2024/04/27 - 2024/04/27
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湖仙さん
春の花は次から次へと咲き「百花繚乱」 春の花第4弾
2024/03/31桜・レンギョウ・ユキヤナギ・日向水木・チューリップ・ムスカリ・水仙・菜の花
2024/04/06八重桜・ラッパスイセン・ソメイヨシノ・早咲きつつじ・ヤマブキ・たんぽぽ・ツバキ
2024/04/13シャクナゲ・トキワマンサク・ハナズオウ・ムラサキツメクサ・つつじ
2024/04/27ヒナゲシ・スノードロップ・ハナミズキ・ヤグルマギク・ネモフィラ・オデマリ・キンラン・デージー・ラグラス・アルメリア・モッコウバラ・オルラヤ・クナウティア・アーベンシス・ボタン・藤・黄花モクレン
2024/04/20黄色いパンジー・ネメシア・オウバイ・つつじ・ブルーベル・ばら
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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昭和記念公園昭島口
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昭和記念公園昭島口銀杏のトンネル
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いつもの残堀川
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秋には紅葉がみごとなイチョウ並木
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ヒナゲシ
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ハナミズキ
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渓流広場 チューリップはもう終わっていました。
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スノードロップかな?
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ヤグルマギク
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ヒナゲシ
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みんなの原っぱ
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イチオシ
ネモフィラ
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シレネとネモフィラの共演
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カリフォルニアデージーとネモフィラの共演
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イチオシ
ヒメキンギョソウとストロベリーキャンドルとネモフィラの共演
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黄色いカリフォルニアデージーと青いネモフィラと赤いヒナゲシ
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ヒメキンギョソウとネモフィラの共演
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白いネモフィラ
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イチオシ
オデマリ
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オデマリ
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キンラン
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ラグラス
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デージー
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アルメリア
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モッコウバラ
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クナウティア・アーベンシス
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オルラヤ
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白いつつじ
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黄色いぼたんとピンクのボタン
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黄花モクレン
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赤いボタン
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ピンクのボタン
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藤は少しだけ咲いていました。
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ヤマブキかな?
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イチオシ
水鳥の池
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この旅行記へのコメント (2)
-
- jijidarumaさん 2024/05/14 01:28:31
- 国営昭和記念公園とかつての在日米軍立川飛行場(立川基地)
- 湖仙さん、
今晩は。国営昭和記念公園は2度訪れました。
・・・・・
いつも美しい、大きな国営昭和記念公園と、かつての在日米軍立川飛行場(立川基地)については感慨があります。
郷里青梅から高校に進学し、大学から、職場のある東京駅に通勤するまで、かつての在日米軍立川飛行場を車窓から眺めていました。つまり日常の景色でした。
入社2年目の1969年、26歳で同郷の家内と結婚し、青梅線の中神(なかがみ)駅・・・立川からは、西立川、東中神、中神の順です。青梅までさらに9駅あり・・・で新婚生活をスタートしました。線路際のアパートでした!その頃、飛行機の騒音よりも電車の音の方が大きかったものでした(笑)。
線路際のアパートは4ヶ月で引っ越し。先輩がLAに赴任した後釜に小金井の個人住宅の二階に間借りしました。1974年ドイツに赴任するまで、横浜の社宅、松戸の社宅と広さを求めて、首都圏を転々と・・・。
立川市は立川駅の北口と南口に大きく分かれ、北に米軍基地やそれに伴い繁華街があり、南には住宅地や私の母校などがありました。
当時、母校の先輩たちは北から南に風俗業の進出を食い止めるべく、南口浄化運動の先頭に立ち、大いに貢献したと学校史にあります。
砂川闘争(すながわとうそう)を御存じでしょうか?
これは在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対して、砂川町(現立川市)において1955年から1960年代まで続いた住民運動(左派の政党や運動家が参加し「流血の砂川」と称された・・・「新東京(成田)国際空港)」の開港で死者も出た成田・三里塚闘争ほどではないが)です。私が中学から高校の頃で、激しい闘争がありました。
この結果だったのか、米軍は滑走路延長を取りやめ、1969年10月には横田飛行場(現在もある横田基地(福生市)への移転を発表した。
1977年11月、立川飛行場(立川基地)跡地は日本側に全面返還された。
その跡地は「国営昭和記念公園」等として利用されています。
つまり、「昭和天皇御在位五十年記念事業」の一環として、1980年(昭和55年)に事業に着手し、1983年(昭和58年)10月に第一期開園となった。
私共がドイツ駐在中に、かつての騒音や闘争の歴史を忘れたように、現在のような大きな立派な公園ができていったわけです。
・・・・・
多くの方が、「国営昭和記念公園」について投稿されておられますが、
かつての歴史的背景を加えさせていただきました。
それではまた。
jijidaruma
- 湖仙さん からの返信 2024/05/24 11:55:13
- RE: 国営昭和記念公園とかつての在日米軍立川飛行場(立川基地)
- > 湖仙さん、
> 今晩は。国営昭和記念公園は2度訪れました。
>
> ・・・・・
>
> いつも美しい、大きな国営昭和記念公園と、かつての在日米軍立川飛行場(立川基地)については感慨があります。
>
> 郷里青梅から高校に進学し、大学から、職場のある東京駅に通勤するまで、かつての在日米軍立川飛行場を車窓から眺めていました。つまり日常の景色でした。
> 入社2年目の1969年、26歳で同郷の家内と結婚し、青梅線の中神(なかがみ)駅・・・立川からは、西立川、東中神、中神の順です。青梅までさらに9駅あり・・・で新婚生活をスタートしました。線路際のアパートでした!その頃、飛行機の騒音よりも電車の音の方が大きかったものでした(笑)。
> 線路際のアパートは4ヶ月で引っ越し。先輩がLAに赴任した後釜に小金井の個人住宅の二階に間借りしました。1974年ドイツに赴任するまで、横浜の社宅、松戸の社宅と広さを求めて、首都圏を転々と・・・。
>
> 立川市は立川駅の北口と南口に大きく分かれ、北に米軍基地やそれに伴い繁華街があり、南には住宅地や私の母校などがありました。
> 当時、母校の先輩たちは北から南に風俗業の進出を食い止めるべく、南口浄化運動の先頭に立ち、大いに貢献したと学校史にあります。
>
> 砂川闘争(すながわとうそう)を御存じでしょうか?
> これは在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対して、砂川町(現立川市)において1955年から1960年代まで続いた住民運動(左派の政党や運動家が参加し「流血の砂川」と称された・・・「新東京(成田)国際空港)」の開港で死者も出た成田・三里塚闘争ほどではないが)です。私が中学から高校の頃で、激しい闘争がありました。
> この結果だったのか、米軍は滑走路延長を取りやめ、1969年10月には横田飛行場(現在もある横田基地(福生市)への移転を発表した。
>
> 1977年11月、立川飛行場(立川基地)跡地は日本側に全面返還された。
> その跡地は「国営昭和記念公園」等として利用されています。
> つまり、「昭和天皇御在位五十年記念事業」の一環として、1980年(昭和55年)に事業に着手し、1983年(昭和58年)10月に第一期開園となった。
>
> 私共がドイツ駐在中に、かつての騒音や闘争の歴史を忘れたように、現在のような大きな立派な公園ができていったわけです。
> ・・・・・
>
> 多くの方が、「国営昭和記念公園」について投稿されておられますが、
> かつての歴史的背景を加えさせていただきました。
>
> それではまた。
> jijidaruma
jijidarumaさん
こんにちは
14日から出発して、旅先から今帰ってきました。
立川基地の話はなんとかく聞いていましたが、
よりくわしい話ありがとうございました。
とても興味深く読まさせていただきました。
私が昭島市に引っ越して来たのは丁度昭和記念公園が出来たころでした。
それからずっと昭和記念公園にはお世話になっております。
たしか、モリタウンも同じぐらいの時期に出来たような気がします。
湖仙
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