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今回のぐるっとパスのターゲットは、朝倉彫塑館と書道博物館。<br />どちらも台東区にありますが、間を歩くとちょっとかかると思われます。<br />朝倉彫塑館は谷中にあります。<br />谷中というと霊園が連想されますが、寺院が実に多い地域です。<br />台東区のサイトによると、台東区には340あまりの寺院が存在する、のだそうです。<br />そこで、今回は、鶯谷駅からスタートして、数々の寺院へ参拝しながら朝倉彫塑館まで歩き、書道博物館がある根岸まで戻ってくるというコースを採りたいと思います。<br />いつものごとく歩く量はかなり多めだと予想されます。

谷中寺院巡り

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2007/12/08 - 2007/12/08

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のだ

のださん

今回のぐるっとパスのターゲットは、朝倉彫塑館と書道博物館。
どちらも台東区にありますが、間を歩くとちょっとかかると思われます。
朝倉彫塑館は谷中にあります。
谷中というと霊園が連想されますが、寺院が実に多い地域です。
台東区のサイトによると、台東区には340あまりの寺院が存在する、のだそうです。
そこで、今回は、鶯谷駅からスタートして、数々の寺院へ参拝しながら朝倉彫塑館まで歩き、書道博物館がある根岸まで戻ってくるというコースを採りたいと思います。
いつものごとく歩く量はかなり多めだと予想されます。

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  • 寛永寺坂を根津方向に上っていくと、浄名院があります。<br />元は浄円院といって寛永寺36坊で、享保8年(1723年)に独立したとのことです。<br />今でも山号は「東叡山」です。<br />「八万四千」(はちまんしせん)は人間の煩悩や妄念の数です。<br /><br />現在8時をちょっと過ぎたところ。

    寛永寺坂を根津方向に上っていくと、浄名院があります。
    元は浄円院といって寛永寺36坊で、享保8年(1723年)に独立したとのことです。
    今でも山号は「東叡山」です。
    「八万四千」(はちまんしせん)は人間の煩悩や妄念の数です。

    現在8時をちょっと過ぎたところ。

  • 江戸六地蔵の6番目の地蔵が鎮座しています。<br />台座に「六番」と彫られています。<br />江戸六地蔵の6番目というのは元々深川の永代寺にあったが、永代寺が廃寺となったことにより、こちらに再造されました。<br />日清・日露戦争の戦没者慰霊も兼ね、明治39年(1906年)に建ったとのことです。<br />他の5地蔵より少し小さめに造られています。

    江戸六地蔵の6番目の地蔵が鎮座しています。
    台座に「六番」と彫られています。
    江戸六地蔵の6番目というのは元々深川の永代寺にあったが、永代寺が廃寺となったことにより、こちらに再造されました。
    日清・日露戦争の戦没者慰霊も兼ね、明治39年(1906年)に建ったとのことです。
    他の5地蔵より少し小さめに造られています。

  • 十五夜(旧暦の8月15日)には「へちま加持祈祷」(へちま供養) の法要が営まれ、せき・喘息に効験を願う人々で賑わうそうです。<br />ということでへちま地蔵尊。<br /><br />そして境内を埋め尽くす圧倒的な数の地蔵が。<br />地蔵信仰の寺となったのは、大坂に生まれた第38世地蔵比丘妙運和尚の代からで、妙運和尚は一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を立てました。<br />明治9年浄名院に入り、明治12年、一千体の願いが満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願を立てた、とのことです。<br />賛同した陸奥宗光など、各地から多数の信者が加わり、今も地蔵菩薩像の数は増え続けているそうです。<br />今の数はどれくらいでしょうか?

    十五夜(旧暦の8月15日)には「へちま加持祈祷」(へちま供養) の法要が営まれ、せき・喘息に効験を願う人々で賑わうそうです。
    ということでへちま地蔵尊。

    そして境内を埋め尽くす圧倒的な数の地蔵が。
    地蔵信仰の寺となったのは、大坂に生まれた第38世地蔵比丘妙運和尚の代からで、妙運和尚は一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を立てました。
    明治9年浄名院に入り、明治12年、一千体の願いが満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願を立てた、とのことです。
    賛同した陸奥宗光など、各地から多数の信者が加わり、今も地蔵菩薩像の数は増え続けているそうです。
    今の数はどれくらいでしょうか?

  • 浄名院からさらに西へ進み、旧吉田屋酒店。<br />こちらは下町風俗資料館付設展示場です。<br />明治43年に建てられ、昭和61年まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」をこちらに移築しているとのことです。<br />無料で公開されますが、今は時間帯も早いので当然閉まっています。<br />また別の機会に。

    浄名院からさらに西へ進み、旧吉田屋酒店。
    こちらは下町風俗資料館付設展示場です。
    明治43年に建てられ、昭和61年まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」をこちらに移築しているとのことです。
    無料で公開されますが、今は時間帯も早いので当然閉まっています。
    また別の機会に。

  • 谷中6丁目の大雄寺にやってきました。<br />名物なのでしょうか、大きな「くすのき」が、本堂前左側にそびえ立っています。

    谷中6丁目の大雄寺にやってきました。
    名物なのでしょうか、大きな「くすのき」が、本堂前左側にそびえ立っています。

  • くすのきの下に、勝海舟・山岡鉄舟と並び、「幕末の三舟」に挙げられる高橋泥舟の墓があります。<br />山岡鉄舟の義兄にあたり、槍の達人。<br />幕臣としての自分を貫き、徳川慶喜に恭順謹慎を説きます。<br />勝海舟に、西郷隆盛への使者として選ばれるも、義弟の山岡鉄舟を推薦し、自分は慶喜の側を離れません。<br />新政府成立後も表舞台に立つことはありませんでした。<br />この寺には、泥舟の書が多数納められているそうです。

    くすのきの下に、勝海舟・山岡鉄舟と並び、「幕末の三舟」に挙げられる高橋泥舟の墓があります。
    山岡鉄舟の義兄にあたり、槍の達人。
    幕臣としての自分を貫き、徳川慶喜に恭順謹慎を説きます。
    勝海舟に、西郷隆盛への使者として選ばれるも、義弟の山岡鉄舟を推薦し、自分は慶喜の側を離れません。
    新政府成立後も表舞台に立つことはありませんでした。
    この寺には、泥舟の書が多数納められているそうです。

  • 谷中1丁目の一乗寺。<br />昔は「谷中のお化け松」という名物松が生えていたそうです。<br />

    谷中1丁目の一乗寺。
    昔は「谷中のお化け松」という名物松が生えていたそうです。

  • 太田錦城の墓があります。<br />朱子学、陽明学ほか中国の古学にとらわれず、諸説を取捨選択して折衷学を大成した人物です。<br />

    太田錦城の墓があります。
    朱子学、陽明学ほか中国の古学にとらわれず、諸説を取捨選択して折衷学を大成した人物です。

  • 「愛染かつらゆかりの地」自性院。<br />元は神田にあったが、慶安元年(1648年)現在地に移ってきたそうです。<br />愛染堂に安置されている愛染明王像で有名で、江戸中期頃から俗に愛染寺と呼ばれていました。<br />川口松太郎の名作「愛染かつら」は、こちらの愛染明王像と本堂前の桂にヒントを得た作品だそうです。

    「愛染かつらゆかりの地」自性院。
    元は神田にあったが、慶安元年(1648年)現在地に移ってきたそうです。
    愛染堂に安置されている愛染明王像で有名で、江戸中期頃から俗に愛染寺と呼ばれていました。
    川口松太郎の名作「愛染かつら」は、こちらの愛染明王像と本堂前の桂にヒントを得た作品だそうです。

  • 感応寺にやってきました。<br />天王寺のことを元は感応寺と言いましたが、こちらは別物なのかな?<br />渋江抽斎の墓があります。<br />森鴎外の史伝で有名になった人で、江戸末期の医師・儒学者です。<br />著書である「経籍訪古志」は高い評価を得ています。<br />墓に関しては見つけることができませんでした。

    感応寺にやってきました。
    天王寺のことを元は感応寺と言いましたが、こちらは別物なのかな?
    渋江抽斎の墓があります。
    森鴎外の史伝で有名になった人で、江戸末期の医師・儒学者です。
    著書である「経籍訪古志」は高い評価を得ています。
    墓に関しては見つけることができませんでした。

  • 多宝院。<br />

    多宝院。

  • 立原道造の墓。<br />24歳という若さで早世した才能あふれる詩人。<br />東大卒の新進気鋭の建築家として注目されました。<br />立原道造記念館というのが東大の近くにあります。<br />特にその詩は、中原中也らとともに、多くの人々に愛されているということでしょうね。

    立原道造の墓。
    24歳という若さで早世した才能あふれる詩人。
    東大卒の新進気鋭の建築家として注目されました。
    立原道造記念館というのが東大の近くにあります。
    特にその詩は、中原中也らとともに、多くの人々に愛されているということでしょうね。

  • 「ぎゃらりい 茶屋町三番地」というのを見つけました。<br />説明板が立っています。<br />谷中茶屋町三番地で、旧吉田屋の跡地なのだそうです。<br />情緒ある町名がなくなることへの寂しさから、名残りを留め置きたいと思い「ぎゃらりい」をオープンした、とのことです。

    「ぎゃらりい 茶屋町三番地」というのを見つけました。
    説明板が立っています。
    谷中茶屋町三番地で、旧吉田屋の跡地なのだそうです。
    情緒ある町名がなくなることへの寂しさから、名残りを留め置きたいと思い「ぎゃらりい」をオープンした、とのことです。

  • 西光寺。<br />例の弘法大師像で真言宗だとわかります。<br />開基は藤堂高虎。<br />

    西光寺。
    例の弘法大師像で真言宗だとわかります。
    開基は藤堂高虎。

  • 俗に韋駄天寺と呼ばれています。<br />境内右側にドーンと韋駄天像が待ち構えています。<br />秀吉の朝鮮入国のとき、同行した藤堂高虎が持ち帰って安置したそうです。<br />足腰病平癒に効験あり、として信仰されているようです。<br />私も今年から週末は歩くことが多くなりましたし、今のパターンを続けられるよう祈願します。

    俗に韋駄天寺と呼ばれています。
    境内右側にドーンと韋駄天像が待ち構えています。
    秀吉の朝鮮入国のとき、同行した藤堂高虎が持ち帰って安置したそうです。
    足腰病平癒に効験あり、として信仰されているようです。
    私も今年から週末は歩くことが多くなりましたし、今のパターンを続けられるよう祈願します。

  • 日蓮宗の慈雲山・瑞輪寺。<br />大久保主水の墓があることで知られています。<br />聞くところによると大岡越前守忠相の墓もあるという話です。<br />最初日本橋に建ち、神田に移転し、その後現在地へ。<br />住宅が密集しているこの界隈では大きめの境内ですね。

    日蓮宗の慈雲山・瑞輪寺。
    大久保主水の墓があることで知られています。
    聞くところによると大岡越前守忠相の墓もあるという話です。
    最初日本橋に建ち、神田に移転し、その後現在地へ。
    住宅が密集しているこの界隈では大きめの境内ですね。

  • 慈雲山というのは、徳川家康の幼少時の学問師範であった日新上人の号です。<br />家康が日新上人に敬意を表し創建したということでしょう。<br />山門くぐって左側に、それを表したパネルが立っています。

    慈雲山というのは、徳川家康の幼少時の学問師範であった日新上人の号です。
    家康が日新上人に敬意を表し創建したということでしょう。
    山門くぐって左側に、それを表したパネルが立っています。

  • 先ほどの西光寺の真向かいに、「東京七面山」と書かれた祖師堂があります。<br />説明板によると、「安産飯匙(しゃもじ)の祖師」だそうですが、佐渡に流されていた日蓮聖人が赦免されて鎌倉へ向かう途中、妻が難産に苦しんでいる関善左衛門という人物に出会いました。<br />日蓮が飯匙にご本尊をしたためて産婦に抱かせると、たちどころに安産したので、一家は入信し、日蓮の御尊像を彫って現在の東日暮里に善性寺を建立し、その尊像を安置した。<br />後に谷中感応寺に移し、感応寺が改宗する際、尊像を瑞輪寺に勧請した、とのことです。

    先ほどの西光寺の真向かいに、「東京七面山」と書かれた祖師堂があります。
    説明板によると、「安産飯匙(しゃもじ)の祖師」だそうですが、佐渡に流されていた日蓮聖人が赦免されて鎌倉へ向かう途中、妻が難産に苦しんでいる関善左衛門という人物に出会いました。
    日蓮が飯匙にご本尊をしたためて産婦に抱かせると、たちどころに安産したので、一家は入信し、日蓮の御尊像を彫って現在の東日暮里に善性寺を建立し、その尊像を安置した。
    後に谷中感応寺に移し、感応寺が改宗する際、尊像を瑞輪寺に勧請した、とのことです。

  • 永久寺にやってきました。<br />

    永久寺にやってきました。

  • 仮名垣魯文墓。<br />仮名垣魯文は、幕末から明治にかけて活躍した戯作家、新聞記者。<br />朝倉文夫と同様、大変な猫好きで、猫々道人などという号も持っています。<br />有名なのは「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」、これらは当時の文明開化の世相を風刺したものです。<br />明治12年の「高橋阿伝夜叉譚」は高橋お伝のことを書いていますが、高橋お伝が毒婦だと称されるのはこの作品からでしょうかね?<br />

    仮名垣魯文墓。
    仮名垣魯文は、幕末から明治にかけて活躍した戯作家、新聞記者。
    朝倉文夫と同様、大変な猫好きで、猫々道人などという号も持っています。
    有名なのは「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」、これらは当時の文明開化の世相を風刺したものです。
    明治12年の「高橋阿伝夜叉譚」は高橋お伝のことを書いていますが、高橋お伝が毒婦だと称されるのはこの作品からでしょうかね?

  • 猫々道人紀念碑と山猫めをと塚。<br />魯文はよく猫のことを書きましたが、実は猫というのは芸姑の隠語。<br />魯文と親しかった榎本武揚がそれをからかって本物の猫を贈ってきました。<br />山猫めをと塚は、福地桜痴がその魯文の飼い猫の供養のために建てた碑だそうです。<br />碑文は福地桜痴によるもの。<br />ここで福地桜痴が出てくるのは、新聞記者つながりなのでしょうかね?

    猫々道人紀念碑と山猫めをと塚。
    魯文はよく猫のことを書きましたが、実は猫というのは芸姑の隠語。
    魯文と親しかった榎本武揚がそれをからかって本物の猫を贈ってきました。
    山猫めをと塚は、福地桜痴がその魯文の飼い猫の供養のために建てた碑だそうです。
    碑文は福地桜痴によるもの。
    ここで福地桜痴が出てくるのは、新聞記者つながりなのでしょうかね?

  • 谷中4丁目4番33号の天竜院。<br />

    谷中4丁目4番33号の天竜院。

  • 本堂裏手の墓地のちょっとわかりにくいところに、「伊東玄朴先生之墓」。<br />台東区にあるとは聞いていたが、ここでしたか・・・。<br />意図してここに来たわけではないが、運命に導かれてここまでやってきました。<br />佐賀が生んだ偉大な先人に敬意を表し、合掌。<br /><br />谷中1丁目30番に、種痘所跡・伊東玄朴旧居跡の説明板が立っているそうです。<br />ちょっと離れているので、また別の機会に。

    本堂裏手の墓地のちょっとわかりにくいところに、「伊東玄朴先生之墓」。
    台東区にあるとは聞いていたが、ここでしたか・・・。
    意図してここに来たわけではないが、運命に導かれてここまでやってきました。
    佐賀が生んだ偉大な先人に敬意を表し、合掌。

    谷中1丁目30番に、種痘所跡・伊東玄朴旧居跡の説明板が立っているそうです。
    ちょっと離れているので、また別の機会に。

  • 高久靄崖の墓もあります。<br />これは小さくて見つけにくい。<br />一見さんが探し当てるのは至難の業でしょう。<br />私はたまたま見つけましたが、運が良かっただけです。<br />高久靄崖は谷文晁門下で、実力を高く評価されていました。<br />師を踏襲するというより、独特の文人画を確立させました。

    高久靄崖の墓もあります。
    これは小さくて見つけにくい。
    一見さんが探し当てるのは至難の業でしょう。
    私はたまたま見つけましたが、運が良かっただけです。
    高久靄崖は谷文晁門下で、実力を高く評価されていました。
    師を踏襲するというより、独特の文人画を確立させました。

  • 天竜院の向かい側にある全生庵。<br />剣と禅の達人であった山岡鉄舟が開基の臨済宗の寺院です。<br />明治維新で国に殉じた人々の菩提を弔うために建立されました。<br />

    天竜院の向かい側にある全生庵。
    剣と禅の達人であった山岡鉄舟が開基の臨済宗の寺院です。
    明治維新で国に殉じた人々の菩提を弔うために建立されました。

  • 山岡鉄舟の墓。<br />「全生庵殿鉄舟高歩大居士」<br />今年は120回忌でしたね。<br />高橋泥舟の実兄・山岡静山に師事して槍術を学び、後に山岡家の養子となります。<br />だから高橋泥舟の義弟。<br />無血開城が実は勝海舟ではなく山岡鉄舟の手柄だった、という話をよく聞きますが、それは少々ずれているようで、鉄舟は幕臣として慶喜を守りたくて、たまたま使者として送られただけで、実際の無血開城の会談は勝と西郷によるもののようです。<br />しかし功労者の一人であることは確かで、維新後も新政府の役人となり、明治天皇に仕えるなど、敵味方関係なく慕われたということでしょう。

    山岡鉄舟の墓。
    「全生庵殿鉄舟高歩大居士」
    今年は120回忌でしたね。
    高橋泥舟の実兄・山岡静山に師事して槍術を学び、後に山岡家の養子となります。
    だから高橋泥舟の義弟。
    無血開城が実は勝海舟ではなく山岡鉄舟の手柄だった、という話をよく聞きますが、それは少々ずれているようで、鉄舟は幕臣として慶喜を守りたくて、たまたま使者として送られただけで、実際の無血開城の会談は勝と西郷によるもののようです。
    しかし功労者の一人であることは確かで、維新後も新政府の役人となり、明治天皇に仕えるなど、敵味方関係なく慕われたということでしょう。

  • 三遊亭圓朝の墓。<br />「三遊亭円朝無舌居士」という戒名は、圓朝より12年も前に亡くなった山岡鉄舟が、生前圓朝のために揮毫したものだそうです。<br />二人は禅道では師弟関係にありました。<br />山岡鉄舟は書の達人でもあり、いろいろな墓や碑にその揮毫が見られます。<br />たとえば「戦死之墓」とかね。<br /><br />8月には谷中圓朝まつりが開催されます。<br />全生庵には圓朝が収集した幽霊画が納められていますが、それもそのときに一般公開されるとのことです。

    三遊亭圓朝の墓。
    「三遊亭円朝無舌居士」という戒名は、圓朝より12年も前に亡くなった山岡鉄舟が、生前圓朝のために揮毫したものだそうです。
    二人は禅道では師弟関係にありました。
    山岡鉄舟は書の達人でもあり、いろいろな墓や碑にその揮毫が見られます。
    たとえば「戦死之墓」とかね。

    8月には谷中圓朝まつりが開催されます。
    全生庵には圓朝が収集した幽霊画が納められていますが、それもそのときに一般公開されるとのことです。

  • 弘田龍太郎先生の墓。<br />右側に「叱られて」の楽譜が載った碑が建っています。<br />何と言っても有名なのは「春よ来い」でしょうかね。<br />「雀の学校」も有名かな。<br />「♪甍(いらか)の波と雲の波・・・」で始まる「鯉のぼり」も書いていらっしゃいます。<br />「♪屋根より高い・・・」のほうはまた別です。<br />

    弘田龍太郎先生の墓。
    右側に「叱られて」の楽譜が載った碑が建っています。
    何と言っても有名なのは「春よ来い」でしょうかね。
    「雀の学校」も有名かな。
    「♪甍(いらか)の波と雲の波・・・」で始まる「鯉のぼり」も書いていらっしゃいます。
    「♪屋根より高い・・・」のほうはまた別です。

  • 全生庵や天竜院の前の坂を「三崎(さんさき)坂」と言います。<br />三崎というのは、この地が駒込・田端・谷中の3つの高台に向かっていることに由来するのだそうです。<br />じゃあ崎って何だ?<br />岬のことか?<br />

    全生庵や天竜院の前の坂を「三崎(さんさき)坂」と言います。
    三崎というのは、この地が駒込・田端・谷中の3つの高台に向かっていることに由来するのだそうです。
    じゃあ崎って何だ?
    岬のことか?

  • 三崎坂を下って大円寺。<br />この界隈には、笠森稲荷に絡む有名な寺院が3ヶ所。<br />養寿院(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/12988781/)、大円寺、功徳林寺、です。<br />養寿院は今朝も通ってきました。<br /><br />これがまた、私程度の頭脳では容易に理解できない複雑な話のようで。<br />概要だけでも今日見ておこうかと思います。

    三崎坂を下って大円寺。
    この界隈には、笠森稲荷に絡む有名な寺院が3ヶ所。
    養寿院(http://4travel.jp/traveler/last-sam/pict/12988781/)、大円寺、功徳林寺、です。
    養寿院は今朝も通ってきました。

    これがまた、私程度の頭脳では容易に理解できない複雑な話のようで。
    概要だけでも今日見ておこうかと思います。

  • 錦絵の開祖と称される鈴木春信の碑です。<br />碑文は笹川臨風。<br />念のため、錦絵というのは浮世絵に含まれますが、多色刷りの版画のことですね。<br />鈴木春信は平賀源内とタッグを組んだりもしています。<br />この鈴木春信という人は、笠森お仙を世に知らしめた功労者です。<br />笠森お仙絡みでは、特に「見立蟻通明神」という作品が有名です。<br />お仙の方は迷惑だと思っていたかどうかは知りません。

    錦絵の開祖と称される鈴木春信の碑です。
    碑文は笹川臨風。
    念のため、錦絵というのは浮世絵に含まれますが、多色刷りの版画のことですね。
    鈴木春信は平賀源内とタッグを組んだりもしています。
    この鈴木春信という人は、笠森お仙を世に知らしめた功労者です。
    笠森お仙絡みでは、特に「見立蟻通明神」という作品が有名です。
    お仙の方は迷惑だと思っていたかどうかは知りません。

  • 笠森阿仙之碑。<br />碑文は永井荷風。<br />笠森稲荷はあくまでお稲荷さんであって、お仙とは違うわけですが、まず笠森稲荷とは何なのか?<br />笠森稲荷は、瘡(皮膚病、梅毒)に効験がある神様で、江戸時代は谷中に2ヶ所ありました。<br />一つは天王寺子院の福泉院、そしてもう一つが大円寺です。<br />福泉院の方の社前には「鍵屋」という水茶屋(現在で言う喫茶店?)があり、そこでお茶をふるまっていたのがお仙です。<br />その地というのは、現在の功徳林寺付近。<br />どうもこの碑は、笠森稲荷があったというだけで間違ってここに建てられた可能性があり、実際に建てるという段階でいろいろ反対の声があったらしいですが、結局ここに建ってしまった、ということです。<br />大切なのは、笠森稲荷と笠森お仙を混同して考えないこと、だと思います。

    笠森阿仙之碑。
    碑文は永井荷風。
    笠森稲荷はあくまでお稲荷さんであって、お仙とは違うわけですが、まず笠森稲荷とは何なのか?
    笠森稲荷は、瘡(皮膚病、梅毒)に効験がある神様で、江戸時代は谷中に2ヶ所ありました。
    一つは天王寺子院の福泉院、そしてもう一つが大円寺です。
    福泉院の方の社前には「鍵屋」という水茶屋(現在で言う喫茶店?)があり、そこでお茶をふるまっていたのがお仙です。
    その地というのは、現在の功徳林寺付近。
    どうもこの碑は、笠森稲荷があったというだけで間違ってここに建てられた可能性があり、実際に建てるという段階でいろいろ反対の声があったらしいですが、結局ここに建ってしまった、ということです。
    大切なのは、笠森稲荷と笠森お仙を混同して考えないこと、だと思います。

  • 安立寺にやってきました。<br />

    安立寺にやってきました。

  • 下村観山の墓。<br />横山大観と並び称される画家です。<br />岡倉天心の日本美術館跡が比較的近くにありますが、その日本美術館で育ち、天心没後の日本美術館を受け継ぎました。<br />狩野芳崖、橋本雅邦に師事します。<br />

    下村観山の墓。
    横山大観と並び称される画家です。
    岡倉天心の日本美術館跡が比較的近くにありますが、その日本美術館で育ち、天心没後の日本美術館を受け継ぎました。
    狩野芳崖、橋本雅邦に師事します。

  • 墓地の奥のほうに、江戸千家の祖・川上不白とその代々の墓。<br />江戸で、千家の茶を普及することに力を尽くした人です。<br />上方発祥の侘び茶の精神に江戸っ子の息(粋)を吹き込んだ、と言えるでしょう。<br />

    墓地の奥のほうに、江戸千家の祖・川上不白とその代々の墓。
    江戸で、千家の茶を普及することに力を尽くした人です。
    上方発祥の侘び茶の精神に江戸っ子の息(粋)を吹き込んだ、と言えるでしょう。

  • 観音寺の築地塀。<br />この築地塀ですが、プロに言わせると、築地塀ではなく練り塀とか土塀とか呼ばないといけないそうです。<br /><br />関東大震災で一部崩壊しつつも江戸時代の姿を保っていると言います。<br />台東区のまちかど景観コンクールで「まちかど賞」を受賞したとして、そのプレートが貼ってあります。

    観音寺の築地塀。
    この築地塀ですが、プロに言わせると、築地塀ではなく練り塀とか土塀とか呼ばないといけないそうです。

    関東大震災で一部崩壊しつつも江戸時代の姿を保っていると言います。
    台東区のまちかど景観コンクールで「まちかど賞」を受賞したとして、そのプレートが貼ってあります。

  • その「練り塀」からぐるっと回って、観音寺。<br />元は長福寺と言い、享保元年(1716年)に観音寺と改称したそうです。<br />

    その「練り塀」からぐるっと回って、観音寺。
    元は長福寺と言い、享保元年(1716年)に観音寺と改称したそうです。

  • 本堂向かって右側に宝篋印塔がありますが、これが四十七士慰霊塔と伝えられ、今でも慰霊に訪れる人がいるとのことです。<br />近松勘六行重と奥田貞右衛門行高とは兄弟であった文良(後の第六世朝山)がこちらで修行していた縁があり、文良は浪士たちにできる限りの便宜を図り、しばしば浪士たちの会合がこの寺で行われたのだそうです。<br /><br />そう言えばそろそろ時期的に近いですね。<br />

    本堂向かって右側に宝篋印塔がありますが、これが四十七士慰霊塔と伝えられ、今でも慰霊に訪れる人がいるとのことです。
    近松勘六行重と奥田貞右衛門行高とは兄弟であった文良(後の第六世朝山)がこちらで修行していた縁があり、文良は浪士たちにできる限りの便宜を図り、しばしば浪士たちの会合がこの寺で行われたのだそうです。

    そう言えばそろそろ時期的に近いですね。

  • ちょっと南に行って、長安寺。<br />

    ちょっと南に行って、長安寺。

  • 板碑は、死者の菩提を弔うため、また生前に自らの死後に備えて供養するため(逆修)、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られました。<br />ここには4基の板碑があります。<br />鎌倉時代のもの3基と、室町時代のもの1基です。<br />長安寺の開基は寛文9年(1669年)で、それより400年も前のもの、だということです。

    板碑は、死者の菩提を弔うため、また生前に自らの死後に備えて供養するため(逆修)、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られました。
    ここには4基の板碑があります。
    鎌倉時代のもの3基と、室町時代のもの1基です。
    長安寺の開基は寛文9年(1669年)で、それより400年も前のもの、だということです。

  • 狩野芳崖の墓。<br />近代日本画に大きな足跡を残した人物です。<br />この人の場合はアーネスト・フェノロサとの出会いが常に語られます。<br />フェノロサに出逢い、新しい日本画の創造に燃えた芳崖は、集大成「悲母観音」を完成させます。<br />残念ながらこれが絶筆。

    狩野芳崖の墓。
    近代日本画に大きな足跡を残した人物です。
    この人の場合はアーネスト・フェノロサとの出会いが常に語られます。
    フェノロサに出逢い、新しい日本画の創造に燃えた芳崖は、集大成「悲母観音」を完成させます。
    残念ながらこれが絶筆。

  • さらに南に行って功徳林寺。<br />この寺自体は明治時代の創建です。<br />明治何年かは、いろいろ言われていてよくわかりません。<br />私が聞いたのは16、18、26年。<br />何となく26年が正しいような気もするが、さてね。

    さらに南に行って功徳林寺。
    この寺自体は明治時代の創建です。
    明治何年かは、いろいろ言われていてよくわかりません。
    私が聞いたのは16、18、26年。
    何となく26年が正しいような気もするが、さてね。

  • 稲荷がありますけど、笠森でしょうか、よくわかりません。<br />上野戦争で福泉院が焼けて廃寺となって、笠森稲荷の本尊が養寿院に移された、とのことです。<br />かつて鍵屋があった場所に笠森稲荷を明治末に奉祀した、という話も聞きましたので、こちらも笠森稲荷でしょうが、かつてのものではない、という理解でいいのでしょうか?<br />まあ私は詳しくは知りませんが、一応笠森稲荷ゆかりの地を回ったということで、お仙にお茶を出してもらうところを妄想でもしてみます。

    稲荷がありますけど、笠森でしょうか、よくわかりません。
    上野戦争で福泉院が焼けて廃寺となって、笠森稲荷の本尊が養寿院に移された、とのことです。
    かつて鍵屋があった場所に笠森稲荷を明治末に奉祀した、という話も聞きましたので、こちらも笠森稲荷でしょうが、かつてのものではない、という理解でいいのでしょうか?
    まあ私は詳しくは知りませんが、一応笠森稲荷ゆかりの地を回ったということで、お仙にお茶を出してもらうところを妄想でもしてみます。

  • 引き返して朝倉彫塑館方向に進み、途中の竜泉寺。<br />慶紀逸の墓があるという話を聞きましたが、非公開、なのかな?<br />慶紀逸は「武玉川」という付句集の編者です。<br />18世紀半ば頃の町人や下級武士を中心とした俳句選集で、民衆文化の下地を作り、後の「柳多留」発刊に大きく影響したそうです。

    引き返して朝倉彫塑館方向に進み、途中の竜泉寺。
    慶紀逸の墓があるという話を聞きましたが、非公開、なのかな?
    慶紀逸は「武玉川」という付句集の編者です。
    18世紀半ば頃の町人や下級武士を中心とした俳句選集で、民衆文化の下地を作り、後の「柳多留」発刊に大きく影響したそうです。

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