2025/11/25 - 2025/11/25
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ペコちゃんさん
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11月の〇〇会行事は荻窪散策。
荻窪は明治から大正にかけて「西の鎌倉、東の荻窪」といわれ、東京近郊の高級別荘地として人気を博し、今も落ち着いた ” 品のある邸宅街 ” に相応しい景観が広る街です。
かつては太宰治や与謝野晶子、棟方志功などの文豪や文化人たちが暮らし、彼らが晩年を過ごした家などの史跡も数多く残っています。
紅葉の時期に、初めて訪れてみました。
写真は、「太田黒公園」の見事な紅葉。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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上井草駅から西武バスに乗り、荻窪警察前で下車。
この建物は「東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム」・・・日本のアニメの歴史や制作工程などを体験しながら学べる施設です。
月曜日が休館日ですが祝日だったため、今日(火曜日)は休館日。
向かいにある「荻窪八幡神社」に参拝します。 -
見上げるほどの大鳥居・一の鳥居・・・以前の鳥居は東日本大震災の地震で倒壊したため、氏子崇敬者の奉賛により鉄骨入りの石造鳥居が平成23年に再建されました。
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神社の創建は寛平年間(889~898)と言われ、1051年に源頼義が奥州の安倍貞任征伐(前九年の役)の途中でここに宿陣して戦勝を祈願しました。
紅葉が綺麗なので、振り返って境内側からもう1枚。 -
神社やお寺で見かける茅の輪くぐりに似ていますが、これは「祓門(はらいもん)」・・・祓門をくぐることで身が清められ、災厄が取り除かれるそうです。
東日本大震災で倒壊した旧一之鳥居の台座を再利用して造られたものです。 -
当社ののご祭神は、4世紀後半~5世紀初頭頃の第15代天皇・応神天皇・・・学問成就・家業隆昌・延命長寿・出世成功の守り神とされます。
神門から拝殿へ。 -
拝殿の左側にある「道灌槙」・・・1477年に江戸城主だった太田道灌は、上杉定正の命を受け石神井城主・豊島泰経を攻める際に、当神社に武運を祈願しましたが、その時に植えた高野槇で、御神木として崇められています。
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現在の本殿は明治28年(1895)、拝殿は昭和11年(1936)に建てられました。
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社殿の前に鎮座するカエル。
<カエルのご利益は?>
旅や交通・・・無事カエル
厄除け・・・悪いことを良いことに置きカエル
金運アップ・・・使ったお金がカエってくル
美容・健康・・・若ガエル、元気がよみガエル -
手水舎には狛犬・・・口に柄杓を近づけると水が出てきます。
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荻窪八幡神社に近い青梅街道のイチョウ並木も黄葉。
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荻窪駅北口から地下通路を渡って南口にある荻窪三庭園に向かいます。
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荻窪三庭園の前に、3カ所に立ち寄り。
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「明治天皇荻窪御小休所」・・・明治天皇がこの小休所に立ち寄ったのは、明治16年4月16日飯能の近衛師団演習統監に向かわれる途中、および23日に小金井の観桜会に向かわれる途中で、以後毎年行われた小金井の観桜会に向かわれる時は必ず利用されたそうです。
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現在は門が残るだけですが、この門は当地で名主を務めていた中田家の長屋門で、明治天皇は行幸の際に中田邸で休憩されたそうです。
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住宅街に突如現れる古風な外観は「西郊ロッヂング」・・・大正5年に文京区本郷で創業した下宿屋でしたが、大正12年の関東大震災で焼失し、昭和6年に本館(現「旅館西郊本館」)が荻窪に移転しました。
独特のモダンな雰囲気が漂う新館(現「西郊ロッヂング」)が増築されたのは、昭和13年のことです。
青銅のドーム型の屋根など独特な存在感ですね。 -
「西郊ロッヂング」とは、西の郊外の下宿という意味から名付けられました。
当初は学生から軍人まで、さまざまな人が暮らす高級下宿だったようで、現在は旅館と単身者用の賃貸として運営されています。 -
こちらが本館・・・現役で営業している旅館です。
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荻窪体育館の前庭に「オーロラの碑」があるので行ってみました。
これは、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地として知られる旧杉並区立公民館の跡地に建てられた記念碑です。 -
1991年に製作された「オーロラの碑」は、足を開いた大根のような独特の曲線的な造形で、作者は彫刻家・瀧徹(1942~)・・・美しい自然現象のオーロラが、核兵器によって破壊されることへの思いを込めて命名されました。
1954年の第五福竜丸被曝事件をきっかけに、この地にあった杉並区公民館を拠点として原水爆禁止を求める署名運動が始まり、わずか2ヶ月足らずで27万人以上の署名を集め、全国、そして世界へと広がり、1955年の第1回原水爆禁止世界大会開催につながるなど、空前の平和運動となりました。
杉並区は1988年に「杉並区平和都市宣言」を行い、「オーロラの碑」はその平和のシンボルになっています。 -
荻窪駅南側には、芸術家や文化人等が暮らした建物が今でも残されています。
その中で、公園として整備されているのが「荻窪三庭園」(大田黒公園・荻外荘公園・角川庭園)。 -
「大田黒公園」は、音楽評論家・大田黒元雄の屋敷跡を杉並区が回遊式日本庭園として整備し、昭和56年(1981)に開園・・・公園の入口は、築地塀と切妻造り棧瓦葺の立派な門です。
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入口から続くイチョウ並木・・・樹齢百年を超えるイチョウ並木は、まるで神社の参道のよう。
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イチョウ並木の先が庭園になっています。
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今回の参加者は11名。
集合写真を撮った後は自由散策。 -
園内から入り口を振り返って・・・
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先に進むと水の流れがあしらわれ、紅葉とマッチしています。
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水面に映える紅葉。
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都心にこんな素晴らしい紅葉スポットがあるとは・・・しかも無料で入園できます。
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広い池と紅葉。
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池に泳ぐ錦鯉・・・杉並区と自治体交流している新潟県小千谷市から寄贈されたそうです。
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天気は良くありませんが、紅葉は見応え十分。
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広い庭園・・・面積は8972㎡で、そのうち2680㎡が大田黒家から寄贈されました。
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休憩室と茶室。
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茶室ではお茶会を開催中・・・優雅さと紅葉が合いますね。
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公園内の洋館は、昭和8年に大田黒が仕事部屋として建てたもので、現在は記念館として公開されています。
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大田黒元雄(1893~1979)と言えば、NHKラジオの人気番組だった「話の泉」(1946~64)を思い出します。
裕福な家庭に育った大田黒は、経済学を学ぶためにロンドン大学に留学した際に西洋音楽の魅力を知り、帰国後に日本ではあまり知られていなかったドビュッシーやストラヴィンスキーを紹介するなど、音楽文筆家・評論家として活躍しました。 -
大田黒は47年間、この部屋で音楽活動を続けてきました。
1階の広い室内には、こだわりの調度品が当時のまま残っています。 -
暖炉の右側には、ウィリー社製の蓄音機。
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窓辺に置かれたスタインウェイ社製のピアノ・・・1900年にドイツ・ハンブルク工場で造られ、大田黒がロンドンから運んだピアノです。
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大きなガラス窓越しに見える紅葉や竹林など・・・太田黒は仕事の傍ら、この風景を楽んでいたのでしょう。
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紅葉の時期にはライトアップされ、撮影会も行われます。
東屋もある大田黒公園は、素晴らしい紅葉スポットでした。 -
大田黒公園の前を通る荻外荘通りを南下して、5分ほどの所にある「荻外荘(てきがいそう)」・・・戦前に総理大臣を3度務めた近衞文麿(1891~1945)の旧宅です。(本宅は目白にあり、別宅として使われました)
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表札には「近衞」・・・文麿の次男で元東大教授だった通隆氏が、平成24年に亡くなるまで荻外荘に住んでいました。
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中に入ると、見事な紅葉が・・・
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多くの人がスマホやカメラを片手に写真を撮っています。
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これも見事な紅葉。
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紅葉を見ながら建物へ。
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荻外荘の模型・・・元々は東大医学部教授で大正天皇の侍医頭も務めた入澤達吉の別邸「楓荻荘」として昭和2年に・建てられ、その後、本邸となりなした。
設計は入澤の義弟(妻・常子の妹の夫)で、築地本願寺や平安神宮などを設計した伊東忠太です。
一方、総理大臣に就任した近衞文麿は訪問客の多さなどから郊外に邸宅を求め、昭和12年にこの邸宅の譲渡を受けて移り住み、その後、さまざまな政治の舞台となりました。 -
建坪は約120坪、庭は2千坪の広さ・・・右側の部分は昭和35年に豊島区内の某宗教施設に移築され、令和6年月に再移築されましたが、客間や応接間などを含む主要部分は当時とあまり変わっていません。
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玄関に展示されている「尚武太鼓」・・・第二次近衞内閣の基本方針が決定された「荻窪会談」(1940年7月19日開催)の際に使われた太鼓。
玄関の外に置かれ、記者発表の際に打ち鳴らされました。 -
全体的に中国風のデザインで統一された「応接室」・・・中央には螺鈿(らでん)家具が置かれ、梅とカササギの透かし彫りや牡丹の彫刻が施されています。
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天井には、上海出身の書画家である王一亭が描いた龍の天井画が4枚貼られています。
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入澤の日記には、上海在住の知人を通して王一亭に龍画の揮毫依頼をしたことが記されています。
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床には龍の敷瓦(しきがわら)・・・これは伊東忠太のデザインとされており、荻外荘のシンボルマークにもなっています。
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近衛文麿の書。
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応接室前の玄関には、荻外荘の名付け親となった西園寺公望〈1849~1940)の筆による「荻外荘」の扁額・・・荻外荘という名前は、邸宅の位置が荻窪の外れに当ることからだと言われます。
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「荻窪会談」や対米開戦を回避するために昭和16年10月12日に行われた「荻外荘会談」など、戦前の重要な会談が行われた「客間」・・・壁紙や絨毯の色・文様は、古写真のカラー化分析から推定して復元したそうです。
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この部屋で昭和15年に行われた「荻窪会談」の写真・・・左から近衛文麿次期総理、松岡洋右次期外相、吉田善吾海相、東條英機次期陸相。
この写真にあるテーブルクロスや椅子、棚や亀の剥製など、現在の技術によって当時が忠実に再現されています。 -
「次ノ間」の扉には、近衛家の家紋【近衛牡丹】。
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こちらは「食堂」・・・入澤達吉は、この邸宅を客人を招くための場所にしたいと考え、食堂には、来客をもてなすための大きなテーブルと多くの椅子が置かれました。
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食堂に掛けられた近衛文麿の肖像画。
貴族出身のエリートで国際協調や平和を理想とし、軍部の台頭には懸念を抱いていた近衛ですが、彼の意図とは裏腹に首相として日中戦争を拡大させ、太平洋戦争開戦直前まで政権を担い、結果的に戦争を拡大させました。 -
食堂の隣にある「書斎」・・・昭和20年12月16日、A級戦犯としてGHQから逮捕命令が出ていた近衛文麿は、この部屋で巣鴨拘置所出頭期限当日の未明に青酸カリで服毒自殺しました。
日本の総理大臣経験者で、54歳2か月での死去は最も若い没年齢で、また死因が自殺である人物も近衞が唯一です。 -
三庭園の最後は 「角川庭園」・・・角川書店の創業者で俳人だった角川源義(げんよし 1917~1975)の邸宅で、2005年に遺族から寄贈された杉並区が2009年より一般公開している庭園です。
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数寄屋造りの邸宅は、俳句仲間でもあった建築家の加倉井昭夫(1909~1988)の設計で1955年に竣工しました。
アプローチの右端にあるのは芭蕉の木。 -
角川庭園の敷地面積は415坪、木造2階建の建築面積は60坪・・・2009年より「幻戯山房・すぎなみ詩歌館」として一般開放し、源義の書斎だった部屋には、ゆかりの品や俳句などを展示し公開しているほか、句会等を催せる詩歌室や茶室を貸し出しています。
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邸内に入ると2階に上る階段がありますが、公開は1階のみです。
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書斎が展示室になっており、角川源義ゆかりの資料が展示されています。
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座右の銘である「一念一植」と書かれた色紙・・・苗一つを念を込めて植える・・・慌てず、ゆっくり、地に足を付けて事業や学問、俳句をやってゆこう、という源義の思いが込められています。
この言葉は吉川英治の小説『親鸞』に出てくる箴言で、一つに無心になって熱中する・一度に多くのことをするのではなく、興味のある対象をじっくりと育てるということです。 -
1917年に富山県で生まれた角川源義は、子供の頃から文学への関心が高く、國學院大學に進学して中世文学、特に和歌や古典文学に深く傾倒し、その後の彼の活動の基盤を築きます。
1945年に角川書店を創業し、古典文学の普及に力を入れ、現代語訳シリーズなどを次々と刊行して多くの人々に文学の楽しみを届け、また学生時代から詩歌の創作にも力を入れ、優れた経営者であると同時に情熱的な歌人・詩人で、1975年に58歳で亡くなるまで精力的に諸活動を続けました。 -
『春雪みたび とけゆくごとに 老いゆくか』
『四月の雪 女神に詣で 余生感』
『老の坂 春の筍 家づとに』 -
書斎の隣のダイニング「詩歌室1」から見た庭園。
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「詩歌室2」からの眺め・・・庭には俳句を詠むための草花が植えられ、四季折々楽しめます。
春・・・セイヨウシャクナゲ、ハナミズキ、シャガなど
夏・・・サルスベリ、キキョウ、タイサンボクなど
秋・・・サネカズラ、フジバカマ、ススキなど
冬・・・フクジュソウ、センリョウ、オウバイ、ハクバイ、ユズなど -
「茶室」からの眺め。
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「坪庭」。
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外に出て庭園へ・・・建物の南側にある庭園は、400本ほどの樹木と四季折々に楽しめる草花が植えられています。
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水琴窟のそばには源義が霧ヶ峰で詠んだ句碑・・・『残雪や 狩くら神の 泉鳴る』
初めて訪れた荻窪でしたが見どころも多く、素敵な街でした。
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