WM2006 ドイツ紀行:MUSA Taizoさんの旅行ブログ
WM(ワールドカップ)2006 ドイツ紀行
TUIIYA (牟佐 退蔵)
前書き
時差ボケがやっと収まって来て、平静を取り戻しつつある。
2006年6月16日に成田出発、7月1日朝10時前に帰着。しばらくは夜、眠れなかった。朝寝の果てに何とか起き出すと昼過ぎになって便意を催し、どうにも落ち着かない。食事と睡眠が排泄を交えてこんがらがってしまった。いやあ、困った。
このまま時の流れに身を任せておくと、時差ボケがそのまま真性認知症に転化して、旅の記憶が薄れてしまう。
早く、記録も記憶も思い出も、形にして残しておきたい。
何故かって?
かの地で過ごした2週間は、とても味わい深い旅だったからだ。名も無き人との交流もあれば、懐かしい幼なじみとの交歓もあった。出会った人たちへの感謝を込め、僕の頭や胸を震わせ、悩ませ、考えさえ、そして幸せな気分にしてくれた思い出は、何ものにも代え難く、貴重だ。大切な事どもを知ってもらいたい。僕のささやかな思い出を、僕の言葉で綴ってみたい。
その1 行くぞ、ドイツへ
(2006年6月16日までの出発準備)
サッカーを楽しむ
「2006FIFAワールドカップドイツ大会」は、ドイツ国内で「WM2006」と新聞の見出しや印刷物、看板に表記されている。
例えば開催都市の標章(エンブレム)はサッカーボールと優勝カップの下に、FIFA、FUSSBALL、WELTMEISTERSCHAFT(WM)、2006、DEUTSCHLANDの各語が組み合わされている。もっとも簡単な場合は、「FIFA WM 2006」で、丁寧な場合はすべてが並んでいた。
WMはドイツ語WELTMEISTERSCHAFT、すなわち世界選手権、ワールドカップの略である。主催者FIFA(国際サッカー連盟)の冠は必須だ。サッカーはドイツ語でFUSSBALL、フスバル、英語のフットボールから来ている。
大会名に必ず小さな文字で、TMと記入されているのは、「2006FIFA World Cup」が登録されている商標、トレードマークですよ、と意味している。ただ僕のような個人の書き物でFIFAと添えようが添えまいが、どう表記しようと自由である。タイトルを使って金儲けの商業行為に用いるには許可が必要だが、この際は勝手でよろしい。僕のドイツ紀行を、本にして売ろうとでもいうのならFIFAにお伺いを立てなければならないが、そんな予定は無い。
こちらの方がFIFAの宣伝に努め、提言をしているのだから、逆に礼をしてもらいたいほどだ。言うではないか、何事もお客様あっての商売、と。
6月16日成田空港から出発、同30日ミュンヘン空港から帰国した。ドイツ滞在15日間に、6試合を生観戦し、何度かは滞在先の町の広場でPV(パブリック ビュー)の大型画面を通してテレビ中継を観戦した。またホテルの部屋でビールを飲みながら、テレビの試合を観たこともあった。会場でなくてもいつも大会の成り行きをウオッチングしていた。そして帰国後は、深夜から早朝のテレビ中継で、イギリスの対ポルトガルPK戦負けやフランスの王国ブラジル封殺も同時進行で興奮しながら観た。もうすっかりこの一ヶ月近く、閉幕まで僕はサッカーに浸り切りなのである。人生の折々に、サッカーに熱中できることがこの上なく貴重で、僕には幸せな時間に思える。
三つの関門
「ドイツへ行こう」
そう決めたのは、もう四年前である。ワールドカップ日韓大会が終わると、次はドイツだぞ、と大会準備ならぬ観戦準備に取り掛かった。課題は、三つ。妻の同意、軍資金、チケットである。
細君は意外や、積極的に賛成してくれた。機嫌の良いところを見定めて、こちらも少しほろ酔い気分で「ドイツへ行って観戦だア」と切り出した。すると「それぐらいは、良いじゃない。四年に一度なのだから」と応じた。
ただし「心配は、おかあさん(義母)ね」と付け加えた。92歳老母を長男夫婦でケアし続けている。今は友人Tの医院に預かって貰っている。夫の留守に万が一のことになれば、当然ながら「一人では、困ります」と嫁の立場を心配する。これは説得と決断の問題である。老母の健康状態、病人として療養病床にいるのだから健康そのもとはいかないが、2006年6月に危機がやって来るかどうかが、決め手だ。そんな心配は、無さそうに僕は思う。足腰の状態、食欲、立ち居振る舞いから、生死に関わるような事態は無い、心配は無さそうだ。「生きるの、死ぬのという心配は、絶対に無い」と僕は強調した。将来について「絶対」は無いし、予測しがたい生死に関しても「絶対」は禁物だが、ふだんの信頼関係から、言葉は有効だ。何しろ老母と最もよく接している細君自身が「間違いなく長生きするわね」と認めているのだから、「絶対」の信用度は増すのである。
援軍は医師のT君である。多くの老人を見てきた経験から、専門家としてカルテを見ながら「心配は無かろう」と優しく言って呉れるのである。
旅行費用は100万円以内に収めなければ体裁が良くない。僕だけが勝手に好きなことに大金を費消するのは、夫婦関係に悪影響を及ぼす。大雑把に費用を考えてみた。
ドイツ行き航空券はエコノミークラスの往復で16、17万円。ホテル代は一泊1万円以内で2週間だから15万円。ドイツ国内交通費は観戦する試合会場にもよるが、鉄道とバスで10万円以内。チケットは試合数、席のカテゴリー次第で、公式チケットで間に合わなくてチケット屋を利用すればきりは無い。まあ5、6試合の観戦に予算15万円としよう。昼飯や夜の飲食代は好きなだけビールを飲んでも1日1万円は最上級の待遇だ。土産は買わない、ショッピングも計画なし。考え付く範囲でざっと70万円。4年間48ヶ月で割れば、毎月1万5千円以下の積み立てになる計算だ。上等だ。これなら貯金と節約で何とかなる。いよいよとなれば、細君の餞別を当てにしよう。こう見積もると、気持ちは楽になり、「母親を見捨てるのではない。面倒を見るご褒美だ」とますます気軽に思えた。
人は身勝手であろうが無かろうが、もっともらしい理屈が出来れば、安心できる。都合のよい理屈しか思いつかないのだけれど。
身勝手をしているという罪悪感があっては、折角のサッカーが楽しめなくなる。予算縮減、ケアの慰労旅行、そう考えた。お陰で気持ちは、断然落ち着いた。
チケット争奪
チケットは難題だ。
FIFAの公式(オフィシャル)サイトに注目していると、販売計画が明らかになった。スポーツ新聞は翌日、朝日新聞は翌々日の報道で、テレビは直ぐには触れなかった。
売り出しは2005年2月から始まり、大会直前まで5次にわたってネットで注文、抽選、販売することがわかった。僕は直ちにID(アイデンティファイド、身元)登録をした。偽者や二重登録を防ぐために、OC(オーガナイジング コミティ、組織委員会)は氏名、住所、電話番号、E−mailアドレス、パスポートナンバーのみならず支払い精算の為にクレジットカードの番号データなどを要求した。行政事務処理のための住民登録カード以上の厳しさだが、万事几帳面な厳格ドイツ人のやることだから、相当に研究しての方針だろう。同3月、チケット管理センターからユーザーネーム(メールアドレスが流用された)とPW(パスワード、暗証番号)が示され、以後自分の登録、申し込み状況が「マイ プロフィル(身上書)」ページでわかる態勢が整えられた。
一日に30万、40万件の申し込みが殺到する状況にも、日本の銀行や社会保険庁のようなヘマは無かったようだ。
日本代表の動向やジーコのヨイショ情報には熱心だが、マスコミはサポーターの一大関心事を重視していない。チケットの話題が頻繁になるのは、2005年12月、まずシード8カ国が決まり、続いて試合会場と日程を折りこんだ組み合わせ抽選が行われてからだ。シードは開催国ドイツがA組で、以降はB組英国、C組アルゼンチン、D組メキシコ、E組イタリア、F組ブラジル、G組フランス、H組スペインの強豪が8組の頭に張り付いた。残りの24カ国はそれぞれ運不運に彩られ、各組に4チームずつが割り振られた。
どの試合を観るか。
何もかも観たい。限るとしたら、そりゃあ大会後半から決勝戦を見たい。後になるほど試合はレベルも上がり、スリリングになる。だが、チケットをどうするか。抽選となると僕の運はアテにならない。公式サイトの抽選でゲットできなければ、チケット販売の民間チケット屋から買うしかないが、これまでの大会でもあったように、連中は法外な値段を吹っかけてくる。チケット屋は最後の手段で、まずは公式サイトでの幸運を祈りたい。ただし大会後半では試合日の間隔があくから、スケジュールづくりが難しい。試合を観たいが、無駄な日数が生じてはもったいない。もちろん飲んだり食ったり遊んだりと観光三昧の過ごし方もあるが、サッカー優先とは言えないし、贅沢が目的ではないのだ。
また準々決勝、準決勝、決勝を観たい、といってもチケットが当たるかどうか。日付と会場、カレンダーと地図をかわるがわる睨んでみた。かくて矯めつ眇めつ日程表を眺めながら、果てしない想像にふけった。
組み合わせ抽選の結果、勝ち上がりの予想も加わるから、ますます複雑なシミュレーションが展開され、最後は何が何だかこんがらがってしまった。会場と移動の時間を考えて、ドイツ中を何度も飛び回ったが、体は一つで間に合うわけもない願望が先行し、ドラえもんのタケコプターを借りなくてはならないほどになった。それもこれも最後は、チケットがあっての話。
ドイツ、ドイツと頭が一杯になるころ、結論が見えて来た。
滞在期間は留守宅の状況を思えば、せいぜい2週間が限界だ。その間に面白い試合を出来るだけ多く、(嫌いな言葉だが)効率的に観て周ろう。そうすると、予選試合のグループリーグ戦で、決勝進出がかかる第3試合から決勝トーナメント初戦のラウンド16までが、もっとも日取りが詰まって、あちこちを回れて、しかも気の抜けない好試合必定と見えて来た。
合わせて僕自身の思い入れがあった。もうずうっと昔、1961年の学生時代にベルリンを訪ねたことがある。東西分裂、東西対立時代に、ソ連邦・モスクワの留学生だった僕は休みを利用してモスクワからワルシャワを抜け、東ベルリンから西ベルリンに入り一泊した。そこからパリに向かい、帰路はローマ、ウイーン、プラハと回ってモスクワへ戻った。その後も1980年代にデュッセルドルフとフランクフルト、2002年の暮れにまたフランクフルトに立ち寄ったことがある。最初のドイツからもう45年。
そうだ、ベルリンを訪ねよう。東西統一の「ベルリンの壁」その後を見よう。WMドイツ大会で、12開催都市のうち、旧東ドイツに属する都市はライプツィヒだけだから、ぜひそこも訪ねてみよう。
こうして期間は半月、ベルリンとライプツィヒを観戦の軸に据えようと決め、チケットの申し込みを続けた。
第一次申し込みで、僕は2006年6月18日のライプツィヒにおけるG組韓国対フランスを皮切りに24日はライプツィヒでのC組1位対D組2位、25日はニュルンベルグのD組1位対C組2位という風に申し込んだ。予選リーグ5試合、ラウンド16で2試合を選んだのは、一人一度に7試合までの制限に従ったからだ。
年末に、待ちに待った第一次抽選の結果がわかった。もったいぶった英語のメールは「不運にも・・・」と書き出していた。残念。
しばらくはがっかりだったが、どういう仕組みなのか2006年1月、追加当選の知らせがあった。ライプツィヒの6月21日Match(試合番号)#40「イラン対アンゴラ」戦が当たった。最低人気の試合だから、応募が少なく先行きの売れ行き不振を心配して落選者にばら撒いたのかしら。当選、には違いないが、試合が試合なので、少々がっかり、というのが正直な気持ちだった。どうして決勝トーナメントの第一戦、ラウンド16のチケットは当たらないのか。
だが、まずはライプツィヒで試合を観られるのだ、という安心もあった。不満と希望が交錯した。知人のSさんに話すと「イランとアンゴラですか」とサッカー通ならではのコメントが返ってきて、内心傷ついたものだった。お陰で今度は「頑張れアフリカ。頑張れアンゴラ!」とまだ観たことがないナショナルチームに愛着が湧いてきた。
条件付販売、追加販売など回を重ねる間に、6月20日のベルリンでA組「ドイツ対エクアドル」、6月23日に同じベルリンでH組「ウクライナ対チュニジア」戦が当選、と通知があった。だが、ラウンド16の試合はさっぱり。やっぱりチケット屋のネット販売にも頼らざるを得ないか、と考え始めたのはもう2月ごろだった。
旅程づくり
頼りになるのは、友人だ。
小学校時代からのガールフレンドが二人、それぞれもう30年、40年とドイツに暮らしている。彼女たちが里帰りした同窓会の席で、僕は「チケットはなんとかならないかねえ」と相談した。必ず観戦に行くから「よろしくね」と頼んでおいた。
チケットはどうにもならないだろうが、現地の雰囲気は随時伝わってきた。
曰く、ドイツ人もチケットが当たらないので諦めている、テレビが売れている、町のPVさえ入場制限があるらしい、ホテル代が高騰している、親善試合で日本と引き分けたドイツチームの人気は下降線・・・・とメールのやりとりがあった。
Kさんはシュトゥットガルトにぜひ泊まれといい、Sさんも試合はないけれど「デュッセルドルフにも寄ってね」と誘ってくれた。有り難いし、そうしたいし・・・・だけど日程がなあ、とまた悩みがふえた。折角の機会だから幼なじみと異国であえるなんて、素晴らしい。ようし、一生に二度とない機会だ、なんとか彼女たちと会えるように計画しよう。
チケットに拘って振り回されていたが、なるようにしかならないのだから、友人たちの提案も受け入れて旅を充実させれば良いではないか。そう考え直すと、旅程の骨格が見えて来た。
試合観戦、立ち寄る都市、ルートと交通機関、宿・・・・少しずつ日程表が埋まりそうだ。
どこからどこへ飛ぶか。
インタネットの「価格コム」で、航空運賃をリサーチしているうち、直行便か経由便か、どの航空会社にするかが、決まった。
航空運賃は具体的には3ヶ月前に確定するから、安売りチケットの旅行社の広告に釣られていると、いつまでも迷うことになる。挙句に、「これが安い!」と飛びついて調べると、席数限定販売で「売り切れ」とか、そもそもリストから消えてしまっているから、注意と決断が肝心だ。とはいえ前半の日本戦では、あきらかにどの便もサポーターで早くも「満席」が出ていた。
直前まで岡山にいるのだから、比較的閑散な関西空港からの便も思ったが、フランクフルト行きしか見つからなかった。でも、フランクフルトは何度か立ち寄っているので、初めての知らない都市へ行きたい。ウイーン、ミラノ、ヘルシンキ、ロンドンなど経由する航空会社もあって、それはそれで「トランジットで遊んでいきませんか」という誘惑に感じられた。
ルフトハンザ航空(LH)成田発ミュンヘン行きに決めた。最安値ではなかったが、初めての町へ飛び、便数も多かった。しかもミュンヘンからシュトゥットガルトへは近く、Kさん訪問も可能だ。また週末便は値段が1、2万円高いことも明らかになったので、試合日程と金曜日発を重ねると、自ずと成田発6月16日、ミュンヘン発同30日に旅行期間が落ち着いた。
宿選びには時間がかかった。その日のホテルを決めるには、一に値段、二に所在地、三にそう、歴史、社会、文化的な意味合い、を考慮した。贅沢は出来ないが、プログラムに好都合でなおかつ名所旧跡、ドイツをよく知ろう、としたわけだ。ネット予約が可能だから、選択肢が増えて決めかね、時間が要るというわけだ。だが、相手の都合に関係なく、電話を掛けたりせずに決められるから、ネットの効用は絶大である。
組織委員会の各開催都市がホームページで「宿紹介」、日本国内の大小旅行社、楽天やヤフーの旅行サイト、新聞社のホームページにも欧米のホテル予約、クレジットカード会社もネット予約サービスを展開、ドイツ鉄道、ルフトハンザなどの航空会社もホテル予約サービスを行っている。いまや世界中の宿泊予約が叶いそうな時代で、改めてネット社会、グローバル化を実感した。
試行錯誤のサイトや宿選びの中で、NIKKEINETの海外ホテル予約サービスとドイツの「BOOKING」というそのものずばりの名前の会社を多用した。ガイドブックに紹介されている各地の「ツーリスト案内所」サイトから探したり、推奨ホテルのホームページに直接アプローチしたりする方策もあったが、手間が掛かりすぎるのでやめた。
民宿のアイデアは、FIFA公式サイトから開催都市のホームページで「どうぞ、ドイツの家庭に」という案内を見つけて、興味を持った。ドイツの家庭を知るチャンスだ。シュトゥットガルトでKさんのお宅で世話になるほかに、もう一軒ドイツ人家庭を覗けるのは有益、とドルトムントで民宿、を予定に入れた。
一泊28ユーロという安さは魅力だったが、相手家庭の評判はドイツ側を信用するしかない。登録時に家庭状況を審査して、間違いのない民宿サービスを展開するのだろうから、ここはドイツ人の厳格さが頼りである。各家庭の紹介欄には「通じる言語」が記載されていて、まったく言葉が通じない、などという選択はあり得ない仕組みだ。
旅行の終盤は、コースも宿も決めていない。最後までチケット入手への期待を失っていないのと、だめならどこかへ観光プラン、と考えていたからだ。Sさんには「どこかとっておきの訪問地はないですか」と尋ねてあったし、ちょうどバルセロナから帰国する予定の友人F君とどこかで合流する可能性も考えたからだ。さらに、マケドニアやチェコの友人に会いに出かけるのは無理か、などと漫然と考えてもみた。
結果的にはライプツィヒの宿だけが失敗で、後はまずまずの選択だった。ネットの情報は、ロケーション、値段、部屋の様子、施設やサービスなどを写真入りで紹介しているし、星のランクもついているので、そう間違えることはないだろう。ライプツィヒの顛末は後述する。
値段は安いに越したことはない、と考えたが移動時刻によっては駅や試合会場への時間、交通も考慮した。一泊だけだから、と間に合わせる場合、2泊するから落ち着いた部屋などと工夫もした。といっても五つ星ホテルを選ぶのではないから、最低で5、60ユーロ、最高は130,40ユーロの範囲で決めた。
ドイツ鉄道(DB)には世話になった。アウトルックの予定表が埋まっていくにつれて、いつ、どこからどこへ移動が必要という点がはっきりしてきた。回り道でもぜひ訪ねてみたいところもある。
「ジャーマンレイルパス」はドイツ鉄道全域で、全列車乗り放題。滞在期間から通用日数が8日間というパスを選んだ。ユーロ建てで240ユーロとわかったが、旅行手配専門の「ユーレックス」社を見つけてあらかじめ国内で買えるので、3万5600円を振り込んだ。この定価は当日のレートを割り込んでいたので、僕は得を旅行社は少々損をした。メールでやり取りをした後、入金を確認してから、自宅へチケットが郵送されてきた。
「一ヶ月間に8日間、2等、大人」と区分され、名前まで「Mr.T.TERADA」と記入され、居住地「ジャパン」にパスポートナンバーも添えられていた。僕はもう旅行の夢がぐっと近づいた気分に嬉しくなり、直ぐに署名欄にいつもの漢字四文字を足した。このパスの有効ぶりは計り知れないが、それは後日実感するところだ。
1日当たり30ユーロで、ライプツィヒからデュッセルドルフ、或いはドルトムントからフュッセンなどの長距離移動が出来るのだから、大助かりというものだ。しかも追加する列車ごとの座席予約は、1件わずか3ユーロ。JR各社とは比較にもならない低料金といえる。日本を訪れる外国人も同じような仕組みの恩恵を受けているのか、どうか。
シュトゥットガルトからベルリンへの移動には、国内航空を利用した。子どもと同じで、僕は乗り物好き。
6月20日、シュトゥットガルトで午後9時からの観戦。翌21日、ベルリンの試合開始は午後4時。両都市の移動は陸路で700キロ以上、特急で5時間半。鉄道ではちょっときついし、間に合わなかったらパァーだ。ネットの観光案内を見ていて格安エアラインが紹介されていたので、試みた。日付と時間を指定して検索すると、DBAという航空会社のシャトル便が好都合で、値段はわずか97ユーロで予約できた。
実際空港では、予約シートのプリントを受付カウンターに示すだけで搭乗券をくれた。ベルリンの試合には悠々と間に合ったし、空からの眺めも新鮮だった。
心配の一つ、旅先の傷害保険もネットで決着させた。「比較コム」で目星をつけ、損保ジャパン社の「新・海外旅行保険 off!」を選び、ネットでクレジットカード払いにした。少しでも安くするためで、出発から帰国日までの16日間を6500円でカバーした。傷害死亡3千万円、賠償責任1億円、携行品50万円などという内容で、十分かどうかは後になってしかわからないから、まあ気慰めだと思っていた。
ユーロ通貨は前もって10万円分を銀行で両替した。手元に残っていたドル紙幣少々と日本円5万円は携行した。旅の途中で一度だけ、25ユーロほどしかなくて困ったが、ほとんどの出費はクレジットカードで済ませ、万が一の場合の旅行小切手は手をつけなかった。全体ではもちろん予算枠内で、内緒だが細君が呉れた餞別もへそくりとして残った。
旅装
荷物は、最小限に。
当然の考え方だったが、大会が始まってから、寒気が伝えられたので、衣類が増えた。家を出る時も帰った時も、荷物は三つ。キャリーカートバッグ、リュクザック、肩掛けの小型バッグである。カートバッグには、大会プログラム、衣類、お土産など出し入れの少ない荷物。リュックには当日用の着替え一式、歯磨きとタオルのセット、双眼鏡、スケジュールや予約書類などで、無理をすればカートに押し込める。リュックザックは現地で町歩きの定番アイテムとなる。小型バッグは大事だ、チケット、財布、パスポート、メモ帳とガイドブック、それに交換レンズが入った。結構膨らんで重いが、これが旅の保証役だから、少しぐらい重い感覚の方が、紛失したり忘れたりしないですむ。パスポートや旅程表のコピーはカートバッグとリュックザッグにも念のため入れて置いた。僕は慎重居士。
反省は後からするのだが、厚着の防寒衣類は無駄だった。どうも、いつもながら思い切って荷物を減らす、軽くする覚悟が足らない。慎重すぎて、動きが取れないのは、間違い。
カメラは2台。キャノンの「EOSKissデジタルN」(標準ズームのほかに80〜200ミリ交換ズームレンズ1本も)と銀縁フィルムの「オートボーイ120」。サッカー観戦と野鳥観察のために小型双眼鏡も加えた。常備薬、梅干、洗面道具が嵩を増したが、馬鹿だったのは日本語版「公式プログラム」だ。旅行中、一度も開かなかったのは、現地で英語版を10ユーロで買ったからだ。こちらは各国チームのメンバー表が最終版で重宝した。スタンドへは持って行かなかったが、出かける前に目を通し、ホテルでテレビ観戦の際はページを開いて脇に置いていた。
自宅を出るときの慌しさは、いつも泣かされる。もっと余裕を、と唱えていても、その時になるとバタバタしてしまう。今回は、雨に泣いた。タクシーが出払っていて、駅までの循環ミニバスも大幅遅れで、結局最寄り駅まで雨中の進軍となった。日暮里で捨てるつもりのビニール傘は小さいから、カートバッグはびしょ濡れの有り様。但し、洒落っ気から被って出た麦わら帽子は、大正解。髪が濡れなかったばかりか、ドイツ中で陽射し避けに役立った。最後には、つまみ続けた天辺に穴が出来たが、弊衣破帽のいわれ通りに、破れ帽子を使い続けた。ドルトムントで気に入った野球キャップを買ったので、民宿へ置いてきた。備前岡山のイ草製品ではなく、中国の草で出来ていた500円の代物で、十分に役立ってくれた。
お土産には工夫があった。KさんとSさんあてに、それぞれに役立ちそうな物を揃えた。また行きずりの国際親善のためには、これまでの海外旅行でいつもしたように、絵葉書を用意した。見知らぬ人に、東京の風景、日本の風景、昔の東海道風景の浮世絵絵葉書など合わせて20枚ほどを用意して、一枚も残らなかった。列車の相客、インフォメーションの窓口氏、民宿一家、スタンドの隣客らに差し上げた。
民間外交の贈り物には絵葉書が最適ではないか。軽い、安い、腐らないで、なおかつ日本の現況や文化シーンが浮かび上がる。ドルトムントの民宿ホームには、成田空港で1200円の竹人形を見つけて買い足した。気の利いた土産というものは、なかなか難しい。値段が高い、嵩張る、腐る、というのではせっかくの気持ちがそぐわない。壊れては、感謝の気持ちは空回りになってしまう。
さあ、この程度の前置きにして、そろそろ出かけよう。先は長いのだから。
手帳の日記メモを繰りながら、日付を追って、ドイツ紀行をまとめたい。
その2
(2006年6月16日)
雨の旅立ち
5時起床。
夜来の雨は明け方にかけて、激しさを増していた。スウェーデン対パラグアイ戦の後半を横目に見ながら、朝食。目下、家内は田舎で姑の世話焼き、僕は自宅で一人暮らしの身。不便はあるが、今日から「ドイツへ!」
決まりの「燃えるゴミ」出しを済ませたが、雨足は変わらない。早め早目に行動しようと、やっとつながった電話で「7時半にお願い」とタクシーを頼むと「30分は待って下さい」という。こりゃあ当てに出来ない。戸締り、電気オフ。確認して家を出た。
マンション前からの駅周辺循環バスを当てにしたが、いくら待っていても来ない。思うに、ルートの一部で国道6号線を走るから雨渋滞に巻き込まれているのだろう。仕方がない。カートバッグを引っ張りながら、常磐線南柏駅へ歩き始めた。土砂降りに泣けてくる。とてもさわやかな旅立ちには、遠い。雨降って地固まる、とは関係ない。ドイツは晴れていても、日本は梅雨だ。組織委員会のベッケンバウワーは、日本のファンのお天気までは、心配してくれなかったか。
南柏駅では乗り入れの地下鉄千代田線に乗る。ルートは途中乗り換えて日暮里へ、そこからは京成スカイライナーで成田空港へ。これが2時間弱の最短コースなのだ。海外旅行はやはり、大事(おおごと)だ。まして雨の日、慌て気味だから、いくら心中「落ち着いて、落ち着いて」と念じていても、気はあせる。地下鉄から常磐線に乗り換えるタイミングで、迷った。最初のチャンスだった松戸駅で常磐快速に乗り換えれば良かった。外の雨と荷物が逡巡させて、ついつい満員電車に乗り続けた。
それが、失敗。千代田線は北千住駅の手前、荒川鉄橋に差し掛かると「徐行運転をしております。お急ぎのところ・・・」とみればわかる話を勿体つけてアナウンスするから、なおイライラしてしまう。気は焦るのに、状況は不利なもたもた運転。旅立ちの初手から、精神不安定状態を催す。
そもそも成田空港へ向うのに、逆方向の都心へ走る不合理に腹が立ってきた。すべてが東京へ、すべてが都心へ。よほど中心に居たいらしい、日本人は。早くもあせりと不快さが社会批判に結びついてしまった。最寄りの柏駅からも空港直行バスが走っているが、これはこれで、あちこちで客を拾い集めるルートだから、時間が掛かってしまう。直行なら1時間半ですむところ、2時間以上も走り回って、やはりやきもきしたことがあり、敬遠している。
京成ライナー日暮里駅9:25発、成田空港駅10:20着。
車内の乗客は5割程度。失礼して上着を脱ぎ、壁のフックに干した。麻素材だから、降りるころには乾いていた。まあ、何とか出発のトバ口までやって来た。
空港ですることがある。
海外用携帯電話の受け取り。G−Callカウンターを見つけて紙切れを差し出すと、娘さんが説明開始だ。立て板に水で「ここが、電源。ハイ入れます。ランプが光ります。向こうに着いてから入れていただきますので、今はコチラ電源を切らせていただきます」。自分でスイッチONにしておいて、自分に「・・・させて頂きます」はないだろう、お嬢さん。そう言いたいところを、黙って頷きながら拝聴し、やっと袋を手渡してもらった。何も、頭に残っていないが、彼女のマニュアル ノルマには付き合ってやったというわけだ。今日の客はわかりが早かった、と報告したかしら。説明書きを機内でゆっくり読むさ。チラッと見えたNOKIAの商標に、何だかこの先の非日常を感じた。ドコモじゃあないのだ、と。
アウトルックの予定表で「6月」分を、一枚のシートにプリントしておいた。ポケットに入れてある。同じものを細君にも渡してある。その上に、毎日の予定を一枚ずつにプリントして持ってきた。賢いつもりで、備忘録はあちこちにあった方が安心だから、この先その日の分をメモ帳にセロテープで貼り付けるつもりだ。パスポートよりも一回り大きく分厚い、これが旅の日記帳になる。一日分には、宿と足の予定が分る限りで記されている。
その本日分を確かめながら、間違いに気付いた。メモにはLH(ルフトハンザ航空)715便12:30発とプリントされているが、掲示板を見ると12:05発ではないか。慌ててチケットを取り出してみると、なるほど紛れもなく12:05成田発が、正しい。早めの空港到着で助かった。それにしてもこんな間違いは、これまでになかった、先が思い遣られて、「落ち着いて!」と改めて自分に言い聞かせた。
機内へ。座席32Hは通路側。窓際には先客、ルックス良き若い女性が座っているが、目を閉じうつむいている。「よろしく」と挨拶をすると、頭だけコクリと動かした。目を合わせないのが、気に入らぬ。
雨の中、機体は定時にエプロンを離れた。ドイツらしさに、安心する。離陸、安心から眠気が襲ってくる。思えば、朝から大活躍だ。隣の女は朝日新聞なんか広げて、忙しなくページを繰っている。読み飛ばされては、新聞も可哀相だ。
目を覚ますと、隣の女はビールを飲んでいる!何としたことか。昼日中から、若い女が。寝ぼけ眼で周囲を見渡すと、スチュワードがワゴンを押してドリンクをサービス中である。通路越しの若い男はシャンパンでもあるまいし、スパークリンワインをテーブルの上に置き、紙コップに手を添えながら、もう一方の手で豆なんか食っている。品のない奴だ。
「お目覚めですか」と尋ねる顔つきでスチュワードが顔を向けるので、明快に「ウーロン茶」を頼んだ。
今からビールを飲んでいては、先のビールが不味くなる。何しろ楽しみが待っているのだ。本場へ出かけるのだ。心に誓っているほどだ。ドイツでは、朝でも昼間でも、飲みたいときには、飲むぞ、と。
「お仕事ですか、観光ですか」。隣の女がパソコンを取り出して何やら液晶画面とにらめっこを始めたので、聞いた。出来れば、愛さないまでも、いつでもどこでも隣人とは、仲良くやって行きたいのだ。それが、「ええ、まあ」だとさ。20、30代の娘が自分の父親以上の年齢のおじさんと見分けもつかなければ、まともな返事も出来ない。パソコン使えても、挨拶が出来ないとは!
もう、相手にしない、と決めた。トイレで通路へ出たがっても、知らないふりしてタヌキ寝入りしてやろう。膀胱炎になっても、責任はとらないからな。ろくでもない想像をしていると、また眠くなってきた。ビデオ映画のプログラムを覗いたが、つまらなそう。
映画の合間に映し出される飛行ルートを眺めている。ミュンヘン行きは成田から列島を横断し日本海を越えロシア・ハバロフスクを経由してシベリア大陸をひたすら西へ。アルハンゲリスクでベルリン方向へ転じて目的地へ向う。
眠気の中で、この広大な国ロシアが、なぜ極東の小さな島の帰属を巡って日本と対立するのか、と思った。日本とロシアの間の戦争や紛争、外交交渉の歴史が思い出されて、「この先二国間関係は、どう動いていくのか」などと、考え始めた。
対立から平和共存、協調へ。日本とロシア関係がアジアの平和の重要要素である。日ロ、日中、日韓のどれをとっても今や、日本の隣人関係がうまく収まっているとは思えない。
領土は、ややこしい存在だ。国家と国民は等記号で結ばれるわけではないが、領土が国に帰属する以上、国家の意志が相手国の同じような意志とぶつかり、両国関係を形づくる。一個人や一団体が願っても、領土問題は解決できない。つまり国家間の領土問題解決のためには、一個人や一団体を含めてそれぞれの国民がその国家を動かさねば、国民の願いは成就しない。
南千島の島々を巡る解決の図式は、ロシアに帰属する、両国で納得づくに分け合う、日本に帰属する、いずれかの道しかない。4島か2島か。一度にか、時間をかけてか。領土帰属の量と質も考えねばならない。両国ともが係争地を放棄するとか、問題解決を先延ばしにするとかは、政府も国民も望まないだろう。そうなると、国民が解決の道を選び、国家政府に解決を迫らなければ、国家は独自に、または勝手に問題を解決できないか、あるいは問題を放置したままに終わるのではないか。政府を構成する政治家の資質からして、都合の良いことは取り組むが、困難な政治課題は棚ざらしか、お蔵入りが関の山だ。
「四島返還」が国是、というのは展望のある方針か。現実的な目標か。
得てして国家の看板を借りて、日本の国益だ、国の尊厳だ、国家の威信だとキャッチフレーズを並べてはみるが、その実、現実的な解決の方策を持っていないのではないか、今日の国家政府は。
冷静な国民に問いたい。
国家を名乗る政府に、いつまでもお題目を唱え続けさせるのが、心地よいのか。政府が相手に「断固たる姿勢」を示すのが、国民にとっては不安だったり、面映い気持ちにさせたりしていなか。「四島一括返還」に拘泥していては、解決の目途は立ちそうにない。
シベリア上空を飛びながら、日ロ間の領土問題を「重大だ」といいながら半世紀も解決できない政府に、不信が沸いてきた。しかし、国家政府と国民の間に信頼感がなければ、そもそも個人の主張や願望は、芥子粒のように吹き飛ぶ。国家が国民と表裏一体の如くに宣伝するときは、個人の権利は無視され、国家もまたその義務から逸脱しているのが、歴史の教訓である。
両国の政府当事者が、半世紀を越える懸案を解決し得ないのであれば、その当事者能力が疑われ、一方問題は禍根を残しそのほとんどの影響は弱き者、国民の肩にのしかかるのである。漁業の安全操業が保証されない、経済行為が限定されたりひどい場合は利益が強奪されたりする、文化の共有が阻害される、果ては両国民間にもまた不信や怨嗟が生じ、著しくは憎悪が相続されるのである。
ミュンヘン到着
ルフトハンザ機は、勝手知ったる自分の庭の如く、ミュンヘンに到着した。降下しつつ窓の外に牧草地や樹林が見え隠れすると、「ヨーロッパ」の風が感じられた。もっとも朝食と着陸の間の時間が短く、機内から慌てて退出し、その空気を吸いたい、というほどの風ではなかった。現地午後5時過ぎ、予定よりも230分早い。航空会社は偏西風に乗って相当の燃料費を節約したはずである。
隣の女は、挨拶もなしに立ち去った。近頃はこんな世情なのである。袖すり合うも他生の縁、は無縁か。前世などは信じない、触れ合う相手はほかにいる、とまあ無視をはかったのか。女が居眠りしている間に、僕はちらっとそのパソコン画面を覗いていた。どうやらドレスデンに関するレポートを試みるらしく、その街のデータなどがファイルされていた。そのうち、したり顔のドレスデン空襲とか、もしかしてドレスデンツアーが企画される時に、この女の関与が示されるかも知れない。生かすも殺すも、その時で遅くはない。多少の縁、は僕の意志サイドにも及ぶのだ、袖は触れていたのだから。
僕なんぞ、機中で知り合った製薬会社のビジネスマンと20年来交信がある。別の機会にはあおのヤマギシ会、ヤマギシズムの信奉者と知り合い、その導きで三重県の本部を取材したことがある。また食事の席でステーキにクレソンがついてくると、栃木県の生産農家の青年を思い出す。
こうやって、旅は道連れ、世は情けと学ぶのである。旅先の人付き合いを避けていて、果たして人間社会に関する的確な認識がもてるか、疑問である。
構ってもらえなかった腹いせが、随分と拡大してしまった。もう、忘れよう、隣の女は。僕の主要なたびの目的は、ワールドカップサッカー観戦である。忘れるな!だが、隣の芝生はいつも、青いのだなあ。
入国審査の係官にドイツ語で答えた。「Foosball」。旅の目的を聞かれたから、シュトゥットガルトの幼なじみがメールで教えてくれた「ドイツ語でサッカーはフッスバル」というのですよという単語を発音してみた。彼が歯を見せて満足そうな顔をするので、後は英語で続けた。「ドイツを応援してエクアドル戦も見ますよ」と。パスポートを降りかざしながら返してくれた。僕のドイツへの関心が、彼に気分悪いわけがなかろう。ドイツ国内で初めて出会ったドイツ人には、敬愛の情を示さなくては。
空港から都心へ、Sバーンで移動する。中央駅の先、イーザール河と同名の駅で降り、さらに同名のホテルを探した。河の方へ進んで直ぐに通りがかりのおじさん二人に尋ねると「反対ですよ」と一人が指差し、もう一人が「イラッシャイマセ」と日本語をいう。なんと、街で初めて話すドイツ人が日本語で挨拶する、何というホスピタリティ!そして最初の男が英語で「ついて来い」と先に立つ。二人目が勝手に喋る。
聞けば、・・・・甥っ子が日本女性と結婚し、ミュンヘンに住んでいたことがある。今は別れて彼女はウイーンに去った。お医者さんだった。彼女はナニコさん、と名前までいったが、僕は立ち入りたくなかったから、はっきり確かめもしなかった。それにしても甥っ子のおじさんは、今でも日本人女医に好感を抱き続けて、離婚が残念そうな口ぶりだった。
機内の隣の女に比べて、どれだけ街のドイツ人が親切だったことか。オジサンたちはホテルの前まで案内してくれ、「グッドバイ」と元の道へ戻っていった。地下鉄駅から角を曲がったほんの50メートル先だったけれど。
ホテル「イーザールトーア」にチェックイン。5、6階建てぐらいの中規模ホテル。フロントのある一階にレストランがあり、そのテーブルから客室の数が知れた。フロント嬢は「朝食はそこです」と示し、鍵をくれた。エレベーターで階上へ。窓から外を眺めながら、プログラムを一人で決めた。
そうだ、無事到着で、祝杯を挙げよう。
その前に、電話だ。シュトゥットガルトとデュッセルドルフの二人の友人に「来たぞ。よろしく」と連絡した。岡山の我が家にも念のため「心配するな」と留守番メッセージを入れて置いた。
イーザール川があり、イーザールトーア駅があり、同名のホテルがあった。トーアは門を示していた。ホテルから20メートル先がロータリーになっていて、その一角に、キリスト像が描かれた門が川の方向に向いて立っていた。
広場に面したカフェの路上に大型画面が据えられ、折しも「オランダ対コートジボアール戦」が映し出されていた。よしっ、ここに限る。広場側の席に陣取り、ビールを注文。「無事到着、おめでとう。乾杯」と一人で祝杯を挙げた。喉に心地よい冷たさ、ほどほどの苦味。ドイツだあ、美味い!カフェ側の席と広場側の席の間で、通行人が立ち止まり始めた。これでは、テレビが見えない。二杯目を飲み終えて、ホテルへ引き返した。シャワーを浴びてテレビのスイッチをひねると第三試合が始まっていた。グループDのメキシコ対アンゴラ戦。この先、どちらのチームも僕の観戦対象。真剣に見るぞ、と思ったが、間もなく寝込んだみたいだ。目を覚ますと、午前2時。あれ? テレビの画面が変だ。何と、水着美女が入れ替わり立ち代わり現れて、セックスショップの電話紹介コマーシャルが続いていた。
テレビを消して、また寝た。想定外の映像だった。試合の結果は、わからない。
その3
(2006年6月17日)
ミュンヘンの朝
窓のカーテンを開ければ、眼下に市電が通り過ぎていった。夜半に一度目覚めていたが、カーテンの隙間からは橙色の街灯の明かりだけが目に入り、電車の軌道には気付かなかった。前夜ホテルに入った際も、市内電車には出くわさなかったから、音を立てて行過ぎる市電の姿は、今初めて網膜に刻まれた。見慣れない風景も、ぼぅーっとしていては、感動もしないし記憶にも残らない。朝一番の光景が、旅行に来たのだ、しっかり目を開け、と教えてくれた。
我がイーザールトーア・ホテルは地下鉄「イーザール門」駅から近く、市電の軌道がホテルわきで曲がって走っていた。門前のプラタナスの街路樹は少し線路を隠していたが、注意すれば市電の動きはわかる。
午前8時過ぎ、1階の食堂に下りていった。エレベーターは4階から1階を通り過ぎ「E」のマークのフロアで止まった。道路のレベルが基礎階、Eで表記されここもパリなどと同じヨーロッパであることが甦って来た。ホテルの2階は、日本の3階に相当するわけだ。
受け付けわきの食堂には、客は少なかった。一人者が4人、アベックがひと組。女一人のテーブルも含めて、のんびりした雰囲気だったから、僕も悠々と窓側の席を占めた。食べ物は自分で勝手に選び、運ぶバイキング方式だったが、メニューは豊富だ。チーズとハムは4種類も5種類も並び、野菜はキュウリとトマトだけだったが、ピクルスもあった。卵はボイルとスクランブル、ヨーグルトはどろっとしたのとブルーベリーの実が入ったのとがあった。いやいや、これは有り難いなあ、と品定めをしているところへ若い男が「お茶ですか、コーヒーですか」と聞くので、「今日は、ティ」と答えると、間もなくポット入りのお茶がテーブルに運ばれてきた。
冷たいオレンジジュースを一息で飲み、牛乳はパンを食べながら飲んだ。パンもドイツパンのトーストが3種類に、コッペパン大の2種類、白いトーストがあったので、黒いドイツパンを2枚とサンドイッチ用に円いパンを選んだ。トーストにバターを塗り、チーズとハムを乗せ、その上にトマトのスライスを添えてから二つに折った。お手製サンドイッチはやっと口に入るほどの厚さになったが、なに、誰が見ているというわけではない。構わぬ、と一人納得して大口に運んだ。
満腹。食後の果物はフルーツポンチだったから、小鉢に取り、その上にヨーグルトを掛けた。サンドイッチといいデザートといい、何もかもまぜこぜだったから、岡山の老母を思い出した。おかゆの上にイワシ魚粉やらホーレンソウのおひたしやら海苔佃煮やら、やたら何でもかんでも乗せて食べるのである。「親子、似ている」と細君の声こそ聞こえないが、病床の母の姿が思い起こされた。「やめ、やめ」。今から感傷的になっていては、旅は楽しめない、ビールも飲めない、サッカーの試合どころではなくなる。老母の記憶を、ママよっ、と消し去った。
窓の外に目を転ずれば、先ほどまでいたブラジル人が(黄色の代表ユニホームと顔つきからの想定だが)電車通りの向こうで、ホテルの写真を撮っている。記録に残すのか、小まめだなあ、と感心してみていると、今度は提げ袋からビデオを取り出し、同じ風景を撮影をしている。終わって、どこかへ向かうのかと思えば、また戻ってきた。で、ホテルのフロント嬢に地図を貰い、そのまま部屋に戻るのか、エレベーターホールへ消えた。何だ、食事と共にホテルを写そう、と前もってちゃんと計画していたらしい。
そろそろ僕も、切り上げて、行動開始だ。
モダン・ピナコテーク
ホテルを出た。Sバーンに乗り中央駅に向かうのだが、気懸かりがあった。切符を持っていないのである。駅入口に自動販売機があるにはあるが、書いてあるドイツ語がわからない。下りのエスカレーターがカラカラ回っているのでせかされ、電車に飛び乗ってしまった。切符を買おうとしたのだが、買えないのである。確信犯ではないぞ、などと思うが、気持ちは落ち着かない。時々検札があり、見つかると罰金は3倍、だとガイドブックに忠告が書いてあった。捕まったら、どうしよう。「フスバル、フスバル」とサッカー観戦の旅行客を強調して、免れるか。黙って罰金を払うか、などと思案していたら、三つ目の中央駅に着いてしまった。助かった!
階段を登る足も早く、犯行現場から逃れる犯罪者の心境である。耳に、その切ない気持ちを誤魔化してくれる、賑やかなカネと太鼓の響き。
翌日の「オーストラリア対ブラジル」戦を控えて、両国のサポーターが乗り込み早くも気勢を挙げているのだ。まだ朝10時前だというのに、駅のコンコースで、輪になって踊り始めている。ブラジル戦でお馴染みのカネの音。チンドン屋の鉦が早鳴りしている、チキチキ、チチキチ・・・サンバのリズムに、思わず体を動かさずにはいられない。聞き惚れ、ブラジル連に見とれていたが、そうだ、やることを片付けねばならない。
DBサロンと表示があるので、2階へ上って「リザベーションか」と聞くと、鉄道チケットの前売りは1階だという。ここは、市内交通の案内だ、「ご用はありませんか」と、親切に教わった。下に降り緑の窓口風のホールを探して、並ぶ。後から気付くのだが、真ん中に行列の空いた窓口があるが、そこは1等客用であった。フォークスタイルで行列し、窓口が空き若い女性駅員が応対してくれた。翌18日のミュンヘン〜シュトゥットガルトの座席予約を済ませた。
さあこれから、ミュンヘン観光だ。
駅前に市観光局の案内窓口があった。市内交通フリーパスの「ミュンヘン ウエルカムカード」1日券(6・5ユーロ)とガイドブックにあった「市内とオリンピック地区観光」バスの予約チケット(19ユーロ)を買った。市内交通図と観光パンフレットをくれたが、前日から空港やホテルで寄越したのがあり、地図はもう結構だと断った。観光バスは午後2時半に駅前発、乗り場を確かめておいた。
第一の目的地に向かう。地図にあるUバーンで最寄り駅に降りたが、目標のモダン・ピナコテークは歩いて結構かかった。案内標識にも紛れて、市電通りに面した美術館まで10分以上歩いたか。もっとも凱旋門や大学だか何だか、古い建物が並ぶ緑の公園を歩くのだから、気が急きさえしなければ素敵な散歩だ。知らない町では、目的地へ急ぎたくなるものだ。道がわからない分、時間がかかり、何だか焦ってしまうものだ。
ガラス張りの入口、実はこれは出口の裏門だったのだが、何となく受付ロビーに出た。「チケット」と聞くと、案内の女性は反対側のカウンターを示した。買ったばかりのミュンヘンカードを示したが、「当館では受け付けておりません」という表情で、正規の9ユーロを払い、さて、とホールに進んだが、今度はガードマンが「荷物はロッカーにおいて来い」というお達しで、階下への階段を指し示した。
身軽になって、まず「建築とスポーツ展」を覗いたら、過去のオリンピック大会と会場の写真やパネルが並んでいて、東京の写真が見つかった。
現代美術は、難しい。形、色、構図、そして何が描かれ、何が伝えられるか。素材もキャンバスに限らず、紙や鉄板、平面だけでなく組み合わせの抽象立体もある。なんでもアリだ。
ヨーロッパ有数の、とガイドブックに謳われているがその通りかも知れない。ピカソ、マティスからウォーホールまで見事にそろっている。しかし、やんぬるかな、僕の眼は不出来だ。今思い出しても馴染みの色や構図は記憶するが、これといって新しい印象深いもの、興奮は得られなかった。
BMBがデザインとして展示している車体とそのバックにある空と雲の風景が、自然なものとして目に残る。印象深いものがない、といったのは不正確で、「美しく、好ましい」ものの印象が無い。実際グロテスクな形や不愉快な黒色の展開や作家と思しき人物が自分のペニスを露出する写真に至っては、グロテスク以外の何ものでもない。
僕は思うのだ。美術、の言葉と縁遠く、現代アーティストは醜悪なるもの、不快なもの、美しくないものを頻繁に表現する。恐らく、「深く内面に潜む人間の感情」を暴露したり、目に見えないものを抽象的に表現したり、というのが狙いであろう。
これでもか、これでもか。実相に迫る、というのである。だが、その試みが美しい、好ましいものであり、うっとりするような気持ちを誘うかとなると、まったく反対だ。
美術が現代の鏡だとすれば、この世は相当に汚染され、美醜の価値が倒錯しているようだ。人それぞれの美意識はさまざまだが、人類、人間の歴史から醸造された共通の美意識もある。美しいモノに感動する遺伝子を、誰もが間違いなく埋め込まれているのだ。ややこしくなるが、それ故にこそアーティストは既成の美意識と戦い、創造の最前線で苦闘するのだが。
現代美術が伝統の「美」を捨ててまで、代わりに求めるものは、何か。
もしかすると、21世紀の今日、来るところまで来てしまって、「美なるモノ」の価値や意識、その感覚が崩壊するレベルまでに、人類社会が変化してしまったのであろうか。芸術家の表現は、人類破滅の断末魔の叫び、絶望の叫び声に聞こえる作品が現れている。
待望の美術館で僕は行きつ戻りつ、美を探る目を鍛えていた。
電車通りの向かいにアルテ・ピナコテークがある。こちらは世界六大美術館の一つ、とガイドブックにあるが、大いに圧倒された。入り口で、どこを見るのか聞かれたから「ルネサンス」と答えたら、食堂の中を通って行け、と指示された。変だなあ、と思いながら進むと、なんだ、さっきの入り口はどうやら特別展か何かの裏口だったらしい。改めて入り口を尋ねると、正面から右手への長い階段を教えながら、急に「お前は、あちらのエレベーターで3階へ上がれ」とホールの隅にあるリフトを教えてくれた。年寄りに見えたのか、疲れた顔色をしていたのか、わからない。
エレベーターで上がった廊下から広い展示室へ入ると、そこにあった!
ラファエロの「聖母子像」を三度も四度も戻っては、眺めた。鑑賞する回りの人の醸し出す空気で、同じ作品に気高さや親しみが交錯し、ある時は天使の表情が滑稽に見えたりして、変化が生じた。お陰で、一幅の絵が様ざまに映って、満腹するような気がした。
ミュンヘン・オリンピック公園
中央駅まで市電で取って返し、予約の市内観光のバスに乗った。日本人らしき人物が一人いたが、まあそのうち知り合えばいいか。ブラジル人家族が犬と一緒に乗り込む。案内は中年のマリア何とかさんで、ドイツ語は早口、英語はゆっくりとマイクで話す。サッカー話は、この町の英雄、オリバー・カーンから始まった。バスの進行に合わせて、手柄話が続き、チームの控えに留まっているのが我慢なら無い口調だ。
先ほど一人でうろついたピナコテーク辺りを抜け、オリンピック公園に着いた。
バスを降りたところで、WH氏と知り合った。42歳、ハイデルベルグにある同名の印刷技術会社にお盆までの出張研修中、これまでに何度もドイツへ商用で訪れたことがあるが、休日を利用して初めてオリンピック公園を訪ねたという。ドイツの気候、景気、失業率、オクトーバー・フェストの賑わい、東独併合への不満・・・さすが現役のサラリーマン、話が具体的で観察も鋭い。本業は先進のドイツ製印刷機械を日本で売りさばくことにあるのだが、彼我の風土の違いを考えて、ドイツ製をそう押し付けてすむものでもない、と承知されている。会社寮の一人暮らしで、時に自炊も試みるらしいが、大阪に残している妻子が恋しいという。その寂しさを紛らわすのが長距離国際電話だそうで、5ユーロで3、4時間長々と話せる、とかいうカードの存在を教えてくれた。
バスが我がホテル近くの英国公園やイーザール川沿いを走って振り出しに戻ると、WH氏はわざわざカードを売っている店まで案内してくれた。「日本向け」というところが肝心だが、カードの裏の番号などを打ち込みながら、どこの公衆電話からでもかけられますよ、と教えてもらった。
オリンピックタワーに上ったことは、記録しておこう。サッカー競技場が遠方に見えた。ドーナツのような観客席の形は、曇り空に浮かんで、風変わりな建築に思えた。絵葉書では夜間ライトアップされた姿を紹介していたが、闇に青色の巨大なUFOが浮かんだように見える。タワーの展望台でお互いに記念写真を撮りっこした。眼下にBMWの博物館が建築中、その向こうに工場が広がっており、オリンピック会場よりも重要な施設、と見えた。そのオリンピック競技場にはいくつものテントが張られており、マリアさんがいうには、ヒッピーの市場です。ヨーロッパ中のヒッピーが集まって、何をしているのだろう。WH氏は「ガラクタを売っているのでしょう」といったが、ぜひ覗いてみたかった。残念ながら団体行動の観光ルートだから、時間が無かった。
今年見た映画「ミュンヘン」を思い出していた。
近くの選手村でイスラエル選手が惨殺され、政府の了解の下、イスラエルの秘密工作員が報復のため、アラブ人テロリストたちを次々に暗殺していく。
観光客で賑わうこのオリンピック公園で、かつて繰り広げられた殺戮の場面を想像した。
過去の歴史に根ざす怨恨は、何を惹き起こしてもおかしくはない。恨みは、だれにでもある感情だ。だが、殺し合いは、無益と知るべきだ。復讐は憎しみの連鎖を招くだけで、生きて助け合う方が、よほど人類には貢献する。戦争だからといって合法的に殺しあっても、所詮殺し合えば、憎しみが生じる。果てしなく続く殺戮、抹殺の罪を、最後にだれが裁くのか。
人間同士の殺し合いは、無益と知るべし。国威はサッカーで、決せよ。
WH氏と別れ、駅前からカール広場を抜け、ノイハウザー通りへ進んだ。午後5時ごろだが、町は日差しの中、明るい。
ブラジルとオーストラリアのサポーターが行き交う。飲む、歌う、踊る・・・
喧騒を避けて二つの教会を訪ねた。聖ミヒャエル教会と聖母子教会。重い扉を開けて中へ入ると、どちらも外界と遮断された。どこでもそうするのだが、祭壇から遠い、後ろの方の信者席に座り、しばし、その場の空気に浸る。心が鎮まる場合もある、周りの絢爛豪華なインテリア、絵画やステンドグラスに目を奪われて興奮することもある。
聖母教会ではブラジル人が静かに祈りを捧げていた。勝利を願うのか、遠い家族の安穏を祈るのか。僕は、宗教心がないとはいえ、教会の雰囲気にはいつも和まされる。ほぼ好ましい心持ちを得て、感謝の一言「お邪魔しました」とつぶやいて退出する。
ホテルに戻り、荷物をごそごそ整理して、また前夜のカフェに向かった。前と同じ席はふさがっていたので、止まり木スタイルの席を見つけて、相客と「チェコ対ガーナ」戦のテレビ中継を見た。ビール3杯。
ミネラルウオーターの持ち帰りを頼んだら、栓を開けて持ってきた。ホテルへ直行。午後9時からの「イタリア対米国」戦は、夢の中で見ていた。
その 4
(2006年6月18日)
夜半のテレビ
相変わらず夜半に目覚める。ここはどこだ。
ミュンヘンの宿。昨夜も近くのカフェで、一人で飲んだ。パスタにソーセージを添えた皿にビール。帰ってTV観戦中に寝たのだが・・・
(旅日記から)
テレビをつけると!!Sex shopのCM連発。水着の女、誘い文句、電話番号・・・しかし、ひとわたり鑑賞してみるが、「劣情を刺激する」といった扇情的なCMではない。事務的というか、淡々として穏やかで、単に商品が女性、というだけのCMに、見えてきた。日本の深夜番組で披露される愚劣なセリフやこれ見よがしの女性の胸元の方が、よほど下品で醜い。
考えた。これは、女性蔑視、人権無視のお手本ではないか。ドイツの女性首相の第一義は、売春禁止だ。と、思ったが、まあ男性の求めるところを実行しておかないと、社会不安を来たす。あるいは非合法ビジネスは必至だからそれはアングラ、闇社会のビジネス盛隆に至る。かえって逆効果、と考えれば売春は社会安定の保険コスト、ないしは摩擦のクッションかも知れぬ。女性蔑視には違いないが、女性が商品化される社会がある。甚だしい場合は、男性が商品化されるのが流行のように描くイエローメディアもある。こうなっては、もうモラルも道義も役立たず、本能と商行為がドッキングし大手を振ってまかり通るわけで、正義も法も及ばない。
真に性本能と社会秩序の維持はバランスが難しい。時代、時代、環境次第で調和をとればよろしい。と考えが落ち着いたところで、テレビの女性にも飽きてしまい、モーニングコールをセットして、眠りに落ちた。
起床。
食堂に下りる、前日のブラジル人の姿はない。代わって日本人男女二人。サムライ ブルーのユニホーム着用。よく見ると、昨夜広場のカフェのそばで、一人一冊ずつのガイドブックと宵闇の中でにらめっこし、ホテル探しに懸命だったペアだ。立ち上がったついでに「お早う」と声をかけ「応援、勝つといいですね」と話しかけ男の肩を二つ叩いておいた。ニュルンベルグのクロアチア戦へ出かけるのだろうが、よくぞチケットをゲットして、と羨ましい限りだ。それにしても話しかけたときには、共にニコッとしていたが、その後は二人とも互いに話さず、黙って食うだけ。しかも、僕の席と2メートルも離れていないというのに、食後はさっさと出て行ってしまった。こんなものか、と思うが挨拶ぐらいするものだ、この世間知らずめ!朝から腹立たしくなるのはまずいが、いったい二人は何者か、と詮索したくなった。
夫婦ではあるまい。女が男に給仕する気配は無かった。「コーヒーかお茶か」と聞かれて、顔を見合わせていた。ふだんの暮らしがわかっていない同士だ。女が追加の皿を取りにビュッフェに立つ様子も無い。普通なら「あなた、もう少しヨーグルトをかけてフルーツを食べたら。私が取ってきますから」とかなんとか気を配るものだ。あたふたと食らって、そそくさと出て行ってしまった。ま、ジャパンの応援に夢中で、落ち着いて食べている場合か、と理解しておこう。
ホテル引き払い。2日間で210ユーロ。値段が均等でないのは、週末金土のせいだろうが、時節柄まあ妥当な値段だ。僕の前にブラジルとオーストラリアのオジサンたちもチェックアウトしていたが、250ユーロを払っていた。どういう違いがあったのだろうか。ま、いいか、他人のことは。
中央駅へ地下鉄で。相変わらず無賃乗車で前進したが、一昨日ミュンヘンカードを買ってあるからといっても、もう3日目では有効ではない。逆に試合日だから、みんなで渡れば怖くない、という心境だ。駅の2階でコーヒーを飲む。7ユーロとは、高い!
体の回りにサンドイッチ状の張りぼてデコレーションをまとったサポーターが現れ、周りのフラッシュを浴びている。ぼくもカメラを取り出した。まったく、自己顕示欲の権化みたいなサポーターが現れる。ワールドカップは選手ばかりに見せ場があるのではないわい。サポーターにも、祭りだ!
違った!マグドナルドの回し者だ。人目を惹き、店へ呼び込む、何のことはない、サンドイッチマンだった。便乗商法、抜け目なし。
クロアチアの紅白格子ユニホームを着た女の子の父親が、通りすがりのオーストラリア人に「お願い」と身振り手振りで大きなカンガルーのぬいぐるみを抱かせてもらい、写真をとっている。娘の周りにオーストラリアの黄色のサポーターが集まり、幼い娘は父親を見上げて、きょときょと。今度はオーストラリアが気を利かせて父親を手招きし、カメラを受け取って親子の写真をとっている。周りに人垣が出来て、中からカンガルーのそばに立ちたがる若者が加わり、また被写体は膨らんだ。国際撮影会は続き、きっかけの親子は逃げ出せないし、ぬいぐるみを返す相手を見失った様子で、おたおたする始末だ。
駅のコンコースで繰り広げられる果てしない出会いのドラマを、僕は高いコーヒーを飲みながら、眺めている。そして、なぜか急に、涙がこぼれた。
仲良しが、いい。仲良きことは、美しい。自然な人の出会いが、良い。
ミュンヘン発ドルトムント行きICE518号列車は15番ホームに待っていた。DB,すなわちドイツ バーン、ドイツ鉄道の旅が始まる。僕は日本でいわゆる「ジャーマンレイルパス」8日分を購入していた。額面240ユーロで、3万5600円。前日座席指定を取った際の手数料は、3ユーロ。ドイツ中、2等席でどこへでも特急でも急行でも乗れる。いわば旅の優れもの、便利この上なしの通行手形であった。
指定券には日付、発車時刻11:26、発駅ミュンヘン中央駅、行き先シュトゥットガルト、到着時刻13:47、クラス2等が一段目に書かれ、その下に列車番号、車両番号、座席番号が示されている。チケットに問題は無いが、車内で困ったのは、座席番号表示が窓枠の上で、小さくて暗いこと。液晶技術の問題だが、お年寄りがメガネをはずして見つめる姿が何度も見られた。僕も、仲間だから、近寄ってみたいのだが、すでに客が座席に座っているときは、往生した。尋ねるには、10以上の数字だから、ドイツ語の言葉が分からず確かめようがないのだ。
ホームに進む。最後尾が30号、次が31号で、32、33号、あれっ。僕の26号車、どこだ。33号の先で鼻面のある列車がつながっていた。28,27,26号。あった!
この車両は面白い。先回りのドアから乗り込むと、まずトイレが二つ。そこから三つはガラス戸の個室コンパートメントで、ゆったりした向かい合わせの4人掛け。真ん中の仕切りには、大きな白い犬が寝そべっていている。こんな婦人と相乗りになったら、犬嫌いのうちの細君は泣き出すだろう。僕の座席「61」は進行方向に最後尾の一人席だった。背中向きで走っていく。通路をはさんで、62、63.その後ろに64,65でシートはおしまいだから、ちょうど客席の曲がり角、僕はキャリーカートを網棚に持ち上げず、横にして床に置いた。迷惑にはならない余裕のスペースがあった。
シュトゥットガルトへ
小麦畑と牧草地と。車窓の景色に心安らいだ。道中は2時間少々。
ミュンヘンを出ても、平原を走っているのが遠景でわかる。突然、ビールを飲みたくなった。ああ、ビール、ビール。だが、リュックの袖にはミネ水しかない。残念だ、と思っているところへ、背中から何だか、ドイツ語が聞こえる、振り返れば袖に「DB」の車掌さんだ。検札、と察して僕は小ケースからパスポート、指定券、レイルパスの3点セットを差し出した。背の高い男は直ぐにレイルパスにパンチを入れて返した。パスポートにも指定券にも目を向けなかった。レイルパスには自分で使用月日を書く仕組みだが、18/06の上に日付と5桁か6桁の数字がインクで打ち込まれていた。せめて座席の確認ぐらいしてくれれば良さそうなものだが、指定券、パスポートの順に返し、最後のパスを手渡しながらニコッと次の乗客へと進んだ。乗客の氏素性など、どうでもいいらしい。以後一度もパスポートの呈示を求められることもなければ、僕の方から差し出すこともしなかった。ガイドブックは過剰警告が多すぎる。
ビールの代わりに、水で済ませた。乗り越しては、いけない。
北海道の草原、日高本線を新幹線で突っ走る風情だ。シラカバ、アカマツ、モミ、カエデ、ニレ、ヨーロッパトウヒなどが増えてきて、山岳地方へ近づく気配がしてきた。
牧草地を電柱の列が走っている。電柱の足元に表情がある。背丈ほどの白い花が茂っているかと思うと、潅木の緑で覆われているのもある。草刈鎌でしっかり根元まで刈り込んだのもある。持ち主の遊び心か、成り行きでそうなったのか。あっという間にその場の観察は終わるのだが、あっ、また電柱が。今度も同じように白い花が咲いている。
遠くに、白い塔。風力発電の設備だとわかる。大きな羽根が、止まったままだ。風は、わからない。
線路沿いの砂利道を、両手を杖で支えて歩く老人がいる。
町外れ、線路沿いに菜園。作業小屋も備えて市民農園の趣き。
ニュー ウルムという駅。駅前駐車場の壁面にびっしり発電パネルあり。
高い尖塔が見えてきた。ガイドブックを開く。ウルムの大聖堂だ。161.3メートルの高さは世界一の塔。ケルンに次いでドイツで二番目の大きさは、町のシンボル、とある。1377年から500年以上の歳月をかけて建てられた。143メートルの高さまで768段の階段で登れるそうだ。ドナウ川沿いに見えたが、いやあ、でっかい。
丘陵の斜面にブドウ畑が続いている。支えは鉄棒かコンクリート製だ。鉄道線路、道路、住宅のそのわきからブドウの木が斜面を駆け上がっている。でも高さは200メートルまでか。車窓から見過ごしたウルムの大聖堂の高さに改めて驚いた。ブドウの収穫は秋、どんなワインが出来るのやら。
「まもなく、シュトゥットガルト」とアナウンスがあった。「マダム」で始まったり、「乗客の皆さん」は抜きにいきなり駅名だけ告げたりする場合もあった。大きな駅ではドイツ語に続いて英語のアナウンスもしているから、安心だった。乗り継ぎ駅では「どこどこ方面は何時何分発」と説明が続く。それもこれも座席に置いてある列車番号が表紙に書いてある行程パンフレットで、通過駅名と乗り継ぎ情報が確認できる。ターミナル駅の例にならって、シュトゥットガルト駅も、ドーム屋根の下に列車は導かれて停まった。さあ、着いた、出会いが待っている。
タラップの下に、懐かしいジーグフリートさんの笑顔があった。タラップから少し低いホームに、キャリーバッグを下ろすと、彼はすぐに手を伸ばしてきた。まず、挨拶。
「ハロー、サンキュー フォア ウエルカミング」。で、良かったのか、どうか。僕は「いやいや、お迎え、申しわけありません」と日本語を添えると、「ナイス ツー ミート ユー」と返事があった。カートがどうもきしんでコロコロではなくガラガラと音を立てるのにもかまわず、ジーグフリートさんはホームを過ぎ駅舎を抜けて表通りに面した駅の正面出口まで、急いだ。急ぎ足には、わけがある。左手の車から、オッチャンが降りてきて、タッタッタと近づいてきた。握手。
「このたびは、お世話になります。どうか、よろしく」と僕は少し堅苦しく挨拶すると、オッチャンは「お会いできて、うれしいですわ。お疲れにはなりませんか」と気遣ってくれた。ジーグフリートさんはもう自分の車まで進み、運転席から歩道側のドアを開けている。車に乗る、すぐに動き出す。オッチャンがいう。「ここは駐車がうるさいから、逃げ出して近くの駐車場に行きますから」。なるほど駅前は迎えや送りの車で歩道沿いはびっしり詰まっている。後から人を降ろす車は二重駐車までして、付近の混雑はなはだしい。もっとも歩道をパトロールしている警察官はおっとりした表情で「ワールドカップが賑やかなのは、当たり前」てな態度か。
「街中の大きなスクリーンで、日本戦を見て行きませんか」
「異議なし」車は駅近くの駐車場へ入ったが、満車の感じ。だが、奥に進むと幸い一台分だけ空いていて、ジーグフリートさんはそこへ頭から突っ込んだ。駐車場は上下に広がっているのだが、彼は地上階で間に合わせようとしたらしい。表に出る。荷物がなくなったから、せいせいして気持ちいい。だが、表はまぶしく、暑い。オッチャンはサングラスをかけていて、左右に目を向けて「渡って、公園にいきます」と案内した。
右手の建物は「シュトゥットガルト バレエ オペラ劇場」。脇にポスター掲示板が立っており、女性の大きな写真があった。広場の先には、池が広がっているが、その前にはテントの露店が並んでいる。なんだか、縁日のお祭り気分だ。「この池、名前はシィー、湖と付けられているのですよ」と大げさな名称を笑っている。見るほどに底は浅く、中央に仮設ステージこそしつらえてあるが、子どもでさえピョンピョンと苦労せずに歩いて渡れる大きさだ。近づいてボートが浮かんでいるのに、カメラを向けていると、オッチャンがベンチの脇から離れないで、立っている。どうしたのかな、と後戻りすると「盗まれると、大変ですから」と僕が残した肩掛けバッグを見守ってくれていた。そうか、置き引きやスリがいないわけではない。パスポートにレイルパス、TCも入っているのだから、うかうかは出来ない。申し訳ないと反省し、この後ショールダーバッグは、一度も置きっぱなしには、しなかった。
「さあ、行ってみましょう」。ドイツ大会のアイデア賞は、開催都市に設けられたPVだ。試合会場に入れないファンのために、大型場面でテレビ中継を楽しんでもらおう、という企画。囲い込むけれど、入場のお代はタダ。ビールも飲めるから、結構盛り上がって、近隣ヨーロッパからはチケットの無いサポーターが雰囲気を味わうために押しかけた。シュトゥットガルトでも中央駅に近い公園に、大きなモニター画面とステージがしつらえられた。入り口に近づくほどに、周りは赤白格子模様のユニホームを着たクロアチアサポーターばかりが目につく。サムライ ブルーの影も形もない。ボディチェックを受けて会場内に入ると、ますます紅白模様が広がっている。30度を越す熱い日差しの中に、日本人はいないかと見渡すと、ようやく5,6人の小グループが一つ。二人連れの婦人が近づいてくるので「多勢に無勢ですねえ」とぼやくと若い方が「負けですわねえ」とあきらめ顔だ。日本人の劣勢を心配してかジーグフリートさんが「暑いから、外に出ましょうか」と気を利かせる。外のショッピングセンターを覗き、その隣の美術館の説明をしてもらったりしているうちに、いよいよ試合開始の時刻が近づいてきた。駅側の入り口に回ると、これが、押し合いへし合いの行列。ボディチェックが厳重、丁寧で進まないからだ。「女性は別口ですね」と。オッチャンはさっさと中に入ったが、僕たちは20分近くも掛かって行列を抜けられた。
「ビールを飲みますか」との誘い。この熱さだから、もちろん「ヤーヤー」とテントに向かうと、ジーグフリートさんが「ここは、お任せ下さい」という。真にこの人は、相手への気配りが丁重で、「頑固なドイツ人」のイメージを一人で挽回している。頑固、と書いてしまったが、僕のドイツ人に対して持つマイナスイメージは、規則がんじがらめ、不遜、理屈っぽい、戦闘好き。ところが、ジーグフリートさんは世話になった2日間の最後の最後まで、何か心配は無いか、何か困っていることは無いか、と気を揉んでくれた。思うに、ドイツに暮らす日本人妻のオッチャンも、最初の日からそれはそれは心強かったことだろう。ビールのコップを二つ持って戻って来ながら、彼は僕のために木陰に、人の隙間を見つけてくれるのである。周りは紅白模様ばかりだったけれど、これは致し方ない。
日本対クロアチア戦。
PV観戦。GK川口のプレーが印象的だった。イレギュラーバウンドに、肝を冷やしたが、PKを食い止めた。周りの敵陣営からはため息だ。前半は0―0。
「後半は、場所を変えて見ましょう」と会場の外へ。駐車場の上にあるレストラン、聞けば博物館付属らしい。大きなテレビが備えられているのだが、お客は表に一組。我々は丸屋根ホールにデンと構えて、独占状態。若い娘がメニューを持ってきて、注文を聞く。美人に答えるには「ビア」以外はない。オッチャンも「小グラスで」と注文したから、安心した。男たちだけが楽しんでいては、不公平になる。
冷たい、うまい。昼間からのビールは最高だ!
試合は、一進一退。負ける気配は感じなかったが、勝てるほどの気合も、技術も感じなかった。残念な引き分け、に終わった。
「この上が、音楽大学ですから、タワーに登ってみましょう」と案内された。塔屋に来ると、女子学生二人が日光浴をしながら、お喋りをしていた。人口60万人弱のシュトットガルト中心部が見渡せた。
「ミュンヘンは平原の町だったでしょ。ここは丘陵に囲まれて、町は起伏に富んでいるのです」という説明で、先ほどのブドウ畑が納得できた。町を囲む緑が、美しい。この暑さでも、周りの緑でどれほど気持ちが和むことか。眼下の校舎の屋上にも、枯れてはいたが草が植えられていて、いわゆる屋上緑化の努力が見られた。
オッチャンは上野の芸大からこの地の音楽大学に留学し、ピアニストの道を進み、結婚し家族を持ち、ドイツで生きてきた。「最初来たとき、なんとひどいところへ来たものか、と泣きたいほどでした」といきなりいう。どうやら当時、大学の校舎がお粗末だったらしい。僕の目には、立派な鉄筋コンクリートの建物、あまりひどいとは思えないものだから「そんなことは、ないでしょう」と答えた。もしかすると、対象の建物が違っていたのかも知れない。確かめるほどでもないと、思ったのだが・・・泣きたい、とは!
階下に戻ると、ホールの扉を覗く。誰かが演奏しているらしい。重い扉を開けて進入すると、パイプオルガンの荘重な響きが広がっていた。誰もいない客席に、三人だけで腰をかける。階段式のホールのステージの奥に、パイプオルガンの演奏席があり、一人が弾き一人が見守っている。授業なのか、特別指導なのか。一曲終わり、教官は出て行った。もうお終いかと見ていると、楽譜を繰って、また鳴り始めた。左右の吹き出し口が、全開になっている。後ろからオッチャンが「バッハですね」と教えてくれた。
熱い日差し、ビール、サッカー観戦。さっきまでフーフー言っていたのが、今ブァーブァーと鳴るパイプオルガンの音色に染まると、気分が納まり、体の火照りも引いていく。音楽の妙。独占コンサートは、終わった。
幸せ気分はしかし、ヒヤヒヤ気分に変わった。
帰りの車をジーグフリートさんが運転していくからだ。恐る恐るオッチャンに「大丈夫ですか」と聞けば、「ドイツではビール一杯は、OKです」という。奥さんが心配ないというのに、他人が大丈夫ではナイ、とはいえない。だが、PV会場で一杯、レストランで一杯。足せば2杯で、レッドカード、ではないのかッ!
シュトゥットガルト郊外、ワルデンブックのオッチャン宅へ着いた。
ホッ。
その5
(2006年6月18日 続き)
幼なじみ
シュトゥットガルトと書いてきたが、シュツットガルトと使われていることに気づいた。ローマ字では、 Stuttgart とあり、発音の記憶がないのでどうこういえない。列車の指定券を買うときに、シュツッツと言ったか シュトットと言ったか。自分はシュトゥットゥ と、小さなゥを強調して発音していたように思う。
外国語の発音は、そう発音したように思っても、ネイティブにとって聞こえる、あるいは聴こえる耳では、別の音のように響いている場合がある。僕などもロシア語の シェーとかジェーとかの発音は今もって自信がない。100円ショップで見つけドイツへ出かけるときに携行した「そのまま使えるドイツ語会話 旅行に役立つ」(大創出版)にも、Goethe に触れて大先生を「ゲーテ」とカタカナ書きをそのまま読むと、ほとんどドイツでは通じない、とあった。ウムラウトと呼ばれる変母音などはことのほか、発音というか聴音というか、外国人を悩ませるらしい。ゲーテ、では、友人T宅のドイツ人留学生によれば、「逃げろ」とか「行け」とかに受け取られてしまうそうで、文学談議がパニック話になりそうだ。
そういうわけで、シュトットガルトの表記は、大方の使用例に従い、シュトゥットガルトと変える。
Wardenbuch をどう呼んだらいいのか。とりあえず、ワルデンブーフぐらいに書いておこう。シュトゥットガルト中心部からカーブの坂道を登り「この先には高級住宅地があるのですよ」と言われても、どの辺りか皆目見当はつかないままに、高速道路に出た。「これが、アウトバーンですか」と聞くと、単なるハイウエイです、という。100キロ以上で、酒気帯び運転ではないかと心配しながら走る。「新しいメッセをつくっています」。緩やかな丘陵地に入り、住宅街を抜けて、やっと着いた。時間にして30分以内。車は玄関脇のすき間へ乗り入れて、停まった。材木を組んだ屋根から、ツタの葉が下がっている。「さあ、着きましたよ、どうぞ」
玄関を開け、二人は僕を招じ入れる。段差もなく、これは日本でいう西洋式。靴は脱がずに室内へ。それにしても、気持ちの良い玄関だ。靴箱と飾り棚が左右に配置されているが、まず小さっぱりしている。無駄なものが目に入らない、置いていない。床、たたきは、灰色のスレートを敷いてある。腰板は木材を使ってある。まっすぐ玄関の先に茶色のピアノ、その脇からテラスへ出ると、緑の丘陵地が広がっている。色づいた小麦畑が夕焼けに金色に輝いていた。表の光景に見とれていると、オッチャンは右手を指し、「この部屋を使って下さい。ほらここが、トイレとシャワー」と玄関ロビーから右手廊下の先へ案内してくれた。壁中天井まで、本、本、本。一方の壁際に、僕のベッド。その反対側にも床から二段ほど、低い書棚が置いてあった。ジーグフリートさんの書斎だろう、と勝手に推測したが、部屋中がピシッとした感じだ。
細君の言葉を思い出していた。「どこでも、玄関が整理整頓されている家は、中もきちんとなっているものよ」。どこかのテレビで金持ちの家を訪ねる番組を見ながら、細君がもらした他人の家の評価の「鉄則」である。同感だ。僕も仕事柄何百、あるいは何千という他人の住宅を訪ねている。金持ちか貧乏か、贅沢か質素か、とは別の話だ。出入り口がきちんと整理整頓されていれば、その家はまず訪ねて気持ちが良い。家人、子どもも含めて家族の態度がしっかりしているものだ。家の中が整然としていれば、住む人の風格が現れる。玄関の花瓶に、花の一輪でも挿してあれば、その家の主婦に乾杯だ。もっとも僕などは玄関先に、ゴルフバッグを立てたり寝かせたり、時に「直ぐ片付けるから」といいながら新聞切抜きの段ボール箱などを放置しては叱られている。「一緒には、住みたくない」などと言われながら。
書斎の隣、ガラス格子のドアの向こうに大きなグランドピアノが見える。壁際にも、もう一台のアップライト。客用の応接セットが置かれている。窓はやはり緑の丘陵に開かれている。時計の針は、おう、もう7時過ぎではないか。
「これから準備しますからね」とオッチャンは僕を安心させる。「じゃあ遠慮なく、シャワーでも浴びていますから」と屋内観察を止めて、着替えに取り掛かった。キャリーバッグやリュックを開けていると、ビニール袋が出てきた。そうだ、これは、今朝まとめておいた汚れ物だ。思えば、家を出た3日前から、着替え着替えて、洗濯物がたまっている。僕はちょっと迷ったが、台所をのぞいた。
「勝手口が開いていたのですって」。二人で何だかあれこれ話しているのだが、ガレージの先の角にある勝手口の錠が掛かっていなかったらしい。街中の公園と違って、住宅街にスリはいないだろうけれど、やっぱり不用心なことだから、「以後、注意しましょうね」と話し合っているところだった。やっと、切り出した。「洗濯をさせてもらいたいのだけれど・・・」
「どうぞ、どうぞ」とオッチャンは階下に案内し、「ここが、洗濯室です
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