2015/09/19 - 2015/09/20
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TOMISLAVさん
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この都市は、かつては、
Сталинград(スターリングラード)
とよばれていたが、スターリン批判でこの名前は廃止となり、現在は、Волгоград(ヴォルゴグラード)と呼ばれている。
独ソ戦で最も激しい戦いが行われた場所で、独ソ側双方併せて200万人の死傷者を生み出したと言われている。
写真は、スターリングラード攻防戦の時からある、製粉所とのこと。激戦の「証人」である。
スターリングラード攻防戦は、ドイツ、ソ連以外にもルーマニアやハンガリーなどの様々な国を巻き込んだ大規模戦闘であったが、特に戦闘の中心になったのは、
ドイツ 第6軍(指揮官 パウルス将軍)とソ連62軍(司令官 チュイコフ将軍)であろう。
戦いの概要を書くと、、
スターリングラード攻略は、ドイツのブラウ(青の場合)作戦(カフカース地方の資源を確保するための作戦)を支えるため、北からのソ連の圧力を抑えてカフカースへの道を確保するために、1942年9月13日よりドイツ第6軍をスターリングラードに突入させる。市の大部分を掌握するもソ連第62軍などが市内に残り抵抗。そうこうしているうちに、ソ連軍の大包囲攻勢が行われ、第6軍は包囲されスターリングラードに孤立。当然包囲を破って脱出することも考えられたが、最高司令官ヒトラーが一度つかんだスターリングラードの死守を厳命。ソ連の攻勢と補給切れによる飢えに苦しんだ末、1943年1月31日 第6軍はソ連に降伏。独ソ連の潮目が変わることになった。
そんな、いまはなき
「Сталингад(スターリングラード)」
を戦闘を想像しながら歩いてみた。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
PR
-
アエロフロート航空で、モスクワ経由で、ボルゴグラードへ。
ボルゴグラード空港は、地名から
Гумрак(グムラク)空港
ともよばれる。
この空港には、もともと飛行場があった。
スターリングラード攻防戦の際に、ドイツ第6軍に占拠された。その後、第6軍が、ソ連軍に包囲されたあとに、ドイツ空軍によるわずかな空輸のための「生命線」となった。しかし、1943年1月21日にグムラク飛行場はソ連に取り戻され、第6軍の命運は完全に極まることになった。
現在は、店舗も少なく単なる地方空港である。 -
翌朝、ボルゴグラード観光を開始。スターリングラード攻防戦関連の場所を見て回る。
写真は、ボルゴグラードが拓かれてから「426年」という掲示らしい。
426って中途半端な気がするがなにか特別な意味があるのでしょうか? -
戦没兵士広場。
主にソ連第62軍の兵士たちを慰霊するものであろう。 -
ヴォルガ河沿いに
>наб.62-й Армий(第62軍記念通り)がある。
ヴォルガ河を観ながら歩く。
なお、某D社のガイドブックでは、この通りを「第62「連隊」記念通り」と記載しているが、ヴォルガ河西岸に留まり死守したのは「第62軍」であるし、「Армий」は「アルミー」と読むので素直に「軍」と訳すのが妥当であろう。 -
通りにあった、
ソ連第62軍司令官
Василий Чуйков(ヴァシリー・チュイコフ)将軍の像。
このタフな将軍の督戦がなければ、スターリングラードでドイツ第6軍を足止めして包囲殲滅することはできなかったかもしれない。 -
地下トラムに乗って
ママエフ・クルガンへ向かう。 -
Мамаев Курган(ママエフ・クルガン)は、元々タタールのハンの墳丘墓(クルガン)であった。
既述の通り、スターリングラードに突入したドイツ第6軍よってこの「102高地」は占拠されかけたが、ソ連第62軍がこの地を取り戻すべく、ロジェムツェフ将軍率いる第13親衛狙撃師団1万人が投入され、ドイツ軍とソ連軍が激烈な戦闘を行った場所だ。
ソ連版「102高地」である。
いくどもドイツ軍との間に激しい戦闘をしながら、1月31日のドイツ第6軍降伏までこの丘の一部を死守した。ここはソ連軍の粘り強さを証明した場所として重視されているのだ。 -
この丘の死守を顕彰して1959年からこの「母なる祖国像」と足元にある慰霊堂が建設され1967年に完成する。
この母なる祖国像はニケをモデルにしたのだろうか。 -
ニケの足元の慰霊堂を目指して丘を上っていく。
-
丘の中腹にある
ソ連第62軍司令官
Василий Чуйков(ヴァシリー・チュイコフ)元帥(最終階級)の墓。
通例、ソ連の元帥たちはモスクワの墓地に葬られるそうだが、この不屈の将軍は特別にこの地に葬られたのであろう。
なお、この丘には、約250名を狙撃し、ドイツ軍を恐怖に陥れたスナイパーヴァシリー・ザイチェフの墓もあるとのことで、散々探したが見つからず。残念。 -
戦没者慰霊堂に入る。
-
ちょうど、慰霊堂の衛兵の交代の時間帯であった。
見事なロシア式(?)ステップである。 -
慰霊堂にて、後ろのえんじ色の石板には、この丘で命を落とした兵士たちの名が刻まれているとのこと。
ロシア人には申し訳ないが、私も目をつむり
ソ連第62軍とドイツ第6軍の兵士たちが安らかに眠ることを祈る。 -
慰霊堂のそばにある「ピエタ(?)」の石像。
聖母マリアとロシアの母親たちを重ねているのだろう。
イエス(ロシアの息子たち?)の顔が覆われているのが気になった。 -
慰霊堂のあるあたりから、ヴォルガ河を望む。
-
上の写真左手の工場をアップする。
この古い工場群のあたりは、
Красная октябрь(クラースナヤ・アクチャーブリ)こと「赤い10月工場」があったあたりである。
ドイツ軍に市内で分断されつつも、ソ連第62軍の一部はこの赤い10月工場のあたりのに潜伏して抵抗を続けた。 -
ママエフクルガンを下ってゆく。
-
お昼過ぎになったので、価格のお手軽そうなレストランに入る。
店員の皆さんはあやしい東洋人である私をやや大げさにかつ温かく迎えてくれた。いかめしいイメージを抱いていたボルゴグラードの街は心温かいロシアの地方都市であった。
写真は、ハンバーガーとフレンチフライ(ナチョチーズで)。
ドリンクもつけて750円程度。やはりモスクワよりもお値打ちだ。 -
続いて
スターリングラード攻防戦パノラマ博物館へ行く。
写真は、博物館の野外に展示されていた
T-34戦車
スターリングラード攻防戦にも参加し大破したとのこと。 -
スターリングラード攻防戦パノラマ博物館に入る。
ここで、スターリングラード攻防戦をおさらいする。
この博物館 解説がロシア語のみでとっても不親切。
スターリングラード攻防戦の概要を知っているか、ロシア語が読めないと(私は当然読めません)この博物館はつらいだろう。 -
スターリングラード攻防戦の推移が鳥瞰図のようなもので示されていた。
攻防戦を簡単に振り返ってみる。
銀色の矢印がドイツ軍
金色の矢印がソ連軍を示している。
1942年9月中旬 ドイツ第6軍は黒字で示された「СТАЛИНГАД(スターリングラード)」へ殺到する。 -
ドイツ第6軍(銀色の矢印)は、ヴォルガ河まで迫り、スターリングラードにいる第62軍を分断するも、284狙撃師団(写真右あたり金字)などがヴォルゴ河西岸に踏みとどまる。
-
第62軍が抵抗し、ドイツ軍をひきつけて2か月。
1942年11月19日
ソ連は、ドイツ第6軍殲滅作戦
Операция 「Уран」(天王星作戦)
を発動する。
金の矢印のソ連軍が、スターリングラードの北西と南東から同時に第6軍封じ込めに動く。
ちょうど、金の矢印がある場所に、ドイツの友軍
「ルーマニア第3軍」などが、ドイツ第6軍の脇を固めているはずであったが、ソ連軍にあっという間に駆逐されてしまう。友軍ルーマニア軍やイタリア軍はドイツ軍のアキレス腱だったのだ。そこをソ連軍は突いてくる。 -
側面を固めていたはずのルーマニア軍などが駆逐され、
ソ連軍に囲まれるドイツ第6軍(写真では、くぼんだの部分)。
スターリングラードを一旦放棄して友軍と合流してから形成をたてなおしてスターリングラードを再度奪還したいところだが、スターリンの名を冠したこの地を一時的にとはいえ放棄することを最高司令官ヒトラー総統は許さない。空軍のトップ ゲーリング国家元帥が「空軍が必要物資を空輸できます」と豪語するも空輸も全く捗らず、第6軍はどんどん飢えてゆく。 -
ソ連軍は、ドイツ第6軍をじわじわと追いつめてゆく。今度は、ドイツ軍がスターリングラード市内で2つに分断されることになった。銀色の2つの円が追い込まれたドイツ第6軍。
-
そして、1943年1月31日 第6軍司令官 パウルス元帥がソ連軍に降伏。
写真は、降伏の席に向かうパウルス元帥。
パウルス将軍は、1月30日に元帥号授与される。なお、パウルス元帥より前にドイツの元帥で自殺はあっても降伏した元帥はいない。ヒトラーの降伏するなという「喝」である。パウルス元帥がドイツで降伏した元帥の一人目となった。
このシーンはいつ見ても物悲しくなる。 -
博物館には攻防戦に係わるものが展示されていた。
写真は、ドイツ兵の軍服。 -
これは、某3代目が愛用している
ワルサーP38
ドイツの将校から取り上げたものかと。 -
こちらは、ソ連軍兵士用のライフル。
ただし、「二人で一丁」の支給である。
2人1組でこの銃を持たせて、銃を持っている兵士が倒れたら、もう一人の兵士が倒れた兵士の銃を取り屍を越えて、ドイツ軍に向かっていかないといけない。
兵器の製造には時間がかかるが、徴兵はすぐにできるソ連ならでは。 -
そのため、スコップも重要な武器になる。
銃を持っていない兵士は、このスコップを持って
「Ураааааа!!(ウラーーー!!)」
と叫びながらドイツ兵に襲い掛かっていく。 -
物量でドイツ軍を圧倒するとともに、狙撃でもドイツ第6軍に恐怖を与える。
写真は、ソ連の名スナイパー
Василий Зайчев(ヴァシリー・ザイチェフ)
の狙撃銃とのこと。
ザイチェフは、250名程度の敵兵を狙撃したらしい。 -
写真真ん中が
ソ連第62軍司令官
Василий Чуйков(ヴァシリー・チュイコフ)将軍。
彼の粘り強い督戦がソ連に勝利に寄与したといえよう。 -
チュイコフさんがまとっていた軍用外套。
-
プラトーノフ将軍。
この髪型 どこかでみたような…。
お眼目がきれいな将軍さんですね。 -
これは、ロケット砲БМ-8。
「カチューシャ」と呼んだほうが通りがいいだろう。
名前はかわいらしいが、日々カチューシャからロケットが発射される音を聞いていた(スターリンオルガンとあだ名あり)ドイツ兵士は「毎日、毎日、カチューシャかよ」と嘆いていたに違いない。 -
博物館を出て、
スターリングラード攻防戦を生き抜いた
製粉所同志を見る。よくぞ生き残りました。
これにて「スターリングラード」を観光を終える。
スターリングラード攻防戦が悲劇につながった一因は、
二人の独裁者(ヒトラーとスターリン)の「意地の張り合い」にあったと思う。
スターリンの名を冠したこの都市を、ヒトラー総統が死守を命じたため、ドイツ軍は戦略上の選択肢を狭められ、みすみす第6軍を無駄死にさせる羽目に陥った。空輸がうまくいかなかった点も、ドイツ軍の弱点である補給の脆さが露呈され、この後ドイツ軍はほとんどの戦局で守勢に追い込まれる。
スターリンも自分の名を冠したこの都市の奪還を将軍たちに厳命し、軍の編成を乱発するなどの混迷を生じさせた。第62軍のチュイコフ将軍らの奮戦で救われた部分もあったが、ソ連側は120万人というドイツ軍(80万人)以上の人的被害を被った。ソ連側も完全な勝利とはいえないだろう。
今回 スターリングラード攻防戦を振り返って感じたことは、勝利は相対的なものだということ。ソ連が一応勝ったのは、敵であるドイツ軍が自分たち以上に誤った選択をしたからだと思う。これは、私たちの日々の業務でも言えることだと思う。
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