2026/09/27 - 2026/09/27
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montsaintmichelさん
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今回は天守登城編として天守館内の展示物や最上階にある展望室からの360度の展望をレポいたします。
1階のテーマは「天守台穴蔵と心礎」。
2代目天守で言えば地下1階に当たり、ここでは戦国~安土桃山時代の荒々しい野面積みの築石技術が間近で見られます。また、かつては天守を支えた心礎と呼ぶ礎石の巨大さには度肝を抜かれました。
2階のテーマは「家康が生まれた城 岡崎城」。
展示物は、岡崎城や岡崎市が熱心に「家康生誕地」をアピールしていることから、家康絡みの展示物のオンパレードかと思っていましたが、意外にも家臣絡みの貴重な展示物が多く、いい意味で期待を裏切られた感があります。徳川系城郭にしては珍しい金箔瓦をはじめ、三河の猛将 長坂信政の大身の槍「伝相州広光」や本多忠直の藍革威胴丸用具など見所満載です。
3階のテーマは「庶民の活気 岡崎城下町」。
屋号の看板「かねあり」からは時代の変遷に伴う商家の苦悩の軌跡が見て取れます。また、掛け軸『山水図』や俳諧撰集『むしの音集』など興味が尽きません。
4階は「最新のデジタルシアターフロア」。
広大な城郭や総構えがドラマチックに再現されます。
展望室では「名古屋城をも凌ぐ広大な惣構えの謎」や「豊臣方が家康を警戒して造った惣構えの城なのに、殊更家康をアピールする謎」に思いを馳せてみました。
岡崎おでかけナビのHPです。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/okazakijo/top
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
岡崎城図(後本多家 江戸時代後期)
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
岡崎市発行「岡崎 名城めぐり」PDFより抜粋
https://okazaki-kanko.jp/image/display/Document/document/392 -
天守
1959(昭和34)年竣工、鉄筋コンクリート造3層5階の復興天守、設計は名古屋工業大学 工学博士 城戸 久氏が担いました。復興天守は建前上は関ヶ原の戦いの後に岡崎城主となった譜代大名 本多康紀が1617(元和3)年に再建した3層3階地下1階天守を模したものとされています。
因みに、1590(天正18)年に豊臣家臣 田中吉政が建造した初代天守は、完成から程なくして、1604(慶長9)年の地震により倒壊しました。 2代目天守は明治時代初期に廃城になるまで健在でした。
しかし 2代目の古写真と比べると、最上階には小窓しかなかったのに、大きな開口部を設け、更に回縁と欄干まで設えています。また、2重目の黒い下見板張りは白漆喰に変えられ、全体的に天下泰平時代の白い印象の城へ変わっているのが残念です。 -
天守
現在の天守は、2階~4階までが岡崎城の歴史と江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっています。各階毎にテーマを決めて往時の貴重な資料の展示やジオラマなどで岡崎城の歴史を学ぶことができます。
また5階の展望室からは岡崎市内が一望できます。矢作川や菅生川に囲まれており、三河平野や連なる山々、岡崎市内を360度一望できる大パノラマ展望台として人気のスポットです。 -
天守
天守正面にある石段を登った所が入口です。
館内は「過去の城郭・城下町と現在の岡崎がつながるストーリー」をコンセプトに、タッチパネルやデジタルサイネージ、色鮮やかな映像技術を駆使して岡崎の歴史を余すところなく、かつ判り易く解説しています。 -
天守1階:天守台穴蔵と心礎
天守の玄関口です。
1Fは周囲を石垣に囲まれた穴蔵となっており、この背面に発券所があります。
明治時代の廃城令で取り壊された往時の天守の用材も展示されています。かつての心柱の心礎(土台の石)は天守のスケール感が肌で感じられるものです。
尚、「日本100名城」スタンプは1Fにある附櫓で押せます。
写真撮影について発券所で確認した所、一部の展示物を除いてフラッシュを使用しなければ撮影可能だそうです。展示物の前に「撮影禁止」や「フラッシュ撮影禁止」と書かれています。 -
天守1階:天守台穴蔵と心礎
天守内部(地下部分)の石垣は荒々しい自然石をそのまま用いた野面積みです。
自然石が使われているのは、天守台が1590(天正18)年に豊臣家臣 田中吉政によって築かれた石垣だからです。よく観ると、隅角部の算木積みも未完成形であり、少し丸みを帯びるなど、戦国~安土桃山時代の築石技術が遺されています。
冒頭で記述した通り、吉政が建造した初代天守は地震で倒壊し、江戸時代に2代目天守が再建されましたが、天守台の石垣だけはそのまま再利用されました。 -
天守1階:天守台穴蔵と心礎
まず目に飛び込んで来るのは、天守の中心部に控える、かつて天守を支えた心礎という巨大な礎石です。天守中央を貫く太い柱を心柱と呼び、それを足元で支える土台の石が心礎です。
かつては多くの天守に備わっていましたが、明治時代の解体や戦災などで失われました。古式な望楼型天守の心礎が往時のまま遺されているのは姫路城と岡崎城の2ヶ所しかありません。
また、心礎のサイズ感も半端ではありません。何故、これほど巨大な心礎が必要かと言えば、2代目天守の時代には、この心礎の上に超巨大な木製心柱が立てられ、地上3階部分まで突き抜ける構造で天守を支えていたからです。
因みに心礎や心柱の構造は、元々は五重塔などの仏塔を建造するための建築技術でした。五重塔が地震で倒れないのは心柱が揺れを吸収する役割を果たすからです。宗教技術が戦国時代末期~江戸時代初期にかけての天守建築に応用されていたことを証明する史料です。 -
天守1階:天守台穴蔵と心礎
手前にある木造大柱(旧天守の用材)は、丸太ではなく、角材です。それは、安土桃山時代末期~江戸時代初期にかけて、大鋸などの普及が進んだからです。そのため、切り出した巨木をそのまま使うのではなく、強度を均一にし、壁や梁など他の構造材と組み合わせるため、職人の手により角材に加工して使用するのが主流となりました。
左奥にあるのが分厚い木製の「潜り戸」です。スケール感が判り難いので恐縮ですが、とても小さな扉です。何故なら、城門などの扉の一部に設けた、人がかがんで通る小さな隠し扉(通用口)だからです。戦国~江戸時代初期の城門などの扉は、敵の侵入を防ぐために大きく重く、一度閉めると開閉に多大な労力が必要でした。そのため、通常の出入りにはこの「潜り戸」を使用していました。 -
天守1階:天守台穴蔵と心礎
2代目天守に使用されていた鯱瓦や発掘調査で出土した瓦の破片などが、2代目天守の写真パネルを借景にして展示されています。
この鯱瓦にはユニークな特徴があります。一般的な鯱瓦のデザインは、鋭い目付きや鱗を強調したシャープな形のものが多いのですが、この鯱瓦はどこか愛嬌のある狛犬を彷彿とさせる丸みを帯びた顔付きをしています。これは、往時の瓦師の作風や制作年代(江戸時代後期)における流行による特徴と考えられるそうです。現在ある復興天守の屋根の上にはブロンズ製の鯱が載っていますが、このユニークな鯱瓦が原型のひとつとして参照されたそうです。
因みに岡崎城では、江戸時代に使われたとされる金箔瓦の破片も出土しており、鯱瓦が単なる建物の飾りではなく、城の権威の象徴であったことを物語っています。 -
天守2階:徳川家康のふるさと・岡崎藩の支配
岡崎城城郭のジオラマが展示されており、家康生誕地としての歴史や江戸時代の岡崎藩にスポットを当てたフロアです。岡崎藩ゆかりの本物の武器・武具(刀剣や甲冑など)や藩政にまつわる古文書などの貴重な史料が展示されています。
家康生誕地をアピールするため家康絡みの展示物のオンパレードかと思っていましたが、意外にも家臣絡みの展示物が多く、いい意味で期待を裏切られた感があります。これは別途「三河武士のやかた家康館」が設けられているからなのかもしれません。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
金箔を貼った三つ葉葵紋の小菊瓦は、2018年に実施された天守台北側の発掘調査により出土した、歴史的な大発見とされる貴重な遺構です。
この瓦は江戸時代初期(1600年代前半)のものと推定され、譜代大名 本多氏が城主を務めていた時代のものです。城内ではこの時期に家康を祀る東照宮や将軍が上洛する際に宿泊する本丸御殿などが建てられました。出土した金箔瓦はこれら将軍家の権威をアピールするための最高格の建物に載せられていたものと考えられています。
因みに金箔瓦と言えば大坂城や伏見城など豊臣系のド派手な城をイメージしますが、天下統一を果たした徳川家は、一転して質実剛健で実用的な城造りを好み、全国的にも徳川系の城郭から金箔瓦が発見される例は極稀だそうです。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
沢瀉紋鬼瓦
有力大名 水野氏の家紋が入れられた鬼瓦です。
岡崎城は「家康生誕の城」で知られていますが、徳川家が直接治めていた時期は短く、江戸時代を通じて譜代大名が城主を任されていました。その中でも水野氏は、1645(正保2)年~1762(宝暦12)年の約140年間の長きに亘って城主を務めました。
因みに水野氏が長期に亘って城主を任された理由は、家康の生母 於大の方の実家だからです。徳川家にとって大恩のある、信頼の厚い一族だったからです。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
大身の槍「伝相州広光」
血鑓九郎(ちやりくろう)の異名で知られる三河の猛将 長坂信政の大身の槍「伝相州広光」です。通常の槍の穂先は15~20cm程ですが、この槍の穂先は87cm(ほぼ日本刀の長さ)もあります。柄なども含めた全長は3m弱あり、かつて数々の戦場で敵を震撼させた、血鑓九郎の武勇が目に浮かぶようです。県の指定文化財(工芸品)になっています。
信政は家康の祖父 清康の代から松平氏に仕えた古参の家臣であり、槍の名手でした。戦場に赴く度に槍を敵の血で染め、乾く暇がなかったことから、清康の勧めで名を「血鑓(血槍)九郎」に替え、特別な朱塗りの槍(皆朱の槍)を授かったとの逸話を持つ猛将です。
信政の子 信宅の代に家康の命で本多忠勝に附属した長坂家は、皆朱の槍を代々伝え、陰に陽に本多氏を支えました。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
藍革威胴丸用具
幕末の動乱期~明治維新にかけて岡崎藩最後の藩主(知藩事)となった本多忠直が着用した甲冑(具足)です。
この鉄錆地三十二間二方白大円山形星兜は江戸時代後期の高名な明珍派甲冑師 明珍宗忠の作、本小札胴は同じく明珍宗政の手によるものです。大円山形星兜は平安時代~南北朝時代にかけて流行した古式スタイルですが、江戸時代の復古調甲冑によく採用された意匠だそうです。
大円山形星兜の特徴は、錆びた鉄の地板を何枚も継ぎ合わせて丸いお椀を伏せたような形に仕立てることで、明珍派の十八番である鍛鉄技術が注ぎ込まれています。
胴の特徴は、江戸時代に主流だった簡易的な一枚板胴(当世具足)とは異なり、平安時代や鎌倉時代から続く古式で贅沢な仕立て(本小札)としています。
また威毛は、上段から白糸、萌黄糸、藍革を用いて編み上げ(威し)、徐々に色を濃くするグラデーションを持たせてあり、無骨な中に美的要素も垣間見られます。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
左から火縄銃、火縄銃、薙刀「飛騨守藤原氏房」、槍「長吉」、槍「美濃守藤原政常」。
初代 飛騨守藤原氏房は、美濃の関出身で、元々は織田信長の三男 信孝の小姓として11歳から武家に仕えた異色の経歴を持つ刀工です。主君の信孝が自害したことを機に作刀の道へ戻りました。1592(天正19)年に関白 豊臣秀次へ作刀を献上したことでその腕前を賞賛され、飛騨守を受領。作風は「慶長新刀」と呼ばれる時代特有の豪壮なスタイルで、身幅が広く、力強い形をしています。藤原政常らと共に「尾張三作」として称えられた名工です。
長吉は、室町~戦国時代にかけて美濃国や大和国、山城国などで活躍した名門の刀工一派です。美濃の鍛治職人たちは、実践に特化した切れ味の鋭い武具を作ることで、織田信長をはじめとする戦国大名から絶大な信頼を得ていました。展示されている槍は、華美な装飾を削ぎ落とし、戦場での「突き」「払う」という実戦的な機能美と共に鋭い殺気を今に伝える逸品です。
美濃守藤原政常は、初代 相模守政常が徳川家康の九男 義直に高禄で召し抱えられ、「尾張三作」の筆頭として活躍した刀工です。政常一族は、刀だけでなく短刀や槍の名工として全国にその名を馳せました。作風は、美濃伝特有の青黒く冴えた地鉄を持ち、頑丈です。江戸時代には「政常の武器を持てば病気が治る」と噂されるほど、お守りや家宝として大名家に珍重されました。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
脇指 於南紀重國造之
初代 南紀重國は、江戸時代初期に活躍した、日本刀における超一流の刀工です。元々は大和国の名門 手掻派でしたが、腕前を認められ、駿府城で隠棲していた家康のお抱え刀工に召し抱えられました。家康の没後、重國は家康の十男 頼宣に仕え、紀州藩に移封するのに伴って和歌山城下へ移住しました。紀州移住後に作られた刀の茎に刻まれたのが「於南紀重國造之」の銘です。重國作の刀剣は家康譲りの実戦での切れ味と美しさを両立していることで知られています。
では何故、岡崎城に紀州の脇差が展示されているのでしょうか?
家康の直属のお抱えであり、後に御三家である紀州徳川家のお抱えともなった重國の作品は、徳川家ゆかりの最高峰の美術武具です。つまり、来館者に徳川家を支えた最高峰の武威と美意識を魅せるに相応しい特別な一振りだからです。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
脇指 三陽額田郡藤原大道
地元の三河国額田郡の藤原大道作の脇差です。
銘「三陽額田郡藤原大道」は『刀剣銘字大鑑』に1660(万治3)年の作の存在が記されており、「大道」は天正期から認められる関鍛冶系刀工一派です。
江戸時代の岡崎には、城主 本多氏のお抱え鍛冶「磯谷氏」など少数の例外を除けば、刀鍛冶の記録が残されていません。しかし古文書やこの脇差の存在により、元禄~享保期の岡崎に「大道」を名乗る刀鍛冶一族が城下で刀剣を鍛えていたことになります。この一振りは希少な「純岡崎産の美術刀剣」として高い史料価値を持つ逸品と言えます。 -
天守2階:家康が生まれた城 岡崎城
火縄銃「銘江州國友丹波大掾橘宗俊」
江戸時代に国内最大級の鉄砲生産地であった近江国國友(現 長浜市国友町)の伝説的な名工「國友丹波」が手がけた、格式の高い、全長100cmもある大筒です。火縄銃の歴史における技術の最高到達点を示す「大筒の白眉」と称されます。
國友丹波大掾宗俊なる職人は、大口径の火縄銃や大筒を専門とする先進的な砲術流派「関流(流祖・関之信)」のお抱え鍛冶として知られています。関流の大筒は「遠距離からの精密射撃」を目的としており、極めて頑丈で、なおかつ射手が抱えて撃てるように設計されていました。往時、「鋼巻張り」という極めて高度な鍛鉄・接合技術を駆使できたのは、國友村の中でも「國友丹波(宗俊)」ただ一人と伝えられます。 -
天守3階:庶民の活気 岡崎城下町
東海道の宿場町として大いに栄えた岡崎城下町の暮らしをテーマにしたフロアです。往時の人々の賑わいや文化をジオラマや判り易い解説パネルを通じて学べます。 -
天守3階:庶民の活気 岡崎城下町
屋号の看板「かねあり」
岡崎城下町の歴史を語る上で外せない、屋号の看板「かねあり(火打や かねあり 本家兼有甚太郎)」は、材木町に店を構え、全国にその名を馳せた名門鍛冶屋 服部家(通称:兼有(かねあり))の看板です。初代は刀鍛冶「三州住藤原兼有」であり、その刃物は切れ味抜群で大評判となり、その名工の名「兼有」を屋号としました。
やがて平和な世の中になると刀の需要が激減し、生活必需品「火打金(ひうちがね:火を起こすための鉄の道具)」の製造へのシフトを余儀なくされました。しかしその火打金は、火花の出方が随一だったことから大ヒットし、店は莫大な富を築いたそうです。
この店が大繁栄したもうひとつの理由は、店の名前の響きにあります。
「かねあり」は「金有り」に通じ、縁起物として珍重され、旅人だけでなく全国の商人や諸大名までもが縁起を担いで「かねあり」の火打道具を買い求めたと伝えます。 -
天守3階:庶民の活気 岡崎城下町
掛け軸『山水図』
江戸時代後期の岡崎城下町で活躍した高名な絵師 石川貫河堂(号:貫河)の掛け軸です。
貫河堂は岡崎城下町や周辺の美しい景観(別名「絵女房山」と呼ばれる場所などからの景色)を山水画の筆致で描き、往時の岡崎の様子を今に伝えています。
石川貫河堂(1781~1859年)の本名は平直、字は君義、幡豆郡横須賀(現 西尾市)に生まれ、若くして京都に遊学し、絵は岸駒(がんく)に就いて学び、後に岡崎城下町の祐金町に住みました。
因みに号の貫河とは、矢作川古川の別名です。 -
天守3階:庶民の活気 岡崎城下町
『むしの音集』(左)
江戸時代後期(天保年間)に刊行された、岡崎をはじめとする往時の尾張・三河地方の俳人たちの作品をまとめた「俳諧撰集」です。絵師 石川貫河堂やその弟子である俳人 鶴田卓池、そして名古屋の俳人 木天(ぼくてん:造化庵)らが関わって制作されました。
タイトルにある通り、秋の夜長に心地よく響く「虫の音」のように、何人もの俳人たちがオーケストラの如く個性を響かせ合ってひとつの文芸を創り上げるという粋なコンセプトのものです。石川貫河堂による風情豊かな挿絵が添えられ、それに合わせるように卓池や地域の門下生たちが詠んだ俳句が収録されています。
『扇面松図』(中央)
扇面に日本画の伝統的なモチーフである松を描いたものです。この作品は、京都から江戸(赤坂)に移り住んで大いに栄えた赤坂派、もしくはそれを受け継ぐ文人画・日本画の系譜に属する絵師によって描かれたとされます。
常緑樹の松は、冬でも青々とした葉を落とさないことから、古来「長寿」や「不老不死」、「めでたさ(慶賀)」を象徴する縁起の良い植物(歳寒の三友のひとつ)として尊ばれました。
『扇面山茶花図』(右)
江戸時代の城内については定かではありませんが、現在の岡崎城公園には多くの山茶花が植えられており、毎年冬期になると天守の白壁を借景に鮮やかな赤い山茶花の花が咲き誇り、城内屈指の冬の見所となっています。 -
天守4階:岡崎城シアター
リニューアルの目玉とも言える最新のデジタルシアターフロアです。
床面に現在の岡崎のマップが投影され、そこから過去の広大な城郭や総構え(外堀に囲まれたエリア)の様子が、臨場感溢れる最新映像と音響によりドラマチックに再現されます。 -
天守 展望室(最上階・5階)
最上階は、岡崎市内を360度見渡せる大パノラマ展望台になっています。
2代目天守にはなかった高欄と回縁が復興時に追加されており、回縁に出て心地よい風に髪を梳かせながら景色を愉しめます。
謎なのが名古屋城をも凌ぐ広大な惣構えです。江戸時代の岡崎城は城下町を外堀や土塁で囲んだ惣構えであり、その規模は東西約1.5km、南北約1km、総延長は4.7kmに及ぶ、江戸城に次ぐ広さを誇りました。5万石程の譜代大名の城として破格である理由には、豊臣秀吉の思惑と戦国時代の緊迫した政治・軍事的背景が見え隠れします。
結論を先に言えば、「家康を恐れた秀吉が、家康の攻撃を防ぐために造った、往時の最先端テクノロジーの結晶」という背景が城郭の規模の巨大さに隠されています。これについては次のように4つの観点で論じることができます。 -
天守 展望室 井戸櫓(中央奥)方面
城が敵に包囲されて籠城戦になった際、最も重要なのが水の確保です。この井戸櫓はその名の通り、天守直結の貴重な水源である井戸を敵の攻撃から守るため、井戸を覆うように建てられた防衛シェルターです。本多康紀によって建造された2代目天守の時代から、この東側の井戸櫓と西側の附櫓を配した構造だったようです。
名古屋城をも凌ぐ広大な惣構えだった理由。
1.豊臣政権にとって岡崎城は「V.S. 徳川家康」の最前線基地だった
岡崎城を惣構えとした最大の理由は、秀吉が家康を強く警戒していたからに他なりません。秀吉は家康を関東へ国替えし、空いた旧徳川領に家臣 田中吉政を配しました。吉政のミッションは「関東の家康が京都(秀吉)に侵攻してきたら、岡崎で食い止める」ことでした。そのため、吉政は家康時代の土づくりの城をベースに、最新技術を駆使して城下町まで外堀や石垣、土塁で囲う惣構えを築き上げたのです。
2.城下町の商工業者と経済を取り込んで守るため
吉政は、防衛と共に持続可能な経済都市をつくるために惣構えを活用しました。それまで城の周辺に分散していた家臣や商人・職人を城の近くに集住させたのです。これらを外堀の中に収め、籠城戦の際には軍隊だけでなく町全体の機能や物資、労働力を投入して防御できるようにしたのです。 -
天守 展望室 龍城神社方面
名古屋城をも凌ぐ広大な惣構えだった理由。
3.東海道27曲りによる鉄壁の軍事トラップ
通常、街道は城外を通りますが、吉政は惣構えの中に東海道を引き込みました。更には、敵軍が真直ぐに城下を駆け抜けられないよう、街道を27箇所も直角に折り曲げる「東海道27曲り」という迷路のような防衛トラップを仕掛けました。
4.徳川幕府による神君生誕の地の聖地化と誇り
関ヶ原の戦い後、岡崎城は再び徳川方の手に戻り、「神君出世の城」として神聖視されました。城主は5万石前後の譜代大名ですが、幕府にとり重要拠点のひとつであり、歴代城主は徳川家の威光を東海道に示すことを誇りとして、惣構えを江戸時代を通じて維持し続けました。 -
天守 展望室 南方面
では豊臣方が家康を警戒して造った惣構えの城なのに何故、殊更家康をアピールするのでしょうか?
このねじれ現象の主要因は「城を大改造した豊臣家臣 田中吉政とその後の城の価値を決めた歴史観(徳川幕府や観光地化)のパワーバランスにあると思います。
これには4つの理由が考えられますが、簡単に言えば「器(惣構え)は豊臣系の造成でも、中身は家康一色」としてPRしているからです。換言すれば、岡崎城は「秀吉(田中吉政)が往時の最高レベルのハードウェアで造成し、それを家康の魂というソフトウェアで260年間満たし続けた城」と言えます。
1.豊臣系の遺構を徳川系の威光を示すシンボルに転換
吉政が岡崎城を大改造したのは1590年からの10年間に過ぎません。関ヶ原の戦い後、260年間に亘り、「神君生誕の聖地」として徳川家譜代大名が城主であり続けました。その間、城主は豊臣系が構築した惣構えを棚ボタ式防衛要塞として引き継ぎつつ、本丸に家康を祀る東照宮を建立したり、家康誕生ゆかりの史跡を保護するなど、城全体を家康の威光を示すシンボルへと上書きしたのです。
2.復興天守は家康アピールの起爆剤
復元天守は明らかに徳川時代の城をイメージして設計されています。残念ながら吉政が建てた初代天守は詳しい資料が残されておらず、復元天守の雛型は1617(元和3)年に徳川家譜代大名 本多康紀が改修・再建した2代目天守がベースです。これにより、家康アピールが増強されるのは必然です。 -
天守 展望室 清海堀方面
家康をアピールする理由。
3.歴史的価値としての神君生誕の聖地の圧倒的ブランド力
観光地化や歴史遺産としての観点からは、「神君生誕の聖地」は圧倒的なインパクトとブランド力を合わせ持ちます。一方、惣構えを造った吉政は城下町の整備や治水に優れた天才肌の民政家ですが、一般観光客には家康の知名度の方が絶大であり、岡崎市をPRするには家康を前面に押し出す方が効果的です。つまり、家康を「人寄せパンダ 」として活用しているためです。
4.「秀吉が家康を恐れて造成した城」という事実が家康の偉大さの証左
城郭建築の専門家や歴史ガイドの間では、豊臣系が造成したという事実を隠すのではなく、むしろ家康の偉大さの証左として積極的に語られています。「広大で鉄壁な惣構えや石垣を秀吉が大金を投じて造らせた。それほど家康の存在は不気味であり、豊臣政権の最大の脅威だった」という文脈で解説され、豊臣系の造営技術の高さが、結果的に家康の強大さをアピールする極上のスパイスとして機能したと言うことです。 -
天守 展望室 北方向(ビスタライン)
展望室にはビスタライン・スコープという望遠鏡がセッティングされています。その方向に向けてズームアップしてみました。中央奥の樹木に囲まれた三門の瓦屋根が大樹寺だと思います。
岡崎城の周辺にある大樹寺はかつて桶狭間の戦いに破れた徳川家康が逃げ帰り自害を試みた時に思い留まらせた住職と出会った場所です。また、家康の位牌が安置された場所でもあります。
この大樹寺と岡崎城を結ぶ約3kmの直線はビスタラインと呼ばれ、3代将軍 家光が「大樹寺の本堂から、祖父(家康)が生まれた岡崎城をいつでも拝めるように」と伽藍を配置したのが始まりです。歴史的眺望として370年もの間、景観を守られてきました。 -
乙川河畔から眺める「OTO リバーサイドテラス」の全景
OTO リバーサイドテラスには手前の北店舗棟だけでなく「グランドイン東岡崎」という3つ星ホテルなども含まれます。ホテルは、津城址で紹介した百五銀行ビルの石垣風ファサードを彷彿とさせる斬新なデザインです。岡崎城の石垣をデフォルメしたものなのでしょうか?
建築設計事務所RIAによると、設計コンセプトは「新世紀、岡崎の櫓」としており、乙川の川辺に聳える岡崎城の「櫓」を現代風にアレンジした大屋根などが特徴のようです。従って、ホテルのファサードは、天守の石垣ではなく、櫓の瓦の黒や漆喰の白のイメージをモダンに落とし込んだデザインと思われます。
ここで気になるのが、何故、天守ではなく、櫓をコンセプトにしたのかです。
これについてもRIAが答えを用意していました。
「その理由は岡崎城天守に対するオマージュ(敬意)です。もし、駅前の商業施設を『天守』の形にしてしまえば、ランドマークである岡崎城天守と主役がバッティングしてしまいます。天守を支え、守る役割を持つ『櫓』という脇役のような存在としてそれをデフォルメすることで、岡崎城天守を主役として引き立てつつ、城下町との連続性を持たせた設計にしています。」
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。 -
おまけ その1
尼崎市の武庫川河川敷にある「髭の渡しコスモス園」です。 -
おまけ その2
センセーション ミックス -
おまけ その3
キバナコスモス -
おまけ その4
ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)の♂です。
全体が鮮やかなオレンジ色で、黒い豹柄のような斑点模様があるのが特徴です。
因みに、♀は前羽の先端部分が黒紫色で白い帯が入っており、♂と♀で見た目が異なります。
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