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昨年(2004年)川中島に赴いたのを機に、<br />今年(2005年)は古戦場めぐり第二弾として<br />長篠へ行こうと計画いたしました。<br /><br />もちろん、ただ単に古戦場行くだけではもったいないので<br />温泉何ぞを絡めつつの道中ですが、この頃ってあんまり<br />写真もしっかり撮ってないんですよねー。<br /><br />ま、とりあえず・・・<br />今回は「長篠合戦」を語ることにしましょう。<br />(って、「語る」こと前提かい・・・写真は?)<br /><br /><旅程><br /><br />4月1日<br />セントレア→知多半島・内海<br /><br />4月2日<br />岡崎城→長篠古戦場→長篠城<br /><br />

古いアルバムの中に隠れて想い出がいっぱい[3](愛知・岡崎編)

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2005/04/02 - 2005/04/02

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2

30

ねいちゃ

ねいちゃさん

昨年(2004年)川中島に赴いたのを機に、
今年(2005年)は古戦場めぐり第二弾として
長篠へ行こうと計画いたしました。

もちろん、ただ単に古戦場行くだけではもったいないので
温泉何ぞを絡めつつの道中ですが、この頃ってあんまり
写真もしっかり撮ってないんですよねー。

ま、とりあえず・・・
今回は「長篠合戦」を語ることにしましょう。
(って、「語る」こと前提かい・・・写真は?)

<旅程>

4月1日
セントレア→知多半島・内海

4月2日
岡崎城→長篠古戦場→長篠城

同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • いきなりの温泉料理ーーーっ。<br />何なんでしょ、この旅行記。<br /><br />毎年4月当初は激務なのですが、<br />こん年だけぽっかりと空いた二日間。<br />「温泉行く?」「行くぅーーー」となって<br />史跡巡りよりも温泉がメインみたいな。<br /><br />写真は南知多温泉郷にある「粛海風」さん。<br />ここはね、屋上に露天湯があって混浴みたいな感じで<br />景色がムチャいいところ。<br />時間制の貸切露天風呂もあって、<br />だぁーれもいない夜の露天風呂で心の洗濯。。。

    いきなりの温泉料理ーーーっ。
    何なんでしょ、この旅行記。

    毎年4月当初は激務なのですが、
    こん年だけぽっかりと空いた二日間。
    「温泉行く?」「行くぅーーー」となって
    史跡巡りよりも温泉がメインみたいな。

    写真は南知多温泉郷にある「粛海風」さん。
    ここはね、屋上に露天湯があって混浴みたいな感じで
    景色がムチャいいところ。
    時間制の貸切露天風呂もあって、
    だぁーれもいない夜の露天風呂で心の洗濯。。。

  • 「あわび」です。<br />まるごとです。<br />このコリコリとした食感が・・・。<br /><br />あ、みなさん「よだれ」出てますよ。<br /><br />この日は確か開港直後のセントレア<br />中部国際空港をちらっと見学しただけで<br />かなり早くにホテルに到着し<br />夕方からのんびりお湯に浸かってましたねー。

    「あわび」です。
    まるごとです。
    このコリコリとした食感が・・・。

    あ、みなさん「よだれ」出てますよ。

    この日は確か開港直後のセントレア
    中部国際空港をちらっと見学しただけで
    かなり早くにホテルに到着し
    夕方からのんびりお湯に浸かってましたねー。

  • 喰っちゃ風呂、喰っちゃ風呂のくり返し・・・。<br />気がついたらもう早朝。<br />日頃の行いのせいか、晴天でーーーー?<br />む?なんか曇ってますね?<br /><br />普通ならとびっきりの絶景が<br />迎えてくれるハズなんですが・・・<br />まぁ、いいや。朝風呂行こうっと。

    喰っちゃ風呂、喰っちゃ風呂のくり返し・・・。
    気がついたらもう早朝。
    日頃の行いのせいか、晴天でーーーー?
    む?なんか曇ってますね?

    普通ならとびっきりの絶景が
    迎えてくれるハズなんですが・・・
    まぁ、いいや。朝風呂行こうっと。

  • ココ、快晴なら笑うほどの景色でしょうね。<br /><br />さぁて、出発。<br />温泉三昧のせいか、まだ指がふやけています。<br /><br />もちろん・・・ウソです。<br />臨場感を出すための脚色ですっ。

    ココ、快晴なら笑うほどの景色でしょうね。

    さぁて、出発。
    温泉三昧のせいか、まだ指がふやけています。

    もちろん・・・ウソです。
    臨場感を出すための脚色ですっ。

  • 知多半島を北上し「野間灯台」にやってきました。<br /><br />広がる空と海、一面のブルーの中に<br />ひときわ目立って映える高さ18mの灯台。<br />伊勢湾航路の守り神として、<br />また知多半島のシンボルとして親しまれています。<br />潮風と波が、ロマンティックな気分を盛り立てます。<br />特に夕日のきれいなスポットです。<br /><br />(美浜町公式WSより紹介文抜粋)<br /><br />一面ブルーって・・・グレーじゃん。<br />ま、天気ばかりはどうしようもないですが。

    知多半島を北上し「野間灯台」にやってきました。

    広がる空と海、一面のブルーの中に
    ひときわ目立って映える高さ18mの灯台。
    伊勢湾航路の守り神として、
    また知多半島のシンボルとして親しまれています。
    潮風と波が、ロマンティックな気分を盛り立てます。
    特に夕日のきれいなスポットです。

    (美浜町公式WSより紹介文抜粋)

    一面ブルーって・・・グレーじゃん。
    ま、天気ばかりはどうしようもないですが。

  • ところで、よくご覧になると<br />灯台の周りの2.5mの高さの鉄柵。<br />なんかぶら下がってるのがわかるでしょうか?<br />これはね、恋人同士がこの柵に南京錠を掛けると<br />恋愛が成就するというジンクスで有名らしいのです。<br /><br />この手の話、イタリアでもありましたねー。<br />ていうか、イタリアの方が本場だったかもしれませんが。<br /><br />この当時は、このジンクス<br />さしてメジャーではなかったので<br />大したことはありませんが、<br />今は凄いことになってるそうですよ。<br /><br />成就して欲しい恋愛ねぇー、もう私はイイですっ!

    ところで、よくご覧になると
    灯台の周りの2.5mの高さの鉄柵。
    なんかぶら下がってるのがわかるでしょうか?
    これはね、恋人同士がこの柵に南京錠を掛けると
    恋愛が成就するというジンクスで有名らしいのです。

    この手の話、イタリアでもありましたねー。
    ていうか、イタリアの方が本場だったかもしれませんが。

    この当時は、このジンクス
    さしてメジャーではなかったので
    大したことはありませんが、
    今は凄いことになってるそうですよ。

    成就して欲しい恋愛ねぇー、もう私はイイですっ!

  • 中埜酒造−酒の文化館<br /><br />こちらは愛知県半田市にある<br />中埜酒造さんの博物館です。<br />目的があって来たわけではないのですが<br />「酒」という甘美な響きに誘われて<br />導かれてしまいました。<br /><br />http://www.nakanoshuzou.jp/sake/index.html

    中埜酒造−酒の文化館

    こちらは愛知県半田市にある
    中埜酒造さんの博物館です。
    目的があって来たわけではないのですが
    「酒」という甘美な響きに誘われて
    導かれてしまいました。

    http://www.nakanoshuzou.jp/sake/index.html

  • 岡崎城<br /><br />寄り道?をしながら、「岡崎城」までやって来ました。<br /><br />岡崎城は1450年代半ば、三河国の守護仁木氏の<br />守護代西郷氏が建てたもので、それを家康の祖父である<br />松平清康が奪い、勢力を広げましたが森山崩れで落命。<br />1542年に城内で竹千代(後の徳川家康)が誕生します。<br />1549年家康の父松平広忠が謀反によって殺されると、<br />岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ<br />家康の幼年期の「苦難」がはじまります。

    岡崎城

    寄り道?をしながら、「岡崎城」までやって来ました。

    岡崎城は1450年代半ば、三河国の守護仁木氏の
    守護代西郷氏が建てたもので、それを家康の祖父である
    松平清康が奪い、勢力を広げましたが森山崩れで落命。
    1542年に城内で竹千代(後の徳川家康)が誕生します。
    1549年家康の父松平広忠が謀反によって殺されると、
    岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ
    家康の幼年期の「苦難」がはじまります。

  • 1560年桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると<br />松平元康(後の徳川家康)は岡崎城を奪回し、<br />今川家から独立をはたします。<br /><br />1570年家康は本拠を浜松城に移すと、<br />本城には子の松平信康が入ります。<br />しかし、信長から謀反の嫌疑をかけられ<br />あえなく自刃。<br />以後、重臣の石川数正、本多重次らが<br />城代を務めることになります。

    1560年桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると
    松平元康(後の徳川家康)は岡崎城を奪回し、
    今川家から独立をはたします。

    1570年家康は本拠を浜松城に移すと、
    本城には子の松平信康が入ります。
    しかし、信長から謀反の嫌疑をかけられ
    あえなく自刃。
    以後、重臣の石川数正、本多重次らが
    城代を務めることになります。

  • 1590年家康が秀吉により関東に移されると、<br />家康に対する備えの城となり、豊臣家臣の田中吉政が<br />入り、近世城郭に作り替え、今日の岡崎城の基が<br />この時できあがりました。<br /><br />関ヶ原が終わり、徳川の支配が不動のものになるに及んで<br />この城は「家康誕生の城」として重要視され、<br />本多康重をはじめとした譜代大名が<br />代々城主を務めることとなるわけです。<br />

    1590年家康が秀吉により関東に移されると、
    家康に対する備えの城となり、豊臣家臣の田中吉政が
    入り、近世城郭に作り替え、今日の岡崎城の基が
    この時できあがりました。

    関ヶ原が終わり、徳川の支配が不動のものになるに及んで
    この城は「家康誕生の城」として重要視され、
    本多康重をはじめとした譜代大名が
    代々城主を務めることとなるわけです。

  • 岡崎城を後にして、長篠古戦場にやってきました。<br />ここは地名的には、設楽原[したらがはら]という所で<br />戦いの発端の「長篠城」とは4?ほど離れています。<br /><br />近くには、小さいながらも内容の充実している「新城<br />市設楽原歴史資料館」もあって、戦国の戦いの様相を<br />一変させた「長篠の戦い」に思いをはせることができ<br />る場所です。<br /><br />写真は、復元されている「馬防柵」<br />

    岡崎城を後にして、長篠古戦場にやってきました。
    ここは地名的には、設楽原[したらがはら]という所で
    戦いの発端の「長篠城」とは4?ほど離れています。

    近くには、小さいながらも内容の充実している「新城
    市設楽原歴史資料館」もあって、戦国の戦いの様相を
    一変させた「長篠の戦い」に思いをはせることができ
    る場所です。

    写真は、復元されている「馬防柵」

  • 1574年父信玄ですら落とせなかった高天神城を攻略し<br />武名を高めた武田勝頼は、再び三河侵攻作戦を敢行し<br />ます。<br />1575年4月5日、勝頼は1万5千の軍勢を率いて甲府<br />を出立。守備兵5百の徳川方の奥平貞昌の居城長篠城<br />を包囲しました。<br /><br />奥平は、使者として鳥居強右衛門[すねえもん]に命じ<br />包囲網を越え岡崎城の家康に救援を求めにやります。<br /><br />かねてより武田侵攻に備えていた家康は、織田信長に<br />援軍を要請しており、強右衛門が岡崎城にたどりつい<br />た時には、徳川・織田連合軍3万8千は翌日にも出陣<br />する手はずとなっていました。

    1574年父信玄ですら落とせなかった高天神城を攻略し
    武名を高めた武田勝頼は、再び三河侵攻作戦を敢行し
    ます。
    1575年4月5日、勝頼は1万5千の軍勢を率いて甲府
    を出立。守備兵5百の徳川方の奥平貞昌の居城長篠城
    を包囲しました。

    奥平は、使者として鳥居強右衛門[すねえもん]に命じ
    包囲網を越え岡崎城の家康に救援を求めにやります。

    かねてより武田侵攻に備えていた家康は、織田信長に
    援軍を要請しており、強右衛門が岡崎城にたどりつい
    た時には、徳川・織田連合軍3万8千は翌日にも出陣
    する手はずとなっていました。

  • その帰路、強右衛門は、武田方に捕らえられ磔に。<br /><br />武田方は長篠城兵の戦意を挫くため「救援は来ない」<br />と言えば助命してやろうと持ちかけましたが、鳥居は<br />大声をはりあげ「救援は来るぞ!しばしの辛抱じゃ」<br />と叫び、その場で武田方に殺されます。<br /><br />忠臣として命を捨ててまで、味方を鼓舞する・・・<br />彼のその武勇は、武田方の武将ですら感銘を覚え<br />落合左平次道次は、旗指物にもしています。<br />長篠城の城兵もその死に報い、援軍の到着まで持ちこ<br />たえました。<br /><br />その後、強右衛門の子孫たちは、代々強右衛門を名乗<br />り、現在まで家系は存続しているそうです。<br />また、強右衛門が亡くなった場所には、その名にちな<br />んだJR飯田線の「鳥居駅」となっています。

    その帰路、強右衛門は、武田方に捕らえられ磔に。

    武田方は長篠城兵の戦意を挫くため「救援は来ない」
    と言えば助命してやろうと持ちかけましたが、鳥居は
    大声をはりあげ「救援は来るぞ!しばしの辛抱じゃ」
    と叫び、その場で武田方に殺されます。

    忠臣として命を捨ててまで、味方を鼓舞する・・・
    彼のその武勇は、武田方の武将ですら感銘を覚え
    落合左平次道次は、旗指物にもしています。
    長篠城の城兵もその死に報い、援軍の到着まで持ちこ
    たえました。

    その後、強右衛門の子孫たちは、代々強右衛門を名乗
    り、現在まで家系は存続しているそうです。
    また、強右衛門が亡くなった場所には、その名にちな
    んだJR飯田線の「鳥居駅」となっています。

  • 写真は「柳田前激戦地」<br /><br />長篠の戦いは、1575年5月21日、織田・徳川連合軍3<br />万8千が武田勝頼1万2千と長篠の設楽原で激突した<br />もので、通説では、迫る武田騎馬隊に対して織田鉄砲<br />隊が三段撃ちで迎え撃ったと言われています。<br /><br />鉄砲という、当時戦いの主力ではなかった新兵器を有<br />効活用した戦いとして、以後の戦術史を大きく塗り替<br />画期的な合戦と評価されているものです。<br /><br />では、長篠の戦いとはどういったものだったのでしょ<br />うか。「信長公記」や「甲陽軍鑑」といった史料を元<br />に、簡単に少し合戦の経過を追いかけて、見ることに<br />しましょうか。<br /><br />(今回も長口上に・・・ごめんなさい ^^; )

    写真は「柳田前激戦地」

    長篠の戦いは、1575年5月21日、織田・徳川連合軍3
    万8千が武田勝頼1万2千と長篠の設楽原で激突した
    もので、通説では、迫る武田騎馬隊に対して織田鉄砲
    隊が三段撃ちで迎え撃ったと言われています。

    鉄砲という、当時戦いの主力ではなかった新兵器を有
    効活用した戦いとして、以後の戦術史を大きく塗り替
    画期的な合戦と評価されているものです。

    では、長篠の戦いとはどういったものだったのでしょ
    うか。「信長公記」や「甲陽軍鑑」といった史料を元
    に、簡単に少し合戦の経過を追いかけて、見ることに
    しましょうか。

    (今回も長口上に・・・ごめんなさい ^^; )

  • 織田信長は、長篠進軍前に足軽などに「丸太と縄」を<br />持って行くようにと命じています。武田勢の機動力を<br />封じるための「馬防柵」を作らせるためです。<br />また、戦場に決めた設楽原もいくつもの丘陵地と田地<br />小さな河川などがあり、騎馬の進軍を遅らせる地形で<br />あり、合戦の前々から鉄砲による武田勢の壊滅を想定<br />していました。<br /><br />対する武田方の作戦は、両翼に歴戦の勇将を並べ、馬<br />防柵を迂回して右翼・左翼から敵本陣にプレッシャー<br />をかける。動揺が走り敵陣が乱れた所を、中央本隊が<br />錐の切っ先となって中央突破をはかろうというもの。<br /><br />信長「私にプレッシャーをかける、あの騎馬武者は何<br />者なんだ!」と言わせるのが狙い?!(笑)

    織田信長は、長篠進軍前に足軽などに「丸太と縄」を
    持って行くようにと命じています。武田勢の機動力を
    封じるための「馬防柵」を作らせるためです。
    また、戦場に決めた設楽原もいくつもの丘陵地と田地
    小さな河川などがあり、騎馬の進軍を遅らせる地形で
    あり、合戦の前々から鉄砲による武田勢の壊滅を想定
    していました。

    対する武田方の作戦は、両翼に歴戦の勇将を並べ、馬
    防柵を迂回して右翼・左翼から敵本陣にプレッシャー
    をかける。動揺が走り敵陣が乱れた所を、中央本隊が
    錐の切っ先となって中央突破をはかろうというもの。

    信長「私にプレッシャーをかける、あの騎馬武者は何
    者なんだ!」と言わせるのが狙い?!(笑)

  • 午前6時−左翼の山県昌景は馬防柵を迂回して南方か<br />ら徳川軍に迫る。徳川方の大久保忠世らは、退いては<br />鉄砲を放ち押し返すという用兵で、侵攻を食い止めることに成功します。<br /><br />午前7時−山県隊に続いて赤備えの小幡信貞・小山田<br />信茂の騎馬隊や黒備えの武田信豊も出撃しましたが、<br />これも雨のような銃弾に耐えきれず退却しました。<br /><br />午前8時−武田方の長篠城包囲軍の武田信実らが守る<br />鳶ヶ巣山が、徳川方の酒井忠次らによって奇襲されま<br />す。喚声と噴煙は織田徳川連合軍の士気を高め、武田<br />軍は退路を断たれるのではないかという不安に追い詰<br />められてしまうこととなります。

    午前6時−左翼の山県昌景は馬防柵を迂回して南方か
    ら徳川軍に迫る。徳川方の大久保忠世らは、退いては
    鉄砲を放ち押し返すという用兵で、侵攻を食い止めることに成功します。

    午前7時−山県隊に続いて赤備えの小幡信貞・小山田
    信茂の騎馬隊や黒備えの武田信豊も出撃しましたが、
    これも雨のような銃弾に耐えきれず退却しました。

    午前8時−武田方の長篠城包囲軍の武田信実らが守る
    鳶ヶ巣山が、徳川方の酒井忠次らによって奇襲されま
    す。喚声と噴煙は織田徳川連合軍の士気を高め、武田
    軍は退路を断たれるのではないかという不安に追い詰
    められてしまうこととなります。

  • 一方、右翼の馬場信春も、信長の本陣を目指して突撃<br />を敢行。織田方の佐久間信盛は、六千の兵で北方の丸<br />山砦を固めていたが、馬場はわずか七百の手勢で、十<br />倍の敵を撃破。丸山を占拠し、この陣地を死守するこ<br />とに成功しました。<br /><br />このように、大きな戦力差があるにも関わらず、序盤<br />は武田方が優位に立っているのです。<br /><br />午前10時−この状況をみた馬場は勝頼の本陣へ使い<br />を出し、「いま戦いは優勢で一応の戦果もあります。<br />しかし敵の鉄砲が甚だ多く、味方の損傷が少ない今退<br />陣すべきではないでしょうか」と進言します。<br />しかし、勝頼は黙殺し全軍の進撃を命じました。<br /><br />写真は「土屋真次落命の柵」

    一方、右翼の馬場信春も、信長の本陣を目指して突撃
    を敢行。織田方の佐久間信盛は、六千の兵で北方の丸
    山砦を固めていたが、馬場はわずか七百の手勢で、十
    倍の敵を撃破。丸山を占拠し、この陣地を死守するこ
    とに成功しました。

    このように、大きな戦力差があるにも関わらず、序盤
    は武田方が優位に立っているのです。

    午前10時−この状況をみた馬場は勝頼の本陣へ使い
    を出し、「いま戦いは優勢で一応の戦果もあります。
    しかし敵の鉄砲が甚だ多く、味方の損傷が少ない今退
    陣すべきではないでしょうか」と進言します。
    しかし、勝頼は黙殺し全軍の進撃を命じました。

    写真は「土屋真次落命の柵」

  • 馬場は敗戦を覚悟するとともに、同じ右翼の真田信綱<br />・昌輝兄弟・土屋昌次らにこのことを告げると、相互<br />に進撃し馬防柵に迫ってゆきます。<br /><br />この勢いに信長は羽柴秀吉・丹羽長秀の部隊を北側か<br />ら迂回させ、側面を突かせて真田兄弟を追い返しまし<br />たが、その後の土屋昌次の奮闘に出会いました。<br /><br />土屋は滝川一益の騎馬隊を退けますが、その背後に三<br />重の柵を備えた鉄砲隊に遭遇。怯むことなく、一の柵<br />の鉄砲隊を踏み潰し、二の柵からの一斉射撃で多くの<br />騎馬武者を失いながらも、二の柵も攻略します。<br /><br />しかし、織田軍も佐々成政・前田利家らの鉄砲隊で狙<br />いを定め、土屋昌次が三の柵によじ登ったところを撃<br />ち落とすのです。

    馬場は敗戦を覚悟するとともに、同じ右翼の真田信綱
    ・昌輝兄弟・土屋昌次らにこのことを告げると、相互
    に進撃し馬防柵に迫ってゆきます。

    この勢いに信長は羽柴秀吉・丹羽長秀の部隊を北側か
    ら迂回させ、側面を突かせて真田兄弟を追い返しまし
    たが、その後の土屋昌次の奮闘に出会いました。

    土屋は滝川一益の騎馬隊を退けますが、その背後に三
    重の柵を備えた鉄砲隊に遭遇。怯むことなく、一の柵
    の鉄砲隊を踏み潰し、二の柵からの一斉射撃で多くの
    騎馬武者を失いながらも、二の柵も攻略します。

    しかし、織田軍も佐々成政・前田利家らの鉄砲隊で狙
    いを定め、土屋昌次が三の柵によじ登ったところを撃
    ち落とすのです。

  • その後、真田兄弟も果敢に突撃を繰り返し、柴田・羽<br />柴隊の柵を目指し、鉄砲隊は次の弾丸を詰め込む余裕<br />もなく圧倒されます。しかし、柴田・羽柴隊は柵の外<br />の側面に迂回して、銃火を浴びせたため奮闘あえなく<br />信綱は柵前で戦死。弟昌輝も負傷し退却せざるをえま<br />せんでした。<br /><br />両翼によるこのような熾烈な攻撃により、内藤昌豊・<br />原昌胤・武田信廉らの中央本隊も動き始めました。

    その後、真田兄弟も果敢に突撃を繰り返し、柴田・羽
    柴隊の柵を目指し、鉄砲隊は次の弾丸を詰め込む余裕
    もなく圧倒されます。しかし、柴田・羽柴隊は柵の外
    の側面に迂回して、銃火を浴びせたため奮闘あえなく
    信綱は柵前で戦死。弟昌輝も負傷し退却せざるをえま
    せんでした。

    両翼によるこのような熾烈な攻撃により、内藤昌豊・
    原昌胤・武田信廉らの中央本隊も動き始めました。

  • 特に内藤隊は、家康本陣横の八剣前で、錐もみ状態と<br />なって馬防柵に殺到し、一の柵・二の柵を踏み破り激<br />しく攻めたて、ついには三の柵をも突破して二十余名<br />が敵陣内に押し入り、家康を大いに震え上がらせたと<br />いわれています。三の柵が破られたのは後にも先にも<br />この時だけです。<br /><br />家康という人は戦上手でよく知られているのですが、<br />こういう類の話もまた結構多いです。三方ヶ原の戦い<br />では恐怖の余り脱糞したとか、大坂の役も真田幸村に<br />攻めかけられ死を覚悟したとか、策略家であっても突<br />発的な事象は苦手だったのかも・・・。

    特に内藤隊は、家康本陣横の八剣前で、錐もみ状態と
    なって馬防柵に殺到し、一の柵・二の柵を踏み破り激
    しく攻めたて、ついには三の柵をも突破して二十余名
    が敵陣内に押し入り、家康を大いに震え上がらせたと
    いわれています。三の柵が破られたのは後にも先にも
    この時だけです。

    家康という人は戦上手でよく知られているのですが、
    こういう類の話もまた結構多いです。三方ヶ原の戦い
    では恐怖の余り脱糞したとか、大坂の役も真田幸村に
    攻めかけられ死を覚悟したとか、策略家であっても突
    発的な事象は苦手だったのかも・・・。

  • 午後1時−右翼山県昌景は、誘い込まれるように中央<br />部の竹広激戦地へ深入りしていました。同じく小山田<br />・甘利らの生き残り部隊と共に家康本陣へ果敢な攻撃<br />を仕掛けます。<br /><br />しかし、徳川方の本多忠勝の鉄砲隊は、その山県を待<br />ち構え、一斉射撃。ここに猛将山県昌景は壮絶な最期<br />を迎えることとなったのです。<br /><br />この頃より、徳川勢はこれまでの戦法を変え、いち早<br />く柵外に出る攻撃に転じ始めました。織田勢もこれに<br />続き、濁流のごとく武田勢を前方に押し出します。<br /><br />武田勢はズルズルと後退するしかありませんでした。

    午後1時−右翼山県昌景は、誘い込まれるように中央
    部の竹広激戦地へ深入りしていました。同じく小山田
    ・甘利らの生き残り部隊と共に家康本陣へ果敢な攻撃
    を仕掛けます。

    しかし、徳川方の本多忠勝の鉄砲隊は、その山県を待
    ち構え、一斉射撃。ここに猛将山県昌景は壮絶な最期
    を迎えることとなったのです。

    この頃より、徳川勢はこれまでの戦法を変え、いち早
    く柵外に出る攻撃に転じ始めました。織田勢もこれに
    続き、濁流のごとく武田勢を前方に押し出します。

    武田勢はズルズルと後退するしかありませんでした。

  • 午後2時−もはや左翼・中央・右翼の区別もない乱軍<br />状態になった武田勢を見た信長は、全軍に総攻撃を命<br />じました。<br />雪崩を打って織田勢は、次々と柵外に進み出て連吾川<br />を渡って武田勢へと押し寄せてゆきました。<br /><br />武田方の武田信豊・一条信龍・武田信廉・小幡信貞ら<br />相次いで崩壊。<br /><br />浮き足立つ武田本陣は、ここで後詰めの殿[しんがり]<br />穴山信君隊を繰り出そうとしますが、穴山隊はすでに<br />退き始めていました。<br />勝頼の後備えのはずの穴山信君・武田信光らは、敵の<br />旗を見るやいなや、勝頼より先に逃げ去るという体た<br />らく・・・。

    午後2時−もはや左翼・中央・右翼の区別もない乱軍
    状態になった武田勢を見た信長は、全軍に総攻撃を命
    じました。
    雪崩を打って織田勢は、次々と柵外に進み出て連吾川
    を渡って武田勢へと押し寄せてゆきました。

    武田方の武田信豊・一条信龍・武田信廉・小幡信貞ら
    相次いで崩壊。

    浮き足立つ武田本陣は、ここで後詰めの殿[しんがり]
    穴山信君隊を繰り出そうとしますが、穴山隊はすでに
    退き始めていました。
    勝頼の後備えのはずの穴山信君・武田信光らは、敵の
    旗を見るやいなや、勝頼より先に逃げ去るという体た
    らく・・・。

  • 勝頼はここにきてどんな気持ちで、この戦局を見定め<br />たのでしょうか。<br /><br />父信玄以来の古参の重臣たちは、身を賭して戦い、多<br />くは壮絶な最期を遂げてゆきました。自分の側近らは<br />我先に逃げようとしています。<br />宿老たちの換言を無視した自分の主戦論の危うさ。<br /><br />勝頼は重臣らの戦死の報を聞くと、死を決して戦おう<br />としましたが、家来に止められて、やむなく帰還する<br />です。<br /><br />ついに「大」の旗が動きはじめ、武田軍の引き揚げ貝<br />の音が響き、勝頼観戦陣地を下りて、宮脇に出て大海<br />方面に退却を始めました。

    勝頼はここにきてどんな気持ちで、この戦局を見定め
    たのでしょうか。

    父信玄以来の古参の重臣たちは、身を賭して戦い、多
    くは壮絶な最期を遂げてゆきました。自分の側近らは
    我先に逃げようとしています。
    宿老たちの換言を無視した自分の主戦論の危うさ。

    勝頼は重臣らの戦死の報を聞くと、死を決して戦おう
    としましたが、家来に止められて、やむなく帰還する
    です。

    ついに「大」の旗が動きはじめ、武田軍の引き揚げ貝
    の音が響き、勝頼観戦陣地を下りて、宮脇に出て大海
    方面に退却を始めました。

  • 午後3時−甘利・内藤・原などの各隊は、勝頼本隊の<br />旗が退却するのを見届けるまでの間、敵をよく支え戦<br />っていました。<br /><br />甘利信康は中央隊と合流した後、天王山のふもとまで<br />じりじりと押され、ついに無念の自決を遂げます。<br />原昌胤は殿[しんがり]をつとめ奮戦しますが、信玄台<br />地で敵の銃弾の前に身をさらし落命します。<br />内藤昌豊は、討死の時が来たと数少なくなった残兵と<br />家康本陣に突撃を敢行。本多忠勝は自ら槍を取りこれ<br />に立ち向かい、榊原康政・大須賀康高らの部隊も加わ<br />って、銃弾や弓矢を浴びせかけました。内藤隊の手勢<br />は全滅、昌豊自らも射かけられた矢が全身に突き刺さ<br />ってハリネズミのようになって、落馬した所を討ち取<br />られます。

    午後3時−甘利・内藤・原などの各隊は、勝頼本隊の
    旗が退却するのを見届けるまでの間、敵をよく支え戦
    っていました。

    甘利信康は中央隊と合流した後、天王山のふもとまで
    じりじりと押され、ついに無念の自決を遂げます。
    原昌胤は殿[しんがり]をつとめ奮戦しますが、信玄台
    地で敵の銃弾の前に身をさらし落命します。
    内藤昌豊は、討死の時が来たと数少なくなった残兵と
    家康本陣に突撃を敢行。本多忠勝は自ら槍を取りこれ
    に立ち向かい、榊原康政・大須賀康高らの部隊も加わ
    って、銃弾や弓矢を浴びせかけました。内藤隊の手勢
    は全滅、昌豊自らも射かけられた矢が全身に突き刺さ
    ってハリネズミのようになって、落馬した所を討ち取
    られます。

  • 乱軍状態の中で、敵に包囲される形勢を見た馬場信春<br />は退却を決断し、同時に、勝頼の退路を確保しようと<br />一足早く戦場を離れ、出沢橋詰方面へ向かいます。勝<br />頼の退却を無事見届けた馬場は、その橋詰で覚悟の討<br />死をしました。<br /><br />このように戦国の雄として、一時代を築いた武田軍は<br />大敗を喫し、昔日の勢いを取り戻すことなく、七年後<br />には織田勢に蹂躙され、滅亡してゆきます。<br /><br />この合戦で武田の戦死者の数は、一万余人にのぼりま<br />した。一方の織田・徳川連合軍の死傷者六千という数<br />字もまた決して少ないものではありませんでした。

    乱軍状態の中で、敵に包囲される形勢を見た馬場信春
    は退却を決断し、同時に、勝頼の退路を確保しようと
    一足早く戦場を離れ、出沢橋詰方面へ向かいます。勝
    頼の退却を無事見届けた馬場は、その橋詰で覚悟の討
    死をしました。

    このように戦国の雄として、一時代を築いた武田軍は
    大敗を喫し、昔日の勢いを取り戻すことなく、七年後
    には織田勢に蹂躙され、滅亡してゆきます。

    この合戦で武田の戦死者の数は、一万余人にのぼりま
    した。一方の織田・徳川連合軍の死傷者六千という数
    字もまた決して少ないものではありませんでした。

  • 軍記物が語る長篠の戦い・・・いかかだったでしょう<br />か。いつも思うのですが、なかなか面白いものです。<br />武将たちの息づかいが、聞こえてきそうで・・・。<br />でもこれはお話として昇華されていったもので、いわ<br />ば講談などの前段階、面白可笑しいのは当然です。<br /><br />ですが、現実の歴史となると、お話とはかなり異なる<br />様相をみせるのもまた事実。<br /><br />例えば、黒澤明の映画「影武者」のラストは、武田騎<br />馬隊が次々と鉄砲の餌食となる様を30分以上にもわ<br />たって映像化していて、この合戦のイメージとしても<br />たれている方も多いでしょうね。

    軍記物が語る長篠の戦い・・・いかかだったでしょう
    か。いつも思うのですが、なかなか面白いものです。
    武将たちの息づかいが、聞こえてきそうで・・・。
    でもこれはお話として昇華されていったもので、いわ
    ば講談などの前段階、面白可笑しいのは当然です。

    ですが、現実の歴史となると、お話とはかなり異なる
    様相をみせるのもまた事実。

    例えば、黒澤明の映画「影武者」のラストは、武田騎
    馬隊が次々と鉄砲の餌食となる様を30分以上にもわ
    たって映像化していて、この合戦のイメージとしても
    たれている方も多いでしょうね。

  • 映画では、草原を疾駆する騎馬武者が映っていました<br />が、実際の設楽原は写真のように草原はありません。<br /><br />馬ももちろん映画にでてくるサラブレッドではなく、<br />体高130?の日本の在来馬、甲冑武者を背に乗せれば<br />時速10?から30?がやっとのことだと思います。<br />ノタノタ・ノッコノッコと走ってきます。<br /><br />迎え撃つ鉄砲ですが、有効射程100m、30秒で1発発射。<br />馬は時速15?あれば30秒で100mは走って来るので、<br />一発目を外すと、鉄砲隊の目の前に馬がきちゃいます。<br />ちょっとヤバイ状況ですね。<br /><br />そこで、写真の馬防柵の登場となるわけです。

    映画では、草原を疾駆する騎馬武者が映っていました
    が、実際の設楽原は写真のように草原はありません。

    馬ももちろん映画にでてくるサラブレッドではなく、
    体高130?の日本の在来馬、甲冑武者を背に乗せれば
    時速10?から30?がやっとのことだと思います。
    ノタノタ・ノッコノッコと走ってきます。

    迎え撃つ鉄砲ですが、有効射程100m、30秒で1発発射。
    馬は時速15?あれば30秒で100mは走って来るので、
    一発目を外すと、鉄砲隊の目の前に馬がきちゃいます。
    ちょっとヤバイ状況ですね。

    そこで、写真の馬防柵の登場となるわけです。

  • 俗に言われる織田方の鉄砲3000丁も多すぎる数字では<br />ありますが、仮に1/3だったとしても、一合戦に使<br />用する鉄砲としては圧倒的な物量。<br /><br />また「三段撃ち」ですが、実験された方がおられて<br />ものの10分も続けると、ヘトヘトになったそうです。<br />合戦は8時間余も続くので、実際はムリっぽい。<br /><br />現実的には1000丁の鉄砲で一度の一斉射撃でも、馬防<br />柵前の敵にはかなり有効であったでしょう。<br />ものすごい轟音が谷間にとどろき、武田方の馬がおび<br />えて大混乱・・・という感じだったと思います

    俗に言われる織田方の鉄砲3000丁も多すぎる数字では
    ありますが、仮に1/3だったとしても、一合戦に使
    用する鉄砲としては圧倒的な物量。

    また「三段撃ち」ですが、実験された方がおられて
    ものの10分も続けると、ヘトヘトになったそうです。
    合戦は8時間余も続くので、実際はムリっぽい。

    現実的には1000丁の鉄砲で一度の一斉射撃でも、馬防
    柵前の敵にはかなり有効であったでしょう。
    ものすごい轟音が谷間にとどろき、武田方の馬がおび
    えて大混乱・・・という感じだったと思います

  • また、武田方の馬の数についても、家臣の軍役負担か<br />ら、他の戦国武将とそう大差はありませんでした。<br /><br />「甲陽軍鑑」などでは9千騎と表現しているようです<br />が、総動員数3万のうち1/3が、騎馬武者というの<br />は編成上考えられませんから、勇猛果敢な武田騎馬隊<br />というのは、現実にはなかったと考えていいんじゃな<br />いでしょうか。ホントは居てほしいものですが・・・<br />もし存在したとしても、実数はもっと少なかったんで<br />しょうね〜。<br /><br /><br />などなど、実際の戦いの様相は、お話とはずいぶん<br />異なるものなんですねー。

    また、武田方の馬の数についても、家臣の軍役負担か
    ら、他の戦国武将とそう大差はありませんでした。

    「甲陽軍鑑」などでは9千騎と表現しているようです
    が、総動員数3万のうち1/3が、騎馬武者というの
    は編成上考えられませんから、勇猛果敢な武田騎馬隊
    というのは、現実にはなかったと考えていいんじゃな
    いでしょうか。ホントは居てほしいものですが・・・
    もし存在したとしても、実数はもっと少なかったんで
    しょうね〜。


    などなど、実際の戦いの様相は、お話とはずいぶん
    異なるものなんですねー。

  • 今回もまた、色々と考察もしてきましたが、そういう<br />ことに思いをはせられたという意味で、この合戦場を<br />眺められたことは大変興味深い経験となりました。<br /><br />あまりおられないとは思いますが・・・<br />最後までキッチリお読み下さった奇特な方が、<br />もしおられましたら、心より感謝申し上げます。<br /><br />拙文におつきあい下さり、ありがとうございました。<br /><br />写真は「長篠城址史跡保存館」<br />入館料は210円、設楽原歴史資料館との共通券もあり<br />ます。価格は400円。(平成24年4月現在)

    今回もまた、色々と考察もしてきましたが、そういう
    ことに思いをはせられたという意味で、この合戦場を
    眺められたことは大変興味深い経験となりました。

    あまりおられないとは思いますが・・・
    最後までキッチリお読み下さった奇特な方が、
    もしおられましたら、心より感謝申し上げます。

    拙文におつきあい下さり、ありがとうございました。

    写真は「長篠城址史跡保存館」
    入館料は210円、設楽原歴史資料館との共通券もあり
    ます。価格は400円。(平成24年4月現在)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • keiさん 2012/04/26 16:40:34
    あわび〜♪
     こんにちは。
     主に長篠の戦い旅行記なのに
    私ったら、最後まで、あわびが
    脳裏に焼きついて離れませんでした・・。
    だって、めっちゃおいしそうだったんだもーーん!

    それから温泉の喰っちゃ風呂喰っちゃ風呂は、
    名言だと思います。(どこかで使お・・)
    喰っちゃ風呂は人間の最大の贅沢だと思いますっ!
    プラス、酒までなんて・・・あーた、それ、
    罪ですわよ。仲間に入れんかいっ!!
    (失礼、つい、取り乱してしまった)

     合戦の場のいろはかるたの看板は風景を
    損ないますが、わかりやすく解説している
    ものなのかな?
    私はその合戦事態知らなかったのですが、
    1つまた賢くなりました。
    Thank youです♪

    で、あわびは生で食べたのですか、
    それともソテーして食べたのですか??

    kei

    ねいちゃ

    ねいちゃさん からの返信 2012/04/27 01:59:53
    RE: あわび〜♪
    keiさん、ご無沙汰しております。
    書き込みありがとうございました。

    今連載中?のkeiさんの南イタリア旅行記、ホント綺麗ですね〜。
    トシさんでなくても絵を描きたくなる風景ですっ。
    大変お上手で感動しました!!
    余り褒めると調子に乗られるとの事ですので、このへんで。(笑)

    さて、長篠の旅行記ですが・・・
    まさか、冒頭のあわびにここまで食い付かれている方が
    おられるとは、恐れ入りました。さすがです!!
    あわびもきっと本望でしょうねぇー。
    古い旅行記なので、確かに食べたのですが
    どうやって喰ったのかは覚えておりません。
    レモンがある所を見ると・・・ソテーだったような・・・。
    これではあわびは浮かばれませんねぇ、ごめんねー^^;
    でもでも、動いていたんですよー、それは覚えていますっ。

    > それから温泉の喰っちゃ風呂喰っちゃ風呂は、
    > 名言だと思います。(どこかで使お・・)

    一回につき1000円ね。(笑)
    海外旅行はとても良いんですが、あえて難点をあげれば
    大浴場がない。日本酒がない。わさび醤油がない。ですねー
    国内旅行はこの三種の神器で
    おっさんはほっとします。。。

    ではでは、南イタリア続きを楽しみにしてまーす。。。

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