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鉄道開通に依り東京対那須間移動が容易になった事は、他方、華族の存在、即ち、明治の元勲、政府高官、及び、旧藩主階層をして政府に依る国策殖産興業政策と共に那須野ヶ原に欧州王侯貴族生活の一端に垣間見られるが如き華族に拠る勧農牧畜植林興隆を招来させた。<br /><br />即ち、明治維新から間もない、明治4年(1871年)12月23日~明治6年(1873年)9月13日に実施された岩倉欧米訪問団(いわくら おうべいほうもんだん)に拠り特に欧州で目撃された王侯貴族に依る勧農自給体制に興味をそそられ那須野に対し反映された事は想像に難くない。<br /><br />那須野ヶ原が手付かずで未開の原野の時代に東北方面視察往還時に該地域の利用法と将来に着眼した人物が存在した。<br /><br />松方正義(まつかた まさよし)(天保6年(1835年)3月23日~大正13年(1924年)7月2日)は、大蔵大輔兼勧農局長在任中に那須野ヶ原の将来性に着眼した1人である。<br /><br />那須野は冬季こそ那須山脈から吹く強冷風に曝されるが春季から晩秋まで気候が安定してる為に水利さえ整えば土地として利用価値在りと見積もられた。<br /><br />明治10年代末期から明治30年代前半に懸けて、肇耕社(ちょうこうしゃ)や那須開墾社(なすかいこんしゃ)の如き、那須野ヶ原開拓最初期時代の結社型農場が当初目的を達成し次々と発展的解消を遂げ、此れら農地が買収対象となり結社型農地から華族農場への変革を見せる。<br /><br /><br />即ち、<br /><br />肇耕社(明治19年(1886年))解散1000ha<br />→三島通庸(三島農場)約1000ha<br />那須開墾社(明治21年(1888年))解散3400ha<br />→松方正義(千本松農場)約1630ha<br />→矢板 武(矢板農場)<br />→佐々木高行(佐々木農場)<br />加治屋開墾場(明治34年(1901年))解散500ha<br />→大山 巌(大山農場)<br />→西郷従道(西郷農場)<br />東肇耕社(明治14年(1881年))解散680ha<br />→青木周蔵(青木農場)約1530ha<br />深川農場(明治26年(1893年)解散250ha<br />→鍋島直大(鍋島農場)<br /><br />等々である。<br /><br /><br />乃木希典(のぎ まれすけ)(嘉永2年(1849年)12月25日~大正元年(1912年)9月13日)は、明治23年(1890年)に伯父の吉田清皎(よしだ きよかつ)所有の農園13町歩の譲渡を受け乃木農園を開設した。<br />乃木は長州萩藩出身でありながら立身出世や栄達に興味を示さぬ性格故に、特に同じ長州出身の 桂 太郎(かつら たろう)(弘化4年(1848年)~大正2年(1913年)10月10日)とは根本的にソリが合わず陸軍部内で衝突を起こす都度下野し、自身の農場に蟄居し勧農に勤しんだ。<br />1)明治25年(1892年)2月~12月<br />2)明治31年(1898年)2月~10月<br />台湾総督の責任をとって辞任。<br />3)明治34年(1901年)5月~明治37年(1904年)2月<br />北清事変で部下の不始末の責任をとった形である。<br /><br />大山 巌(おおやま いわお)(天保13年(1842年)~大正5年(1916年)12月10日)は、従兄弟で崇敬の対象たる西郷隆盛(さいごう たかもり)(文政10年(1828年)1月23日~明治10年(1877年)9月24日)が西南ノ役で反乱軍首謀者に担がれ、此れを討伐する政府軍側高級士官として参加した事が終生の苦痛の種になった事は想像に難くない。<br />事実、大山翁は終生隆盛との葛藤をして西南ノ役終息後、自身の郷里たる鹿児島を2度と訪問しなかった程である。<br />更に、妻捨松との間に生まれた最愛の長男 高 は親の七光りを嫌い、敢えて陸軍士官学校を受験せず、学習院中等部から海軍兵学校第35期を受験合格(明治37年11月18日附)し(合格順位183名中第14位)、卒業時(明治40年11月20日附)(卒業順位171名中第27位)に上位グループに入っていたが少尉候補生任官後の欧州方面遠洋練習航海で乗艦した巡洋艦 松島が台湾馬公(現 高雄)港内で原因不明の爆沈事故(明治41年(1908年)4月30日)で殉職した事も大山翁の老後に於ける悲しみを亦倍増させたものと推察される。<br />その様な大山翁にとって那須野ヶ原での開墾と生活はひと時の精神的安息の場になり、那須野をこよなく愛した大山翁は死際に自身の遺骸を那須野ヶ原に葬る事を遺言し、死去後、直ちに遺骸は列車で西那須野駅まで運ばれ現在の墓所に葬られた。<br /><br />全国的に小作争議が吹き荒れた昭和初期、那須野ヶ原も例外とは為り得なかったが、那須野ヶ原に於ける小作人は他所に比較して収益や待遇がずば抜けて良好だった為に特に混乱も無く自然収束した。<br /><br />昭和12年(1937年)7月7日に中国北京郊外盧溝橋で勃発した日華事変(にっか じへん)は陸軍をして軍用馬を大量に必要とした事から那須野ヶ原の各農場に於ける馬の飼育に追われ、西那須野駅、東那須野駅共に軍馬発送が関東地区で1、2を争う記録的数値となる。<br /><br />大東亜戦争終結後、昭和22年(1947年)に占領軍GHQが施行した農地改革に拠り大部分の地主階層は東京在住を理由に不在者地主と認定され土地は小作人に分配されたが、此れに依り那須野ヶ腹では大規模農場の存在が消滅し分散型小規模農家が林立し分業的な非能率、且つ、大規模生産が困難な農業政策を生み、現在に於ける我が国の自給自足体制を低下させる愚挙を招来させた。<br /><br />平成6年(1994年)に政府は国営那須野ヶ原総合農地事業が完了し茲に114年に亘る開拓史に幕を下ろす。<br /><br />現在、那須野ヶ原は嘗ての如き農業を営む者が減少し急速に宅地化が進行しているが、碁盤目状の道路と土地との存在が明治期の開拓時代の痕跡を今に残す。<br /><br /><br /><br />表紙の写真は大山公園の樹齢90年余の いろはもみじ<br /><br />http://suido-ishizue.jp/kindai/nasu/index.html<br />http://www.inakajin.or.jp/sosui_old/tochigi/a/612/index.html

潅木茂れし不毛で広漠たる原野が民に恵みをもたらす豊饒なる農耕地へと変貌を遂げせりし開拓地 ~発展と安定~ 下野國那須野

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2010/11/30 - 2010/12/03

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18

55

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

鉄道開通に依り東京対那須間移動が容易になった事は、他方、華族の存在、即ち、明治の元勲、政府高官、及び、旧藩主階層をして政府に依る国策殖産興業政策と共に那須野ヶ原に欧州王侯貴族生活の一端に垣間見られるが如き華族に拠る勧農牧畜植林興隆を招来させた。

即ち、明治維新から間もない、明治4年(1871年)12月23日~明治6年(1873年)9月13日に実施された岩倉欧米訪問団(いわくら おうべいほうもんだん)に拠り特に欧州で目撃された王侯貴族に依る勧農自給体制に興味をそそられ那須野に対し反映された事は想像に難くない。

那須野ヶ原が手付かずで未開の原野の時代に東北方面視察往還時に該地域の利用法と将来に着眼した人物が存在した。

松方正義(まつかた まさよし)(天保6年(1835年)3月23日~大正13年(1924年)7月2日)は、大蔵大輔兼勧農局長在任中に那須野ヶ原の将来性に着眼した1人である。

那須野は冬季こそ那須山脈から吹く強冷風に曝されるが春季から晩秋まで気候が安定してる為に水利さえ整えば土地として利用価値在りと見積もられた。

明治10年代末期から明治30年代前半に懸けて、肇耕社(ちょうこうしゃ)や那須開墾社(なすかいこんしゃ)の如き、那須野ヶ原開拓最初期時代の結社型農場が当初目的を達成し次々と発展的解消を遂げ、此れら農地が買収対象となり結社型農地から華族農場への変革を見せる。


即ち、

肇耕社(明治19年(1886年))解散1000ha
→三島通庸(三島農場)約1000ha
那須開墾社(明治21年(1888年))解散3400ha
→松方正義(千本松農場)約1630ha
→矢板 武(矢板農場)
→佐々木高行(佐々木農場)
加治屋開墾場(明治34年(1901年))解散500ha
→大山 巌(大山農場)
→西郷従道(西郷農場)
東肇耕社(明治14年(1881年))解散680ha
→青木周蔵(青木農場)約1530ha
深川農場(明治26年(1893年)解散250ha
→鍋島直大(鍋島農場)

等々である。


乃木希典(のぎ まれすけ)(嘉永2年(1849年)12月25日~大正元年(1912年)9月13日)は、明治23年(1890年)に伯父の吉田清皎(よしだ きよかつ)所有の農園13町歩の譲渡を受け乃木農園を開設した。
乃木は長州萩藩出身でありながら立身出世や栄達に興味を示さぬ性格故に、特に同じ長州出身の 桂 太郎(かつら たろう)(弘化4年(1848年)~大正2年(1913年)10月10日)とは根本的にソリが合わず陸軍部内で衝突を起こす都度下野し、自身の農場に蟄居し勧農に勤しんだ。
1)明治25年(1892年)2月~12月
2)明治31年(1898年)2月~10月
台湾総督の責任をとって辞任。
3)明治34年(1901年)5月~明治37年(1904年)2月
北清事変で部下の不始末の責任をとった形である。

大山 巌(おおやま いわお)(天保13年(1842年)~大正5年(1916年)12月10日)は、従兄弟で崇敬の対象たる西郷隆盛(さいごう たかもり)(文政10年(1828年)1月23日~明治10年(1877年)9月24日)が西南ノ役で反乱軍首謀者に担がれ、此れを討伐する政府軍側高級士官として参加した事が終生の苦痛の種になった事は想像に難くない。
事実、大山翁は終生隆盛との葛藤をして西南ノ役終息後、自身の郷里たる鹿児島を2度と訪問しなかった程である。
更に、妻捨松との間に生まれた最愛の長男 高 は親の七光りを嫌い、敢えて陸軍士官学校を受験せず、学習院中等部から海軍兵学校第35期を受験合格(明治37年11月18日附)し(合格順位183名中第14位)、卒業時(明治40年11月20日附)(卒業順位171名中第27位)に上位グループに入っていたが少尉候補生任官後の欧州方面遠洋練習航海で乗艦した巡洋艦 松島が台湾馬公(現 高雄)港内で原因不明の爆沈事故(明治41年(1908年)4月30日)で殉職した事も大山翁の老後に於ける悲しみを亦倍増させたものと推察される。
その様な大山翁にとって那須野ヶ原での開墾と生活はひと時の精神的安息の場になり、那須野をこよなく愛した大山翁は死際に自身の遺骸を那須野ヶ原に葬る事を遺言し、死去後、直ちに遺骸は列車で西那須野駅まで運ばれ現在の墓所に葬られた。

全国的に小作争議が吹き荒れた昭和初期、那須野ヶ原も例外とは為り得なかったが、那須野ヶ原に於ける小作人は他所に比較して収益や待遇がずば抜けて良好だった為に特に混乱も無く自然収束した。

昭和12年(1937年)7月7日に中国北京郊外盧溝橋で勃発した日華事変(にっか じへん)は陸軍をして軍用馬を大量に必要とした事から那須野ヶ原の各農場に於ける馬の飼育に追われ、西那須野駅、東那須野駅共に軍馬発送が関東地区で1、2を争う記録的数値となる。

大東亜戦争終結後、昭和22年(1947年)に占領軍GHQが施行した農地改革に拠り大部分の地主階層は東京在住を理由に不在者地主と認定され土地は小作人に分配されたが、此れに依り那須野ヶ腹では大規模農場の存在が消滅し分散型小規模農家が林立し分業的な非能率、且つ、大規模生産が困難な農業政策を生み、現在に於ける我が国の自給自足体制を低下させる愚挙を招来させた。

平成6年(1994年)に政府は国営那須野ヶ原総合農地事業が完了し茲に114年に亘る開拓史に幕を下ろす。

現在、那須野ヶ原は嘗ての如き農業を営む者が減少し急速に宅地化が進行しているが、碁盤目状の道路と土地との存在が明治期の開拓時代の痕跡を今に残す。



表紙の写真は大山公園の樹齢90年余の いろはもみじ

http://suido-ishizue.jp/kindai/nasu/index.html
http://www.inakajin.or.jp/sosui_old/tochigi/a/612/index.html

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
タクシー JRローカル 徒歩

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  • 那須野が原博物館(なすのがはら はくぶつかん)<br /><br /><br />該地には嘗て三島農場中心地として東京市麻布に存在した旧三島邸を関東大震災の翌年移築した木造2階建の別邸が存在したが、過激派の放火に拠り平成5年(1993年)10月29日焼失し、旧宅は復元されず、平成16年(2004年)4月23日に総合的博物館として開館。<br /><br />那須野が原博物館<br />?: 0287−36−0949<br />9:00〜17:00<br />月曜、及び、年末年始定休日<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線三島農場停留所降車 徒歩2分<br />http://www2.city.nasushiobara.lg.jp/hakubutsukan/

    那須野が原博物館(なすのがはら はくぶつかん)


    該地には嘗て三島農場中心地として東京市麻布に存在した旧三島邸を関東大震災の翌年移築した木造2階建の別邸が存在したが、過激派の放火に拠り平成5年(1993年)10月29日焼失し、旧宅は復元されず、平成16年(2004年)4月23日に総合的博物館として開館。

    那須野が原博物館
    ?: 0287−36−0949
    9:00〜17:00
    月曜、及び、年末年始定休日
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線三島農場停留所降車 徒歩2分
    http://www2.city.nasushiobara.lg.jp/hakubutsukan/

  • 松方別邸(萬歳閣)<br /><br /><br /><br />千本松牧場内に所在する松方別邸は 萬歳閣(ばんざいかく)と称され、松方正義が明治36年(1903年)に牧羊の為に建築した西欧風木造別荘。<br />私有地で現在も居住する為に一般人見学は一切不可。<br />牧場道路柵外から遠望のみ可。<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    松方別邸(萬歳閣)



    千本松牧場内に所在する松方別邸は 萬歳閣(ばんざいかく)と称され、松方正義が明治36年(1903年)に牧羊の為に建築した西欧風木造別荘。
    私有地で現在も居住する為に一般人見学は一切不可。
    牧場道路柵外から遠望のみ可。

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 萬歳閣<br /><br /><br /><br />建物近景<br />松方翁に依る牧羊の為の基地として建築。<br />建設当初は 松茂山荘 と称したが、日露戦争中の明治38年(1905年)3月10日帝國陸軍に依る奉天陥落の報を耳にした塩原御用邸(しおばら ごようてい)で静養中で松方別邸を訪問中の嘉仁皇太子(後の 大正天皇)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)が萬歳と叫んだ事から萬歳閣と称するようになる。<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    萬歳閣



    建物近景
    松方翁に依る牧羊の為の基地として建築。
    建設当初は 松茂山荘 と称したが、日露戦争中の明治38年(1905年)3月10日帝國陸軍に依る奉天陥落の報を耳にした塩原御用邸(しおばら ごようてい)で静養中で松方別邸を訪問中の嘉仁皇太子(後の 大正天皇)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)が萬歳と叫んだ事から萬歳閣と称するようになる。

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 萬歳閣<br /><br /><br /><br />正面玄関<br />1階部分は石積構造<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    萬歳閣



    正面玄関
    1階部分は石積構造

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 萬歳閣<br /><br /><br /><br />正面全景<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    萬歳閣



    正面全景

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 萬歳閣<br /><br /><br /><br />建物横全景<br />ベランダ部分に増築された事が判る。<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    萬歳閣



    建物横全景
    ベランダ部分に増築された事が判る。

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 松方邸私有地内<br /><br /><br /><br />石積蔵と赤松群<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    松方邸私有地内



    石積蔵と赤松群

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 松方邸私有地内<br /><br /><br /><br />石積蔵と赤松群<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    松方邸私有地内



    石積蔵と赤松群

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 松方邸私有地内<br /><br /><br />木造藁葺家屋<br />旧使用人小屋<br /><br />昭和20年代前半に使用人が辞めて以来無人の館になり現在は雨月物語状態<br />損壊破損状態とは申せ数少ない当時の遺構故に何等かの保存対策が望まれる。<br />夏季は毒蛇の巣窟<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所 徒歩15分

    松方邸私有地内


    木造藁葺家屋
    旧使用人小屋

    昭和20年代前半に使用人が辞めて以来無人の館になり現在は雨月物語状態
    損壊破損状態とは申せ数少ない当時の遺構故に何等かの保存対策が望まれる。
    夏季は毒蛇の巣窟

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所 徒歩15分

  • 松方邸私有地内<br /><br /><br /><br />原生林<br />私邸内は手付かずの原生林が続く<br /><br />私有地に附一般人立入見学不可<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    松方邸私有地内



    原生林
    私邸内は手付かずの原生林が続く

    私有地に附一般人立入見学不可

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 昭和天皇御手植えの松(しょうわてんのう おてうえのまつ)<br /><br /><br />昭和天皇が皇太子時代、秩父宮殿下と共に萬歳閣に滞在された折に植樹されたもの。<br />大正12年(1923年)8月植樹<br /><br />那須塩原市千本松799<br />東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

    昭和天皇御手植えの松(しょうわてんのう おてうえのまつ)


    昭和天皇が皇太子時代、秩父宮殿下と共に萬歳閣に滞在された折に植樹されたもの。
    大正12年(1923年)8月植樹

    那須塩原市千本松799
    東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩15分

  • 東北本線野崎-西那須野間<br /><br /><br /><br />大山街道踏切(おおやま かいどう ふみきり)<br /><br />那須塩原市南町8<br />東北本線西那須野駅西口 徒歩3分

    東北本線野崎-西那須野間



    大山街道踏切(おおやま かいどう ふみきり)

    那須塩原市南町8
    東北本線西那須野駅西口 徒歩3分

  • 東北本線野崎-西那須野間<br /><br /><br /><br />大山街道踏切<br />東側部<br /><br />那須塩原市南町8<br />東北本線西那須野駅西口 徒歩3分

    東北本線野崎-西那須野間



    大山街道踏切
    東側部

    那須塩原市南町8
    東北本線西那須野駅西口 徒歩3分

  • 東北本線野崎-西那須野間<br /><br /><br /><br />大山街道踏切<br />大山巌陸軍元帥の名を現在に留める街道と踏切<br /><br />那須塩原市南町8<br />東北本線西那須野駅西口 徒歩3分

    東北本線野崎-西那須野間



    大山街道踏切
    大山巌陸軍元帥の名を現在に留める街道と踏切

    那須塩原市南町8
    東北本線西那須野駅西口 徒歩3分

  • 大山別邸(おおやま べってい)<br /><br /><br /><br />大山 巌(おおやま いわお)元帥(天保13年(1842年)11月12日〜大正5年(1916年)12月10日)に拠り建築された那須別邸。<br />洋館本館、及び、和館別館2棟から構成。<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸(おおやま べってい)



    大山 巌(おおやま いわお)元帥(天保13年(1842年)11月12日〜大正5年(1916年)12月10日)に拠り建築された那須別邸。
    洋館本館、及び、和館別館2棟から構成。

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />遠景<br />手前の防塁は那須連峰から吹付ける強冷風除け。<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    遠景
    手前の防塁は那須連峰から吹付ける強冷風除け。

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br />大東亜戦争後、大山家は東京在住から農地改革に拠り不在者地主と認定され、該敷地は強制放出させられた。<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館
    大東亜戦争後、大山家は東京在住から農地改革に拠り不在者地主と認定され、該敷地は強制放出させられた。

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br />那須野に於いて唯一現存する煉瓦建築。<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館
    那須野に於いて唯一現存する煉瓦建築。

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br />正面玄関付近<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館
    正面玄関付近

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br />正面玄関<br />拡大<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館
    正面玄関
    拡大

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br />裏手は防風土塁。<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館
    裏手は防風土塁。

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br />建築に使用された煉瓦は全て大山農場敷地内で焼製された。<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館
    建築に使用された煉瓦は全て大山農場敷地内で焼製された。

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />洋館本館、和館別館渡廊下<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    洋館本館、和館別館渡廊下

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山別邸<br /><br /><br /><br />和館別館<br /><br />那須塩原市下永田<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山別邸



    和館別館

    那須塩原市下永田
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山公園(おおやま こうえん)<br /><br /><br /><br />那須塩原市下永田2−1017<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

    大山公園(おおやま こうえん)



    那須塩原市下永田2−1017
    東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

  • 大山公園<br /><br /><br /><br />那須塩原市下永田2−1017<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

    大山公園



    那須塩原市下永田2−1017
    東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

  • 大山公園<br /><br /><br /><br />大山元帥がこよなく愛した樹齢90年弱のいろはもみじ林<br /><br />那須塩原市下永田2−1017<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

    大山公園



    大山元帥がこよなく愛した樹齢90年弱のいろはもみじ林

    那須塩原市下永田2−1017
    東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

  • 大山公園<br /><br /><br /><br />大正6年(1917年)植樹整備<br /><br />那須塩原市下永田2−1017<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

    大山公園



    大正6年(1917年)植樹整備

    那須塩原市下永田2−1017
    東北本線西那須野駅東口 徒歩7分

  • 大山元帥墓所(おおやま げんすい ぼしょ)<br /><br /><br /><br />参道<br />木立が見事。<br /><br />那須塩原市下永田1−928<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山元帥墓所(おおやま げんすい ぼしょ)



    参道
    木立が見事。

    那須塩原市下永田1−928
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山元帥墓所<br /><br /><br /><br />参道<br /><br />那須塩原市下永田1−928<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山元帥墓所



    参道

    那須塩原市下永田1−928
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山元帥墓所<br /><br /><br /><br />墓所正面全景<br />大山元帥没の毎年12月10日に慰霊祭が開催される<br />現在も大山家個人所有に附、一般人参拝立入不可<br /><br />那須塩原市下永田1−928<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山元帥墓所



    墓所正面全景
    大山元帥没の毎年12月10日に慰霊祭が開催される
    現在も大山家個人所有に附、一般人参拝立入不可

    那須塩原市下永田1−928
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 大山元帥墓所<br /><br /><br /><br />墓所正門<br /><br />那須塩原市下永田1−928<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

    大山元帥墓所



    墓所正門

    那須塩原市下永田1−928
    東北本線西那須野駅東口 徒歩6分

  • 慰霊塔(いれいとう)<br /><br /><br />那須野ヶ原開拓民出身で戦死された御霊を奉り為に昭和39年(1964年)8月15日創建<br /><br />那須塩原市下永田

    慰霊塔(いれいとう)


    那須野ヶ原開拓民出身で戦死された御霊を奉り為に昭和39年(1964年)8月15日創建

    那須塩原市下永田

  • 慰霊塔<br /><br /><br /><br />那須塩原市下永田

    慰霊塔



    那須塩原市下永田

  • 慰霊塔<br /><br /><br /><br />筑波藤麿 書<br />筑波藤麿(つくば ふじまろ)(明治38年(1905年)2月25日〜昭和53年(1978年)3月20日)は、旧皇族山階宮家から皇籍離脱し戦前は侯爵、戦後直後から死去するまで約32年間に亙り第5代靖國神社宮司を務めた。<br /><br />那須塩原市下永田

    慰霊塔



    筑波藤麿 書
    筑波藤麿(つくば ふじまろ)(明治38年(1905年)2月25日〜昭和53年(1978年)3月20日)は、旧皇族山階宮家から皇籍離脱し戦前は侯爵、戦後直後から死去するまで約32年間に亙り第5代靖國神社宮司を務めた。

    那須塩原市下永田

  • 西郷神社(さいごう じんじゃ)<br /><br /><br /><br />明治36年(1903年)西郷神霊社として創建<br />旧無社格<br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社(さいごう じんじゃ)



    明治36年(1903年)西郷神霊社として創建
    旧無社格

    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 西郷神社<br /><br /><br /><br />元加治屋農場跡地<br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社



    元加治屋農場跡地

    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 西郷神社<br /><br /><br /><br />神体全部が石造りと云ふ全国的に観ても稀有の例<br />旧無社格<br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社



    神体全部が石造りと云ふ全国的に観ても稀有の例
    旧無社格

    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 西郷神社<br /><br /><br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社



    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 西郷神社<br /><br /><br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社



    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 西郷神社<br /><br /><br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社



    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 西郷神社<br /><br /><br /><br />大田原市加治屋町<br />東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

    西郷神社



    大田原市加治屋町
    東北本線西那須野駅東口 大田原市営交通バス西郷神社前停留所降車 徒歩1分

  • 乃木神社(のぎ じんじゃ)<br /><br /><br /><br />参道<br />ソメイヨシノの老桜並木群。<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社(のぎ じんじゃ)



    参道
    ソメイヨシノの老桜並木群。

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />壱之鳥居<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    壱之鳥居

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />弐之鳥居<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    弐之鳥居

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />社号標<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    社号標

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />狛犬(左)<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    狛犬(左)

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />狛犬(右)<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    狛犬(右)

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />御手洗川(みたらいがわ)<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    御手洗川(みたらいがわ)

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />手水舎と全体像<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    手水舎と全体像

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />乃木大将全体像<br />石像<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    乃木大将全体像
    石像

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />拝殿<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    拝殿

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />扁額<br />揮毫は鮫島重雄(さめじま しげお)(嘉永2年(1849年)10月21日〜昭和3年(1928年)4月17日)は鹿児島県出身の陸軍大将。<br />日露戦争中に師団長として乃木将軍の部下。<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    扁額
    揮毫は鮫島重雄(さめじま しげお)(嘉永2年(1849年)10月21日〜昭和3年(1928年)4月17日)は鹿児島県出身の陸軍大将。
    日露戦争中に師団長として乃木将軍の部下。

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

  • 乃木神社<br /><br /><br /><br />本殿<br /><br />那須塩原市石林795<br />?: 0287−36−1194<br />東北本線西那須野駅東口 徒歩12分<br />http://www.nasu-nogijinja.jp/

    乃木神社



    本殿

    那須塩原市石林795
    ?: 0287−36−1194
    東北本線西那須野駅東口 徒歩12分
    http://www.nasu-nogijinja.jp/

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この旅行記へのコメント (18)

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  • frau.himmelさん 2011/12/27 21:17:53
    「坂の上の雲」の重鎮たちの農場
    横浜臨海公園さま こんばんは。

    またまた読み応えのある旅行記を拝見させていただきました。
    先週でNHK連続ドラマの「坂の上の雲」は終わりましたが、
    あそこで活躍したあの人もこの人も、揃って那須に農場をもっていたのですね。
    そう考えながら拝見させていただくと、私にとっては横浜臨海公園さまの「高嶺の旅行記」も、とても親近感を覚えました。

    それに日本史オンチの私だって知っている明治の偉人がゾクゾク。
    大山巌元帥は西郷隆盛のいとこだったのですか?
    渋谷の代官山に西郷従道のお屋敷があった場所に「西郷公園」があって、
    あそこから眺める都会の夕陽がとてもキレイだったのを思い出します。

    その後、お体の方は?
    あまり無理をなさいませんように。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/30 05:04:07
    拝復
    frau.himmelさま、おはようございます。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    仰せの通り、西郷隆盛、従道、兄弟と、大山巌は従兄弟同士で、鹿児島加治屋町の出身で幼いころから往き来があったとされており、西南の役の際に政府側、賊軍側に分かれて相戦う心境は、いかほどのものだったか誰とて複雑なものだったと推察されます。
    それだけに、大山巌の如く、郷里鹿児島に帰らず中央で悶々たる日々を送らねばならなかった苦痛は身に余るものだったでしょう。
    その様な時に那須が原での勧農は好都合だったと思われます。
    因みに、鹿児島加治屋町出身者で日露戦争で活躍した人物として、東郷平八郎や山本権平衛がおります。
    2名は西南の役勃発時は海外留学中だった為に、事変に巻き込まれませんでしたが、国内在留中であれば、賊軍側についた可能性もあり、そうなれば、日露戦争の結果も亦違った物になったかも知れません。




    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2011/12/30 16:24:44
    RE: 拝復
    横浜臨海公園さま

    今日は教えていただきたいことがあります。

    > 因みに、鹿児島加治屋町出身者で日露戦争で活躍した人物として、東郷平八郎や山本権兵衛がおります。

    と教えてくださいました。
    そこで、先日人吉の永国寺を訪れたさい、西南戦争で西郷隆盛がここに本陣を構えたという「西郷本営跡碑」のことを思い出しました。
    それを揮毫したのがたしか『海軍大将の山本某』だったんじゃなかったかしら?、
    もしかして『山本権兵衛』?と思い、もう一度私の旅行記「人吉編?」を読み返しました。
    ところが碑には、権兵衛ではなく、海軍大将『山本善輔』と彫ってあったようです。これは私の旅行記の記述間違いではなく、永国寺関係にはみなそうあります。
    すわ、『権兵衛』と『善輔』は同一人物? 
    調べてみたら、権兵衛の甥に海軍大将『山本英輔』という名前が見つかりました。

    では、『善輔』と『英輔』は同一人物なのか?
    しかし、『山本善輔』で調べても人吉「永国寺」関係しかヒットしないのです。

    もしかして碑に彫られるべきは『山本善輔』ではなく『山本英輔』の間違いではないのか?
    永国寺の碑が誤りなのでしょうか?
    今まで誰もそれに気がつかなかったと言うのもおかしな話ですね。
    でも、もし碑に誤った文字があれば、人吉の恥ですよね。

    横浜臨海公園様はどう思われますか?
    要領をえない文章で申し訳ありません。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/30 21:39:58
    再拝復
    frau.himmelさま、こんばんは。


    早速メッセージを賜りまして誠に有難うございます。


    さて、ご質問の山本英輔ですが、山本権平衛の甥です。
    海軍兵学校卒業後、艦隊勤務が長く連合艦隊司令長官も勤め、最終階級は海軍大将となった人物でしたが、伯父と違い、反英米志向が強く、艦隊派に属し伏見宮海軍元帥から可愛がられた経緯もあり、好戦的と見られておりました。
    但し、大東亜戦争中、東條内閣末期に当時の嶋田海軍大臣主催で大臣公邸で開催された海軍大将懇親会で嶋田大臣に東條総理に融和的だと噛み付くなど、一本気な一面も有していた事は確かで、該大将会に出席していた鈴木貫太郎をして「あれ(嶋田)はダメだな」と発言させたり、同じく、出席していた、米内光政は東條から嶋田退陣後の海軍大臣就任を峻拒させたきっかけを作ったりもしています。



    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2011/12/30 21:59:56
    RE: 再拝復
    横浜臨海公園さま

    先ほどは混乱していたため、要領を得ない質問だったにも関わらず
    早速のお返事ありがとうございました。

    > さて、ご質問の山本英輔ですが、山本権平衛の甥です。

    山本英輔は海軍大将ですね。
    歴代の海軍大将の中に、「山本善輔」という人物も存在するのでしょうか?
    というのが私の疑問だったのです。

    人吉の永国寺の「西郷本営跡碑」の説明文に、
    「海軍大将山本善輔が揮毫した」とあったものですから
    検索したらあんまりヒットしなくて、もしかして人吉の説明文が「英輔」の誤りではないかと思ったしだいです。

    横浜臨海公園さまなら明治期の海軍大将についてはお詳しいと思い
    質問させていただきました。

    すみません、お忙しいのに変なところに興味をもったばかりにお手数をおかけしまして…。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/30 22:16:03
    追伸
    frau.himmelさま、こんばんは。


    先ほどメッセージを差し上げた中に肝心な間違いをしてしまいました。

    山本権平衛→山本権兵衛でした。

    何せ小生の記憶だけで返信させて頂いた為に初歩的ミスを犯してしまいました。
    誠に申し訳ございませんでした。

    因みに、米内光政海軍大将から出席していた海軍大将会での嶋田大臣の失態ぶりを耳にした 教育局長 高木惣吉海軍少将は、当時高木少将が主導進行していた東条英機総理暗殺計画の実行日を決定させた一因となったとされております。



    横浜臨海公園
  • わんぱく大将さん 2011/12/17 23:36:35
    踏切の所在地
    横浜臨海公園さん

    博物館の展示物は、横浜臨海公園さんのほうがお詳しいかと思いますが。

    この旅行記の建築も気にいりました。そして又、驚いたのが、踏切に所在地が書かれてあること。そうですよね、事故の時に知らせるのに必要ですよね。 あれだけ毎日、開かずの踏切を待ってる時にどこかに所在地、書かれてあったと思うのですが。。。見逃しました。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/12/18 15:23:53
    拝復
    大将さま、こんにちは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    踏切や家屋などの所在地に就いては、東京国立図書館に立寄った際にゼンリンの地図から探し出しております。
    地方は読み方が独特のものが有り探しだすのも一苦労な事は度々です。




    横浜臨海公園
  • kuritchiさん 2010/12/28 07:59:28
    那須の地の開拓と華族農場… 
    横浜臨海公園さん、おはようございます^^
    下野國那須野の旅行記にお邪魔しております。
    いつもながらずっしりと重みが伝わってくる豊富な知識に、心打たれながら拝見いたしました^^

    那須を農地としての将来性着目した松方正義(当時)大蔵省局長は凄いですね。
    でも明治の世では、民に恵みをもたらすはずの豊饒なる農耕地を開墾され、更に開墾された農地が買収対象となり優雅な華族農場に欧米化、西洋化されて行くのですね…。
    その優美な元家族農場も今は、雨月物語状態…。
    時代の流れを感じます…。

    横浜臨海公園さんの解説を伺い、優美な洋館に、美しい紅葉の大山公園を拝見しながら、明治の時代よりの日本の歴史にも想いを馳せて拝見致しました…。

    kuritchi

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/29 14:11:26
    拝復
    kuritchiさま、こんにちは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ござませんでした。

    明治期初期の帝國陸軍測量部が作成した地図を見ても、当時の那須野ヶ原は、ただの原野ばかりで作付を行っている農家など全く存在しない状態でした。
    若し、戦後の占領軍G2が占領政策全般を行っていなければ農地改革など実行されず、現在の我が国の農業政策など、もっと独自に自給自足も亦可能だったのではと考えさせられる事がございます。
    食糧をこんなに輸入に頼っているようでは今後の我が国の将来が暗澹としてしまいます。



    横浜臨海公園
  • 鴨川の夕立!さん 2010/12/22 08:32:25
    いいローアングル!
    ちょうどいい高さのローアングルですね
    散歩道の枯れ葉が見事に表現されていて
    私の場合は少し低いよなあと自分で感じながら写していました
    もう少し考えて写そうっと!

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/24 00:28:10
    拝復
    鴨川の夕立(Shower of Kamogawa)さま、こんばんは。


    重ね重ねメッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    旅行日当日の午前中は横殴りの土砂降り状態で、件の かえで並木は葉が落葉してしまい、道路一面に葉が敷きつめられた状態でした。
    少し遊び心を起こし撮影した写真が此れでした。
    小生の写真でお褒めのお言葉を賜りましたのは初めての経験でしたので深謝と共に恐縮しております。



    横浜臨海公園
  • 鴨川の夕立!さん 2010/12/22 08:29:19
    サスペンスドラマ!
    サスペンスドラマに出てきそうな洋館ですね
    とてもいい風景です!

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/24 00:22:54
    拝復
    鴨川の夕立!(Shower of Kamogawa)さま、こんばんは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    松方邸は木立のなかにポツンと存在しておりまして、正しくサスペンスドラマの舞台にでもありそうな雰囲気を有した建物でした。
    松方家の御当主の案内で敷地内を廻りましたが、手が入っていない天然状態の木立など、今時珍しいものを感じさせられました。
    特に、石造り蔵や使用人小屋の存在は今回、初めて公になったものだと思われます。
    ただ、イノシシやマムシが頻々と出没するのが御当主は閉口されているそうです。



    横浜臨海公園
  • zzr-cさん 2010/12/13 12:20:54
    凄い
    横浜臨界公園さま こんにちは!

    もみじの落葉がこんなに沢山ある風景を見た事無いです。

    すごいですね!樹齢90年のもみじがあるのも凄いです。

    じぃ〜

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/13 12:37:40
    拝復
    zzr-cさま、こんにちは。


    旅行記にメッセージと投票を賜りまして誠に有難うございました。

    > もみじの落葉がこんなに沢山ある風景を見た事無いです。
    →実は、小生もこんな膨大に敷詰められたモミジは初見です。
    ただ、残念だったのは撮影直前まで現地は集中豪雨状態で、敷き詰められたもみじの参道が雨で水溜りだった事で、晴れていれば、乾燥状態で亦違った見応えが期待できたかと思うと残念でした。

    > すごいですね!樹齢90年のもみじがあるのも凄いです。
    →町の方々からも愛され続けている様子が見て取れ、充分管理が行き届いた状態だったと感じられました。



    横浜臨海公園
  • たけしさん 2010/12/12 16:56:09
    圧巻ですー!
    大山公園の落葉は圧巻ですね。

    道いっぱいに広がる重なった落ち葉が紅い絨毯を作って… 圧巻としかいいようがないです。本当に素晴らしいです!




    たけし

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/13 10:59:30
    拝復
    たけしさま、こんにちは。


    何時も拙稿にお立寄りを賜りまして誠に有難うございます。
    また、今回は拙い旅行記に投票とコメントを賜りまして厚謝でございます。

    > 大山公園の落葉は圧巻ですね。
    >
    > 道いっぱいに広がる重なった落ち葉が紅い絨毯を作って… 圧巻としかいいようがないです。本当に素晴らしいです!
    →此の旅行記の写真は例の関東地方が大雨の日で撮影に兎に角難渋しました。
    僭越ながら来週中には追加の写真と説明が添付を予定しておりますので、何卒ご期待の程をお願いします。



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