2026/04/20 - 2026/04/20
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gianiさん
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江戸時代の佐賀城下町は、十間堀川という外堀でガードされ、鉄壁の守りでした。幅18mの濠が6kmに及んで町を守る姿は過去のものですが、9m程に狭められた濠をトレースできるので、存在感は今も健在です。十間堀川とその周囲に散りばめられた仕掛けを巡って、ディープな佐賀を巡ります。
- 旅行の満足度
- 5.0
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佐賀城は、四十間堀(写真)と呼ばれる大きな堀で四方を囲んでいました。城内の大半は重臣の屋敷で、彼らを佐賀城へ参勤させることで家臣団を統率しました。城の周囲も上士(中級以上)の屋敷で取り囲みます。その周囲を「小路」と呼ばれる武家地で取り囲みました。更に、武家地と町人地の境界は裏十間川と呼ばれる幅18mの堀で隔てられ、橋も少なめでした。
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城郭の防衛システムとしては、外堀と城下町も大事な存在です。十間堀川と呼ばれる幅18mの水路が外堀の役割を果たしていました。城下町は、外堀である十間堀川の中に納まりました。南側は無防備に見えますが、元々は干潟や海で侵略には不向きです。一方で北側は山側なので、進軍に有利です。実際、1570年に大友氏が龍造寺隆信の居る村中城へ半年間閉じ込めた際も、北側から侵攻しました。この戦いで鍋島直茂が奇跡的な勝利を収めることで、大友軍は撤退します。
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では、佐賀の城下町と外堀を巡ります。
まずは、佐賀江から分岐する十間堀川。ここは、すぐ南に八田江が合流する十字路です。
※水の流れ的には、十間堀川が佐賀江へ合流します。 -
暫く北上すると
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月星の工場でクランクして、R264を越えると長崎街道佐賀宿です。
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城下町の東端です。
長崎街道沿いの牛嶋町に、構口(宿場の出入口)を設けました。道の両側を石垣と塀でガードし、番所を設けて通行を監視し、夜間は扉が閉められました。 -
構口は、大溝川に面していました。南北に通る幅10間(18.2m)の水路で、十間堀川と共に佐賀城外堀の機能を果たします。
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当時は、これぐらいの川幅がありました。
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参考までに、1957年の構口橋の光景。
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大溝川は北上すると、左へ折れて西進します。
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東西に流れる部分は、十間堀川と呼ばれます。
今回は、川下から上流へ向かって移動しています。 -
十間堀北橋を渡って西進します。この辺りは新興住宅街で、きれいな個別住宅が整然と並ぶ佐賀らしからぬ風景。
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船溜まりのある清心橋まで到着。向こうの桃太郎マンションが目印です。
一度、牛嶋構口まで戻ります。 -
牛嶋口から宿場町を西進すると、思案橋手前の十字路にある牛嶋天満宮右方向という案内にしたがって右折します。
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角に青い自販があるT字路を左折すると、現在の長崎街道へ通じます。そのまま直進します。
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左には、長徳寺が現れます。
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長徳寺
1151年に菅原道真から16代目の牛島教正が牛嶋村を拝領した際に創建しました。右手には、鍋島藩2代藩主光茂が寄進した観音堂があります。 -
牛嶋天満宮の鳥居が正面に現れます。実は、今まで歩いてきたのは旧長崎街道で、長崎街道は鳥居の前で左へ折れます。
今回は、鳥居を潜って南参道から牛嶋天満宮を訪れます。 -
点線の17世紀半ばに確定した長崎街道は思案橋を渡ってクランクします。
慶長年間は、思案橋は架かっておらず、手前で右折していました。鳥居の両側は町人地(黄色)だったようです。 -
参道の突き当り右側に、牛嶋天満宮があります。
こちらも1151年に牛嶋教正が祀りました。
肥前鳥居には寛永十年(1633)藤原朝臣勝茂と刻まれ、初代藩主が奉納しました。太鼓橋は1758年です。 -
拝殿は17世紀後半、横の楠は樹齢600年です。
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白太夫社はレンガ造り
天満宮は、佐賀城/城下町の鬼門を守る存在でした。 -
御神木の千年楠
潜った先に祠があり、祈ると願いは何でも叶うとされます。
牛嶋天満宮は、佐賀城の鬼門を守る存在として、藩主から厚遇されました。
旧長崎街道へ戻ります。 -
参道の鳥居を潜って右へ曲がります。
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米穀店の角を右折して、長崎街道を外れます。
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北上します。
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堀を渡って、旧長崎街道沿いの町人地を越えます。
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右側に牛嶋天満宮の西参道が。
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清心橋まで戻って来ました。1936年架設の味のあるスポットです。
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東側の眺め
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西側の眺め
船溜まりと桃太郎マンションが写り込みます。 -
真っ直ぐ進むと、突き当りに清心院があります。
太宰少弐が寄進したとされる鎌倉時代の不動明王像と、2代藩主光茂が寄進した三十三躰の観音像があります。龍造寺胤家の息子斎亮の号に由来します。胤家は、家兼の長兄で嗣子でしたが出奔し、斎亮は宗家の家督を継げませんでした。 -
清心院
元は龍造寺胤家の居館で、初代藩主鍋島勝茂が寺院として開基しました。西の天佑寺と共に佐賀城鬼門守護の道場(藩の祈祷所)となります。佐賀城の北東(鬼門)は、東濠沿いの宗龍寺、牛嶋天満宮/清心院と寺社でしっかりと守られました。 -
出城としての性格も持ち、現在も三方を水路に囲まれている他、1740年の佐賀城廻之絵図には境内の北東部に櫓台が描かれています。
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先ほどの山門には、1790年設置の六地蔵も。
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清心院の東側は今も堀に囲まれています。
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西側/北側も囲まれ、環濠の様子が十分に感じられます。
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清心橋まで戻ります。
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十間堀川は循誘小学校の北側を西進します。
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直ぐ向かいには、清心院を囲む堀が十間堀川に並行します。
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清心橋を渡って、旧長崎街道まで戻ります。
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高木町
柳町/蓮池町を通る前は、こちらを通っていました。一つの理由は、柳町の大半を南蛮寺(ドミニコ会)と呼ばれた教会が物理的に建ちはだかっていたためです。 -
はじめの長崎街道
高木町は、両側に上芦町/高木町裏小路の寺院を挟んで、十間堀川と紺屋川に挟まれていました。 -
大財通りを横切ります。
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現在の紺屋川は、こんな感じです。
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北進して、大財橋交差点で十間堀川と交差します。
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十間堀川は、循誘小学校までこんな感じです。
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大財橋の手前で川幅は細くなります。
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白山名店街入口
旧長崎街道の直ぐ北を十間堀川が流れます。白山名店街 市場・商店街
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長崎街道に面した家屋(白山町)は、反対側は十間堀川に挟まれています。
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中央大通りに架かる中央橋、佐星醤油のレトロな建物が目印です。中央大通りは、本丸通りを経て、佐賀駅前を通過する道路です。
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白山町土橋口
中央橋の架かる地点には(嘗て)白山町土橋があり、十間堀川に架かる数少ない橋の一つでした。ここから北へ延びる川上往還(嘉瀬川を遡って川上峡/玄海灘へ通じる)の基点となっていました。土橋の手前には番所と木戸のある構口があり、白山町土橋口と呼ばれました。佐賀城下に6つあった構口の一つです。 -
厳密には、右側の家が建っている辺りがかつての川上往還ですが、とりあえず中央通りを北上します。1608-11年頃の城下町黎明期は神野村に所属する水田地帯でしたが、1626年の絵図を見ると、街道の両側に唐人町という町割りが現れます。唐人町の右隣には寺町という町割りが見られ、町人町として繁栄しました。
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唐人町
西洋人を含めた外国人全般を、当時は唐人と呼びました。1587年に朝鮮から漂着した宗歓を成富兵庫茂安が招聘し、鍋島直茂が1599年にこの地に屋敷を与えたことが名前の由来です。宗歓は海外貿易の御用商人の資格を与えられ、唐人町には朝鮮出身の商人も居を構えるようになります。 -
通り沿いに鏡圓寺の山門があります。
細長い参道が唐人町のエリアで、瓦葺の門の手前の水路を渡ると、厳密には城下町の外になります。 -
水路を跨いで境内へ。唐人の菩提寺となったお寺です。増上寺の末寺ということで、浄土宗です。
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右の3基が宗歓夫婦の墓碑です。その左は、他の唐人のものです。苗字帯刀を許され、李宗歓と名乗ります。文禄/慶長の役(1592~1598)で直茂に同行し、現地で多くの陶工をリクルートし、彼らを佐賀へ連れ帰ることで、伊万里をルーツとする初の国産磁器が発展しました。
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写真右の3基は、鍋島更紗の祖である九山道清の墓碑です。
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中央通りを北上し、唐人一丁目北交差点までが唐人町/寺町で、正保年間(1644~47)には佐賀城下へ編入されました。1654年の佐賀城下絵図には、写真左前の区画が唐人新町となっており、佐賀駅高架の手前まで広がっていました。城下町の拡大により、白山町口は唐人町口に取って代わり、城下町の境界線となる構口が設けられました。
では、反転して中央大通りを南下します。 -
長崎街道の一筋南は、八幡小路という武家町です。中央大通りに交差し、写真は東側の景色です。
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中級武士が屋敷を構え、北側は町人町との境界線で変則的です。初代医学寮が存在したこともあり、幕末にかけて医者が多く住んでいたのも特徴です。南側は21軒が一列に並びました。
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反対側は、こんな光景です。
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県庁通りの西側は、白山(龍造寺)八幡宮も武家町の一部と認識されています。
龍造寺八幡宮 寺・神社・教会
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旧鍋島監物屋敷門
長屋門の中でも二階建てというレアな仕様です。間口は12.9mあります。左側は番所になっており、2階にも格子窓があります。右側は、駕籠等を収納する倉庫となっていました。 -
周囲は、地裁/地検の敷地となっており、官舎が建ちます。戦前から存在する境界柱は、司法省用地と刻まれています。
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中之小路
八幡小路の南に位置し、北側に11軒/南側に10軒の武家屋敷街です。一軒あたりの屋敷地の広さが八幡小路の2倍なので、より身分の高い家格が揃い大名小路と呼ばれています。中之小路の南側には、前回の旅行記で紹介した松原小路となっています。 -
写真は、中央大通りと交差する東方向の光景です。中之小路の南東端へ移動します。
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裏十間川
裏十間川を挟んで左が町人町の夕日町、右側が武家町の松原小路です。つまりは、武家町と町人町の境界線なので、名前の通り十間(18.2m)の川幅で両者を隔てていました。現在は、埋立で川幅は狭くなっています。 -
こちらは橋の反対側の光景。裏十間川を挟んで左が松原小路、右側が中之小路です。武家町同士の境界線なので、川幅が狭くなっています。
現在は、埋立で当時よりも川幅は狭くなっていますが、武家町/町人町の関係性は変わらぬままの光景です。 -
中央大通りまで戻ります。中之小路は、佐賀玉屋の本館と新館に挟まれた道です。現在、本館は取り壊されていてびっくりしました。九州北部で栄えた百貨店ですが、現在はここ1店舗のみです。
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佐賀宿の次の牛津宿で発祥した地場の百貨店で、220年の歴史があります。
佐賀玉屋 百貨店・デパート
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玉屋から少し西へ進むと、寺社方という役所の跡地があります。現在は旅館となっています。
旅館あけぼの 宿・ホテル
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寺社方の隣の武家屋敷門が残ります。
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左前は知事公邸、左奥は佐賀地方検察庁、右奥は佐賀地方裁判所です。藩政時には、家老の太田鍋島家/着座の有田家の屋敷がありました。
十間堀川へ戻ります。 -
中央橋から西方の十間堀川
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南から順に中之小路/八幡小路/中町(町人町)が並び、長崎街道は中町を通っています。写真は中町の北縁に沿って流れる十間堀川です。
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現在の紡績通り(R264)を横断します。
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R264を横断すると多布施町です。この先で十間堀川は暗渠になり、トレースできなくなります。
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長崎街道は紡績道路の部分で南へクランクしますが、このまま西進して十間堀川が流れていた部分の近似ルートを辿ります。
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多布施町
多布施川に面していることから名づけられたようで、十間堀川と多布施川が交差する地点には、城下町に6つあった構口の一つ多布施口がありました。藩祖鍋島直茂が隠居した際に屋敷を構えた重要拠点でもあります。 -
多布施川を渡る開運橋。
この先は岸川町です。 -
長崎街道の通る伊勢屋町と十間堀川の間に位置する町人町です。江戸時代に入って、新しく佐賀の城下町を建設するにあたり、古くから鍋島氏の所領だった蛎久の岸川町から住民が移動してきたのが由来です。
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鎧師/鉄砲師等、武具に纏わる職人が多く住んでいました。
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城下町北側の構口に面しているため、防衛に配慮して寺院が多く配置されているのも特徴です。街路は蓮生寺の部分で左へ折れていて、意図的に動線を悪くしています。藩祖鍋島直茂公は、「有事の際、多布施より内側に敵を入れさえしなければ佐賀城下は持ち堪える」と発言し、佐賀城下の防衛ラインは専ら十間堀川に掛かっていると考えていました。
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開運橋を渡って、多布施川沿いへ戻ります。
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多布施川を遡ります。十間堀川と交差するところに多布施口がありました。左へ曲がる辺りがチェックポイントです。
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多布施口
嘉瀬川から分流する多布施川の左岸の道には、番所と木戸が備わった構口が設けられ、城下町と高峯村を結んでいました。写真手前の樋門への取水口が十間堀川です。 -
十間堀川は暗渠となっていますが、左端に樋門が見えます。多布施川は城下町へ飲料水を供給する水路、十間堀川は生活排水等の悪水を排出する水路と目的が異なるので、十間堀川は多布施川により中断します。樋門は、多布施川の余水が十間堀川へ排出される一方通行です。
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多布施川を渡ると、
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川沿いに精錬方跡のレリーフが。
十間堀川沿いには、精錬方(理化学研究所)や反射炉(製鉄所高炉)が並びます。操業には、大量の水を必要としたためです。 -
多布施川の水質は良かったので、醸造元も立地します。
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十間堀川は住宅街を流れます。時々架かる橋からのみ確認できます。
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幅が一間程に狭められています。
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天祐寺川と交差する右手前に、天祐寺があります。
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天祐寺
化け猫騒動のモデルになった龍造寺高房の怨霊を鎮めるために開基。先述の清心院と左右対称な存在で、四方を水路に囲まれ出城としての性格も持ち、1740年の佐賀城廻之絵図には境内の北東部に櫓台が描かれています。 -
天祐寺口
十間堀川は、天祐寺川を跨ぎます。ここには城下に6つある構口の一つ天祐寺口があり、番所と木戸を構えて出入りをチェックしました。十間堀川沿いにある3つの構口(唐人町/多布施/天祐寺)は全て網羅したことになります。 -
十間堀川を細い巾のまま西進します。この先は、暫く水路と道路が離れているので地図を頼りに進みます。
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中折町に入ると左へクランクします。
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この先は法務省エリア
まずは職員宿舎 -
少年刑務所
堀で脱走を阻止するのではなく、壁を築いています。 -
少年院の西端で、地蔵川と合流します。地蔵川も多布施川の分流です。
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地蔵川を北上すると十間堀川が西へ分岐します。
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川筋が複線になっています。
実は、城下町は終わっているのですが、長崎街道沿いは本庄江に架かる高橋まで農村部にも宿場町が広がっています。十間堀川も本庄江に合流して終了です。どんどん亭 鍋島店 グルメ・レストラン
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一番最初の現地写真で、佐賀江へ十間堀川合流する地点から西へ500m進むと、小さな橋があります。佐賀江を渡った左側には、今宿口という構口があり、番所と木戸が存在しました。これで城下町にあった6つの構口を網羅しました。
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地図の下を流れるのが佐賀江で、橋の先に木戸と番所が描かれています。この道を北上すると、牛嶋天満宮へ到達します。佐賀江は10間の幅があり、上下に流れるのが裏十間川です。東という文字そばの細く上下に流れているのが、紺屋川です。
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おまけ
新栄通り沿いにあるお好み焼きと讃岐うどんの二刀流店。奥様がお好み焼きを担当されています。 -
広島風です。
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