2021/11/06 - 2021/11/06
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ベームさん
隅田川橋巡り2回目です。
橋を巡りながら併せて近辺の旧跡を訪ねます。
前回足が痛くなり千住大橋で終わったので、今日は次の橋、千住汐入大橋からです。今回も途中で足が攣りはじめ予定通りには回れませんでした。
横浜東京間を電車で往復するのも結構大変なのに先が思いやられます。
天気が良く、あちこちの神社では七五三祝いの家族連れが散見されました。隅田川の川面も春のように麗らかでした。
表紙の写真は白鬚大橋。
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今回は千住汐入大橋から桜橋までです。
赤い部分は隅田川テラスが整備されている区間。 -
スタートは東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅。9時20分。
こむら返り防止の薬を飲み、脛にはサポーターを巻いての出発でしたが。 -
鐘ヶ淵駅前風景。
鐘ヶ淵は隅田川と荒川に挟まれた墨田区の一番北にある地域です。昔この近くの隅田川の淵にお寺の鐘が沈んでいたという伝説が地名の由来とも言われます。
もっとも鐘ヶ淵は古い地名で、地図を見てもその町名はありません。町名としては墨田と堤通りです。 -
アーチの下を行きました。
一応商店街と銘打っています。 -
初めに多聞寺というお寺を訪ねます。
駅から続く狭い道。商店がぽつりポツリ。 -
歩くこと約15分弱、多聞寺(たもんじ)です。
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真言宗のお寺。毘沙門天を祀っており、隅田川七福神のコースの一番北に位置しています。
隅田川七福神ではここだけが離れており、歩いて回るのは大変でしょう。 -
創建は10世紀中ごろで、当初は今の隅田川神社付近にあり、16世紀後半に今の地に移ってきたそうです。
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特色ある山門。
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山門。
茅葺の屋根が珍しい。江戸中期のもの。 -
参道の脇の六地蔵。
1710年代の作です。 -
本堂。
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本堂。
本尊は毘沙門天。 -
隅田川に向かいます。
マイナスの海抜。荒川放水路が造られる前は水害の被害を受けていたでしょう。 -
隅田川が南に大きく湾曲するところ。左に千住汐入大橋、右に水神大橋。
隅田川から左上に伸びているのが荒川に繋がる旧綾瀬川。綾瀬川は荒川放水路によりブッツリ寸断され、放水路と隅田川の間が残っています。
地図上方(東)に多聞寺があります。
右に90度回転させると正確な方位になります。 -
ここ一帯は今はない鐘淵紡績の本拠、工場があった所です。
紡績業は日本の世界に冠たる産業でした。鐘淵紡、東洋紡、大日本紡、日清紡、倉敷紡、呉羽紡、敷島紡などがありました。いまどのくらい存続しているのか。
全鐘紡の野球チームはノンプロ球界の雄で、都市対抗野球大会の常連でした。懐かしい名前です。
カネボウ化粧品はカネボウの名を冠しているものの花王の傘下です。 -
隅田川が湾曲するところに出ました。
ここからだと左右に千住汐入大橋と水神大橋が見えます。 -
右(上流)を向くと千住汐入大橋。
2006年の竣工で長さ158m。足立区の千住曙町と荒川区の南千住を繋いでいます。この付近に汐入の渡しがあった所からこう名付けられました。汐入の渡しは昭和41年に廃止された公道としての最後の渡しでした。 -
隅田川と荒川を結ぶ旧綾瀬川の河口。
荒川放水路が出来る前は綾瀬川の河口でした。隅田川唯一の造船所伊澤造船所があります。もっとも今は船を造っているのか。 -
対岸は荒川区南千住の汐入公園。
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左に目を転じると水神(すいじん)大橋です。
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水神大橋。
西岸の荒川区南千住と東岸の墨田区堤通りを結んでいます。1989年(平成元年)架橋。157m。
すっきりしたフォルム。 -
東岸の橋の袂に昔水神の森があり、水神の渡しがあったのが命名の由来。
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渡ってみましょう。
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対岸に渡ります。
橋はアーチがある方が立体的でいいですね。 -
橋の中ほどから上流方向。汐入公園。
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戻ります。
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東岸に戻ってきて橋の袂に東白鬚公園。木母寺、隅田川神社があります。
公園の東縁(下側)を左右に繋がっているのが都営アパート。 -
公園の東側には1.2キロにも及ぶ高層の都営アパートがずらりと並んでいて壮観です。
ここも鐘紡東京工場の跡地で、白鬚東地区防災拠点として昭和50年から57年にかけて整備・建設されました。 -
この公園にはよく能「隅田川」、歌舞伎などに取り上げられる梅若伝説にちなんだ史跡があります。
木母寺です。 -
梅若伝説とは:
その昔京都の公家の息子梅若丸は人買いにさらわれて奥州に連れていかれる途中、隅田川の畔まで来たとき病で亡くなる。12歳でした。息子を探してこの地まで来た母は息子の死を知りその塚の前で念仏を唱える。すると梅若丸が亡霊となって現れる。母は狂女となって自ら命を絶つ。というもの。
梅若丸がその死に際し残した歌が
「たずね来て 問わば応えよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと」です。 -
その塚のあった梅若寺(梅を木と母に分けて木母寺)は今の都営アパートの中にありました。明治の廃仏毀釈により梅若神社となったが明治21年に寺として再興され
昭和51年、この地一帯の整備により現在地に移っています。 -
今の建物は戦災後のコンクリート造りのもので、梅若伝説や木母寺を思い浮かべて訪れるとがっかりします。
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梅若堂。
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梅若堂の中。
中央:伎芸天。
右:妙亀大明神(梅若丸の母妙亀尼)。
左:山王権現(梅若丸)。
木母寺のホームページより借用しました。 -
梅若塚。
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三遊塚。
初代三遊亭円生の追善供養のため明治22年建立。
題字は幕末の三舟の一人山岡鉄舟。 -
変な碑があります。
明治の初めころの実業家、むしろ相場師と言う方が正確か。
本名田中平八。横浜で生糸商「糸屋平八商店」を営む。それで糸平。
生糸、洋銀、米相場で大儲けする。 -
天下之糸平の碑。字は伊藤博文。
渋沢栄一、伊藤博文など政財界人とも親密だったといいます。
今でこそ政官財の癒着は厳しい目で見られますが、昔はそんなことは普通のことでした。 -
「木母寺境内」
山本松谷 明治東京名所図会より。明治31年。
真ん中に梅若堂。
今は殺風景な所ですが、明治のころは花時など賑やかだったのですね。 -
都営アパートの下をくぐると小さな梅若公園があります。
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その隅にある梅若塚。当初の梅若寺があった所です。今はそのことを示す説明板があるだけで他に何もありません。
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榎本武揚像もあります。1836~1908年。
旧幕府軍を率い函館五稜郭で維新政府軍に降伏します。しかし明治政府にその才を認められ文部大臣、外務大臣などを歴任しました。
同じ旧幕臣の高官でも、明治新政府から出仕を請われた成島柳北が「一度徳川に仕えたもの、新政府には仕えず」と断り野に降りたのと対照的です。
日本人の心情として私は柳北の生きざまに惹かれます。
この服装、大礼服と言うそうです。 -
公園風景。
春の桜が綺麗でしょうね。 -
公園のシンボル大きな纏(まとい)のモニュメントが建っています。。
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隅田川神社。
昔隅田川を航行する船が目印とする森がこの地にあり、水神を祀る社があった所からこの地一帯を水神の森と呼んでいた。浮島神社、水神社、水神さんなどと呼ばれていたが明治になり隅田川神社と改名。 -
隅田川一帯の守り神、ひいては水運業者、船宿の守り神となった。
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創設は詳らかではありませんが、源頼朝が1180年に挙兵の際この地で水神の霊を感じ社殿を創建したのが始まりという説があります。
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境内社。
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狛犬は亀です。水神は亀に乗って現れるからでしょうか。
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安藤広重「隅田川水神の森真崎」。
真ん中を流れる隅田川と高瀬舟。岸辺の森が水神の森。その右端にちょこっとあるのが水神社(隅田川神社)。遠くに筑波山。
対岸は真崎一帯(今の石浜神社のあるあたり)。 -
隅田川神社から堤防に上ると白鬚橋が下手に見えます。
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白鬚橋。ここらで足が攣りそうになりしばらく休みました。
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全長169m。1931年竣工。道は明治通りで荒川区橋場と墨田区堤通りを結んでいます。
優美な姿です。
近くにある白髭神社からその名を採りました。 -
橋を西、右岸に渡ってすぐ右に石浜神社があります。
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室町から戦国時代にかけ武蔵千葉氏の石浜城があったとされています。
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神社の創建は聖武天皇の時代、724年と伝えられています。古い神社です。
1189年、源頼朝奥州征伐の際ここに詣で戦勝を祈願しています。その他関八州の武将の尊崇篤かったといわれます。 -
浅草名所七福神の寿老人を祀っています。
七五三祝いの家族連れで賑わっていました。 -
手水舎。
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祭神は天照大御神。
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社殿。
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真先(真崎、まっさき)稲荷神社。
石浜城城主千葉氏の創建。戦の際真っ先に駆け付ける武功を願っての命名です。 -
大正15年石浜神社に併合されました。
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富士遥拝所。
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富士山信仰、富士講の遺構です。1758年。
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在原業平の有名な歌はこの辺りを訪れた時に詠われたようです。
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絵の左、川面を漂う都鳥。
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境内に石浜茶寮という食堂がありました。
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ここで昼にしました。
もりそば650円。
江戸時代から人気の豆腐田楽もあります。店員の応対良。 -
隅田川の堤防の上から。
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堤防の上から上流、水神大橋。
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橋を東岸に戻ります。
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長く裳裾を引いているような姿が美しい。
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下流方向。
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両側のアーチに屋根が掛かっているような姿はいいですね。
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白鬚神社に寄って行きます。
墨堤通りを南下。 -
白鬚神社。
951年滋賀近江の白鬚神社の分霊を勧請して創建されたという。 -
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祭神は猿田彦大神。
寺島地区の氏神です。 -
隅田川七福神の寿老人を祀っています。
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拝殿。
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狛犬。
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摂社三峰社。
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玉の井 いろは通り商店街。
有名な赤線があった所ですね。 -
白鬚神社の横の道、ゆるくカーヴしています。
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これが元の墨堤通りです。
今の墨堤通りはその横を幅広く真っすぐに通っていて、本来の墨堤通りは脇へ追いやられています。 -
道沿いにこんな古い民家が残っています。
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その旧墨堤通りが今の墨堤通りに出るところに子育地蔵堂があります。
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1804~1818年の隅田川堤防改修工事中に地蔵像が発掘され、庚申塚のある辻に祀ったことが始まりのようです。
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ここは地蔵坂通り商店街の入り口になっています。
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向いには日本一きびだんごという店があります。
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墨堤通りを少し進むと志”満ん草餅(じまんくさもち)という創業110年を超す老舗があります。
志に濁点がついて”じ”と呼ぶそうです。 -
しばらく歩くと鳩の街通り商店街の入り口があります。
昭和3年、寺島商栄会として始まった歴史のある商店街です。
左の薄いピンクの建物が墨亭。二人ほど開場を待っていました。 -
入り口のすぐ角にある墨亭。
古い商店の跡を利用して2019年5月オープンした落語会、寄席のようです。 -
催し案内。
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時間のせいか人通りすくなく、多くの店も閉まっていました。
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東京大空襲を免れていて、道幅は昔のままです。
レトロな雰囲気を持つ下町の隠れスポットとして近年人気があるようです。 -
昭和2年に建てられた古民家を利用したカフェ。
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一休みしてコーヒーを飲みました。500円。
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惣菜、生鮮食料品、日用雑貨の店が多いです。
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荒物屋ですね。
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寺島保育園。
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保育園のフェンスに架かる説明版。
吉川英治が25歳のころこの辺りに住んでいました。 -
町内会員の訃報のお知らせ。
昔はよく見かけましたが、今時珍しいのでは。町内会/自治会のまとまりがあるのですね。 -
裏道に入ります。
鳩の街と聞くと最初に頭に浮かぶのは赤線地帯の鳩の街です。
戦災を受けた玉の井の娼家が戦災を受けなかったこの商店街の裏側一帯に移ってきて開いた私娼窟です。 -
進駐軍の兵士などで大いに賑わったそうです。
最盛期は娼家108軒、娼婦298人という。 -
永井荷風の「春情鳩の街」、吉行淳之介の「原色の街」に描かれています。
昭和33年の売春禁止法施行で赤線の灯は消えました。 -
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ひっそりと質屋がありました。
サラ金などのなかった時代、質屋は庶民金融の務めを果たしていました。
戦前の小説に質屋はしょっちゅう出てきます。少し余裕があると、夏に冬物を質に入れ冬になると夏物を質に入れて、質屋を箪笥代わりにしています。質屋は預かり物なのできちんと保管してくれました。
宇野浩二の著「蔵の中」で、主人公が質屋に入っている自分の着物を虫干ししてくれるよう頼むのです。質屋の番頭が答えます。「どなたのものでも皆大切なものをお預かりしているのですから、私の方で十分手を入れて、虫干しなども怠らずにしています。」
私の母が着物をもって質屋に行く姿を覚えています。着物が米に変わりました。昭和25年頃です。 -
墨堤通りに戻る途中に言問小学校があります。
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その小学校のフェンスにある二つの説明版。
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成島柳北旧居跡。
1837~1881年。旧幕臣。儒者、作家、ジャーナリスト。 -
依田学海の旧居跡です。
1834~1909年。佐倉藩士。漢学家、評論家、劇作家。
森鷗外の漢学の師。 -
見番通りに出たところにある長命寺、元は常泉寺。
門を入った所は本業(?)の幼稚園になっています。 -
コンクリート造りの本殿。
隅田川七福神の弁財天が本尊です。 -
長命水。
徳川3代将軍家光が鷹狩の際腹痛を起こし、この井戸の水で薬を飲んだところピタリと収まった。それで寺の名前を長命寺と変えました。 -
木の実ナナは向島の生まれ育ちだそうです。
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境内の隅にある成島柳北の像。
鼻が欠けています。 -
境内を裏に抜けると名代の桜もちの店山本やがあります。
1717年に長命寺の作男山本新六が墨堤の桜の葉をつかって餅を売り出したのが始まりです。
明治21年、ここの2階に大学予備門時代の正岡子規が3か月ほど下宿したことがあります。店の娘に言い寄られ、うぶな子規は逃げ出してしまいます。 -
ここで一服。
餅一つとお茶で350円。餅は食べてしまっています。 -
墨堤通りと見番通りが交差するところに出ました。
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隅田公園少年野球場。
昭和24年、日本最初の少年野球場として造られました。あの王選手もここから育ちました。
門柱左のレリーフは1本足打法の王選手です。 -
その横に言問団子の店。
江戸末期、植木職人戸山佐吉が売り出した。在原業平の歌にちなんで言問団子と命名。 -
墨堤に上りました。
常夜灯。
かってここにあった牛島神社の常夜灯で、川を行き来する船の恰好の目印でした。 -
上流の眺め。
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白鬚橋が見えます。
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下流には桜橋。
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桜橋の東袂です。
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全長169m。1985年竣工。台東区今戸と墨田区向島を繋いでいます。
総工費28億円は両区の折半。
橋の名前は両岸の隅田川公園の桜から採ったものです。 -
X字型の全景。
都のホームページより。 -
橋の台東寄りと向島寄りに平山郁夫作のモニュメントがあります。
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双鶴飛立の図。
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橋の中ほどより上流の眺め。
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唯一歩行者専用の橋です。
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台東区側より。
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アーチのない橋は立体感に欠けます。
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台東区側に渡った所に台東リバーサイドスポーツセンターがあります。
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隣に山谷堀広場。
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広場の隅に今戸橋の親柱の遺構があります。
山谷堀が埋め立てられる前、隅田川に注ぐ最後の橋でした。橋の下は吉原に通う猪牙舟(ちょきぶね)の往来で賑わったそうです。 -
安藤広重「今戸橋之図」。
画面左に今戸橋、その右は有名な料亭有明楼と思われます。 -
明治中期の今戸橋。後ろは待乳山聖天。
ウイキより。 -
この辺りに竹屋の渡しがありました。
今戸橋の袂に竹屋という船宿があって、対岸の向島の茶店から「竹やー」と呼ぶと船を出したそうです。茶店の女将の声が美声で、それを聞くために船を呼んだ客もいたそうです。 -
山谷堀広場の向いが待乳山聖天の裏口で、無料のモノレールが往復しています。
乗りました。 -
待乳山聖天(まつちやましょうでん)。
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待乳山聖天。
推古天皇の595年ころの創建。浅草寺の支院。 -
巾着型の香炉。
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1月7日の大根祭りには大根をお供えします。供えられた大根はふろふき大根にして参拝客に振舞われます。
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これも巾着。
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手水鉢。
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昭和36年の再建。
本尊は十一面観音菩薩の化身大聖歓喜天。
浅草七福神の毘沙門天を祀っています。 -
待乳山聖天の紋章は大根と巾着です。
大根は無病息災、夫婦和合。巾着は商売繁盛を意味します。
大根は夫婦和合のようですがなんとなく艶めかしいですね。 -
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作家の池波正太郎はこの辺りに生まれました。1923~1990年。
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言問橋の袂まで来ましたが、足のつりがきつくなってきてここでギブアップ。
タクシーで上野駅まで行き帰りました。電車は往復座れたのが幸いでした。
次回は言問橋から。何とかあと2回で終わらせたい。辛い思いをしてなんでこんなことをしているのか、分からなくなってきました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2021/11/09 06:04:58
- 隅田川
- ベームさん おはようございます。
今度はどんな東京だろう?と楽しみにしていました。
>次回は言問橋から。何とかあと2回で終わらせたい。辛い思いをしてなんでこんなことをしているのか、分からなくなってきました
頑張ってください、あなたのファンが期待しています。
はじめ神社ばかりかな?と思いましたが、下町情緒というか、古い家屋がたくさん紹介されていて、見どころ満載でした。
妻沼の聖天、平井聖天は行きましたが、待乳山聖天はまだなので行ってみたいと思っておりました。昭和36年再建ですか、ちょっと残念な気がします(笑)。無料のモノレールの設置はすごいです。
pedaru
- ベームさん からの返信 2021/11/09 16:46:30
- Re: 隅田川
- pedaruさん、
有難うございます。
腰痛のほうは良くもならず悪くもならずですが、長時間歩いた時の足の脛やふくらはぎの筋肉の攣りは徐々に悪化しているようです。
橋を巡る途中隅田川からあまり離れていないところに神社仏閣とか歴史を感じさせる所があれば訪ねようというのが今回の目的です。
励ましのお言葉に応えられるよう頑張ります。
ベーム
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