1996/04/27 - 1996/05/03
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<1996年4月28日>
翌28日、古都扶余(プヨ)と公州(コンジュウ)を訪ねました。公州で十数年前に発掘された武寧王の墓は、石室の内部まで覗く事ができました。
日本であれば、天皇陵に相当するものですから、今回の旅行でも最も感慨が深かった事の一つです。公州国立博物館は工事中とのことで、残念ながら見学できませんでした。
扶余の街は、百済(ペクチェ)王朝が滅ぼされる時に焼き尽くされましたので、今は石塔位か残っていません。しかし、金銅製の香炉が寺跡から無傷で発掘され、現物を光州国立博物館での特別展で見る事ができました。今も発掘調査が続けられていて、更に貴重なものが得られるかも知れません。
このほか扶余では、扶余博物館をはじめ、犀蘭寺(ゴランサ)、国宝に指定された香炉が出土した定林寺跡(チョンニンサジ)を訪ねました。
<古都、扶余(プヨ)紹介>
観光ガイドブックなどを頼りに、少し扶余の紹介をしておきます。扶余は日本とも関係が深かったとされる百済(ペクチェ)の最後の都です。
百済王朝当時,熊津(今の広州)から泗■(サビ)を経て、西暦538年に遷都されたようです。「泗■」は、今も「泗■楼」等にわずかにその名を留めています。扶余には、華やかだったであろう、往時の面影は全くというほど残っていません。今は静かな田舎町となっていました。
百済と同盟を結んだ日本から援軍が送られましたが、『白村江の戦い』で唐と新羅の連合軍に破れ去りました。この百済王朝の滅亡の時、女官数千人が、今は『落百岩』と呼ばれる絶壁から白馬江(ペンマガン)に身を投げたと伝えられています。扶余に遷都されてから123年後のことです。
『落百岩』の由来は、百済王朝滅亡の際、辱めを受けること嫌った女官たちが『白馬江に身を投げる様が、鮮やかな花々が落ちていくように見えた』ことから呼ばれるようになりました。そんな悲しい言い伝えがあります。
華やかだった扶余の都が、今は静かな片田舎になってしまったのは、王朝滅亡の後、寺院を含めて徹底的に王都が壊されたためであるようです。王族も日本を含め、外国へ亡命し、その後、百済王朝復活の試みはされなかったとされます。
後日知ったことですが、この時日本へ亡命した人数は30万人を超えたであろうとの研究成果が掲載された書籍を目にする機会がありました。日本文化への韓国文化の影響を検証する目的の研究であったように記憶しています。
<犀蘭寺(コランサ)>
犀蘭寺(コランサ)は、白馬江(ペンマガン)に面した岡の上に建っています。百済朝の城跡とも、王宮跡とも推測されている場所です。
Tnさんに教えて貰って、始めて気が付いたことです。犀蘭寺では千余年前のものと思われる瓦、土器等の破片の散乱を、今もなお容易に見付けることができました。本当はいけないですが、小さい土器の欠片をバッグにしまい込みました。全く価値がないと思われる、本当に小さい欠片でした。
一帯は扶蘇山(プソサン)に抱かれています。犀蘭寺の境内とその周辺にも、豊富な自然が残されていて、鶯やホトトギスの鳴き声を楽しむことが出来ました。黒地に白い羽が目立つ烏鵲(カササギ)が、地面に降り立つところも見る事ができました。
<定林寺址(チョニムサジ)>
犀蘭寺(ゴランサ)が岡の上に建っているのに対し、定林寺跡(チョニムサジ)は、街中の平地に位置していました。もともとは百済後期の名刹で、金堂、講堂、回廊が設えられた一大伽藍であったようです。今は石造りの五層の石塔が残っているだけです。
TnさんやMuさんの話では、『以前は広場にこの石塔が建っていた』とのことでしたが、今は場所はそのままに、建屋の中に納まっていました。つい最近に建屋工事がされたものらしく、買い求めた絵葉書の写真などは、建屋がなかった当時のままでした。
この石碑の一層目に彫り込まれた文字は『大唐平百済国碑銘』です。これは唐・新羅軍が百済を滅ぼした戦勝記念の碑文と考えられています。また、この石碑は『百済塔』と呼ばれています。
犀蘭寺の跡に残ったのは、この石碑と高麗時代の石仏一体だけでした。しかし、近年、この場所から見事な金堂製の香炉がほとんど無傷で発掘されました。ほかの発掘品と併せ、往時の文化の一端をしのぶことが出来るようになりました。
扶余、公州へ向かう途中にて
烏鵲の大樹に印す春木立
烏鵲の未だ帰らず春木立
連翹の縁取続くハイウェイ
白蓮の花のこぼるる時見たり
霧立つ野辺の送りを落花追う
犀蘭寺、百花亭を訪ねて
烏鵲の降立つ若葉の古寺の庭
鶯の声聞く異郷の山の寺
千年の瓦散敷く古寺の春
ホトトギス二声鳴て姿見ず
鶯に国なし海越え谷渡る
白馬江の川下りにて
春霞遮るものなし白馬江
船を待つアジュマが競う花の宴
踊の手挨拶交す春の川
春暖や異邦忘るる川下り
水温む川面に写す落花岩
落花岩川面に近き供養仏
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