2026/09/27 - 2026/09/27
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montsaintmichelさん
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今回のレポは、大手門からスタートし、二の丸~持仏堂曲輪~坂谷曲輪~天守のある本丸がゴールです。
城主の居宅や政庁であった二の丸御殿が建っていた二の丸は「徳川家康誕生の地」をアピールするモニュメントのオンパレードですが、それぞれに頷かせる深いストーリーがあり、飽きさせることがありません。特に「からくり時計搭」は見所満載です。
持仏堂曲輪から見上げる天守は神々しくもあり、その北面石垣には巨大な「鏡石」が組み込まれています。通常は大手門など目立つ場所に配して権力を誇示するためのものですが、敢えてここに配された謎にメスを入れてみました。
ハイライトは持仏堂曲輪~坂谷曲輪に展開される江戸時代初~中期の石垣遺構です。持仏堂曲輪腰巻石垣に始まり、本丸埋門北袖の高石垣で締めます。ほぼ同時期に築石されたものですが、微妙に違った顔を持ち、往時の実用性を鑑みた合理的な考え方とそれを具現化するための築石技術が堪能できます。
本丸では徳川家康と本多忠勝の2柱を主祭神として祀る龍城神社にフォーカスし、拝殿の天井彫刻など「昇竜伝説」にまつわるトピックスを網羅しました。
岡崎おでかけナビのHPです。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/okazakijo/top
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
岡崎城散策マップです。(リーフレットより)
「掲載許可承諾済」 -
岡崎城図(後本多家 江戸時代後期)
この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
岡崎市発行「岡崎 名城めぐり」PDFより抜粋
https://okazaki-kanko.jp/image/display/Document/document/392 -
岡崎城址石垣めぐりマップ
岡崎市発行のマップを参考に石垣巡りを敢行いたしました。
順路とマップにある番号を参照していただくと画像の場所が特定できます。
今回は①の続編であり、中央上部にある大手門をスタートし、ゴールは天守・龍城神社のある本丸です。
この画像は次のサイトから引用、加工させていただきました。「掲載許可承諾済」
「岡崎城址石垣めぐり」PDFより抜粋し加工
https://www.city.okazaki.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/588/isgkmap.pdf -
復興天守2階で撮影した岡崎城郭ジオラマです。
右下から曲輪を介して本丸を囲んでいるのが「龍城堀」、右端が「乙川」です。 -
大手門
大手門を潜り抜けて二の丸へ攻め入ります。
江戸時代の二の丸には主に城主の居宅や政庁(役所)として使われた二の丸御殿があり、「三河武士のやかた家康館」からその北東側にかけての広大な敷地に建てられていました。
また、二の丸の正面に構えられていた巨大な門が七間門です。門の幅が七間(約13m)あったことが名前の由来で、大手門に次ぐ規模を誇る重要な城門でした。
更には、二の丸へ繋がる切り通しを守るための武器庫として、東曲輪には東隅櫓が屹立し、防衛の要衝となっていました。 -
二の丸井戸跡
大手門を潜った先の右手にある「観光みやげ店(おかざき屋)」の右横、公衆トイレの手前にあります。門を潜るとからくり時計搭などが視界に入ってくるため、気付かずにスルーしがちなので要注意です。
2007年の発掘調査により地中から発見された、江戸時代の石組井戸です。長く土の下に眠っていたため保存状態が良く、往時の美しい石組みを間近で見られます。現在は風雨に晒されないように小さな庇が設けてあり、覗き込むと丁寧な石積みの様子が窺えます。
この井戸のある場所は、江戸時代に岡崎藩の藩主が政務を執り、生活の場でもあった二の丸御殿の敷地内です。 -
二の丸井戸跡
岡崎城は水に恵まれた地に築かれたため、平時だけでなく篭城戦などの有事にも困らないよう城内の各所に井戸が整備されていました。現在、城内で見学できる主要な井戸は4基(本丸:2基、二の丸:1基、城郭南側:東照公産湯の井戸)しかなく、二の丸井戸跡はそのひとつに数えられます。
江戸時代に描かれた二の丸御殿の古絵図を見ると、建物の北東側に2基の井戸が描かれています。この井戸は、その絵図に描かれていた2基のいずれかであると推定されており、古絵図の正確性を証明する裏付けとなっています。天守や清海堀のような派手な軍事要塞としての見所とは異なり、城の中で人々がどのように暮らしていたかという日常の歴史を静かに語りかけてくれる、通好みの隠れた名スポットと言えます。 -
二の丸 からくり時計搭
「三河武士のやかた家康館」前の円形広場にある高さ6m程ある和風デザインの時計塔です。午前9時から午後6時までの毎時00分・30分に家康の人形が登場し、能を舞い、遺訓を語ります。
1990(平成2年)に設置されて以来、来園者の目を愉しませる名物スポットとなっています。 -
二の丸 からくり時計搭
定刻になると、お囃子の響きと共に3方向の時計盤が自動的に開きます。すると中から華やかな衣装を纏った家康のからくり人形が登場し、滑らかで厳かな動きで能の演目『翁(おきな)』を舞います。何故、家康の人形が「能」を舞うのかといえば、家康が大の能楽フリークだったからです。
尚、この時計塔は、単に「家康生誕地だから家康の人形を作ろう」としたのではなく、「家康が生涯愛した『能』という文化」と「岡崎が誇る『からくり技術』など職人技のアピール」の合わせ技で、岡崎城の歴史を来場者に伝えるという目的で建てられています。 -
二の丸 からくり時計搭
からくり時計のクライマックスは、踊りの後半に展開される「面かぶり」の仕掛けです。家康人形が扇子で顔を隠した次の瞬間、一瞬にして能面を顔に被った状態に変身します。この鮮やかな早替わり技には周りからどよめきや歓声が上がり、思わず笑みがこぼれます。
能の舞が終わると、家康人形は一瞬にして面を外し、最後に家康の遺訓を渋い声で語りかけます。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず…」 -
二の丸 本多平八郎忠勝公像
本多忠勝は徳川四天王のひとりで、豊臣秀吉に「天下無双の勇士」と称賛された武将であり、生涯57回の合戦でかすり傷ひとつ負わなかったとされる戦国最強の猛将です。
この像は鹿角脇立兜と甲冑で身を固め、名槍「蜻蛉切」を携えている姿です。
鹿角脇立兜は2本の大きな鹿の角が特徴です。家康がピンチの際に鹿が逃げて道を教えてくれたとの逸話から「鹿のように主君を導き、守り抜く」という忠義の決意が込められたものです。
また、 右肩から斜めに大数珠をたすき掛けしています。これは、「自分が戦場で討ち取った敵兵の魂をその場で即座に弔う(成仏させる)ため」に常に身に付けていたと伝わる、忠勝ならではのスタイルです。
右手には、穂先に止まったトンボが真っ二つに切れたという伝説を持つ天下三名槍「蜻蛉切」を携えています。実際の蜻蛉切は6m程という常軌を逸した長さでしたが、この像ではバランスを考慮したやや短めなものを脇に抱えています。 -
二の丸 本多平八郎忠勝公像
ブロンズ像はどっしりと椅子に腰掛け、鋭い眼光で戦場となる前方を睨み据えています。敵対した武田軍から「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と絶賛された圧倒的な威厳が、その厳しい表情や佇まいから自然と伝わってくる迫力満点の造形です。
因みに忠勝が後に初代藩主となった三重県桑名市の桑名城址にも別の本多忠勝像がありますが、そちらは蜻蛉切の長さが実物大に近いなど、異なる拘りがあります。 -
二の丸 三河武士のやかた家康館
岡崎公園敷地内にあり、徳川家康の出生から天下統一までを辿る歴史を、大パネルや展示物で解説しています。様々な展示の中でも注目なのが、家康が大活躍し勝利を収めた、天下分け目の関ヶ原の戦いを再現した可動式のリアルなジオラマです。屏風のビジョンや大型スクリーンを使用し、武将のフィギュアを使って東軍・西軍の戦いの様子をダイナミックに表現しており、見所満載です。また合戦で用いられた火縄銃や長槍の模型に実際に触れられ、重さを確かめることができたり、甲冑の試着体験や兜の模型を被って記念撮影をすることもできます。 -
二の丸 能楽堂
大の能楽好きだった徳川家康に因み、1989(平成元)年に完成した本格的な野外能楽堂です。この能楽堂は、日本を代表する名能楽師であり俳優でもあった観世栄夫(ひでお)氏をはじめ、各界の第一人者の監修のもとで設計・建築されました。全国的にも市営の本格的な屋外能楽堂は珍しく、城下町 岡崎の文化の薫りを伝える施設のひとつとなっています。 -
二の丸 しかみ像
一風変わった、顔をしかめる徳川家康の石像です。
この石像は、徳川宗家18代当主 徳川恒孝氏の寄贈によるものであり、制作者は彫刻家 小林道明氏です。「しかみ像」と言うのは、名古屋徳川美術館が所蔵する『徳川家康三方ヶ原戦役画像』という肖像画の通称です。この作品はその肖像画をベースに立体的に制作されました。
古来の伝承では「1572年の三方ヶ原の戦いで大軍を率いる武田信玄に戦いを挑み、多くの家臣を失い大敗した家康が、その時に感じた己の弱さへの自戒の気持ちを忘れないように絵師に描かせた」と理解されてきましたが、徳川美術館の調査などにより、この伝承自体が後世の創作(事実無根)で昭和時代初期に広まったものと考えられています。調査の結果、「武神としての家康を祀るために描かれた礼拝像」ではないかという新説が有力視されています。 -
二の丸 しかみ像
新説のポイントは次の通りです。
1.合戦直後に家康が描かせたという記録や史料は一切見つかっていない。
2.江戸時代中期に尾張徳川家9代 徳川宗睦の養子(治行)の妻となった紀州出身の従姫(よりひめ)が、1780年の嫁入り道具として持参した品であったことが判明。
3.所蔵帳には「東照宮尊影」とあり、家康を描いたものとは認識されていたが、特定の戦いや「自戒のために描かせた」という伝承は昭和時代以降に形成・定着したフィクションであるとされる。
4.「しかみ像」で見られる険しい表情や片足を上げて頬に手を当てるポーズは、戦いを司る武神・忿怒の姿や半跏思惟像の表現を模して礼拝対象として捉えられたものとする説が有力。 -
二の丸 花時計
1960(昭和35)年に地元の生産関連会社 リコーエレメックスから寄贈されて以来、市民や観光客に長年愛され続けている歴史ある憩いのスポットです。
中央の文字盤部分が丸ごと花壇になっており、その大きさは直径8mにも及びます。
当方が愛知県に住んでいた頃、小学3年生の時の遠足がこの岡崎城公園でした。特に思い出はありませんが、この花時計を囲んで記念写真を撮った覚えがあります。岡崎公園はそれ以来の訪問になります。 -
二の丸 徳川家康公像
1965(昭和40)年に徳川家康公350年祭を記念して岡崎ライオンズクラブの寄贈により建てられたブロンズ像で、制作者は彫塑家 高村泰正氏です。
天下統一を果たした最晩年のどっしりとした大御所の風格がリアルに表現された造形です。
因みに高村泰正氏は、現在の愛知県安城市の出身です。元々は石工職人でしたが、彫塑への情熱を諦めきれず、石工職人を辞めて大正~昭和時代に活躍した彫刻家 多和田泰山に弟子入りしました。師匠の門下生の中でも「一番出世した」と言われるほど才能を開花させ、拠点を東京に移して彫刻家として広く活躍するようになりました。 -
二の丸 徳川家康公像
多くのWEB情報では「鷹狩りのポーズ」と説明されていますが、違和感があったので色々調べてみました。左手を前に突き出した独特のポーズは、鷹を止まらせるためではなく、「江戸(東)の方角を見つめ、天下の行く末や人々の暮らしを遠く想い、案じている姿」だそうです。確かに、少し目線を落として深く思案しているような神妙な顔付をしています。また、平服(着物)を着ており、右手に扇を握っていることからも鷹狩ではないことは自明です。
では、何故「鷹狩りのポーズ」と誤解されるのでしょうか?
家康が晩年を過ごした駿府城公園にある家康像は、まさに左手に鷹を載せた「鷹狩り姿」として知られています。従って、メディアなどで紹介される際、駿府城の像と岡崎城の像が混同されてしまったのではないかと思われます。 -
二の丸 松平元康像
この像は1992(平成4)年に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が市内外から寄付を募って設置した石像です。
1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、人質生活から解放された19歳の元康が、三河の家臣団を引き連れて大高城から生誕の地 岡崎城へ帰還した刹那を切り取っています。
騎馬像は天守を背負う角度に配置され、元康の目線はやがて大権現として再生する日光東照宮の方角に向けられています。左手にある石垣と小滝は、元康が胸に秘めた国盗りの夢が生誕の地である岡崎の土中から隆起する様を表し、池に湛えられた水は後に実現する泰平の治世を象徴しています。
方角的には久能山東照宮~駿府城~鳳来山東照宮~岡崎城~京都を結ぶレイランまでは考慮されていないようです。 -
二の丸 松平元康像
この石像は3人の芸術家・職人の技術融合の結晶体でもあります。
原案は荻 太郎氏。三州岡崎葵市民であり、全国的にも名高い洋画家です。
原型制作は橋本裕臣氏。原案を元に立体的な像のベースを作り上げた彫刻家です。
石彫は牧野正次氏。原型を元に実際に御影石を削り、騎馬石像へと昇華させた石彫師です。 -
二の丸 松平元康像
ブロンズ像のように深みのある黒~緑がかった色をしていますが、これは家康の青年期のトレードマークである金陀美具足(きんだびぐそく)を忠実に再現するため、意図的に漆黒と黄金色のコントラストでカラー彩色してあるからです。元康が跨る愛馬や鎧のベース部分などは漆黒色で表現されています。残念ながら経年変化や小滝からの水しぶきなどにより、黄金色はほぼ退色していますが、建造当時は話題に事欠かないほどの奇抜な石像だったことは想像に難くありません。 -
二の丸 松平元康像
一般の石像のイメージを覆すカラー彩色の奇抜さには次の背景があります。
1.19歳の最も輝いていた若き姿を再現したため
この石像は、桶狭間の戦い後に岡崎城へ帰還した19歳の姿をモチーフにしています。それ故、後の大御所時代の冷静沈着な雰囲気とは異なり、戦国大名として自立していく若きエナジーの象徴として、往時今川義元から授かったとされる全身金ピカの派手な甲冑をカラー彩色で再現しています。
2.フィギュアのように精巧なフルカラー彩色
この像は単に石像の甲冑を金色に塗っただけでなく、兜の緒や鎧を編み込んでいる紺糸縅、肌の質感に至るまで、等身大フィギュアの如く細かく色分けして塗装されていたそうです。その最大の理由は、原案者の洋画家 荻 太郎氏の色彩への拘りです。それ故、日本の伝統的な彫刻ではなく、現代のポップカルチャーや3D造形に近いアプローチで制作されており、強烈なインパクトを放ちます。
3.平成の新しい造形センスを注入
2015(平成27)年の「家康公顕彰400年記念事業」に合わせて、岡崎の石製品協同組合などの寄付によって新しく建てられたものです。昭和時代に建てられた重厚で写実的な「徳川家康公銅像」との差別化を図るべく、若々しく、現代の若者にも響くカッコよさを訴求した結果、こうしたアバンギャルド風の像になっています。 -
二の丸 公園碑(園名碑)
何故、「岡崎公園」ではなく「公園」なのでしょうか?
この2文字にはそれなりの意味があり、岡崎公園が国内最初期に誕生した古い歴史を有する近代公園である証左でもあります。
1873(明治6)年、明治政府は幕府や大名が所有地を一般市民に開放して公共の憩いの場(=公園)とする太政官布告を発しました。これを受けて岡崎城址もいち早く整備され、布告の2年後に公園として開園しました。それ故、往時の地域住民には公園といえば岡崎公園以外なく、「○○公園」といった名前の使い分けは不要でした。そのため固有名詞を付けず、単に「公園」と記した石碑が建てられたそうです。
因みに揮毫は、初代愛知県令 鷲尾隆聚(たかつむ)氏です。隆聚氏は「城跡を公共の公園として保存・公開して欲しい」という地元の有志や元藩士の願いを受け入れ、城跡を公園とすることを許可し、開設へと導いた最高責任者です。太政官布告によって日本全国に近代的な「公園」が造られ始めましたが、愛知県下では名古屋 浪越公園などに続き、県内で3番目に古い公認公園として誕生しました。城郭の跡地をそのまま市民の憩いの場へと生まれ変わらせる先駆けとなった公園です。 -
二の丸 小瀧喜七郎翁像
1958(昭和33)年に岡崎市により岡崎城公園内に建立されたブロンズ像です。
岡崎城公園の発展はこの方を外しては語れません。強いて言えば「近代の田中吉政」と言ったところでしょうか!?
第4代岡崎市長(在任:1933~35年)を務め、今は現存していない1935(昭和10)年竣工の龍城橋も手掛けました。 -
二の丸 小瀧喜七郎翁像
喜七郎氏は、1872年に岡崎藩士の子として生まれました。14歳の時に真宗三河教校に入学して英語を学び、20歳で名古屋市の私立誠心塾で漢学・剣道を修めました。その後兵役に就き、日清・日露戦争に従軍して陸軍少尉となり、36歳で岡崎町書記を務めました。定期的に公園を巡視し、草木の一本一本の手入れにまで注意を払わせ今日の岡崎城公園の基礎を築いたことから、市民や周囲からは親しみと敬意を込めて「公園助役」や「公園市長」と呼ばれ、4代目岡崎市長にもなりました。また、岡崎の近代化を目指し、市制施行に必要な上下水道の敷設や庁舎建設、教育設備の充実、矢作川改修工事の国との折衝に成果を上げました。 -
持仏堂曲輪 太鼓門跡
二の丸から持仏堂曲輪へ通じる櫓門です。持仏堂曲輪は、二の丸から大手虎口に繋がる曲輪ですが、ここも防御機能が考慮された縄張りになっていました。
江戸時代にはここの櫓に太鼓が置かれ、城下の総門を閉める時刻などを知らせるために毎日太鼓が打ち鳴らされていたことが名の由来です。
石垣の手前には「龍城神社」の神社標があります。
三河の山間部にあった松平氏は、家康の祖父 清康の時代に岡崎に進出し、以来この地を本拠としました。そして今川氏の人質から解放された家康が悩み多き青春時代を過ごしたのが岡崎城でした。やがて家康が居城を浜松に移すと、嫡男 信康が岡崎城主となり、信康が自刃した後は石川数正が城代を務めました。その数正すら豊臣秀吉にヘッドハンティングされたことからも、この城には家康の複雑な思いが詰められていたのは想像に難くありせん。やがて家康を関東に移した秀吉は、旧徳川領に豊臣直系武将を封じ、岡崎城には家臣 田中吉政を5万石で入城させました。 -
持仏堂曲輪 太鼓門跡
太鼓門跡から望む天守です。
関ヶ原の戦いで天下人となった家康は、三遠駿の豊臣系大名に加増し、西国各地へ追い出しました。代わって旧徳川領の諸城に入ったのは徳川家臣でした。岡崎城には本多康重が5万石で入り、以後は水野・松平・本多と譜代各家が交替で封じられ、幕府要職を輩出する城となりました。
こうした背景ゆえ、岡崎城は「徳川の城」「家康ゆかりの城」とのイメージが強烈なのは当然かもしれません。また江戸時代に積み直された石垣は、角部が江戸切りになっており、「これぞ徳川の城」と誇らしげです。復興天守も徳川譜代各家が入った東海地方の諸城と共通デザインで設計されており、これも徳川を印象付けるトラップのひとつです。
しかし現在見られる城郭の基本形は、豊臣家臣 田中吉政が整備した惣構えであり、天守台や高石垣をはじめ随所に吉政時代の石垣が遺されています。その観点から言えば、近世城郭としての岡崎城は「豊臣系の城」そのものと言えます。 -
持仏堂曲輪 太鼓門跡
太鼓門周辺の石垣は、打込接が主体であり、江戸時代初期の譜代大名期の遺構と思われます。ただし、隅角部は、完成度の高い整然とした算木積みになっており、江戸時代中~後期の本多時代に修築されたことを物語っています。
ここで岡崎城で徳川家康が生まれてから浜松城に居城を移すまでをダイジェストで振り返ってみましょう。
竹千代が産まれる前の岡崎城は織田方の攻勢により周囲から孤立した状態でしたが、松平家待望の跡継ぎの誕生で城内は俄かに活気付きました。竹千代誕生の日の朝には、城下にある龍ヶ井から金色の龍が昇天したの伝説もあり、竹千代誕生は岡崎城の希望となりました。
竹千代は8~19歳までの少年期を今川氏の人質として駿府で過ごしました。人質というと惨めな暮らしを思い浮かべるかもしれませんが、岡崎城主 松平家の嫡男として尊重され、将来の幹部候補として英才教育を施されていました。今川家の当主 義元は師でもあり、軍師を務める臨済寺の禅僧 太原雪斎を竹千代に付け、一流の教養と武芸を身に付けさせたのでした。 -
持仏堂曲輪 天下人家康公出世ベンチ(家康公・竹千代像ベンチ)
岡崎城を借景にして佇む、晩年の徳川家康と幼少期の竹千代が両端に腰掛けている石造のベンチです。2012年に設置されたもので、ふたりの間に座って写真が撮れる趣向であり、出世祈願のパワースポットでもあります。
竹千代は14歳で元服。烏帽子親となった今川義元から「元」の字を授かり松平元信と名乗り、今川家の重臣 関口氏純の娘(後の築山殿)を娶るなど、今川一門衆としての地位を着実に確立していきました。
初陣は17歳。これに際し、元信は祖父 松平清康から「康」の字を授かって松平元康と名乗り、今川方から織田方に寝返った三河の寺部城を攻めて戦功を上げ、義元から褒美を授かりました。
こうして今川一門衆の武将として華々しくスタートを切った元康ですが、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで窮地に立たされます。今川の先鋒として、最前線の基地 大高城への兵糧入れを敢行し、翌日も織田方の丸根砦を攻め落とすなど奮闘していた元康のもとに、今川義元が織田信長に討たれたとの知らせが届いたのです。 -
持仏堂曲輪 天下人家康公出世ベンチ(家康公・竹千代像ベンチ)
岡崎市は良質な石材の産地でもあり、「石都(せきと)岡崎」と呼ばれます。このベンチも優秀な石職人の技術と地元産の御影石を用いて造られています。よく観ると、着物のシワや表情に至るまで繊細に彫り上げています。
今川方は総崩れとなり、最前線の大高城は敵中に孤立しました。このまま城に留まれば織田方に包囲されるのは必至の状況下、元康は夜陰に紛れ大高城を脱出。岡崎にある松平家の菩提寺 大樹寺まで退却しました。30数名の家臣とそこで落ち合うも、直ぐに織田方の追手に囲まれ、元康は先祖の墓の前で腹を切る覚悟を決めました。
そこへ現れたのが大樹寺の貫主 登誉上人でした。上人から後に家康の旗印となる「厭離穢土 欣求浄土(穢れたこの世に、浄土のような平和な世界を築くことを目指せ)」という教えを授けられて自刃を思い留めた元康は、武人として生きる決意を新たにしました。 -
持仏堂曲輪
大樹寺で難を逃れた元康は、その後、故郷の岡崎城への帰還を果たしました。そして休む間もなく周囲にある織田方の城へ攻勢をかけると、電光石火の勢いで西三河を制圧し、母方の水野氏が拠点とする尾張国刈谷にまで攻め込みました。
また、今川義元の後継 氏真へ義元の弔い合戦を打診しますが、氏真は関東に攻め入った上杉謙信に対応する同盟国 小田原北条氏に援軍を出すのが精一杯で三河戦線には兵が出せませんでした。
今川氏に見捨てられた元康は、自らの存立を図るため織田方の叔父 水野信元を介して織田氏と和睦。今川方が守る東三河へと侵攻して今川氏に見切りを付けると、1562(永禄5)年に元康が尾張国清須へ赴き、織田信長と清洲同盟を締結。翌年には元康の長男 竹千代(後の松平信康)と信長の娘 徳姫が婚約。更には、元康は今川義元から授かった「元」の字を捨て、憧れていた源氏の棟梁 源義家から「家」の字をもらい家康と改名しました。 -
持仏堂曲輪 廊下橋
持仏堂曲輪は、本丸の北側に位置し、廊下橋を介して本丸天守に通じていました。持仏堂曲輪の名称は、家康が妙源寺より譲られた恵心僧都作の阿弥陀仏を安置した堂が所在したためと伝えます。本丸と持仏堂曲輪の間には、築城主 西郷清海入道に因んで命名された清海堀と呼ぶ空堀があります。
持仏堂曲輪と本丸天守を結ぶ橋は、江戸時代には屋根や壁、塀が付けられた本格的な木造屋根付き櫓橋でした。このように天守と本丸以外の曲輪とが直接繋がった廊下橋は日本唯一のものです。
一般的に城の木橋などは有事に通行を遮断・破壊する構造や落橋・撤去の仕掛けを想定することが多いものの、岡崎城の廊下橋が具体的にどのように壊せる構造であったかを示す設計図や文献資料は現存していないそうです。
1920(大正9)年に現在の石造アーチ橋へ架け替えられました。 -
持仏堂曲輪 ①本丸天守台石垣(北面)
清州同盟で結ばれた両者の関係は、家康が信長に従属していたように見えますが、当初は対等でした。しかし、家康が強大な隣国 甲斐の武田信玄・勝頼父子との戦いに腐心する中、信長の援護が必要な機会が増え、次第に従属関係へと遷移して行きました。
その後、信長が畿内へ勢力を伸ばし、天下布武を視野に入れるようになると、信長の最古の同盟者として家康の地位も名声も全国に鳴り響きました。
しかし、三河統一に邁進する家康に更なる危機が訪れました。1563(永禄6)年に三河一向一揆が勃発。この頃、三河統一に向けて戦に明け暮れていた家康は、軍資金や兵糧米を調達するため一向宗の寺院に借銭借米を申し入れるも断られ、それを契機に諍いが起こるようになりました。「三河三ヶ寺」と呼ばれて勢力を誇った上宮寺や勝鬘寺、本證寺は、境内や寺領での年貢が免除されたり、警察権の介入を許さないなどの守護使不入との特権が認められていました。しかし、それを破って諍いを起こした相手を家康の家臣が取り締まりに行った結果、一揆へと発展したのでした。 -
持仏堂曲輪 ①本丸天守台石垣(北面)
家臣にも一向宗信者がおり、彼らは主君を取るか信仰を取るかという選択を迫られ、家康と戦うことを選ぶ者もいました。これによる家臣団の分裂は避けられず、人生最大の危機に瀕しました。しかし、幸いしたのはお互い顔見知りであり、血で血を洗うような本格的な戦闘には発展せず、結局一揆は不入権の確認と一揆に参加した家臣の赦免という条件を家康が呑んだことで鎮まりました。
間もなく家康は、一向宗寺院に対し、浄土宗への改宗を迫るも拒否されました。すると家康は、一向宗寺院を破却して僧侶たちを追放処分とし、一向宗禁令を布告。そして、この一揆に同調し反乱を起こした今川氏寄りの家臣は追放され、残った家臣団の結束はより強固なものになりました。
ここで災い転じて福となす状況となった理由は、この戦いで一向宗寺院の多くが焼失したため、それまで特権により寺領で商いをしていた商人が岡崎城下へと集まり、城下が三河経済の中心地となったことでした。 -
持仏堂曲輪 ①本丸天守台石垣(北面)鏡石
廊下橋の正面にある天守台北面石垣には、周囲の石よりも数倍大きい、2mx2m程ある巨石が組み込まれています。これを「鏡石」と呼び、一般的には防衛のためではなく、城主の富と権威の誇示のために置かれるものです。
それ故、通常の鏡石は、城の顔となる大手門や本丸虎口など、人目に付き易い場所に置かれます。しかし岡崎城の場合は天守台北面(裏側の清海堀に面した所)にあります。こうした背景には城の歴史を紐解く謎が隠されています。
有力視されているのが、「天守台が築かれた豊臣家臣 田中吉政時代は、天守の裏手(北面)が本丸への正門入口だった」との説です。その後、江戸時代に城内が大改修され、本丸への主要ルートが南側へと変更された結果、かつて天守正面を飾っていた鏡石が裏手に取り残されたと考えると腑に落ちます。
もうひとつの説が大空堀「清海堀」と結び付けた考え方です。北側ルートは持仏堂曲輪と本丸を隔てる深さ10mの清海堀が広がる防衛上の重要拠点です。敵が曲輪を突破して天守へ迫ってきた際、天守台北面に鎮座する巨石を見せ付けることで、心理的な絶望感や威圧感を与える狙いがあったとの説です。 -
持仏堂曲輪 大空堀「清海堀」
三河一向一揆を鎮圧した家康は、東三河に残っていた今川方の勢力を平定し、1564(永禄7)年に三河統一を果たしました。この後、家康は遠江(現 静岡県西部)への侵攻を開始し、今川氏真や武田信玄との戦いを繰り広げながら、1570(元亀元)年に浜松城へ居城を移すまで岡崎城で過ごしました。
岡崎城時代の徳川家康は、家臣との関係に苦悩し、また自らの存立を図るために戦いに明け暮れた多忙な時代でした。そして目の前に現れる試練と全力で向き合いながら、時には運を味方に付け、後の飛躍のための実力を充電していた。そんな時代だったのかもしれません。
岡崎城にて、若き日の家康の奮闘ぶりに思いを馳せてみるのは如何でしょうか? -
持仏堂曲輪 土塁
清海堀は後でじっくり愉しむことにし、一旦太鼓門まで戻り、能楽堂の左脇を経由して坂谷曲輪(天守西側)に歩を進めます。
その途中に見られるのが土塁の空堀です。石垣で固められている清海堀も田中吉政が大改造するまではこのような姿だったと思われます。 -
持仏堂曲輪
段差を設けた打込接積みの石垣が露出しています。
ここだけオーバーハングしていることから、横矢掛かりなど敵に横矢を掛けるための防御要塞の拠点だったのかもしれません。 -
坂谷曲輪 東照公産湯の井戸
天守の北西(坂谷曲輪)にあるこの井戸は、天文11年12月26日(1543年1月31日)に徳川家康(幼名:竹千代)が誕生した際の産湯にこの井戸の水が使われたことから、開運スポットとして人気を集めています。
長い間整備されていなかったようですが、2015年にポンプで汲み上げられた水に直接手で触れられるようになりました。
記録によると、竹千代の産湯にはこの井戸水だけでなく、松平氏発祥の地である豊田市松平町の「松平東照宮」にある産湯の井戸から早馬で運ばれた水なども合わせて使われたようです。 -
坂谷曲輪 東照公産湯の井戸
この井戸の最大の特徴は、戦国時代から現在に至るまで一度も枯れることなく、滾々と清水が湧き出ている点です。
井戸の上には、江戸時代に作られた立派な石造りの井桁が備えられており、往時の厳かな雰囲気を今に伝えます。
周囲は神聖な場所として竹垣で囲われており近くまでは立ち入れませんが、竹垣越しにその厳かな佇まいを見学できます。 -
坂谷曲輪 ⑬持仏堂曲輪腰巻石垣
産湯井戸の対面にある石垣です。
ここの石垣は腰巻石垣と呼ばれ、土塁の全面を石垣で覆うのではなく、下半分だけに石垣を築いてコスパ重視で補強しているのが特徴です。その土塁の頂上(曲輪の縁)には、かつては外敵を防ぎ、内側から攻撃するための土塀が巡らされていました。現在も石段が残されていますが、これは土塀に設けられた狭間から敵を狙撃するために上り下りした足場です。このように江戸時代前期に築かれた往時の姿が後世の改修を受けずにそのままの形で遺されているのは希少です。
また、石の大きさや形がある程度整えられた四角い石材を用い、横のラインを水平に揃えた布積みに近い形で積まれています。隅角部には長方形の石を交互に組み合わせる算木積みを用い、更には隅石の表面はノミを使って平らで滑らかに仕上げた江戸切りにしており、田中吉政時代の野面積みに比べると加工技術が格段に進化しているのが見て取れます。 -
坂谷曲輪 ⑫持仏堂曲輪腰巻石垣と本丸腰巻石垣
ここからは清海堀に架けられた持仏堂曲輪と天守を繋ぐ廊下橋(石橋)も見られます。
現在の橋は大正時代に造られたものですが、本丸から脱出できるように架けられた屋根付き木橋はそれ以前から存在したようです。木橋が設けられた時期に関しては諸説ありますが、本多時代に整備されたとの説が有力です。 -
坂谷曲輪 ⑫持仏堂曲輪腰巻石垣と本丸腰巻石垣
清海堀を挟んだ対岸(本丸側)にも本丸腰巻石垣があります。
古地図同様、右手の本丸腰巻石垣は優美な曲線を描き、左手の持仏堂曲輪の隅角部は直角になっています。本丸腰巻石垣は江戸時代前期(寛永年間頃)に本丸の改修工事に伴って築かれたとされ、優美な扇の勾配を魅せ、石の形を絶妙に合わせながら積む、より強固な打込接(乱積み優位)の仕上がりです。
このように、ここからは石垣積み技法の違いが生み出す美しいコントラストをひとつの空間で贅沢に愉しめます。 -
坂谷曲輪 ⑫持仏堂曲輪腰巻石垣と本丸腰巻石垣
ここからは廊下橋下部の石積み(打込接)も望めます。
天守から脱出できるメリットはありますが、防衛面ではデメリットでは?
実は、有事の場合には、敵が渡れないように橋を切り落とせる(または外せる)木造の引橋構造になっていたと考えられています。また、橋の天守側の正面は埋門と呼ぶ隠し門により塞がれており、容易に侵入することはできない構造でした。 -
坂谷曲輪 ⑫持仏堂曲輪腰巻石垣と本丸腰巻石垣
見上げれば、天守が睨みを利かせています。 -
坂谷曲輪 東照公えな塚
家康のえな(へその緒・胎盤)を埋めたと伝える塚です。古来、日本ではえなを埋めて子どもの成長を願ったと伝えます。母 於大(おだい)の方は竹千代の健康と将来を誰よりも強く願いました。出産の喜びと「どうかこの厳しい乱世を生き抜き、立派な武将になって欲しい」という母の深い愛情と切実な祈りを込め、胎盤が岡崎城の吉方に手厚く埋葬されたのが東照公えな塚の起源です。
元々は本丸南側にあり、現在のような立派な石塔ではなく、土まんじゅうを彷彿とさせる小さな土盛りに、灯籠の竿と笠が添えられただけの素朴な姿をしていたそうです。
1936(昭和11)年に実施された岡崎城跡の修築・整備の際、元の場所のままでは天守土台に引っかかってしまう恐れがあったため、竹千代生誕日に当たる旧暦12月26日に坂谷曲輪へ移設されました。 -
坂谷曲輪 東照公えな塚
塚の移設に関しては歴史ファンにとり興味深い偶然の一致が見られます。
実は、竹千代が産声を上げたのは、二の丸ではなく、母 於大の方が臨月の際に出産のために移り住んでいた坂谷邸(坂谷曲輪にある東照公産湯井戸のすぐ脇)だったとの説が有力です。従って、奇しくも竹千代が生まれたとされる坂谷邸跡の近隣へ移動させたこととなり、この移設は結果オーライと言えるのかもしれません!? -
坂谷曲輪 東照公えな塚
竹千代誕生にまつわる母 於大の方の出産エピソードを添えておきます。
「強い嫡男が必要だ」と考えた於大の方は、子授け・安産の名刹として知られる奥三河 鳳来寺へ参拝しました。この参拝は、戦国時代の険しい山道を越える命がけの百日祈願でした。於大の方は百日間、一心不乱に薬師如来へ祈りを捧げました。すると満願の日の夜、「あなたの願いを叶え、優れた男子を授けよう」という神聖な光が体に宿る胎夢を見たと伝えます。
鳳来寺での祈願を終えて間もなく、於大の方は身ごもり、岡崎城内で竹千代を出産しました。この誕生の瞬間が、「寅年、寅月、寅の日、寅の刻」という絶妙のタイミングでした。実は、戦国時代において「虎」は縁起が良く、勇猛果敢な武将の象徴とされました。更に、竹千代が誕生したまさにその瞬間、鳳来寺の薬師如来を守る十二神将の中の真達羅(しんだら)大将という「寅の神様」の像が、忽然と姿を消したという伝説が残されています。 -
坂谷曲輪 ⑪本丸埋門北袖石垣
坂谷曲輪は、本丸の西側を守る搦手(=裏口)に当たる防衛の要衝でした。
このように強固な江戸時代前期の打込接が重畳する様は石垣ファンならずとも溜息ものです。
また、この角度から観ると、石垣のラインが幾重にも折れ曲がるように造られており、門へ突入しようとする敵の側面に矢や鉄砲を浴びせる横矢掛けの死角なき防衛線を構成しているのが判ります。 -
坂谷曲輪 ⑪本丸埋門北袖石垣
築石に大きな自然石と割石を混在させ、高さは10mを超える高石垣です。
では何故、2つの異なる石積み技術が混在しているのでしょうか?
これには「積石時期」と「防衛上の役割」を背景とした理由があります。
田中吉政の時代(16世紀末)までは、自然石を積む野面積みが主流でした。北袖石垣が積まれたのはその直後であり、まだ古い手法が残っていました。また、同時に江戸時代初期には打込接という新しい技術が急速に普及しました。
つまり、古い「野面積み」と新しい「打込接」の過渡期に築かれたため、石垣の中に新旧の石積み技術が混在する形になったのです。 -
坂谷曲輪 ⑪本丸埋門北袖石垣
もうひとつの理由は、防衛上の役割に着目した裏口(搦手)に相応しいコスパ重視の観点です。
この埋門は本丸を守る虎口ですが、あくまで搦手に当たります。それ故、資金をかけずに迅速に強固な壁を築くことを最優先し、近くにあった自然石をベースにしつつ、強度が必要な部分には割石をパズルのように嵌め込んで補強するという合理的な工法が採られたと言うことです。 -
坂谷曲輪 ⑧本丸埋門
坂谷曲輪と本丸との境界線には、かつて本丸埋門という有事の際に土砂で塞ぐことができる秘密の門がありました。この門の左右を固めている本丸埋門北袖石垣・南袖石垣は江戸時代前期(本多時代)に築かれたものがそのまま現存しています。 -
坂谷曲輪 ⑪本丸埋門北袖石垣
荒々しい高石垣に後ろ髪を引かれながら埋門を潜ります。 -
坂谷曲輪 ⑪本丸埋門北袖石垣 矢穴(やあな)
矢穴とは、江戸時代などに巨大な岩を切り出す(割る)ために職人が彫ったノミの跡のことです。小ぶりでエッジの効いた長方形をした矢穴が並んでいます。
この隅角石は、矢穴を使って綺麗に割られた花崗岩の平らな面を外側に向け、職人が更に角を叩いてきれいに加工した様子が見て取れます。 -
坂谷曲輪 本丸埋門南袖石垣
右手上方にある伊勢神宮遥拝所鳥居を見上げながら、いざ本丸へ突入です。 -
本丸 伊勢神宮遥拝所
岡崎市と伊勢神宮には古くから深い歴史的な繋がりがあります。
かつて岡崎の稲熊町周辺などは、伊勢神宮に奉納する初穂(新米)を一時的に保管する神領でした。
また、徳川家康の祖先である松平家も、代々伊勢神宮への信仰が篤く、岡崎城の城郭を拡張する際にも神宮との方位関係を強く意識していました。
そのため、この遥拝所は、城主である譜代大名や武士たちが、国家の安寧と徳川家の繁栄を祈り、遥か伊勢の神々へ毎日頭を下げた神聖な場所の名残でもあります。 -
本丸 復興天守
江戸幕府を開いた徳川家康(1542~1616年)が誕生した城であり、別名「龍ヶ城」とも呼ばれた平山城です。
3層5階の復興天守は、1959(昭和34)年竣工、鉄筋コンクリート造、設計は名古屋工業大学 工学博士 城戸 久氏が担いました。
2006年に「日本100名城」のひとつに選定されています。 -
本丸 ⑨復興天守台南面石垣
天守台の石垣は不揃いの花崗岩の自然石を用いて築いており、城内最古の豊臣家臣 田中吉政時代の遺構です。隅角部が算木積みではなく逆反りの忍返しの形になっているのは、石垣が孕んだからではなく、戦国時代特有の野面積みの特性によるものです。この形状のものは現在では岡山城や延岡城、岡崎城の3城と彦根城の一部にしか見られません。
因みに石垣の上下で色目が異なるのは、カビと地衣類によるものだそうです。 -
本丸 ⑩復興天守台石垣東面
東面は自然石の中でも横長石を多用する点が特徴です。
岡崎城と豊臣秀吉の居城 大坂城天守は共に田中吉政が築城しており、その類似性が語られる理由のひとつでもあります。例えば天守付櫓の位置や形状が同じであったり、天守台の北側に幅約6m、西側に幅約3mの武者走りを設けるなど、失われた豊臣大坂城の天守の本来の姿が窺えます。
このように徳川家の本拠地に豊臣家の城の痕跡が遺されているのも一興です。 -
本丸 龍城神社(たつきじんじゃ)
天守の右隣に鎮座する由緒ある神社です。
社伝によると、三河守護代 西郷稠頼(つぐより)が龍頭山という小高い丘に砦を築いた際、天守に龍神が美しい5つの衣に紅の袴を身に纏った乙女の姿に化生して現れ、「我はこの地に久しく住める龍神なり。我を鎮守の神として祀らば、長くこの城を守り繁栄をもたらす」と告げました。同時に城内の井戸の水が噴き上がる奇瑞があったことから、この砦を「龍ヶ城」と名付け、城の鎮守として天守に龍神を祀ったのがはじまりと伝えます。
それから約百年後の1543(天文11)年12月26日の朝、ひとりの男児がこの岡崎城で誕生しました。すると、城楼上に黒雲が渦巻き、風を呼んで黄金の龍が天に昇っていきました。その男児こそ、後に征夷大将軍となる徳川家康でした。
やがて江戸時代の寛永年間には城内に家康を祀る東照宮(社殿)が建立されました。これが現在の龍城神社の直接のルーツです。 -
本丸 龍城神社 拝殿
天下統一を果たし、260年余年に亘る泰平の世の礎を築いた徳川家康が主祭神として祀られています。人質という不遇の幼少期から天下人へと上り詰めた家康の生涯にあやかり、人生の転機や仕事でのステップアップ、合格祈願などを願う人々が数多く参拝に訪れます。
また、生涯で57回もの戦に臨みながら、かすり傷ひとつ負わなかった戦国最強の武将 本多忠勝も合祀されています。ここ一番の勝負事の勝利や、厄除け・災難から身を守る強い守護の力があると信仰されています。
更には、1962(昭和37)年の社殿再建の際、天神地祇と護国英霊が新たに合祀されています。因みに天神地祇とは、天津神と国津神、つまり八百万の神々を一堂に集めて祀ることを意味し、神社の信仰を底上げし、主祭神2柱のご利益を万能なものにする役割を持ちます。
更には、 家康が誕生した際の「昇龍伝説」や龍神が姿を現して水が噴き出したと伝える「龍の井」により、龍神の守護によって安産・子授けのご加護があるとされます。
ご利益:出世、必勝祈願、安産・子授け、開運、厄除けのご加護があるパワースポットです。 -
本丸 龍城神社
ブロンズ製の神馬(しんめ)は、右前足を上げ、今にも台の上から飛び出してきそうな躍動感を伝えます。
1766(明和3)年、藩主 本多忠粛(ただとし)は東照宮を岡崎城三の丸に遷座させ、本丸には本多忠勝を映世大明神として祀る「映世神社」を創建しました。明治時代になり、この2社が合祀されて龍城神社となり、一時は「岡崎東照宮」と改称されましたが、再び龍城神社に改称されて現在に至ります。
本多忠勝は徳川四天王の筆頭であり、生涯57回の戦でかすり傷ひとつ負わなかったとされる最強の武将でした。家康は生前、忠勝を同じ四天王の榊原康政と共に「我が家の両翼」と呼び、絶大な信頼を置きました。織田信長からは「花実兼備の将」、豊臣秀吉からは「東国に無双の将あり」と敵や同盟相手の天下人たちからも別格の扱いを受けていました。
江戸時代中期、忠勝の直系の子孫 本多忠粛が岡崎城の城主になり、徳川の天下の立役者である忠勝の功績を称えるために本丸の社殿(現 龍城神社の前身)に合祀しました。これ以降、岡崎城は「家康生誕の城」であると共に「本多氏が先祖(忠勝)を祀る城」という2つの意味を持つ城になりました。 -
本丸 龍城神社 拝殿
神社の瓦や幕には、徳川家紋「三つ葉葵」だけでなく、本多忠勝の家紋「丸に本文字」や「立葵」も見られます。最強の武将として家康を支え続けた忠勝が、死後もなお、生まれ故郷の城で主君の脇を守り続けているという絆が感じ取れます。
因みに忠勝が主君 家康と共に祀られた理由は、徳川家において「最強にして最大の忠臣」だったからです。
ここで本多忠勝のエピソードを紹介しておきます。
忠勝の戦歴は1560年桶狭間の戦いの前哨戦における大高城への兵糧入れが知られていますが、本当の初陣はその前年、13歳の時でした。
今川方の城を攻める夜戦の際、叔父 忠真が敵の首を獲り、忠勝に「これをお前の手柄にしろ」と首を渡そうとしました。しかし、13歳の忠勝は「人の手を借りた手柄などいらぬ。己の手で獲ってこそ武功なり」と激怒し、自ら敵陣へ突撃して最初の首級を挙げたと伝えます。 -
本丸 龍城神社 拝殿
拝殿の左手には、2つの「昇龍伝説」に因んだ巨大絵馬が掲げられています。
雲海の中でダイナミックに絡み合う双龍が力強い筆遣いで描かれています。
制作者は、第17代宮司 本多隆成氏です。
因みにこの絵馬を描かれた本多宮司の家系は、岡崎城の最後の城主であり、合祀されている本多忠勝の直系(本多子爵家)の末裔に当たるそうです。
1572年の三方ヶ原の戦いでは、武田軍に大敗した徳川軍が命からがら岡崎方面へ退却する際、忠勝は自ら志願して最も危険な殿(しんがり:最後尾の防衛)を務めました。迫り来る武田の猛追を、愛槍「蜻蛉切」を振り回して食い止め、家康を無事に逃げ切らせました。この時、武田軍から「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八(忠勝)」と狂歌で絶賛されました。
因みに、忠勝の代名詞である天下三名槍 「蜻蛉切」 や鹿の角をあしらったな兜が岡崎城で使われ始めたのは、家康が三河を統一し、岡崎城を本拠地としていた時代のことでした。
家康がピンチに陥った「伊賀越え」においても、常に先頭や殿に立って家康を守り続けました。この圧倒的な強さと強運から、単に歴史上の偉人としてだけでなく、「絶対に負けない神様」「災いから身を守ってくれる守護神(武運長久・開運除災)」として、武士や地域の人々から信仰されるようになりました。 -
本丸 龍城神社 拝殿
社務所に声掛けすれば拝殿内を案内していただけます。ただし、天井の彫刻以外は撮影禁止です。
天井には国内最大級の一本彫りの巨大な「平成昇龍」が躍っています。1996(平成8)年に岡崎市市制80周年を記念して岡崎呉服協同組合が奉納したもので、大きさは長さ4m、幅2.5m、厚み40cmあり、ベニマツ材の白木彫りです。
因みに制作は、社寺彫刻師 矢原長典氏とその親方による渾身の競作です。長典氏は蒲郡市を拠点に屋号「木彫ヤハラ」として活動されており、彫刻の世界に身を置いて45年以上のキャリアを持つベテラン木彫刻師です。 -
本丸 龍城神社 拝殿
1543年、竹千代が城内で誕生したまさにその朝、城の上に雲を呼び風を招く黄金の龍が現れて咆哮し、天へ昇っていったという伝説の龍です。この昇り龍は、「国家を揺るがす天下人が生まれる吉兆」として天へ駆け上った伝説の金龍・龍神の姿を現代に蘇らせた作品です。 -
本丸 龍城神社 拝殿
一切の着色を排し、木肌本来の色目と陰影だけで龍の鱗や鋭い爪、波打つ身体の躍動感を表現しています。
また、見る位置や光線の差し込み具合により、龍の表情や動きのニュアンスが違って見えるのも、高度な木彫り技術ならではの魅力です。
また、この龍は、その下で参拝の柏手を打つと、内蔵センサーが感知し、スピーカーから重低音の龍の咆哮が響き渡る「鳴き龍」仕掛けになっており、五感で龍神の気配を感じられる隠れた名物です。
NHK大河ドラマ『どうする家康』のロケの際、家康役を演じられた松本潤さんもこの拝殿を訪れ、天井の昇り龍を見上げてその鳴き声を聞かれたそうです。 -
本丸 龍城神社 龍の井(出世開運の井戸)
神社の西側脇、社殿と天守の間にある古井戸です。
これが岡崎城(別名:龍ヶ城)の誕生と龍神伝説の起源となった神聖な井戸です。
室町時代の1452(享徳元)年、三河守護代の西郷頼嗣(清海入道)がこの地に砦(後の岡崎城)を築きました。その砦が完成したその日、新しく掘られたこの井戸から突如として激しい水柱が噴き上がりました。同時に、巨大な龍神が水中から姿を現し、雲を呼び、風を起こしながら天高く昇っていったとの伝説が残されています。この吉祥に驚き、深く感動した頼嗣は、砦を「龍ヶ城」と名付け、天へ昇った龍神を城の守護神として祀ることにしました。これが、龍城神社のはじまりであり、岡崎城が今でも龍の城として親しまれている理由です。
一方、竹千代が産まれた頃の岡崎城は、織田方の攻勢にあって周囲から孤立した状態にありましたが、松平家待望の跡継ぎが産まれたことで城内は活気づきました。その竹千代誕生の瞬間、この井戸から大量の水が湧き出し、城の上に黄金の龍が現れて咆哮したとされ、家康が「龍の化身」や「神の申し子」として恐れられ、敬われる象徴的なエピソードとなっています。
一度も水が枯れたことがないと伝えるこの井戸の周辺は、出世開運や家内安全、そして龍神のご神徳による金運上昇といったご利益のあるパワースポットとなっています。 -
本丸 東照公遺訓碑
徳川家康の言葉として高名な人生訓(御遺訓)が刻まれた石碑です。
台座は、亀の様ですが、実は贔屓(ひいき)と言う想像上の生き物です。中国の神話では贔屓は龍が生んだ9頭の子ども(竜生九子)の長男とされます。よく観ると頭には耳、口には牙が見えます。頭は龍を彷彿とさせます。贔屓には重いものを背負うことが大好きで、強力な怪力を持つという性質があり、古くから格式高い石碑や大名のお墓の台座(=亀趺)として好んで使われてきました。
また、碑頭には岡崎城を象徴する2頭の龍の精巧な彫刻が施されており、岡崎石工の技がキラリと光ります。
このように、台座を龍の子どもである「贔屓」、碑頭には岡崎城を象徴する「2頭の龍」の彫刻を配し、この遺訓碑自体を龍の親子で守護するという感慨深い構造となっています。 -
本丸 東照公遺訓碑
この遺訓は家康の人生哲学や処世術が凝縮された言葉として現代でも広く親しまれています。
「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。
不自由を常とおもえば不足なし。
こころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ。
勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる。
おのれを責て人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
尚、末尾には昭和11年の建立時に揮毫された、御三卿のひとつである田安徳川家第9代当主 徳川達孝氏の署名が添えられています。達孝氏は、幕末期に生まれ、明治時代以降において貴族院議員や大正天皇の侍従長といった要職を歴任された方です。徳川宗家第15代将軍 徳川慶喜が隠居した際、達孝氏の実兄 亀之助(後の徳川家達)が徳川宗家の家督(第16代)を継ぎました。これに伴い、達孝氏が田安徳川家の跡を継がれています。 -
本丸 東照公遺訓碑
この石碑は1936(昭和11)年に岡崎の偉人 加藤賢治郎氏が市へ寄贈したものです。賢治郎氏は明治時代~昭和時代初期にかけて岡崎の経済界を一代で支え、98歳で大往生を遂げた偉大な実業家です。幼い頃から家康の遺訓を終生の座右の銘とし、ビジネスの荒波を乗り越える際にも「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」「不自由を常と思えば不足なし」という家康の忍耐と謙虚さの哲学を胸に抱き、それを実践することで大成功を収めました。
特筆すべきは、石碑に自分の名前を入れさせなかった点です。名誉を求めず、「昭和11年4月16日建立」と日付のみを刻ませたその姿勢は、遺訓の精神を貫いた謙虚なものと言えます。 -
本丸 龍城神社 龍の彫刻
2頭の龍が絡み合う石の彫刻が龍城神社に奉納されています。
傍らには「1995年 戸松甚五郎刻 83才」と刻んであります。
甚五郎氏(1914~2003年)は日本三大石材産地のひとつである石の街 岡崎を代表する伝説的な彫刻師です。明治時代から120年以上に亘って続く彫刻専門石材店「石彫の戸松」の2代目当主であり、その並外れた技量から多くの名作を世に遺しました。
甚五郎氏は、注文通りの石像を彫るだけの職人に留まらず、石材に命を吹き込む芸術家としての側面を持っていました。その晩年、「石の寿命は千年以上。未来の人たちが、私の作った石像を見て、何かを感じてくれれば。それが私の願いです。」との言葉を遺されています。この言葉通り、甚五郎氏が手がけた彫刻は、数百年・数千年先の未来へ想いを伝えるため、どれも圧倒的な生命力と深い精神性を宿しています。
この続きは、情緒纏綿 三河国 岡崎③岡崎城址<本丸埋門南袖石垣~風呂谷曲輪~本丸~清海堀~持仏堂曲輪>でお届けいたします。
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