2025/04/06 - 2025/04/06
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SamShinobuさん
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1週間前に満開を迎えた桜。桜は散り際もまた美しいので、花見も兼ねて今週も美術館巡りをしよう。
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都営浅草線西馬込駅南口から、馬込桜並木通りを歩く。
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桜並木公園で馬込文士村大桜まつりが開催される。
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屋台が出始めたゾ。
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大田区立龍子記念館
西馬込駅から徒歩15分。
名作展「川端龍子の描き出した世界 生誕140年を迎えて」
龍子記念館と旧川端龍子邸は、国の有形文化財(建造物)に登録されている。 -
龍子記念館(1963年設立)は、大正から戦後にかけての約140点の龍子作品を所蔵しており、今回はその中から特に代表的なものを展示している。
最近、撮影OKになったらしい。よしよし。
今日は馬込文士村大桜まつり開催に伴い、通常200円の入館料が無料だった。ラッキー! -
川端龍子(1885−1966年)は、横山大観・川合玉堂とともに近代日本画の三大巨匠と言われている。
龍子は西洋画の修業に渡米した際、ボストン美術館で鎌倉時代の『平治物語絵巻』を見てめちゃくちゃ感動し、日本画に転向したそうだ。
当初、龍子の描く独創的で斬新な超巨大絵画は、会場を意識した大衆芸術という意味で、「会場芸術」と呼ばれ批判された。
しかし意外にも龍子はこの「会場芸術」という言葉が気に入り、チンケな「床の間芸術」とは違うんじゃ、ボケ!とばかりに、どんどん大作を描いていく。 -
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《草の実》(1931年)右隻
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《草の実》(1931年)左隻
六曲一双。それぞれが横3.8mある。
自宅近くのすすきや女郎花といった、いわば雑草を金泥(金の粉末をにかわでといたもの)で超デカく描いた。その辺に生えている野草を金でこんなにも大きく、そして美しく描くなんて。 -
《一天護持》(1927年)
三つ目の不動明王が激おこだ。思わずごめんなさいと言ってしまいそうになる。縦3.5mの大画面にこれも金彩だけで描いている。 -
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《請雨曼荼羅(しょううまんだら)》(1929年)
干上がる池に立つ白鷺はどじょうをくわえ、足元にはスッポン、鯉、鯰、イモリ、タニシが「あ~れ~」と言わんばかりにひっくり返っている。
この前年、川端龍子は横山大観率いる日本美術院を脱退し、青龍社を立ち上げた。そして翌年、日本美術院と同じ時期に同じ会場(東京府美術館)で展覧会を開くという暴挙に出た。この作品はその展覧会に出品したので、枯渇して死にそうな池の生物を日本美術院に、若しくは美術界で困窮する若手作家に例えているのではないかと憶測が広がった。 -
鷺の白い羽根が美しい。また、どじょうを咥える白鷺の姿がユーモラスで魅入ってしまう。
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瀕死の鯉や鯰、イモリ。
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《立秋》(1932年)
キャプションに
「素朴派の画家アンリ・ルソーのジャングルのような幻想的な世界観すら感じられますが、本作は自宅の庭から構想されています」とある。ルソーですか笑。確かに、葉っぱヘの執着が凄い。 -
《香炉峰》(1939年)245.4✕727.2cm
美術書で何度も観た作品。初めて実物に会えて思ったのは、「で、でか過ぎ!」だった。
だって横が7m以上あるのだ。思わず実物大ですか、と言いたくなった。 -
日中戦争に画家として従軍した時、龍子は偵察機で香炉峰上空を飛んだ。その時の様子を描いた戦争画だ。本来は記録と国威発揚のための戦争画のはずが、なぜか飛行機を半透明にして作家性を強く主張しちゃった。僕はてっきり「俺の偵察機は透明で敵に見つからないのさ」と嘯いているのかなと思ったが、キャプションを見ると、「機を透視的に扱ったのは作者のウィットに依るものである」と龍子自身が語っている。でもこんなん描いて、軍の上官に怒られなかったのかな。
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パイロットは龍子本人だそうだ。
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《爆弾散華》(1945年)
川端龍子邸は、終戦直前の8月13日にB29による空襲で被弾した。使用人2人が亡くなった悲惨な爆撃を、吹き飛ぶカボチャやトマト、ナスの花で表現している。九死に一生を得た龍子は、この作品を2カ月後に描き上げた。
散華とは、仏教において花をまいて供養すること。この絵は亡くなった人たちに対する哀悼の気持を表しているとのこと。 -
《爆弾散華》一部分
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《爆弾散華》一部分
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《爆弾散華》一部分
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空爆により大破した自宅。
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《龍子垣》(1961年)
242✕729.5cm
龍子が修善寺の別宅に、自らデザインした垣根を描いた。それにしても、曲がりくねった個性的な竹垣だな。病気の奥さんの保養の為に作った別荘だが、結局奥さんは一度も訪れることなく亡くなった。よく見ると夏の藤の花や冬の梅の花、秋の落ち葉が混在して描かれている。きっと龍子は奥さんとここで四季を過ごしたかったんじゃないかと思うと泣ける。 -
《龍子垣》一部分
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《阿修羅の流れ(奥入瀬)》(1964年)
245.4✕484.8cm
龍子、79歳の時の作品。足が悪いにもかかわらず終始歩いて写生したと語っているが、それだけこの景色に魅了されたのだろう。 -
岩の間をうねる荒々しい流れと、その上を儚げに飛ぶ黒アゲハがいい。
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《寒泳》(1964年)
123.9✕79.2cm
龍子は晩年、河童ばかり描くようになった。巨大でダイナミックな作品が多い中、この絵は龍子にしては小品だ。でも、河童の躍動感溢れる姿は、やっぱり龍子らしい。
満開の梅の下、河童はクロールで力泳している。河童って平泳ぎのイメージがあるがクロールなんだ。 -
《桜芥子図襖》(さくらけしずふすま)
(江戸時代、1624年~1643年)
伝 俵屋宗達
168.7×371.2cm
俵屋宗達!
琳派に傾倒していた龍子が愛蔵し自邸に飾っていた。「伝」というのは、俵屋宗達の工房で作られたことは確かだが、宗達の作かどうかは確定できないということらしい。国宝 「風神雷神図屏風」で有名な俵屋宗達は謎に包まれた人物で、この「伝」が多い。
満開の豪華絢爛な桜の下に、芥子やアザミなどの野草が描かれているのが面白い。 -
《桜芥子図襖》一部分
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《桜芥子図襖》一部分
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《桜芥子図襖》一部分
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《寒山寺外 楓橋畔より》(1939年)
龍子が従軍画家として中国に赴いた際に描いたスケッチが27点展示されていた。その中でも、懐かしい蘇州の絵をパチリ。蘇州・寒山寺のそばにある楓橋だ。 -
蘇州にある報恩寺北寺塔。
20年ほど前、何度も訪れた。塔の上まで登ったこともある。 -
谷保玲奈の作品展「け這う」を併催
谷保玲奈(たにほれいな)
1986年、東京都生まれ。多摩美で日本画専攻。
2023年に龍子記念館で初の滞在制作を行った。
彼女のインタビューを見ると、「日本画は不自由で、難しくて、面倒くさくて、大変だからこそハマった」と話している。 -
龍子公園
龍子記念館に隣接する龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されている。通常は一日3回ガイドツアー付きの見学のみ許されている龍子公園だが、こちらも特別に開放されており自由に見学できた。 -
入口の門を抜けると「爆弾散華の池」がある。
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アメリカ軍の爆撃跡の穴から水が湧き出してきたため、龍子が「爆弾散華池」と名付けた。
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旧宅は爆撃で焼失したため、戦後の1948~1954年に龍子自らの設計で新たに造られた。当時は襖に前述の「桜芥子図」がはめ込まれていた。
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アトリエは1938年に建てられ、高さ4m、広さは60畳ある。外光が射し込んで美しい。
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谷保玲奈の作品が展示されていた。
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池上本門寺大堂の天井には川端龍子が描いた龍の絵があるので、これから観に行こう。龍子記念館から本門寺まで徒歩15分だ。
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池上本門寺
池上本門寺は、日蓮聖人が1282年に入滅された霊跡だ。10月の「御会式」はよく行ったし、今でも毎年初詣には必ず訪れるお寺さん。というわけで、本門寺は勝手知ったるわが家の庭みたいなところ。宗旨は違うが、お題目を唱えるのも得意だ。 -
本門寺大堂(だいどう)
1945年4月15日の空襲で焼失し、戦後は仮堂でしのいでいた。1964年にようやく再建。
お釈迦様の誕生日(4/8)に合わせて、春まつりが開催されていた。誕生仏に甘茶をそそいでお祝いさせてもらう。 -
天井には川端龍子が描いた「未完の龍」がある。享年80歳の龍子の絶筆だ。
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龍子はこの完成を見ることなく亡くなるが、奥村土牛指導の下に金子日威聖人が眼を点じて開眼供養をとげた。
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未完だからなのか、ちょっと龍だと分かりにくい。でも迫りくる気迫が半端ない。
ちなみに龍子は浅草寺の天井の龍神画も描いている。 -
お詣りを済ませると、甘茶が無料で振舞われていた。お釈迦様が誕生の際に、天より甘露の雨が降り注いだという謂れに因んでとのこと。
ほんのり甘くて美味しかった。 -
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池上本門寺 お休み処
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お休み処で昼食。
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先ずは、そば焼酎のそば湯割り(600円)を注文。
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温かい本門寺そば(1,450円)。
本門寺そばには、えび天、ゴボウ天、煮しめたシイタケ、カマボコ、卵焼き、そしてお餅が入っていて、お酒のツマミになる笑。ちなみに冷たい本門寺そばは、この餅がとろろに変わる。 -
池上本門寺
霊宝殿
日曜日の10:00~16:00のみ拝観できる。今回の特別展示は土日祝日開館。
拝観料:大人 300円
撮影禁止。
池上本門寺は開創されてから現在までの約730年に渡るご霊宝、文化遺産等を所蔵している。
今回は多様な狩野派絵画を展示。と言うのも本門寺は狩野家の菩提寺だからだ。
狩野派の始祖、狩野正信は熱心な日蓮宗の信者だった。その流れで江戸狩野派も本門寺を菩提寺としたのだろう。 -
本門寺には、奥絵師狩野4家の墓石が現存している。
ちなみに奥絵師とは、御用絵師のうちで最も格式の高い職位のこと。江戸幕府の奥絵師は、狩野探幽、尚信、安信の3兄弟の家柄に限られていた。探幽は鍜治橋に、尚信は木挽町に、安信は中橋に屋敷を拝領したので、それぞれ鍜治橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家と呼ばれた。木挽町狩野家から分かれた浜町狩野家を加えたこの4家が奥絵師を名乗ることができたのだ。 -
狩野尚信、常信、典信、惟信、周信、古信、栄信ら狩野派の絵がずらっと並んでいたが、如何せん小さな展示室なので、あっという間に観終わった。
狩野派は室町時代から始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、400年にもわたって大名たちに重宝されてきた画派だった。
狩野派には粉本という絵のマニュアルがあり、これを徹底的に模写させる教えがあったり、狩野派の絵師はこのお手本を制作の参考にしていた。それは同じような絵を量産するにはいいが、時代の変化に沿った新しい絵や個性的な絵は生まれにくくなる。
それでも老舗のブランド力は強力で、狩野派というだけで特に田舎大名などは喜んだのだろう。しかし新しいもの好きな江戸の人々にとっては、狩野派は次第にマンネリ化していった。 -
狩野養信(かのうおさのぶ)
「薬玉に猫図」
マンネリ化したとは言っても、突然変異的にぽつぽつと天才が生まれる。養信は狩野探幽以来の才能と言われているらしい。
なるほど、この「薬玉に猫図」は、良いんじゃないの。
薬玉(くすだま)とは、薬草や香料を錦の袋に詰めて五色の糸を垂らした入れ物で、魔除けや厄除け、長寿の願いが込められている。薬玉の縦の構図に、その下で体をくねらせて五色の糸にじゃれる猫が可愛い。
(過去のフライヤーより) -
徳川吉宗筆「竹に虎図」
何故か八代将軍吉宗の絵があった。
暴れん坊将軍って、絵も上手かったんだ。
御用絵師狩野派の影響がもろ分かるけど、絵心はスゲーあるじゃん。
(過去のフライヤーより) -
その養信の頭蓋骨から復元した復顔像が展示されていたが、何のためにわざわざ頭蓋骨から復元した?
(本門寺Webサイトより) -
多宝塔
1831年、日蓮聖人550遠忌(550回忌ということらしい)を記念して、日蓮が火葬された所に建立された。
このすぐ横に奥絵師狩野家墓所がある。 -
狩野探幽(1602年~1674年)のお墓
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京都にいた狩野探幽は、16歳で徳川家康に江戸ヘ呼ぼれて、幕府の御用絵師となる。そしてめきめきと頭角を現し、20代で早くも江戸狩野派のリーダーとなった。代表作としては二条城障壁画などがある。
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五重塔
関東最古の五重塔は2代将軍徳川秀忠が建立した。国の重要文化財。 -
今日は年に1回の特別開帳の日だった。
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僧侶の読経のあと、導師のご祈祷と有り難いお話があった。
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狩野養信のお墓
五重塔近くには木挽町狩野家墓所があり、ここには狩野常信・周信・養信の墓がある。 -
幸田露伴のお墓
幸田露伴の代表作が「五重塔」(読んだことないけど)だから、ここにお墓がある訳ではない。たまたまらしいが、紛らわしいなあ。 -
力道山のお墓
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児玉誉士夫のお墓
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仁王門
この仁王門には、かつてアントニオ猪木がモデルになった仁王像が睨みをきかせていた。文化勲章も授与されている圓鍔勝三(えんつば かつぞう)氏の1978年の作で、猪木の肉体美を参考にするべくモデルを依頼したのだ。猪木も師匠の力道山が眠るお寺の門番になれるならと快諾したそうだ。 -
現在は別の仏師の仁王像に代わっている。猪木の仁王像は本門寺本殿の中に置かれているので、観に行こう。
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本門寺本殿(釈迦殿)
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あった!
やはり自分的には本門寺の仁王像はこっちだな。 -
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その昔、境内には無数のハトがいて、長いこと売店では鳩のエサが売られていた。ただ建造物ヘの糞害もあり、ある時鳩のエサの販売をやめてみた。するとその途端ハトが全くいなくなり、その時はハトのやつ現金だなと思った。
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鐘楼
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日蓮聖人説法像
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加藤清正の寄進により造られた96段の石段。
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総門
扁額の本門寺の文字は本阿弥光悦の書。実物は、先ほどの霊宝殿に展示されていた。 -
本門寺花まつりのパレード
花まつりとは、お釈迦様の誕生日に行われる仏教行事で、宗派に関係なくお祝いをする。
白い象の山車。なぜ白象かと言うと、お釈迦様の母である摩耶夫人は、白い象が夫人の胎内に入る夢を見て、お釈迦様を懐妊したことを知ったから。キリスト教でいうところの「受胎告知」ですな。 -
藤乃家
くず餅発祥の地は、昔から池上か川崎大師か論争がある。調べてみると亀戸天神の「船橋屋」(1805年創業)も発祥の名乗りを上げているらしい。
池上のくず餅と言えば、浅野屋(1752年創業)、池田屋(1700年代創業)と相模屋(1696年創業)が有名だった。その相模屋の屋号が2018年に藤乃屋と変わった。
藤乃家に入ってみようと思ったら、本日店内の営業はやってないとのこと。 -
池田屋
それならば、藤乃家の前にある池田屋に行こう。 -
くず餅は、小麦粉のでんぷん質を発酵させて作る和菓子で唯一の発酵食品。
子供の頃から食べているので懐かしい味がするが、もし今初めて食べたら、正直言って美味しいと思うかな?そもそも黒蜜がなかったら、これ食べられないよね。何となく身体には良さそうだけど笑。絶滅しないか、ちょっと心配。 -
久寿餅きなこかけ(700円)
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池上駅
2020年にそれまで木造平屋だった駅舎が新しくなり、その後「エトモ池上」という商業施設が入る5階建ての駅ビルが誕生した。
あまりにも長く旧駅舎に慣れ親しんでしまったので、未だに違和感が残る。大昔、蒲田方面のホームに立ち食い蕎麦屋があってよく利用したが、もうそれを知る人も少ないじゃないかな。
と、無駄に齢ばかり重ねて昔話する老人になってきた。
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