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手筒花火発祥の地「吉田神社」から豊川に架かる吉田大橋へ。<br />そこから次の目的地「彌健神社」のある吉田城方向を眺める。

豊橋市「吉田城、奮藩祖・豊城神社、彌健神社」

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2023/10/14 - 2023/10/14

433位(同エリア530件中)

wabisabi2さん

手筒花火発祥の地「吉田神社」から豊川に架かる吉田大橋へ。
そこから次の目的地「彌健神社」のある吉田城方向を眺める。

旅行の満足度
2.5
観光
2.5
交通
3.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
私鉄 徒歩
  • 手筒花火発祥の地「吉田神社」を後にして、すぐ東の国道1号線に架かる歩道橋を渡って吉田城方向に向かいます。<br />写真は歩道橋から先程訪れた吉田神社は目の前。

    手筒花火発祥の地「吉田神社」を後にして、すぐ東の国道1号線に架かる歩道橋を渡って吉田城方向に向かいます。
    写真は歩道橋から先程訪れた吉田神社は目の前。

  • 歩道橋を渡り、豊川に架かる吉田大橋の中ほどから、これから向かう吉田城を眺める。

    歩道橋を渡り、豊川に架かる吉田大橋の中ほどから、これから向かう吉田城を眺める。

  • 吉田大橋を戻り、そこから豊川沿いの遊歩道で吉田城鉄櫓に向かいます。

    吉田大橋を戻り、そこから豊川沿いの遊歩道で吉田城鉄櫓に向かいます。

  • やがて遊歩道の前方に石垣が見えてくれば鉄櫓は目の前です。

    やがて遊歩道の前方に石垣が見えてくれば鉄櫓は目の前です。

  • 豊川左岸の切り立った高台の上に聳える吉田城鉄櫓。<br />河畔沿いから見上げる鉄櫓はなかなか迫力がある。

    豊川左岸の切り立った高台の上に聳える吉田城鉄櫓。
    河畔沿いから見上げる鉄櫓はなかなか迫力がある。

  • 豊川左岸沿いに本丸北側の「北御多門跡」に続く歩道が整備されており、積み方の違う石垣が本丸に続く。<br />

    豊川左岸沿いに本丸北側の「北御多門跡」に続く歩道が整備されており、積み方の違う石垣が本丸に続く。

  • 「北御多門跡」の石標、河畔からへはここから向かう事が出来ます。

    「北御多門跡」の石標、河畔からへはここから向かう事が出来ます。

  • 本丸に入ると石垣や車輪、掘割の一部が遺構を見ることができます。<br />訪れた時は本丸南側の石垣の復元作業が行われていました。<br />ジグソーパズルのピースのような石一つ〃組み上げる地道な作業が行われています。

    本丸に入ると石垣や車輪、掘割の一部が遺構を見ることができます。
    訪れた時は本丸南側の石垣の復元作業が行われていました。
    ジグソーパズルのピースのような石一つ〃組み上げる地道な作業が行われています。

  • 本丸から眺める鉄櫓(くろがねやぐら)。<br />吉田城は四隅の櫓で構成され、所謂天守は持たなかったようで、写真の鉄櫓が天守の機能を持っていたとも云われます。<br />城は1505年に牧野古白が築城した今橋城を改称したもので、天正18年(1590)に池田輝政により整備・拡張に着手されたが、輝政の播磨姫路への移封にともない、事業は頓挫し輝政が描いた吉田城は未完成のまま廃城に至った。<br />

    本丸から眺める鉄櫓(くろがねやぐら)。
    吉田城は四隅の櫓で構成され、所謂天守は持たなかったようで、写真の鉄櫓が天守の機能を持っていたとも云われます。
    城は1505年に牧野古白が築城した今橋城を改称したもので、天正18年(1590)に池田輝政により整備・拡張に着手されたが、輝政の播磨姫路への移封にともない、事業は頓挫し輝政が描いた吉田城は未完成のまま廃城に至った。

  • 現在鉄櫓は昭和29年(1954)にコンクリート造りで模擬再建されたもの、内部は無料の歴史資料館として公開されています。<br />写真は入口の館内施設案内。<br />4層構造の鉄櫓の各層に吉田城築城の歴史を知る資料が展示され、往時の絵図や甲冑、本丸の復元模型が展示されています。

    現在鉄櫓は昭和29年(1954)にコンクリート造りで模擬再建されたもの、内部は無料の歴史資料館として公開されています。
    写真は入口の館内施設案内。
    4層構造の鉄櫓の各層に吉田城築城の歴史を知る資料が展示され、往時の絵図や甲冑、本丸の復元模型が展示されています。

  • 上は幕末に描かれた吉田藩士屋敷図の城内拡大図。<br />後に明治政府の廃城令に伴い取り壊され、その後は旧日本軍の部隊がこの地に置かれました。<br />吉田城の遺構より旧日本陸軍の痕跡が多く残っており、現在の城内は市役所や美術館、スポーツ施設のある豊橋公園に整備としてされています。

    上は幕末に描かれた吉田藩士屋敷図の城内拡大図。
    後に明治政府の廃城令に伴い取り壊され、その後は旧日本軍の部隊がこの地に置かれました。
    吉田城の遺構より旧日本陸軍の痕跡が多く残っており、現在の城内は市役所や美術館、スポーツ施設のある豊橋公園に整備としてされています。

  • 往時の吉田城復元モデル。<br />地元工業高校の建築課の生徒が作ったもので、その道を志すだけに良く作られています。

    往時の吉田城復元モデル。
    地元工業高校の建築課の生徒が作ったもので、その道を志すだけに良く作られています。

  • 本丸から西側に進んだ左が彌健神社のある金柑丸跡となります。<br />そこには「奮藩祖・豊城神社」と刻まれた社標と、奥に大きな石碑とその奥に彌健神社の鳥居の姿があります。<br /><br />まず最初にここ奮藩祖・豊城神社、彌健神社に社殿はありません。<br />奮藩祖・豊城神社は、吉田城二の丸に鎮座していましたが、城外の豊橋市東田町北蓮田に源頼政を祀った豊城神社を建立した事から、社殿や吉田藩の膨大な記録などは全てこちらに移されたようです。<br />なのでこの石標は奮藩祖・豊城神社跡とみるべきかもしれません、礎石らしいものも残っていません。

    本丸から西側に進んだ左が彌健神社のある金柑丸跡となります。
    そこには「奮藩祖・豊城神社」と刻まれた社標と、奥に大きな石碑とその奥に彌健神社の鳥居の姿があります。

    まず最初にここ奮藩祖・豊城神社、彌健神社に社殿はありません。
    奮藩祖・豊城神社は、吉田城二の丸に鎮座していましたが、城外の豊橋市東田町北蓮田に源頼政を祀った豊城神社を建立した事から、社殿や吉田藩の膨大な記録などは全てこちらに移されたようです。
    なのでこの石標は奮藩祖・豊城神社跡とみるべきかもしれません、礎石らしいものも残っていません。

  • 石標から鳥居に向かう右側の大きな石碑は「歩兵第十八聯隊之址」と刻まれおり、豊橋公園の入口の門など旧日本陸軍の施設の痕跡が残されています。

    石標から鳥居に向かう右側の大きな石碑は「歩兵第十八聯隊之址」と刻まれおり、豊橋公園の入口の門など旧日本陸軍の施設の痕跡が残されています。

  • 奥に進み鳥居の前から全景を眺める。<br />鳥居右に「彌健神社」と刻まれた石標があり、その奥の靖国鳥居の柱の一方には「昭和8年4月3日建立」とあり、もう一方には「奉納・三遠国防義会」と記されていた。

    奥に進み鳥居の前から全景を眺める。
    鳥居右に「彌健神社」と刻まれた石標があり、その奥の靖国鳥居の柱の一方には「昭和8年4月3日建立」とあり、もう一方には「奉納・三遠国防義会」と記されていた。

  • 更に進んだ右手に手水鉢(寄進年未確認)、その奥に金柑丸稲荷社跡の石標が見られた。<br />金柑丸稲荷社は築城とともに城内に祀られたもので、後の明治11年(1878)に前回掲載した吉田神社に遷座されたもの。

    更に進んだ右手に手水鉢(寄進年未確認)、その奥に金柑丸稲荷社跡の石標が見られた。
    金柑丸稲荷社は築城とともに城内に祀られたもので、後の明治11年(1878)に前回掲載した吉田神社に遷座されたもの。

  • 参道を進むと本来は彌健神社の社殿があるべきところに一体の銅像があります。

    参道を進むと本来は彌健神社の社殿があるべきところに一体の銅像があります。

  • その銅像は神武天皇。

    その銅像は神武天皇。

  • 銅像右手の略記。<br />それによればこの像は明治27~28年の日清日露戦役後に戦勝記念として建てられたもので、銅像の顔は時の明治天皇をモデルとしたもので気高い風格を魅せる。<br />三河・遠江・駿河・伊豆の四か国の浄財で建てられ、愛国魂のこもった権化として崇敬された。<br />しかし後の太平洋戦争の敗戦から八町練兵所から、ひそかに御安奉の場として遷座に至った。<br />昭和40年、ここ吉田城跡の本丸出ぐるわの一角の保食神金柑丸稲荷を祀った清地に、仮の御座所として再び銅像設置に至ったとある。<br />尚、この銅像の作者は不明なのだと云う。<br /><br />つまりは愛国のシンボルとして、初めて国を治めた初代天皇とされる神武天皇を祀り、練兵場内の営内神社として設けたのが彌健神社のようです。

    銅像右手の略記。
    それによればこの像は明治27~28年の日清日露戦役後に戦勝記念として建てられたもので、銅像の顔は時の明治天皇をモデルとしたもので気高い風格を魅せる。
    三河・遠江・駿河・伊豆の四か国の浄財で建てられ、愛国魂のこもった権化として崇敬された。
    しかし後の太平洋戦争の敗戦から八町練兵所から、ひそかに御安奉の場として遷座に至った。
    昭和40年、ここ吉田城跡の本丸出ぐるわの一角の保食神金柑丸稲荷を祀った清地に、仮の御座所として再び銅像設置に至ったとある。
    尚、この銅像の作者は不明なのだと云う。

    つまりは愛国のシンボルとして、初めて国を治めた初代天皇とされる神武天皇を祀り、練兵場内の営内神社として設けたのが彌健神社のようです。

  • 本来ここに社殿があってしかるべきだろうが、一時期に於て愛国神や国の象徴として崇敬するには目に見える姿のこうした像が必要な時もあった。<br />終戦以降、戦争のない平和で穏やかな日々があたりまえとなってしまったが、日本の長い歴史の中で戦争のない穏やかな日常は僅か100年にも満たない。<br />今世界を見渡せば火薬の臭いが漂う怪しい状況になっている、満足に食糧すら自国で賄えない国がいつまでも穏やかであって欲しいと願う。<br />僅か100年にも満たないぬるま湯が、冷水に変わらないと云えるだろうか。<br />城や戦争遺構を目にすると、平和ボケした緊張感のない自分でいいのか、平和に感謝しこのまま平穏でいて欲しいと願う自分、いろいろと考えさせられる空間かもしれない。<br /><br />吉田城金柑丸<br />奮藩祖・豊城神社 / 東田町北蓮田に豊城神社として移転<br />彌健神社 / 明治32年(1899)八町練兵場の南に鎮座、大正5年(1916)現在地に移転<br />金柑丸稲荷社 / 明治11年吉田神社へ遷座<br />所在地 / 豊橋市今橋町3(吉田城内金柑丸)<br />訪問日 / 2023/10/14<br />吉田神社から吉田城 / 国道一号線歩道橋を越え、今橋遊歩道で北御多門跡まで15分前後

    本来ここに社殿があってしかるべきだろうが、一時期に於て愛国神や国の象徴として崇敬するには目に見える姿のこうした像が必要な時もあった。
    終戦以降、戦争のない平和で穏やかな日々があたりまえとなってしまったが、日本の長い歴史の中で戦争のない穏やかな日常は僅か100年にも満たない。
    今世界を見渡せば火薬の臭いが漂う怪しい状況になっている、満足に食糧すら自国で賄えない国がいつまでも穏やかであって欲しいと願う。
    僅か100年にも満たないぬるま湯が、冷水に変わらないと云えるだろうか。
    城や戦争遺構を目にすると、平和ボケした緊張感のない自分でいいのか、平和に感謝しこのまま平穏でいて欲しいと願う自分、いろいろと考えさせられる空間かもしれない。

    吉田城金柑丸
    奮藩祖・豊城神社 / 東田町北蓮田に豊城神社として移転
    彌健神社 / 明治32年(1899)八町練兵場の南に鎮座、大正5年(1916)現在地に移転
    金柑丸稲荷社 / 明治11年吉田神社へ遷座
    所在地 / 豊橋市今橋町3(吉田城内金柑丸)
    訪問日 / 2023/10/14
    吉田神社から吉田城 / 国道一号線歩道橋を越え、今橋遊歩道で北御多門跡まで15分前後

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