2004/04/29 - 2004/05/03
6位(同エリア22件中)
哈桑湖さん
1942年11月末、ソ連軍は、スターリングラードより西方の、カラチ付近において、パウルス将軍指揮の、ドイツ第6軍を包囲しました。
このスターリングラードのドイツ軍将兵20万を救出するために、マンシュタイン将軍が、登場します。マンシュタインは、スターリングラード救出のために、南方から攻撃を決めます。
このスターリングラード救出のために、第6戦車師団の第11戦車連隊を核とした、ヴァルター・フォン・ヒューナースドルフ戦闘団が、12月3日に、北進します。激戦の末アクサイ川を、渡ります。そして、ムイシコワ河畔のワシリエフカ村を、占領します。
ついに、スターリングラードまで、48キロに迫ります。このときにマンシュタイン元帥は、パウルス将軍に、第6軍の脱出の、最期の打診をします。しかし、パウルス将軍は、ヒトラーのスターリングラードの死守命令と、装備の不備を理由に、スターリングラードからの脱出は不可能と、返答します。
こうしているうちにソ連軍は、さらに西方のドン河大屈曲部へ、大軍を向けてきます。もうスターリングラード救出どころでは、ありません。第6戦車師団に、この危機を乗り越えるために、12月23日に、転出命令が下ります。こうして、第6軍の脱出最期のチャンスは失います。
包囲環内で、第6軍の兵士たちは、飢えや病気で、バタバタと、倒れていきます。1月30日にヒトラーは、パウルスを元帥に昇進させます。ヒトラーはパウルスに、第6軍の降伏ではなく、死を望んだからです。しかしパウルスは、翌日にはソ連軍に降伏し、2月2日にはスターリングラードでの、戦闘は終了しました。
このときにヴァルター・モーデル将軍(後に元帥)は、「ドイツの元帥は、捕虜になるべきではない」という言葉を残しました。実際モーデル元帥は、1945年4月に、アメリカ軍の捕虜になるよりは、自決をえらびました。
パウルス元帥は、1944年7月20日の、フォン・シュタウフェンンベルク伯爵大佐による、ヒトラー暗殺未遂事件の後、ソ連領内で、反ヒトラーの声明を出します。ニュルンベルク裁判では、ソ連侵攻を、企図した人物として、カイテル、ヨードル、ゲーリングを名指ししため、ゲーリングからは、「裏切り者の豚」呼ばわりされました。パウルス元帥に対する戦後の批評は、聞くに耐えないものでした。パウルス元帥は、戦後、西ドイツではなく、東ドイツに居住をきめました。
この第6軍の救出は、可能だったのか。パウルス元帥は、ルーマニア貴族の夫人を持ち、貴族的なドイツ陸軍上層部の、仲間入りをしていました。参謀学校の優等生であり、几帳面だったパウルス元帥にとって、ヒトラーの命令に背くなど出来ませんでした。
モーデル元帥だったら、どう出たかと思うときもあります。モーデル元帥は、ヒトラーと同じく、上流階級出身ではなく、振る舞いが粗野でした。しかしそのことが、かえってヒトラーには、好感を持たれました。モーデル元帥は、ヒトラーに対しても、ズケズケとものを言う、数少ない将軍でした。そして常にドイツ軍の危機を救い、「ヒトラー総統の火消し役」とも言われ、あの辛口批評のグデーリアン将軍さえ、絶賛しています。
私は、このスターリングラード救出に向かった、フォン・ヒューナースドルフ戦闘団の、足跡を追うために、ヴォルゴグラードにやって来たのです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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降伏するパウルス元帥です。
ヒトラー総統は、スターリングラード占領の暁には、腹心のアルフレート・ヨードル将軍を退け、パウルスに、その地位を、与えるつもりでした。
戦後、ニュルンベルク裁判で、ヨードル将軍に対して、不利な証言をします。ヨードル将軍は、ナチスの犯罪には、あまり関わっていなかっただけに、パウルス元帥の証言がなければ、絞首刑は、免れたかもしれません。 -
降伏するドイツ軍兵士です。飢えや寒さで倒れ、さらに、シベリアやウラルの収容所で、大半は、死亡しました。
生きて祖国の地を、踏めたのは、20万人のうち、わずか5000人でした。 -
連合軍に無条件降伏する、ヴィルヘルム・カイテル元帥です。
ソ連側の要望にこたえ、片眼鏡を、かけています。
ヒトラーのおべっか使いと、言われていました。
絞首刑直前に、軍人として、名誉ある銃殺刑を、望みましたが、却下されます。
最期は、立派でした。
「300万以上の兵士が、祖国のために、死に赴いた。私は、息子たちの後を、追おおう。」 -
スペインのゲルニカを、火の海にしたヴォフラム・フォン・リヒトホーフェン将軍(レッド・バロンと謳われたマンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵の従兄弟)が、この地も、無差別爆撃をします。
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ヴォルゴグラード駅です
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駅の入口です。
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チェチェンに向かう、ロシア連邦軍兵士です。
まだ生きているでしょうか。 -
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ヴォルゴグラード・ホテルです。
従業員の笑顔がいいです。 -
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母なるヴォルガです。
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レストラン・マヤーク(灯台)です。
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綺麗な色のバスです。私が写真を撮ろうとしたら、スピードを緩めてくれて、写真撮影したら、グーの合図を。
モスクワのロシア人より、人懐っこいです。
日本人は、ロシアに、あまりいいイメージがないですが、ロシア人は、とても人懐っこいです。
戦後、シベリアの収容所の周りで、ソ連の農民の女性たちが、ソ連の看守に対して、ドイツ人の捕虜を、祖国ドイツに戻せと、言っていたようです。 -
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アクサイ村まで、1キロの標識。
1 -
アクサイ村です。
アクとは、カザフ語で、白いという意味です。
1942年12月19日、フォン・ヒューナースドルフ戦闘団は、ここから北上して、ヴァシリエフカ村に、向かいます。 -
紫色の美しい花が、咲いています。
ここが、ドイツ、ソ連の激戦地だとは、信じられないです。 -
ドイツ軍が、渡河して北上した、アクサイ川です。
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アクサイ川です。
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このような地形が、ドイツ軍戦車の進撃を、妨げます。
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湖も沢山あります。
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ドライバーのお父様は、この地で倒れ、埋葬しています。
ドライバーの方は、ニメーツキー(ドイツ人)と言わずに、ファシストと、戦ったと言います。
ソ連の教育が、友好国の東ドイツを意識して、ファシストが攻めてきたと、教育してきました。 -
ついにドイツ軍が、渡河できなかったムイシコワ川です。
ムイシコワ川は、北岸の方が、高いのです。
歩いても、渡れそうですが。 -
ムイシコワ川です。
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右折して、ヴァシリエフカに、向かいます。
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ヴァシリエフカ村です。
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ヴァシリエフカ村に、入ります。
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ここまで、ファシストは、来たと。
ここから、スターリングラード包囲環の南端まで、48キロでした。これが、第6軍救出の最後のチャンスです。このときに、もしパウルス元帥が、ヒトラー総統の命令に反して、南方への脱出を、はかっていたらと言う人もいます。
パウルス元帥は、結局脱出をしませんでした。このときに、さらに西方で、ドイツ軍が、危機にさらされます。フォン・ヒューナースドルフ戦闘団は、引き上げます。
こうして、第6軍には、事実上、死刑判決が、下ってしまったのです。 -
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カラチ村です。
この近辺で、包囲環が、形成されました。 -
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カラチ村です
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北と南のソ連軍が、手を握り、スターリングラードのドイツ第6軍は、袋のネズミになります。
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イチオシ
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記念碑のそばに。
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1942年11月23日、カラチ近辺で、スターリングラードの第6軍の、包囲環が、形成されたとあります。(ドイツ側の記録では、1942年11月19日ですが)
ソ連軍は、スターリングラードの南と北から、戦意の低いルーマニア軍を、打ち砕いて、スターリングラードを囲む輪が、形成されたのです。
ドイツ軍人の鑑と謳われ、スターリンからは、ソ連人民最大の敵と言われた、ドイツ空軍急降下爆撃隊のエース・パイロットの、ハンス・ウルリヒ・ルーデル大佐は、この戦わずに逃げ出すルーマニア兵を見て、爆弾が残っていたら、この臆病者の背中に、爆弾をおとしてやろうと、思ったようです。 -
カラチの民家です。ここが、歴史的な舞台になったとは、信じられないくらい、のどかです。
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本当に、のどかです。
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ヴォルゴグラードの町は、対ドイツ戦勝記念の、お祭り一色です。
48キロというと、小田急線の新宿から、本厚木駅のとなりの、愛甲石田駅までの距離です。
私は、アクサイから、ヴァシリエフカまで北上。ここから、ヴォルゴグラードに戻りました。
この48キロというのは、包囲環の南端までの距離です。スターリングラードの中心までの距離では、ないのです。
飢え、疲れ切っていたドイツ兵が、ソ連軍を打ち破って、ヴァシリエフカの友軍まで、たどり着くのは、不可能だったのではないかと、思うのです。
あの辛口批評の、グデーリアン将軍ですら、パウルス元帥を、かばっています。包囲環が、形成される前に、つまり1942年の11月の最初に、スターリングラードからの撤退に対して、「ヴォルガ(川)から、絶対に離れない」と言った、ヒトラーに一番の責任が、あるのではと思います。
戦後エーリヒ・フォン・マンシュタイン将軍は、第6軍がスターリングラードで、ソ連軍を、釘付けにしたことで、カフカス方面の、ドイツ軍が、撤退できたと言っています。
このスターリングラードの悲劇の大きさに比べて、ドイツ軍そのものは、まだしっかりしていました。独ソ戦の一大転換点は、1943年夏のクルスクでの戦いに、持ち越されます。 -
飛行場です。
英雄都市ヴォルゴグラードと、書かれています。
この町は、ソビエト的な町です。
でも住民は、とても人懐っこいです。
私は、この町が、とても好きになりました。 -
モスクワへ。
しばらく後に、モスクワ発ヴォルゴグラード行きの、飛行機が、チェチェン人女性の自爆テロで、墜落しました。この女性たちは、パレスチナとは違い、麻薬に犯された、ワッハーブ派の悪い男に騙されたり、親がワッハーブ派のテロリストに弱みを握られて、売り渡されたりしたようです。「貧困は、絶望を生む。」本当に、悲しいです。
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この旅行記へのコメント (3)
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- ダメシュタインさん 2016/03/02 04:24:35
- カラチ村の小ささに驚きました。当地の写真に感動しました。
- こんにちは。ダメシュタインと申します。
コンザリクの「スターリングラードの心臓」を読み、当時に興味を持ち写真を調べたところこちらのブログを拝見しました。
カラチがこんなに小さな村だっとは・・・。本当に驚きです。ムイシコワ河も思ったより小さく驚きました。ちなみにドン河分流のチル河も御覧になられましたでしょうか。
広い平原と、記念碑の前の子供たちの笑顔を見ると当地ののどかさが伝わってきます。とてもすばらしい旅ですね。
「スターリングラード」は有名でも現地の写真が見つかりません。こちらのお写真はとても貴重だと思います。ぜひともコメント致したくサイトに登録しました。これからも拝見致します。
- 哈桑湖さん からの返信 2016/05/22 07:22:40
- RE: カラチ村の小ささに驚きました。当地の写真に感動しました。
- お便りありがとうございます。
カラチ村は小さいというより何もない大草原です。
アクサイ(カザフ語で白い谷という意味)、ムイシコワ川ともとても小さい川です。
しかし川岸に出るには、凍結した急な斜面を降りなければならず、工兵による架橋が必要でした。
戦場となったカルムイクの大草原ですが、地形は平ではなく波打つ形状で、斜面は凍っているので、車輛の移動が難渋したようです。
包囲環まで48キロと迫りましたが、この地形では飢え疲れ果てたスターリングラードにいたドイツ兵を自ら南下させなかったパウルス元帥の判断は間違いではなかったようにも感じました。
戦後のドイツではパウルス元帥は厳しく糾弾されましたが。
あとチル河には行きませんでした。
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- 吉備津彦さん 2010/12/04 21:37:51
- 拙者の高千穂旅行記御訪問ありがとう
- 高校生の時五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んで新潟からナホトカに行き、シベリア鉄道を使ってモスクワに行きたいと思って第二外国語、ロシア語を選択しましたがまだ訪ロしていません。
人生も後半戦に突入、最近は父の介護で海外まで手が回りませんが、天下統一後は是非ともロシアを訪れたいと思っています。
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