2026/08/04 - 2026/08/04
417位(同エリア1673件中)
Bachさん
猛暑の京都を離れ、少しは暑さを逃れるかとの期待を込めて、比叡山坂本へ延暦寺御用達の「手打ちそば」を求めて、行ってきました。
何年か昔に食べた懐かしの蕎麦が、今は坂本本店でしか食べれないので、この目的だけのつもりでしたが、ついでに小堀遠州の庭園だけ見て帰ろうと思ったら、とんでもない、庭園だけでも地元穴太衆の作庭した「穴太式庭園」や「里坊」の庭園、「門跡寺院」の庭園など見るべきものがたくさんあり、「麒麟が来る」で脚光を浴びた「明智光秀」絡みや、天台宗「天海大僧正」絡みの史跡や資料が数多くあって、調べていくと終いには「光秀と天海は同一人物」だという説も現れて、結局情報満載の旅行記になってしまいました。
それでも、懐かしの味「鶴喜そば」は流石の手打ちそばで、延暦寺・宮家御用達だけある美味しい蕎麦を頂き、幸運にも居合わせた九代目が比叡山の「不滅の法灯」にも寄与した初代の話や、創業当時から残る灯篭など配した立派な庭園を案内してくれて、不断はなかなか行けない特別な蕎麦屋さんで、味だけでない深い歴史と思いのこもった蕎麦ランチになりました。
期待した暑さはどこも同じで全く変わらず、その中で気が付けば 2万歩も歩いてしまいましたが、蕎麦だけのつもりが、光秀生存説にまで発展した小旅行でした。
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(行程)11:00 JR比叡山坂本駅~善老寿庵~石占井神社~日吉大社一の鳥居~大乗寺~興玉神社~11:30西教寺12:40~13:30鶴喜蕎麦~14:40生源寺~15:00滋賀院門跡~15:30慈眼堂~16:00京阪電車比叡山坂本駅
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11:00 JR比叡山坂本駅
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石積みの郷公園
坂本の城下町散策の出発点となる公園で、明智光秀の居城「坂本城」天守台と穴太積(あのうづみ)の石垣、右手には、1571年光秀の比叡山焼き討ちを村人へ知らせるために生源寺の釣鐘を激しく打ち鳴らしてヒビが入ったとされる「割れ鐘」がある -
日吉大社と延暦寺の参道となる「井神通」を比叡山に向かって歩く
この目立つ合掌造りの建物は「善老寿庵」(ようろうじゅあん)の石標があり、五箇山の民家を移築したものらしいが、詳細不明 -
「石占井神社」(いしうらいじんじゃ)
天智天皇が大津京鎮護のため、大和三輪山の大神(おおみわ)神社から、国家鎮護の「大己貴神」(おおなむちのかみ=大国主神)を、日吉大社に勧請するときに、この地で石に座った占いの女神がいて、大神の足を井戸で洗い日吉大社まで案内したと伝わり、この女神を「石占井大神」として祀っている *「大己貴神」は大比叡(おおびえ)神とされ、西本宮の主祭神として祀られ、地主神「大山咋神」(おおやまくいのかみ)は小比叡(おびえ)神とされ、東本宮(二宮)に祀られた -
「日吉大社一の鳥居」
日吉大社まで約850mの地点で、大社の手前に二の鳥居、赤鳥居と山形の特徴的な「山王鳥居」がある -
(2016/11/26撮影)「山王鳥居」(さんのうとりい)
鳥居の上に三角形の破風(屋根)が乗った珍しい鳥居で、神道と仏教が一つになった「山王信仰」を意味し、合掌鳥居や総合鳥居とも呼ばれ、全国の日吉神社や日枝神社などで見られる -
「大神門神社」(おおみわかどじんじゃ)
「石占井神社」とセットで、日吉大社の祭神が大和国三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)から勧請された道筋が残されている (石碑)日吉大社社外百八社の一社で、明治までは「大鳥井社」と呼ばれ、祭神は、山王三聖である、日吉大社西本宮・大己貴神(おおなむちのかみ)、東本宮・大山咋神(おおやまくいのかみ)、宇佐宮・田心姫大神(たごりひめのかみ)の三柱の神々で、境内に隣接する大神門と呼ばれる鳥居には、毎日天照大神が来臨され、山王三聖にご対面される神社である -
「福太夫神社」(ふくだゆうじんじゃ)
日吉大社社外百八社の一社で、祭神は「若産霊神」(わかうぶたまのかみ) *植物が若々しく芽吹く生命力で、農業・養蚕の繁栄を司る神様 -
小比叡山(おびえいさん)「大乗寺」(だいじょうじ)
比叡山延暦寺の僧侶が隠居した「里坊」(さとぼう)の一つで、坂本の門前町には、日吉大社の末社などの「社外百八社」と、僧侶の住坊が多く混ざり合って存在している -
「興玉神社」(おきたまじんじゃ)
坂本本町住民の氏神神社 -
坂本「広芝(ひろしば)のこと」
(石碑)日吉古式祭(山王祭)では4月3日に大榊神事と言われる西本宮から大榊が大津天孫神社に渡られる神事がある。おそらく近世の事と思われるが、3月27、8日のころこの榊を比叡の山から伐り出し広道芝松と言われたこの所に曳き出し神事を行った後、大宮の東の方へ移し奉ったと言う 日吉大社宮司 *「大榊神事」(おおさかきしんじ)は、祭神・大己貴神が奈良の三輪山から勧請され、大津の里を経て比叡山へ鎮まったという伝承に由来し、御霊が宿る大榊を日吉大社から大津市の天孫神社(四宮神社)へお運びして4月14日まで奉安し、同日午後に日吉大社へ還り、「広芝」は「駕輿丁」(かよちょう)という神輿を担ぐ伝統的な組織の4つの地区(中部・広芝・至誠・下阪本)の一つになる、「天孫神社」は、古代より近江国を代表する有力な神社として、一宮・建部大社、二宮・日吉大社、三宮・多賀大社、四宮・天孫神社という社格に位置づけられ、「大津祭」は、天孫神社の祭礼となっている -
11:30「西教寺」に到着
2つの石柱があり、右側に「天台真盛宗総本山西教寺」、左側には「明智光秀公と一族の菩提寺」 -
「西教寺」(さいきょうじ)
「総門」は、比叡山焼き討ちで焼失後、光秀により坂本城の城門を移築したもので、「西教寺」は、飛鳥時代に聖徳太子による創建後、1486年延暦寺で20年間の修行を積んだ真盛(しんせい)上人が再興し、その後1571年織田信長の比叡山焼き討ちで被害を受けた後、坂本城主となった明智光秀により復興され、その頃に移築されたと思われ、遺構が少なく幻の城と言われている坂本城の遺構として極めて貴重 -
「沢庵禅師の碑」
江戸時代の高僧・沢庵禅師(1573-1645)が1614年に石山寺や三井寺を経て西教寺を訪れた際の紀行文「石山行記」の一節が刻まれた碑 -
「西教寺と護猿(ござる)の由来」
1492年、比叡山の僧兵が押し寄せた際、中興の祖である真盛上人の身代わりとなって念仏の鉦(かね)を叩いているのを見て、日吉大社の使者である猿までが上人の教化を受けて念仏を唱えていることに感じ入った僧兵はその場を立ち去り、寺と上人を危機から救ったという伝説がある -
「護猿(ござる)と神猿(まさる)」
西教寺の境内塔頭の瓦の上には必ず「護猿」(まもりざる)が居るが、「日吉大社」のお猿は神の使い(神使)として「神猿」(まさる)と呼ばれ、「魔が去る」「勝る」とされ、どちらも魔除け、厄除け、勝運、良縁などの御利益がある -
西教寺 小説「細川ガラシャ夫人」三浦綾子
三浦綾子の歴史長編小説で、明智光秀の娘として生まれ、戦国の世で愛とキリスト教信仰に殉じた細川ガラシャ(玉子)の生涯を描いた作品の中に、光秀・煕子夫妻と娘の玉子が西教寺を訪れ、寺の鉦(かね)の音を聞くシーンが描かれているという -
「イクサガミ・巨大愁二郎像」
「イクサガミ」は、直木賞作家・今村翔吾氏による明治時代を舞台にした歴史小説で、腕に覚えのある猛者たちが、京都から東京を目指して生死を賭けたサバイバルデスゲームを描き、その主人公を「嵯峨愁二郎」(しゅうじろう)という -
「Netflixイクサガミ ロケ地 西教寺」
この人気作品が岡田准一主演・プロデューサーで映画化され、2024年から「西教寺」でロケが始まり、2025年11月から配信され、2026年2月からこの像が展示され、7月25日から9月6日にかけて夜間特別拝観イベントが開催されている -
総門から勅使門まで150m続く参道の両側には、それぞれ門徒教区の宿坊になっている、6つの塔頭が並ぶ
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塔頭右手前「禅明坊」(ぜんみょうぼう)
ここは「福井教区」の宿坊で、最近作ったような枯山水風の庭園の奥には喫茶室がある -
塔頭左手前「禅智坊」(ぜんちぼう)
ここは「伊賀国伊勢真盛倭両組」の宿坊で、山門の瓦の上には「護猿」 -
「風鈴参道」通り抜け
6月~9月、カラフルなガラス風鈴の参道通り抜けが開催されている -
塔頭右中「徳乗坊」(とくじょうぼう)
ここは「近江国神愛組」の宿坊 -
塔頭左中「聞證坊」(もんしょうぼう)
ここは「近江国野洲組・蒲生組」の宿坊 -
本堂前に小綺麗な庭園が見えたので入ってみる
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「宝珠丸」(ほうじゅまる)像
西教寺を開山した宗祖・真盛(しんせい)上人の幼少期の姿 -
「如遂苑」(にょすいえん)という枯山水の庭
三尊石組からなり、落ち流れる清水は琵琶湖へと流れる、と書いてある -
書院前には池泉の庭
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我家にも欲しい「池泉庭園」のモデルのような庭
池を中心に、石組や護岸石、橋、飛び石、州浜、灯籠、植栽、鯉など、池泉庭園の要素がコンパクトに詰まった庭で、我家に持って帰りたいような庭 -
「蓮心坊」(れんしんぼう)
ここも境内塔頭で、建物は廃絶しているが、仏像や阿弥陀堂にその名残があるらしい -
塔頭右奥「實成坊」(じっせいぼう)
ここは「直轄教区」の宿坊と書かれていて、北海道や東京・横浜・名古屋・京都・大阪などの併記がある -
塔頭左奥「禅林坊」(ぜんりんぼう)
ここは「伊勢國宿院」の宿坊 -
参道両側の塔頭宿坊の前には、穴太積の石垣と流水路が、四季折々の樹々と一体となって、素晴らしい!
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西教寺「参道」突き当り
参道は比叡の山に向かって緩やかに上っている -
「勅使門」(ちょくしもん)
西教寺の堂宇は、殆どが比叡山焼き討ち(1571年)による焼失後、江戸時代から近代にかけて整備されたもので、この「勅使門」も明治27年(1894)の造営 -
寺標石柱「天台宗真盛派本山西教寺」
(駒札)西教寺は、聖徳太子が、仏法の師である慧慈・慧聡のために開創された寺で、推古天皇の26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。その後、比叡山で修行された真盛(しんせい)上人が文明18年(1486)入寺し、不断念佛の根本道場として、西教寺を再興された。明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、「天台宗真盛派」の本山となった。昭和16年(1941)に天台三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)三井寺(寺門)西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を「天台真盛宗」と公称して独立、今日に至っている。(全国に400余りの末寺を有す)この寺標石柱は明治11年(1878)に建立されたものである。 -
西教寺「唐門」
宗祖・真盛が不断念仏を400年近く続けてようやく明治になって「天台真盛宗」として独立を許され、明治11年(1878)「宗祖大師殿」が建立され、その正面に「不断念仏15万日大法会」を記念して、大正6年(1917)に建立された、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」(2020年)で話題になった「麒麟」(平和の象徴の霊獣)がいる -
ガラスの風鈴参道を通り抜け、本堂へ
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本堂前も風鈴参道
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左手には、明智光秀一族の墓がある
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「戦国武将に仕えた人たちの墓」
明智一族墓所の他にも、西教寺を開山した真盛上人を信仰した武将や民衆が供養されている ①明智光秀公と一族の墓 ②妻熙子(ひろこ)の墓 ③富田民部進の息女の供養の為建立された二十五菩薩像 ④長谷川左兵衛藤広の墓(日本で最初にそろばんを広めた人)⑤長岡監物一族の墓(肥後細川忠興の家臣)⑥比良太郎兵衛の墓(出雲松平出羽守の家臣)⑦山中山城守橘長俊の墓(秀吉の家臣でここの檀家となり伏見城御殿を西教寺に移築寄進した)⑧前田菊子の墓(前田利家の六女で秀吉の養女となり7歳で夭折しここに埋葬されている) -
「萬日廻向(えこう)供養塔」
ここを不断念仏の道場とし念仏を唱え続ける真盛(しんせい)上人(1443-1495)亡き後もその意志を引き継ぎ、一万日(27年4ヶ月)ごとに萬日法会が行われ、その記念に供養塔が建てられ、令和3年(2021)に「十九萬日廻向」供養塔が建てられた -
「明智光秀公と一族の墓」
西教寺は比叡山焼き討ちの後、坂本城主となった明智光秀により復興され、光秀一族の菩提寺として、左手隅の光秀が妻を弔った墓に始まり、光秀本人、明智一族、妻の実家である妻木家の供養塔が並ぶ -
「明智光秀公の墓」
(駒札)織田信長が1571年9月、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き討ちした。西教寺も全山類焼の厄に遭った。その後、再興に尽力したのは信長の将、明智光秀で、浜坂本に坂本城を築城、坂本城城主として坂本一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築、また1574年仮本堂を完成し、現在の本尊(重文丈穴の阿弥陀如来)を迎えている。それ以来、光秀の由縁はふかく、1573年2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室熈子の供養もされ、墓が安置されている。1582年本能寺の変のあと、山崎の合戦に破れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。爾来、当寺としては光秀の菩提為毎年6月14日に光秀忌を営んでいる。この供養塔は左のように記されている。秀岳宗光大禅定門 南無阿弥陀仏 天正十壬午年六月十三日 -
坂本城主・明智光秀の妻「熙子(ひろこ)の墓」
明智家と同じ美濃国土岐氏の一族・妻木氏(つまきし)より嫁入りし、細川忠興の正室となる三女・玉子(細川ガラシャ)の母で、1582年本能寺の変の6年前の1576年に病死し、当時、妻の葬儀に夫は参列しない習わしだったにもかかわらず、葬儀に光秀公も参列したという、手前に松尾芭蕉(1644-1694)の句碑がある「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せよ」 *芭蕉は奥の細道の旅の途中、熙子が髪を売って光秀を助けたという逸話を聞いて俳句にしたという -
「明智家臣・妻木一族の供養塔」
明智氏と同じ美濃・妻木城主を務め、光秀公の家臣として仕え、山崎の戦いでは坂本城を守っていたが、羽柴軍と戦い落城後、明智一族に殉じた人々を西教寺に埋葬・供養した後、熙子夫人の墓前で自刃したと伝えらる -
「聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像」
1584年に近江国の富田民部進という人が、娘の往生を願って造立したとされ、その像が風化・破損が進んだため、西教寺の檀徒や、光秀公とその一族を極楽浄土へ導くようにと、平成16年(2004)新たに造られ、阿弥陀立像と不動明王を加えた27体の群像が建てられた *前列中央の阿弥陀如来が二十五菩薩を従え、それぞれ鼓、琵琶、笛、笙などの楽器や、仏具、蓮華の花などを持ち、浄土より来迎した様を表している -
「長谷川左兵衛藤広の墓」
一番右端に、そろばんを持ったお地蔵さんみたいな像があるのは、日本で最初にそろばんを広めた長谷川左兵衛藤広の墓がこの上にあることを示し、この人は、徳川家康に仕え、1606年長崎奉行となった際に、明の商人からそろばんを手に入れ、日本人に合うよう改良して「大津そろばん」を制作したという -
「宗祖真盛上人の六字の名号石」
鬱蒼とした木々に覆われた石段があり、その入り口に「南無阿弥陀仏」の「名号石」と、「放生池」(ほうじょういけ)がある -
「宗祖真盛上人廟」(しんせいしょうにん)
長い石段を上がった境内で一番の高台に、宗祖真盛上人(1443-1495)の本廟(1843年築)がある、真盛は、伊勢国に生まれ(幼名は宝珠丸)7歳で出家し、19歳で比叡山に上り、20年以上修行し、42歳から源信の「往生要集」の教えに惹かれ、翌1486年には源信の旧跡である近江国の西教寺を再興し、これを戒律と念仏一致の根本道場とし、その後も伊賀や伊勢、北陸など各地で念仏道場を多数開いた後、1495年伊賀国西蓮寺にて53才で没 -
「客殿」(きゃくでん)通用門
別名「桃山御殿」とも称され、秀吉の死後、伏見城にあった旧殿を、秀吉の正室北政所(ねね)の取次役であった戦国武将大谷吉継の母親と、同じ奉行格の山中長俊の妻が西教寺の檀家となって1598年に寄進したと伝わる建物で、本堂の隣に位置し大本坊から回廊を通じて拝観できるようになっており、外観は意外と質素な造りだが、5つの部屋には狩野派の襖絵や障壁画など絢爛豪華な伏見城の名残りが見られる -
「本堂」不断念仏相続十九萬日大法会宝塔
1571年比叡山焼き討ちで焼失した後、江戸中期1739年に紀州徳川家の寄進により再建されたもので、1486年宗祖真盛上人以来、本堂では毎日休まず念仏を唱える「不断念仏」が続けられ、その日数が「19万日」に到達したことを記念し、令和4年(2022)大法会が行われた -
西教寺「戦国武将ゆかりの地」
織田信長(1534-1582)に仕えた明智光秀(1528-1582)、豊臣秀吉(1537-1598)、徳川家康(1543-1616)の3人が並び、光秀が1582年本能寺の変で信長を討つと、秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち天下を掴み、家康は光秀から逃れて三河へ戻り秀吉の死後、関ヶ原の戦いで江戸幕府を開いた、ここ西教寺は、光秀一族の菩提寺で坂本城の遺構「総門」の他、秀吉の遺構「桃山御殿」(客殿)と徳川家の寄進による「本堂」が存在し、図らずもこの3人をつなぐ場所となっている -
ミストシャワーが涼し気な「手水舎」(ちょうずしゃ)
昭和19年(1944)建立で、格天井の木造瓦葺き建物は風格があり、これも登録有形文化財 -
「鐘楼堂」(しょうろうどう)
江戸期1831年の再建で、梵鐘は坂本城の陣鐘を光秀が寄進したものとされ、総門と共に坂本城の遺構となっており、昭和62年までは撞かれていたが、現在は別の場所に収蔵されている -
「大本坊」玄関
光秀が西教寺の再建に近くの宇佐山城(大津)にあった陣屋(居住用建物)を寄進したものを元に、昭和33年に改築した建物で、ここから回廊を通じ本堂と客殿を拝観することが出来る -
「大本坊」
光秀と妻熈子の御木像が安置されている -
「部下思いで情の厚い理想の上司だった」
明智光秀は信長を討った裏切り者というイメージが強いが、丹波国や近江国では、思いやりと温かみがある善政で、身内や家臣・領民からの評判は良く、苦労人として人の痛みがわかり人間関係を大切にするタイプだとも言われ、カリスマ型と調和型の板挟みの苦悩が常にあったと思われ、これを讃える西教寺にはエールをおくりたい -
「熈子と添い続けた一途な愛妻家だった」
「月さびよ明智が妻の咄(はなし)せむ」は、煕子の墓前にあった松尾芭蕉の句で、妻煕子が光秀の浪人時代の困窮を見かねて自分の黒髪を切って売ったという美談に強く心を打たれて作ったと言われ、光秀も深く感激し、生涯でたったひとりの伴侶しかもたなかったと言われる(月よ、もっと寂しそうに照ってくれ、今宵は明智の妻の素晴らしい内助の功の話をして聞かせよう) *二人の間には細川ガラシャの他、三男四女と言われるが、一説には六男七女という話もあり真実は分からない -
「戒称二門」(かいしょうにもん)
天台真盛宗の根本教義は、戒律を守る「戒」と、阿弥陀仏の名を称える称名念仏の「称」の二つを同時に行うことで、ひたすら念仏を唱える法然の専修念仏や親鸞の悪人正機の教えとは異なり、 自力の「戒」と、他力の「称」を両立させることで救われるという、が良く分らん -
「不断念仏」(ふだんねんぶつ)
南無阿弥陀仏)を唱え続ける「不断念仏」は、平安時代に天台宗の慈覚大師円仁が唐から持ち帰り、比叡山で始めたのが最初とされ、時間制や交代制などいろんなかたちで全国の寺院に広がったが、この「西教寺」が凄いのは、いつも本堂で念仏を称えている僧侶がいることで、これは室町時代から今に至るまで朝から夕方まで毎日続いているという -
「西教寺の4つの庭園」
西教寺の魅力は、徳川家康に仕えた小堀遠州による庭園など、4つの異なるタイプの庭園が見られることで、今回の訪問もこれが第一の目的 -
「大方丈庭園」
(駒札)江戸初期の枯山水庭園であるが、作庭者は不詳、建物に対してやや斜めに構えた手法は、大本坊からの観賞を考慮した素晴らしい角度となっている。三尊石組に対応して負けず劣らずの構成美を現わしているのが南縁から西の中門に向かって打たれている飛石で、縁側近くの飛石は桂離宮月宮台横の飛石を想像させる打ち方で大胆豪放な手法をとっている。庭一面の柔らかな緑苔に映えて三尊石組と景石の力強さは、禅院式枯山水庭と茶庭式露地庭との混合形式として特異な美を構成した名庭園と言われている -
「枯山水と露地との融合」
庭園は、南側の築山に三尊石組があり、随所に刈り込みが配置され、前面の白砂と石で山水の風景を表し、その白砂には中門から並ぶ飛石があって、しかも手前の巨石から少しずつ小さくなって遠近感を強調しており、枯山水庭園であるが、露地庭でもあり、素晴らしい -
「三尊手法の枯滝石組」
築山に築かれた枯滝石組は、三尊石組手法をとっており、中心の立派な立石の両側に小さめな脇侍石(きょうじせき)となる滝副え石を据えて滝口から落とされた水が白砂で表現された河川となって流れている -
「生垣や土塀、刈り込みで立体感」
庭園の背景となる生垣や土塀や刈り込みが、立体感を表現し、全体の形を美しく整えている -
西教寺「聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩」
明智光秀一族の墓のところにあった「二十五菩薩」が、書院と客殿を結ぶ「欣浄廊」にも祀られている、これは安土桃山時代の1584に近江国の富田民部進という人が、幼くして亡くした愛娘の往生を願って造立し、境内の屋外に安置されていたが、風化・破損が進んだため、平成16年(2004)に複製し、現在地に置かれている -
「書院庭園」(明治初期の作庭)
(駒札)この庭園は、坂本一帯に亘って多く見られる所謂「穴太式庭園」の一つで、この辺り一帯の造庭に活躍した穴太衆(あのうしゅう)の手になるものである。地割りやその手法は坂本一帯に存する庭と共通する、背後の客殿柿葺屋根の切妻造りの稜線と白壁、植込みの木々の直線が織りなす構成美が素晴らしい -
「穴太式庭園」(穴太衆庭園)
「穴太衆」(あのうしゅう)は、戦国時代から安土桃山時代に城や寺院の石垣を手掛けた石工集団で、自然石を加工せず巧みに組み上げて造る「穴太積み」で、庭園まで造っていたとは知らなかったが、地元では西教寺の他、旧竹林院や里坊など坂本地区に数多く残されている -
「穴太積み城郭」
「穴太積み」は、自然石を加工せず積む「野面積み」という石垣の技法で、力を全体へ分散させて地震に強く、水はけも良いので崩れにくく、織田信長に認められ安土城の築城に抜擢されて以来、大阪城・名古屋城・江戸城・姫路城・竹田城・彦根城など全国の城の石垣づくりに関わっている -
「書院」(しょいん)
大正6年(1917)の不断念仏十五万日大法会に建立され、南側4室の表書院と北側6室の裏書院からなり、北側裏書院に面して庭園がある。 表書院は、付書院のある8畳半の大床と1畳分の違い棚を設け、各部屋の仕切りの襖を取り払うと大広間となり、現在「光りが織りなす極楽の世界~」のイベントでキラキラになっている -
「夕涼み夏のライトアップ~光りが織りなす極楽の世界~」
2026年7月25日~9月6日まで、4000個の風鈴と歴史建造物と、入口にあったイクサガミもライトアップされ、その一環らしい -
何か意味があるようだが、解説がないと意味不明
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「裏書院庭園」
(駒札)滝組と大石、杉苔を中心に作庭された池泉鑑賞式庭園。宗祖真盛上人500回忌大法会(平成6年)記念事業として、平成元年に作庭された。庭園師 西村繁太郎氏(地元の庭師さん) -
「裏書院庭園」は、細長い敷地を活かした枯流れと、州浜と出島もある池泉の奥に、左右の巨石の滝副え石の間に、黒い「水落ち石」とその下部に「水受け石」を据えた「枯滝石組」があって、コンパクトにまとまっているが、これは穴太式庭園ではない
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「明智光秀公資料室」
書院奥に、光秀公のゆかりのものを展示している部屋がある -
光秀公の年表や、西教寺の復興などについての資料があり、光秀がいかに住民や家臣には評判が良かったか、強調されて光秀の好感度が上がる
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平成の渡り廊下から客殿へ
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正面が客殿庭園、左手が客殿、右手が観潤亭
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西教寺「観潤亭」(かんらんてい)
明治時代(1900年前後)の建築で、床の間・棚付の8畳間と棚のある6畳間の2部屋からなり、現在は仏具などの展示スペースとして利用されているという *「瀾」(らん)は、波立つの意で、「潤」(じゅん)は、うるおうの意 -
「明智光秀水墨画」
「客殿」入口に、2020年墨絵師・御歌頭氏が奉納した水墨画があった、以前京都本能寺でも見たことがある -
「客殿」の山側には、「観潤亭」と前面に見える「新座敷」と山の斜面に囲まれた部分に「客殿庭園」がある *「新座敷」は、昭和初期建築の近代和風建築で、観潤亭と同様、床の間・棚付の8畳間と棚のある6畳間の2部屋からなり、控えの間や来客用として使う
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客殿「茶の間」
「客殿庭園」は、「茶の間」に座って観賞するように作庭されている、ここに座って、四季折々の素晴らしい風情を眺めていると、自然と心が落ち着く -
「客殿庭園」(池泉庭園)
(駒札)江戸初期、小堀遠州作庭、この庭園は裏山の急傾斜の山畔部を巧みに利用した丸刈角刈の小苅込を駆使した鑑賞庭園である。中央の池泉は琵琶の姿を取入れた瓢型で山畔の下部と池泉との間に小丘坡を築いた二つの石組で構成されている。池泉には山畔から出島が設けられ、中央には船石の岩島が配され蓬莱石組の美しい構成がなされている。客殿茶の間に端座して観賞すると、自然と心が落ち着いてくる。初夏の新緑さつきの咲く頃、秋たけなわの紅葉の季、冬の雪景色等は特に素晴らしい眺めとなる -
「琵琶湖の形をした瓢箪型の池泉鑑賞庭園」
庭の中央に琵琶湖をかたどった池があり、山畔との間に比叡山と比良山をイメージした二つの石組みの小丘がある、池の中には、舟石らしき岩島と対岸に舟着石らしき板石や、奥には石橋も架けられ、手前には亀島にも見える出島や滝石組もあって、山畔の石組と刈込と、効果的に置かれた灯篭が見事にこの自然の中に調和して美しい -
「観潤亭」からの眺めも良さそう
「客殿」から眺める庭園だが、「観潤亭」のすぐ前は出島のようになっていて、三尊石のように組まれた滝石組からの水が落下する音が聞こえ、その奥にも山畔沿いに更にいくつかの石組があり、庭に降りて飛石伝いに思わず散策したくなりそう -
背後に「日吉神社、伏見稲荷神社、愛宕神社の祠」
日吉神社は山王信仰の神、伏見稲荷神社は五穀豊穣や商売繁盛の神、愛宕神社は火伏せの神、この左奥には真盛上人の本廟があり、異様な神秘さを感じる -
「客殿」南側、方丈池側の「客殿通用門」塀との間の枯山水庭
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西教寺「客殿」(きゃくでん)
秀吉の死後、伏見城にあった建物を、秀吉の家臣大谷吉継の母と、同じ奉行格の山中長俊の妻が西教寺の檀家となって1598年に寄進したと伝わり、別名「桃山御殿」とも称され、主室の「上座の間」に続く各部屋の襖には、狩野永徳筆と伝わる花鳥図や水墨画が描かれており、花鳥の間、賢人の間、猿猴の間、鶴の間と続くが、残念ながら通常非公開 -
「上座の間」(じょうざのま)
伏見城にある時は秀吉のための部屋だったと思われる天下人のための部屋で、「帝鑑図の間」とも言われる *「帝鑑図」(ていかんず)は、中国の明の時代に歴代皇帝の故事を描いた道徳・帝王学の図書で、日本でも豊臣家や徳川家などに好まれ残っている -
「花鳥の間」
(説明板)上座の間を仕切る襖4面には、老松に鶴の図が描かれて長寿を表すとともに、かたわらは富貴の象徴である牡丹が配される。また、西側4面の襖には、松竹梅を中心に錦鶏鳥や鴨がたたずむ冬の水辺の景色が描かれる。松竹梅は、「歳寒の三友」と呼ばれ、ともに寒さに耐え、年始を彩ることから、あめでたいものとされる花木である。なお、腰高障子の内側にも、草花がほどよく納まり、落ちついた画趣をただよわせている -
「賢人の間」
(説明板)奥に法勝寺伝来の薬師如来坐像を安置し、左右の襖に琴棋書画図と竹林七賢図を描いている。琴を弾じ、棋を囲み、書をかき、画を描く、すなわち饗人の風流事を描いたもので、竹林七賢は中国のの時代に、世俗を避け、清浄な山中の竹林に会し、清談を事とした、隠者七人の故事を描いている。かって、ここで法勝寺流独自の灌頂(かんじょう・受戒の儀式)の法儀が行われていた -
「法勝寺資料室・俊寛木座像安置所」
法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代後期の1076年に白河天皇が建立した、院政期の象徴ともいえる巨大寺院で、名前に「勝」の字がつく6つの寺院「六勝寺」最大のものだったが(現在は岡崎に石碑が残る)、1590年後陽成天皇の綸旨により西教寺が法勝寺を併合し、「薬師如来坐像」の他、法勝寺の執行で平家打倒を企てた「俊寛僧都の木造坐像」や、法勝寺ゆかりの資料を展示している -
狩野派の筆と見られる杉戸絵だが、残念ながら薄くなってしまっている
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「猿猴の間」
(説明板)部屋をめくる襖障子に、水際の柳の老木や、水に洗われる岩上に遊ぶ猿などを、詩情豊かな筆致で描いている。反対面には、「く」の字の巨幹の根元でくつろぐ子猿と母猿のしぐさがほほえましい。枝に飛びついて、たわむれる猿の動作に合わせて、枝もゆれているように描かれている。西教寺を護った神猿が面前に現れたような様相を呈している。「花鳥の間」は、長寿と富貴を象徴する「松鶴に牡丹図」と、「歳寒の三友」(三つとも寒さに耐え、年始を彩る)としておめでたいものとされる「松竹梅図」の二図が描かれている -
「鶴の間」
全十三面の襖には、大海原を悠然と舞う鶴や、砂浜で羽を休める群鶴の姿が描かれている -
「客殿襖絵(狩野永徳筆」
(説明板)客殿の5部屋には、みごとな襖絵・障壁画が描かれている。最初の部屋の「鶴の間」には、鶴が大海原に飛びかい、砂浜で憩う群鶴の構図を書き出している。「猿猴の間」は水墨画で、老木や岩上に遊ぶ猿が生き生きと描かれている。「賢人の間」はこの部屋の奥の(内佛に京都法勝寺伝来の秘仏薬師如来坐像と西教寺管主歴代の位牌が安置されており、賢人の間はその外陣にあたる。左右の襖絵は琴棋書画図(雅人が琴を弾き、碁を囲み、詩を賦し、酒を飲む)と竹林七賢図を水墨画で描く、世俗を避け、清浄な山中の竹林で清談に興ずる賢人の様相を描いている。「上座の間」は堂々とした帝鑑図で、部屋の東側・北側・床の間のすべてが、床の間障壁の中央に座する天下人に若木をささえる絵が描かれている。そこに座を占める主人公が「天下人」、おそらく豊臣秀吉のことをさすのであろう -
こちらの「杉戸絵」も大分薄れているが、絵の具の剥落に木の伸縮などもあるので、襖絵や障壁画並みの保存については、大変ご苦労されているだろうなと推察する
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「客殿と本殿の間の枯山水庭」
客殿から本殿の間には、客殿を取り囲むように細長い枯山水があり、る上流は枯滝石組となっている -
「本堂」へ向かう途中の「渡り廊下」は曲線的で美しい
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「本堂」内に入ると、撮影は出来ないが、正面の須弥壇には本尊・阿弥陀如来像が御座し、脇陣には、聖徳太子、元三大師、恵信僧都源信など天台宗ゆかりの高僧、外陣には、室町時代に起こった徳政一揆の際に真盛上人を守った「手白猿」の像をお祀りしており、比叡山の僧兵が本堂に攻め入り、手が白い猿が真盛上人の代わりに鐘を叩いているのを見てそのまま立ち去ったことから「身代わり手白猿」とか「身代わり護猿(ござる)」とか呼ばれている
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西教寺「羅漢さんと説法石」
(駒札)羅漢さんは修行した僧の最高位に達した僧を云う。大岩と大石を配した岩は「雲雷鼓掣電、降雹樹大雨」(観音経の一句)の中で、菩薩が大衆に向かって説法している場面をあらわしている。菩薩(岩座から羅漢に説法を説いている一面である -
「念佛小僧」
不断念佛相続が脈々と続いている。当山では「水鳥樹林皆念仏」「見来安養在人間」と沢庵禅師が詠んだ如く、全山、お念佛がこだましている。思わず子供たち、念佛を唱えずにはおれない。親は子供の成長を楽しみながら、お念佛の御加護によって安養世界に導かれるのである。可愛い童子の姿に思わず笑いが止まらない。念佛小僧の功徳をいただいて下さい -
「波心庭」(平成の作庭)
(駒札)静逸たる水面に一石を投じる。小さな波紋はやがて大きな輪となり連綿と広がる。「現在の世相は一見平和で穏やかであるが、高齢化社会、環境問題、社会的犯罪、苛め問題、精神不安等豊かさは享受しているが、数多くの社会的不安を内憂している。そんな水面に真の心を伝えるべく一石を投じる、求心的でありながら遍く環となって広め行く心の平穏を実現に向かって行きたい。この庭は48個の大小の石を用い、心の字を配置し対角線上に座右の石と蓬莱山(不老不死の地とされる霊山)に見立てた医師を配置し、また水面は雲海でもあり、地上を見下ろすと石は山にも見える光景である。48個の石を用いたのは、48の誓願を表し、阿弥陀佛によって一切素性を救われる世界を表現した庭である -
12;40 見応え充分、情報量満載で、多少消化不足気味であったが、また季節の違う時に訪問して見たいと思いながら退出
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ランチに予定している「日吉大社」門前の蕎麦屋さんへ移動
途中には至るところに「穴太積みの石垣」がある -
「穴太積みの石垣」
「穴太積み」は、戦国時代に名城や寺社を支えた石工(いしく)集団の「穴太衆」の石工技術で、そのルーツは古墳時代に朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が穴太(あのう)地区に住み着き、最澄が比叡山に延暦寺を開創した際に協力して以来、延暦寺の建設や修繕を通じて石積みの技術を発展させ、戦国時代になって織田信長に認められ安土城の築城に抜擢されてから、全国の城の石垣づくりに関わるようになった、現在、その伝統と技術を守り続けているのは、坂本の株式会社粟田建設(粟田家)の一家のみで、主に寺社、城郭、庭園など古い石垣の修復・維持管理や新規の石積み工事を手がけているという -
13:30 坂本名物「日吉そば」に到着
延暦寺・日吉大社の門前町であった坂本は、昔より蕎麦が名物で、江戸時代から延暦寺のまかない方の僧侶が、長旅の参拝客や修行を終えた僧にそばを振る舞ったのが始まりとされ、現在でも地元の祝いの場や参拝客に親しまれる名物となっており、鳥居前には老舗のおそば屋さんが2軒ある -
本家鶴喜そば「鶴屋喜八」
お目当ては、「手打蕎麦 鶴屋喜八」で、以前は京都市内にもあってよく行っていたが、コロナ禍の頃からいつの間にか無くなって、現在は坂本の本店しかやってないと聞いたので、今回はこれを目的に坂本までやってきた -
「手打蕎麦 鶴屋喜八」
享保元年(1716)延暦寺の厨房担当だった初代鶴屋喜八が、坂本に創業して以来300年以上、伝統の手打蕎麦を引き継ぎ、現在十代目 (日吉そばは100年以上) -
「建物は国の登録有形文化財」
建物は明治20年(1887)建築、当時は川魚や精進料理も提供できるよう建てられた総二階建で、2002年大屋根修復工事、2006年一階席とお座敷改装、中庭も再構築、2021年厨房を改装し、レジまわりを創業当初の帳場台に改装した -
待合の床几には5~6人の行列があったが、店舗前庭の「琴音の庭」という名前の庭を見ながら待つと、ほどなく案内された、「琴音の庭」は、蕎麦打ちをイメージした石庭で、比叡山からの清涼水を汲み上げる井戸上に織部焼の滑車を備え、蕎麦の実を連想した那智黒や割栗石の中央には飾り挽臼があり、かつては溢れ出た水が地中に埋め込まれた信楽焼の甕の中へ流れてゆく風流な音が楽しめたという
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店内は、テーブル席と座敷席があり、庭園側のベストポジションに案内されてラッキー
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奇麗に整備された中庭庭園を眺めながら食事が出来る
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蕎麦は蕎麦8、小麦2の伝統的な二八蕎麦で、こだわりの完全手打ち、伝統のかえしを使い、人気メニューは、天ざるそば、にしんそば、湯葉そば、山菜そばなど
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「近江結味そば」(おうみむすびそば)を注文
海老天、生湯葉・生麩、おろしの3種類を食す -
「本家鶴喜そば」
2017年のお知らせで、「創業時の店を守る為、すべての支店を統合し、生源寺前の店へ集結し、屋号も創業当時の鶴屋喜八にします」とあり、現在は株式会社「本家つる?」「手打蕎麦鶴屋喜八」として運営しているが、比叡山延暦寺内にも「鶴喜そば」があるので、調べてみると、分家筋にあたる「鶴喜そば製菓株式会社」の店舗で、そばぼうろなどのお菓子も販売し、機械打ちの蕎麦を使うなど経営スタイルの違いがあるらしいから、何かきな臭い臭いもする -
中庭は鶴喜そばのシンボル「折鶴の庭」
「鶴喜そば」の屋号は創業者「鶴屋喜八」に由来し、建物にも随所に鶴の意匠が見られるが、庭園にも折鶴の形をした景石の折鶴石がシンボルとして据えられ、「折鶴の庭」と名付けられている -
「比叡山と琵琶湖を模した」築山枯山水
白砂は琵琶湖、築山と石組は比叡山の雄大さと神秘さを表し、一面に敷き詰められた苔は豊かな緑、景石に架かるツツジ類は雲に見立てている -
「創業当時から残る百日紅と灯篭」
中心には、創業当時から残る樹齢200年以上の百日紅と、平安時代の灯篭が据えられているが、燈籠は蓑笠を被った面白い様相をしており、長年雨水にさらされて笠石が朽ちていたので、新たに蓑笠を被せて風化を防ぐとともに、里山の雰囲気も出しているという -
「回遊式枯山水庭園」
中庭を眺めながら食事を済ませた後は、外に出て様々な角度から見渡せるよう回遊式になっており、四季折々の花々や紅葉など楽しめる -
座敷の向かい側には離れの部屋もあり、反対側からの庭園も楽しめる
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庭園を眺めていると、九代目社長さんが直々に説明してくださって、離れの一角にある特別の部屋まで案内してくれた
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「鶴喜そばの歴史」を展示しているような部屋で、手打ちにこだわって、創業時の原点に返り、すべての支店を一店舗に統合し、店舗も一新した思いがこめらた部屋だった
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特に熱心に九代目が説明してくれたのは、初代が延暦寺に捧げる「不滅の法灯」の油を背負って山を登り奉納を続けたという「忘己利他」(己を忘れ他を利する)の精神と、代々守られてきたかえし(タレ)など「唯一無二」の伝統を引き継ぎ、比叡山最澄の精神「一隅を照らす」(今いる場所で精一杯努力し社会を明るくする)ことが創業の原点である、ということで、初代が、不滅の法灯の油を何時間もかけて山を登り降りして奉納を続けたことから、延暦寺に上がる事を認められ、現在の苗字の「上延」じょうえん)を名乗ることを許されたという
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「宮家御用達」は、比叡山には昔から皇族の方が座主として入寺されていた縁があり、京都御所や宮家、延暦寺御用達として親しまれてきたが、明治45年(1912)に東宮殿下(後の大正天皇)に献上して気に入られたことから、明治・大正・昭和の各天皇や宮家に毎年年末に年越しそばが献上されるようになり、蕎麦打ちに出かけることもあったという
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もう一つ気になっていたのは、「床の間の穴太積み」で、地元愛が感じられて、なかなかお洒落
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江戸時代から大津の宿場町で売られた民俗絵画「大津絵」(おおつえ)も
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鶴喜そばの「折鶴の庭」を1周して退出
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14:40 比叡山「生源寺」(しょうげんじ)
延暦年間(782-806)に、天台宗開祖である最澄によって、自らの生誕地に建立された、延暦寺西塔の中心的な役割を担った里坊で、1571年の比叡山焼き討ちで全焼し、1595年再建され、1710年改築され、江戸時代には一山の寺務を統括する寺院だった -
「伝教大師誕生の寺」
最澄(767-822)は、中国からの渡来系豪族の子孫に生まれ、12歳で出家し最澄と名乗り、19歳で東大寺で受戒し、比叡山に草庵を結び12年間にわたり修行を積み、35歳で和気弘世(和気清麻呂の子)に招かれ神護寺で天台の教えを説き、桓武天皇の信任、帰依を受け、37歳で遣唐使として空海(774-835)らと渡り、1年後帰国し天台、密教の教えを持ち帰り、双林寺を開山し806年日本天台宗が公認され、後の816年空海は真言宗(高野山)を開くことになる -
「伝教大師御産湯井」
最澄誕生の際に、この井戸水を産湯として使ったという井戸が残されている -
鐘楼「破鐘」(われがね)」
1571年焼討ちで信長の軍勢が坂本に侵攻した際、人々に急を知らせるために生源寺の梵鐘を激しく打ち鳴らしたため割れが生じたとされ、その後も坂本の非常用の鐘や、日吉大社の祭礼、日吉礼拝講の際にも鳴らされたが、現在は出発点にあったJR比叡坂本駅の「坂本石積みの郷」に移され保存されている -
「作り道」(つくりみち)
坂本の「生源寺」から「鶴喜そば」の前の通りは、「作り道」と呼ばれ、北国海道から日吉大社などへ至る大路から枝分かれした道で、かつては商店や宿などが軒を並べて栄えた名残をとどめている *昔この辺りにあった南大寺が焼失した後に作られたことからの命名 -
「御殿馬場」
「作り道」から入口に建つ四脚門をくぐり、「滋賀院門跡」(御殿)へ続く通りで、この道を真っ直ぐ進んだ突き当りに「滋賀院門跡」がある -
延暦寺「叡山文庫」(えいざんぶんこ)
大正10年(1921)最澄1100年大遠忌の記念事業として開設された、延暦寺の所蔵する130万冊余を誇る大図書館で、天台宗や比叡山延暦寺の歴史、仏教に関する膨大な書籍や古文書を所蔵し、比叡山・天台仏教の研究拠点となっている -
15:00 滋賀院門跡「勅使門」(ちょくしもん)
江戸時代末までは天台座主(てんだいざす)最高位の法親王が代々住んでいた格の高さを誇る御殿の門で、周囲は城郭のような穴太積みの石垣と5本線の白土塀が続いている -
「通用門」から境内に入って、玄関受付から入る
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「滋賀院門跡」(しがいんもんぜき)
(駒札)信長焼き打ち後の江戸初期1615年、慈眼大師天海(1536-1642)が、後陽成上皇より、法勝寺(北白川の六勝寺の一つで歴代天皇ご受戒の寺)を賜り、この地に移築したもので、1655年、後水尾上皇より「滋賀院」の号と寺領一千石を賜り、江戸時代の末までは天台座主であった法親王が代々住んでいた、御殿は明治11年(1878)に火災で全焼し、現在の建物は延暦寺山上より三塔それぞれ最高の建物を移築し、明治13年に再建したものです(西塔正観院、東塔南谷極楽坊、横川鶏足院) -
「滋賀院門跡」は、天台座主の里坊で、すべての里坊の総本坊になり、天台宗に8ヶ寺ある皇族・公家が住職を務める門跡寺院の一つで、地元では「滋賀院御殿」と呼ばれており、玄関から入ると、庫裡・客殿・宸殿・二階書院・内仏殿と、宸殿と二階書院に面して滋賀院庭園と蹴鞠の庭がある *「天台宗門跡寺院」8ヶ寺は、妙法院・三千院・青蓮院・曼殊院・毘沙門堂・聖護院門跡・滋賀院門跡・円満院(大津)
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宸殿(梅の間)
明治から昭和にかけて活躍した天台宗の僧侶で書家の「豊道春海」(ぶんどうしゅんかい)の書と、桃山時代に制作されたと伝わる狩野派の衝立「唐人物」(からじんぶつ)が迎えてくれる、寺院の重要な行事にも使われる格式高い空間 -
隣の部屋には、「不滅の法灯」と扁額「一微塵」
「一微塵」(いちみじん)は、「木っ端微塵」とか「微塵もない」とか使われるが、仏教用語では、「一つの小さな塵の中に無限の広がりがあり、いかなる小さなものでも粗末にしたり、捉われたりしてはならない」という意味という、前にある屏風絵は「遊ぶ子犬」という円山応挙の絵で、可愛い子犬が3匹描かれているが、実は白犬3匹と合計6匹描かれていて、よく見ないと分からない(残念ながら左側の白い部分はいたずらで破られてしまっている) -
「不滅の法灯」(ふめつのほうとう)
「鶴喜そば」で、初代鶴屋喜八が延暦寺に捧げる油を背負って山を登り奉納を続けたという「不滅の法灯」で、正式には「延暦寺蔵釈迦堂奉献灯籠」と呼ばれ、信長の焼き討ちの際には分灯してあった山形立石寺から戻されたといわれ、1200年以上灯し続けている延暦寺の根本中堂のものと同じ灯火が、延暦寺西塔の本堂・釈迦堂にもあり、そのうちの一つを奉献されたものという *「油断大敵」はここから発祥している -
「蹴鞠の庭」(けまりのにわ)
縁側からは「けまりの庭」という風雅な名前の中庭が見えるが、特に見るべきものもない -
宸殿(羅漢の間)天台座主が乗る「殿上輿」
「殿上輿」(てんじょうこし)は、宮中に参内できる身分である殿上人(てんじょうびと)のみが乗ることを許された格式の高い乗り物で、400年前のものだが現在も、比叡山延暦寺の勅会(法要)や日吉大社の山王祭などの儀式で用いられる、奥の襖絵は渡辺了慶筆の「淡彩仙人の図」で、奥の部屋は「座主謁見の間」 *「渡辺了慶」(わたなべりょうけい)は、江戸初期狩野派の絵師で狩野光信の高弟、西本願寺の白書院障壁画「松鶴図」(国宝)などの作品がある -
扁額「天真獨朗」と「一念三千」
「天真獨朗」(てんしんろくろう)は、真理を悟りすべてが明るく見える境地を表し、迷いや執着を離れた人間の本来の姿が、ありのままの悟りを開いた状態になるということで、「一念三千」(いちねんさんぜん)は、一瞬一瞬の心には善悪のあらゆる心があり、世の中を良くするも悪しくするも自分の心がけ次第であることを説いている -
「二階書院」
眼下に「蹴鞠の庭」とその先に「勅使門」が見えて、さらにその先には琵琶湖も見える -
二階書院(松の間)
「松の図」(鈴木松年 明治42年作)左側の襖の二つの引き手を眼として、松を一匹の龍のように描いた、だまし絵になってる *「鈴木松年」(すずきしょうねん)は、明治から大正の日本画家で、上村松園の最初の師として知られる -
「天海大僧正着用鎧兜」(よろいかぶと)
徳川家光から拝領した天海大僧正が身に付けたとされる鎧兜で、正式名称は「金箔押(きんぱくおし)伊予小札(いよこざね)縹糸(はなだいと)素懸威(すがけおどし)二枚胴具足(にまいどうぐそく)」と言い、箱の裏蓋には天海大僧正の直筆で、収納されている品名が「どう、かぶと、こて」など書かれ、「寛永十七年八月二十九日」と日付まで記されており、金属ではなく、布と紙で作られた僧侶用の珍しい造り -
「天海大僧正」(慈眼大師)(1536-1642)
家康・秀忠・家光の徳川三代(1603-1651)に仕え、政治的・宗教的な支えとなってきた天台宗の名僧で、比叡山の再建や日光東照宮の造営などに尽力し、僧侶でありながら、関ヶ原の戦いにも参陣したとも言われ、大阪城に残る兜には「麒麟」が載せられていることから、「光秀が生き延びて僧侶になった」との説もあり、宸殿「座主接見の間」」の床の間にも麒麟が描かれており、大河ドラマ「麒麟がくる」の続編もありかねない -
二階書院(櫻之間)
長谷川派金碧画(きんぺきが)「櫻之園」 *桃山時代を代表する長谷川派は、当時勢力を誇った狩野派に対抗する独自の美を築いた長谷川等伯ら一門 -
徳川十代将軍家治と織田信長の「大鏧子」(だいけいす)
「鏧子」(けいすorきんす)とは、読経のときに鳴らす大きな鐘(大きいおりん)で、左は、織田信長より寄進されたもので、「天正12年5月」の刻印があるので、信長没(1582)の2年後に縁者により延暦寺に寄進されたものとされ、右は、徳川十代将軍家治(いえはる)より寄進されたもので、長引く天明の大飢饉(1782-87)の回復を願って日光山と比叡山に祈願し寄進したものとされる
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(奥之間)「長棒」(ながぼう)
天台座主の乗り物で、屋根は二重で跳ね上げて開くことができるなど、衝撃や乗降に配慮してあり、中は、前部には書見大、後部には背当てや肘掛等もあり、さながら今の高級乗用車の後部シートのようで、担ぎ棒が長いぶん担ぎ手も多かったという -
「明治・大正 名士張交屏風」(はりまぜびょうぶ)
後ろの屏風は、竹内栖鳳や高浜虚子、東郷平八郎、など68名もの錚々たる名士たちの色紙を張ったもので、もう少し詳細に見てみたい -
(元御居間)「伝教大師御尊像」と「葵の紋付き経巻立て」
右の「伝教大師御尊像」は、延暦寺根本中堂の御本尊である薬師如来像を彫刻するにあたり、沈思黙然なさる最澄の様子を彫り出したもので、左の「葵の紋付き経巻立て」は、法華経(ほけきょう)の内容について問答形式で法要を行うとき、この箱の上に法華経の巻物十巻を並べて僧侶の前に置いて使ったもの -
「両界曼荼羅」と「大日如来」「常香盤」
「両界曼荼羅」(りょうかいまんだら)は、大日如来を中心に、「胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅」(右)と、「金剛界(こんごうかい)曼荼羅」(左)の一対の曼荼羅で、密教における世界観や悟りの境地を視覚的に表現したもので、「常香盤」(じょうこうばん)は、砂時計みたいに、香を焚いて時間をはかる香時計 -
「不動明王掛軸」と「雷神像」
天地眼(てんちがん)で、天から地まで世界の隅々まで見通している「不動明王」の掛軸と、左右に風神・雷神像、中央には実際に天台座主が使っていた写経納筥(しゃきょうおさめばこ)や文箱(ふばこ)などが飾られている -
二階書院から「内佛殿」へ上がる
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「内佛殿」(ないぶつでん)
ご本尊の薬師如来(やくしにょらい)と、両脇に天台・傳教両大師を奉安し、奥殿に後陽成上皇、後水尾上皇や徳川歴代将軍、天台座主の御位牌等が祀られている -
いよいよ「小堀遠州の庭」に向かう
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庭園は、江戸時代初期に徳川三代将軍家光の命により、小堀遠州により作庭されたと伝わる池泉鑑賞式庭園で、「宸殿」から眺めるように設計されている
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(宸殿)「天台座主の間」と「座主接見の間」
「宸殿」の庭園側には「天台座主(てんだいざす)の間」と「座主接見の間」があり、「天台座主の間」の中央には最も格式の高い繧繝縁(うんげんべり)の畳(お内裏様の畳)が置かれ、床の間には朱に麒麟の描かれた「太陽麒麟」という掛軸、右隣には「涅槃図」が展示され、周りは狩野派や渡辺了慶の襖に囲まれ、贅を尽くした豪華さには圧倒される *「太陽麒麟」は、明治27年に天皇陛下から清国皇后陛下の還暦祝いに寄贈する予定が日清戦争で贈られず、その後延暦寺に下賜されたという非常に貴重なもので、ここに「麒麟」が登場するのも何かの縁である -
「涅槃図」(ねはんず)
「涅槃図」とは、お釈迦さま入滅の様子を描いた絵のことで、お釈迦様を囲み、嘆き悲しむ弟子や菩薩、動物たちの姿が描かれるが、この涅槃図には象や馬、虎、猫、鼠、鶏などの他、鯉や亀、カワウソなども描かれているのが面白い、1787年作 -
(宸殿)「西の間」
昭和初期頃の里坊の老僧の部屋再現した「里坊・老僧の間」で、お菓子入れや、手回り品や法要の仏具・衣などを入れて従者が担いでお供をした両掛(りょうがけ)など、すべて実際に大僧正が使用されていた道具だという -
庭園は、宸殿西側の細長い池庭で、自然の地形を利用した築山を蓬来山(極楽)とし、そこから流れる泉水が水をたたえ、左手には大きな舟着石と存在感のある松を据えた中島、その横に背の高い立派な立石の岩島、中央には長い豪華な切り石の石橋、滝の手前には水分石となる浮島、その手前には覗き石など、まさに庭園のお手本のような江戸初期の名園
-
「滋賀院庭園」(国指定名勝庭園)の(説明板)
南北に長く廊下のどの場所からも見れるようにしてある池泉鑑賞式の庭園である。蓬莱山(仏教で極楽を意味する)形式をとり、南北の船着石は池にせり出す覗(のぞき)石方式であり、正面山中の石は仏を顕す。中央に豪華な切石で橋をかけ南北に細長い庭を引き締めている。なお池は「方丈池」としてまさに食用とならんとする魚を買い取り放している。また石組でめでたい「鶴」と「亀」を配してある。どこにあるかを心を落ち着かせてください -
「小堀遠州」(1579-1647)の(説明板)
滋賀県長浜市小堀町の出身で、豊臣氏、徳川氏に仕え、特に徳川家康から遠州に1万石を賜り、作事奉行を勤め、作庭の第一人者といわれています。平成10年に9ヶ所の里坊とともに国の指定を受けました *国指定名勝「延暦寺坂本里坊庭園」は、双厳院、宝積院、実蔵坊、寿量院、律院、白毫院、竹林院、蓮華院、佛乗院 -
ポイントは「めでたい鶴と亀」
池泉庭園の亀島、鶴石は、なかなか見つけるのが難しいが、(説明板)に「どこにあるかを心を落ち着かせてください」とあるように、心を落ち着かせて見ないと見つからない、「亀」は大体松が生える胴体と、頭と尻尾で構成されるので分かり易いが、「鶴」は良く分らないのが殆ど -
「亀島」(かめじま)は、この角度から分かり易い、手前の突き出た石が亀の頭の亀頭石(きとうせき)で、手脚となる石があり、築山から繋がった石橋が尻尾になっている
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「鶴石」(つるいし)は、(後で教えてもらって分かったが)、中央の滝にあり、滝の上部の水落ち石が頭で、滝壺までの水の流れを鶴の首に見立てて、両側の2つの巨石を羽石として鶴の羽に見立てているという
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存在感のある中央に架けられた「石橋」(いしばし)は、長さ5m、幅50cmの細長い切石で、思わず渡りたくなる
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亀島の左手には左手には三角形に尖った大きな石の「舟着石」(ふなつきいし)があり、右手の背の高い岩島の立石と共に存在感がある
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池は「方丈池」にもなっており、大きな魚が悠々と泳いでいる
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隣の「慈眼堂」へ
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隣は「天台宗務庁」で、この奥に「慈眼堂」がある
「天台宗務庁」は、全国の天台宗寺院全体を統括・運営する最高機関で、総本山延暦寺と全国各地の寺院をつなぐ -
玄関前に「照隅苑」(しょうぐうえん)という枯山水庭園があり、記念碑には、宗祖・傳教大使の「一隅を照らす是れ即ち国の宝なり」にちなんで造られたと書かれている *「一隅を照らす」は、一人ひとりが自分の場所で光を放つ人こそが、国のかけがえのない宝であるという意味
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石段を上って行くと「慈眼堂」の屋根が見えてくる
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15:30 石畳の両側に石灯籠が配置され(16基)、杉苔と木々の緑に囲まれた静寂な中に、慈眼大師を祀る「慈眼堂」がある
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「慈眼堂」(じげんどう)
比叡山の焼き討ちの後の復興に尽力し、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕えた「慈眼大師天海大僧正」を祀る廟所で、寛永20年(1643)家光の命により建立され、慶安元年(1648)大師号の宣下をうけた、堂内には重文の慈眼大師坐像が祀られているが、中には入れない -
帰りは「慈眼堂」山門を出て、今回は「日吉東照宮」はパスして、「権現馬場」(ごんげんばば)から「御殿馬場」(ごてんばば)経由「作り道」を通って、京阪電車比叡山坂本駅へ向かった
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16:00 帰り道、「天海大僧正は明智光秀の再来」という噂は、ロマンあふれる歴史ミステリーで、光秀54歳没の時天海大僧正46歳、徳川三代はそこから50年近く続き、106歳没の天海と光秀は完全にオーバーラップするので、光秀が徳川の側近として江戸幕府の基礎を支えたという話は、あながち非現実的でもないなと、思いながら帰路についた
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