勢力を広げましたが森山崩れで落命。
1542年に城内で竹千代(後の徳川家康)が誕生します。
1549年家康の父松平広忠が謀反によって殺されると、
岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ
家康の幼年期の「苦難」がはじまります。 -
1560年桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると
松平元康(後の徳川家康)は岡崎城を奪回し、
今川家から独立をはたします。
1570年家康は本拠を浜松城に移すと、
本城には子の松平信康が入ります。
しかし、信長から謀反の嫌疑をかけられ
あえなく自刃。
以後、重臣の石川数正、本多重次らが
城代を務めることになります。 -
1590年家康が秀吉により関東に移されると、
家康に対する備えの城となり、豊臣家臣の田中吉政が
入り、近世城郭に作り替え、今日の岡崎城の基が
この時できあがりました。
関ヶ原が終わり、徳川の支配が不動のものになるに及んで
この城は「家康誕生の城」として重要視され、
本多康重をはじめとした譜代大名が
代々城主を務めることとなるわけです。 -
岡崎城を後にして、長篠古戦場にやってきました。
ここは地名的には、設楽原[したらがはら]という所で
戦いの発端の「長篠城」とは4?ほど離れています。
近くには、小さいながらも内容の充実している「新城
市設楽原歴史資料館」もあって、戦国の戦いの様相を
一変させた「長篠の戦い」に思いをはせることができ
る場所です。
写真は、復元されている「馬防柵」 -
1574年父信玄ですら落とせなかった高天神城を攻略し
武名を高めた武田勝頼は、再び三河侵攻作戦を敢行し
ます。
1575年4月5日、勝頼は1万5千の軍勢を率いて甲府
を出立。守備兵5百の徳川方の奥平貞昌の居城長篠城
を包囲しました。
奥平は、使者として鳥居強右衛門[すねえもん]に命じ
包囲網を越え岡崎城の家康に救援を求めにやります。
かねてより武田侵攻に備えていた家康は、織田信長に
援軍を要請しており、強右衛門が岡崎城にたどりつい
た時には、徳川・織田連合軍3万8千は翌日にも出陣
する手はずとなっていました。 -
その帰路、強右衛門は、武田方に捕らえられ磔に。
武田方は長篠城兵の戦意を挫くため「救援は来ない」
と言えば助命してやろうと持ちかけましたが、鳥居は
大声をはりあげ「救援は来るぞ!しばしの辛抱じゃ」
と叫び、その場で武田方に殺されます。
忠臣として命を捨ててまで、味方を鼓舞する・・・
彼のその武勇は、武田方の武将ですら感銘を覚え
落合左平次道次は、旗指物にもしています。
長篠城の城兵もその死に報い、援軍の到着まで持ちこ
たえました。
その後、強右衛門の子孫たちは、代々強右衛門を名乗
り、現在まで家系は存続しているそうです。
また、強右衛門が亡くなった場所には、その名にちな
んだJR飯田線の「鳥居駅」となっています。 -
写真は「柳田前激戦地」
長篠の戦いは、1575年5月21日、織田・徳川連合軍3
万8千が武田勝頼1万2千と長篠の設楽原で激突した
もので、通説では、迫る武田騎馬隊に対して織田鉄砲
隊が三段撃ちで迎え撃ったと言われています。
鉄砲という、当時戦いの主力ではなかった新兵器を有
効活用した戦いとして、以後の戦術史を大きく塗り替
画期的な合戦と評価されているものです。
では、長篠の戦いとはどういったものだったのでしょ
うか。「信長公記」や「甲陽軍鑑」といった史料を元
に、簡単に少し合戦の経過を追いかけて、見ることに
しましょうか。
(今回も長口上に・・・ごめんなさい ^^; ) -
織田信長は、長篠進軍前に足軽などに「丸太と縄」を
持って行くようにと命じています。武田勢の機動力を
封じるための「馬防柵」を作らせるためです。
また、戦場に決めた設楽原もいくつもの丘陵地と田地
小さな河川などがあり、騎馬の進軍を遅らせる地形で
あり、合戦の前々から鉄砲による武田勢の壊滅を想定
していました。
対する武田方の作戦は、両翼に歴戦の勇将を並べ、馬
防柵を迂回して右翼・左翼から敵本陣にプレッシャー
をかける。動揺が走り敵陣が乱れた所を、中央本隊が
錐の切っ先となって中央突破をはかろうというもの。
信長「私にプレッシャーをかける、あの騎馬武者は何
者なんだ!」と言わせるのが狙い?!(笑) -
午前6時−左翼の山県昌景は馬防柵を迂回して南方か
ら徳川軍に迫る。徳川方の大久保忠世らは、退いては
鉄砲を放ち押し返すという用兵で、侵攻を食い止めることに成功します。
午前7時−山県隊に続いて赤備えの小幡信貞・小山田
信茂の騎馬隊や黒備えの武田信豊も出撃しましたが、
これも雨のような銃弾に耐えきれず退却しました。
午前8時−武田方の長篠城包囲軍の武田信実らが守る
鳶ヶ巣山が、徳川方の酒井忠次らによって奇襲されま
す。喚声と噴煙は織田徳川連合軍の士気を高め、武田
軍は退路を断たれるのではないかという不安に追い詰
められてしまうこととなります。 -
一方、右翼の馬場信春も、信長の本陣を目指して突撃
を敢行。織田方の佐久間信盛は、六千の兵で北方の丸
山砦を固めていたが、馬場はわずか七百の手勢で、十
倍の敵を撃破。丸山を占拠し、この陣地を死守するこ
とに成功しました。
このように、大きな戦力差があるにも関わらず、序盤
は武田方が優位に立っているのです。
午前10時−この状況をみた馬場は勝頼の本陣へ使い
を出し、「いま戦いは優勢で一応の戦果もあります。
しかし敵の鉄砲が甚だ多く、味方の損傷が少ない今退
陣すべきではないでしょうか」と進言します。
しかし、勝頼は黙殺し全軍の進撃を命じました。
写真は「土屋真次落命の柵」 -
馬場は敗戦を覚悟するとともに、同じ右翼の真田信綱
・昌輝兄弟・土屋昌次らにこのことを告げると、相互
に進撃し馬防柵に迫ってゆきます。
この勢いに信長は羽柴秀吉・丹羽長秀の部隊を北側か
ら迂回させ、側面を突かせて真田兄弟を追い返しまし
たが、その後の土屋昌次の奮闘に出会いました。
土屋は滝川一益の騎馬隊を退けますが、その背後に三
重の柵を備えた鉄砲隊に遭遇。怯むことなく、一の柵
の鉄砲隊を踏み潰し、二の柵からの一斉射撃で多くの
騎馬武者を失いながらも、二の柵も攻略します。
しかし、織田軍も佐々成政・前田利家らの鉄砲隊で狙
いを定め、土屋昌次が三の柵によじ登ったところを撃
ち落とすのです。 -
その後、真田兄弟も果敢に突撃を繰り返し、柴田・羽
柴隊の柵を目指し、鉄砲隊は次の弾丸を詰め込む余裕
もなく圧倒されます。しかし、柴田・羽柴隊は柵の外
の側面に迂回して、銃火を浴びせたため奮闘あえなく
信綱は柵前で戦死。弟昌輝も負傷し退却せざるをえま
せんでした。
両翼によるこのような熾烈な攻撃により、内藤昌豊・
原昌胤・武田信廉らの中央本隊も動き始めました。 -
特に内藤隊は、家康本陣横の八剣前で、錐もみ状態と
なって馬防柵に殺到し、一の柵・二の柵を踏み破り激
しく攻めたて、ついには三の柵をも突破して二十余名
が敵陣内に押し入り、家康を大いに震え上がらせたと
いわれています。三の柵が破られたのは後にも先にも
この時だけです。
家康という人は戦上手でよく知られているのですが、
こういう類の話もまた結構多いです。三方ヶ原の戦い
では恐怖の余り脱糞したとか、大坂の役も真田幸村に
攻めかけられ死を覚悟したとか、策略家であっても突
発的な事象は苦手だったのかも・・・。 -
午後1時−右翼山県昌景は、誘い込まれるように中央
部の竹広激戦地へ深入りしていました。同じく小山田
・甘利らの生き残り部隊と共に家康本陣へ果敢な攻撃
を仕掛けます。
しかし、徳川方の本多忠勝の鉄砲隊は、その山県を待
ち構え、一斉射撃。ここに猛将山県昌景は壮絶な最期
を迎えることとなったのです。
この頃より、徳川勢はこれまでの戦法を変え、いち早
く柵外に出る攻撃に転じ始めました。織田勢もこれに
続き、濁流のごとく武田勢を前方に押し出します。
武田勢はズルズルと後退するしかありませんでした。 -
午後2時−もはや左翼・中央・右翼の区別もない乱軍
状態になった武田勢を見た信長は、全軍に総攻撃を命
じました。
雪崩を打って織田勢は、次々と柵外に進み出て連吾川
を渡って武田勢へと押し寄せてゆきました。
武田方の武田信豊・一条信龍・武田信廉・小幡信貞ら
相次いで崩壊。
浮き足立つ武田本陣は、ここで後詰めの殿[しんがり]
穴山信君隊を繰り出そうとしますが、穴山隊はすでに
退き始めていました。
勝頼の後備えのはずの穴山信君・武田信光らは、敵の
旗を見るやいなや、勝頼より先に逃げ去るという体た
らく・・・。 -
勝頼はここにきてどんな気持ちで、この戦局を見定め
たのでしょうか。
父信玄以来の古参の重臣たちは、身を賭して戦い、多
くは壮絶な最期を遂げてゆきました。自分の側近らは
我先に逃げようとしています。
宿老たちの換言を無視した自分の主戦論の危うさ。
勝頼は重臣らの戦死の報を聞くと、死を決して戦おう
としましたが、家来に止められて、やむなく帰還する
です。
ついに「大」の旗が動きはじめ、武田軍の引き揚げ貝
の音が響き、勝頼観戦陣地を下りて、宮脇に出て大海
方面に退却を始めました。 -
午後3時−甘利・内藤・原などの各隊は、勝頼本隊の
旗が退却するのを見届けるまでの間、敵をよく支え戦
っていました。
甘利信康は中央隊と合流した後、天王山のふもとまで
じりじりと押され、ついに無念の自決を遂げます。
原昌胤は殿[しんがり]をつとめ奮戦しますが、信玄台
地で敵の銃弾の前に身をさらし落命します。
内藤昌豊は、討死の時が来たと数少なくなった残兵と
家康本陣に突撃を敢行。本多忠勝は自ら槍を取りこれ
に立ち向かい、榊原康政・大須賀康高らの部隊も加わ
って、銃弾や弓矢を浴びせかけました。内藤隊の手勢
は全滅、昌豊自らも射かけられた矢が全身に突き刺さ
ってハリネズミのようになって、落馬した所を討ち取
られます。 -
乱軍状態の中で、敵に包囲される形勢を見た馬場信春
は退却を決断し、同時に、勝頼の退路を確保しようと
一足早く戦場を離れ、出沢橋詰方面へ向かいます。勝
頼の退却を無事見届けた馬場は、その橋詰で覚悟の討
死をしました。
このように戦国の雄として、一時代を築いた武田軍は
大敗を喫し、昔日の勢いを取り戻すことなく、七年後
には織田勢に蹂躙され、滅亡してゆきます。
この合戦で武田の戦死者の数は、一万余人にのぼりま
した。一方の織田・徳川連合軍の死傷者六千という数
字もまた決して少ないものではありませんでした。 -
軍記物が語る長篠の戦い・・・いかかだったでしょう
か。いつも思うのですが、なかなか面白いものです。
武将たちの息づかいが、聞こえてきそうで・・・。
でもこれはお話として昇華されていったもので、いわ
ば講談などの前段階、面白可笑しいのは当然です。
ですが、現実の歴史となると、お話とはかなり異なる
様相をみせるのもまた事実。
例えば、黒澤明の映画「影武者」のラストは、武田騎
馬隊が次々と鉄砲の餌食となる様を30分以上にもわ
たって映像化していて、この合戦のイメージとしても
たれている方も多いでしょうね。 -
映画では、草原を疾駆する騎馬武者が映っていました
が、実際の設楽原は写真のように草原はありません。
馬ももちろん映画にでてくるサラブレッドではなく、
体高130?の日本の在来馬、甲冑武者を背に乗せれば
時速10?から30?がやっとのことだと思います。
ノタノタ・ノッコノッコと走ってきます。
迎え撃つ鉄砲ですが、有効射程100m、30秒で1発発射。
馬は時速15?あれば30秒で100mは走って来るので、
一発目を外すと、鉄砲隊の目の前に馬がきちゃいます。
ちょっとヤバイ状況ですね。
そこで、写真の馬防柵の登場となるわけです。 -
俗に言われる織田方の鉄砲3000丁も多すぎる数字では
ありますが、仮に1/3だったとしても、一合戦に使
用する鉄砲としては圧倒的な物量。
また「三段撃ち」ですが、実験された方がおられて
ものの10分も続けると、ヘトヘトになったそうです。
合戦は8時間余も続くので、実際はムリっぽい。
現実的には1000丁の鉄砲で一度の一斉射撃でも、馬防
柵前の敵にはかなり有効であったでしょう。
ものすごい轟音が谷間にとどろき、武田方の馬がおび
えて大混乱・・・という感じだったと思います -
また、武田方の馬の数についても、家臣の軍役負担か
ら、他の戦国武将とそう大差はありませんでした。
「甲陽軍鑑」などでは9千騎と表現しているようです
が、総動員数3万のうち1/3が、騎馬武者というの
は編成上考えられませんから、勇猛果敢な武田騎馬隊
というのは、現実にはなかったと考えていいんじゃな
いでしょうか。ホントは居てほしいものですが・・・
もし存在したとしても、実数はもっと少なかったんで
しょうね〜。
などなど、実際の戦いの様相は、お話とはずいぶん
異なるものなんですねー。 -
今回もまた、色々と考察もしてきましたが、そういう
ことに思いをはせられたという意味で、この合戦場を
眺められたことは大変興味深い経験となりました。
あまりおられないとは思いますが・・・
最後までキッチリお読み下さった奇特な方が、
もしおられましたら、心より感謝申し上げます。
拙文におつきあい下さり、ありがとうございました。
写真は「長篠城址史跡保存館」
入館料は210円、設楽原歴史資料館との共通券もあり
ます。価格は400円。(平成24年4月現在)
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この旅行記へのコメント (2)
-
- keiさん 2012/04/26 16:40:34
- あわび〜♪
- こんにちは。
主に長篠の戦い旅行記なのに
私ったら、最後まで、あわびが
脳裏に焼きついて離れませんでした・・。
だって、めっちゃおいしそうだったんだもーーん!
それから温泉の喰っちゃ風呂喰っちゃ風呂は、
名言だと思います。(どこかで使お・・)
喰っちゃ風呂は人間の最大の贅沢だと思いますっ!
プラス、酒までなんて・・・あーた、それ、
罪ですわよ。仲間に入れんかいっ!!
(失礼、つい、取り乱してしまった)
合戦の場のいろはかるたの看板は風景を
損ないますが、わかりやすく解説している
ものなのかな?
私はその合戦事態知らなかったのですが、
1つまた賢くなりました。
Thank youです♪
で、あわびは生で食べたのですか、
それともソテーして食べたのですか??
kei
- ねいちゃさん からの返信 2012/04/27 01:59:53
- RE: あわび〜♪
- keiさん、ご無沙汰しております。
書き込みありがとうございました。
今連載中?のkeiさんの南イタリア旅行記、ホント綺麗ですね〜。
トシさんでなくても絵を描きたくなる風景ですっ。
大変お上手で感動しました!!
余り褒めると調子に乗られるとの事ですので、このへんで。(笑)
さて、長篠の旅行記ですが・・・
まさか、冒頭のあわびにここまで食い付かれている方が
おられるとは、恐れ入りました。さすがです!!
あわびもきっと本望でしょうねぇー。
古い旅行記なので、確かに食べたのですが
どうやって喰ったのかは覚えておりません。
レモンがある所を見ると・・・ソテーだったような・・・。
これではあわびは浮かばれませんねぇ、ごめんねー^^;
でもでも、動いていたんですよー、それは覚えていますっ。
> それから温泉の喰っちゃ風呂喰っちゃ風呂は、
> 名言だと思います。(どこかで使お・・)
一回につき1000円ね。(笑)
海外旅行はとても良いんですが、あえて難点をあげれば
大浴場がない。日本酒がない。わさび醤油がない。ですねー
国内旅行はこの三種の神器で
おっさんはほっとします。。。
ではでは、南イタリア続きを楽しみにしてまーす。。。
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