2021/10/24 - 2021/10/24
20位(同エリア329件中)
ベームさん
コロナが終息に向かいつつあるようです。昨年のコロナパンデミー発生以来国や自治体首長の外出自粛要請を忠実に守ってきた私ですが、ワクチン接種も受けたしもう動き始めてもよいだろうと思うようになりました。
そこで今日は天気も良いことだし、心に温めていた隅田川橋巡りを試みることにしました。実に1年8か月ぶりの電車であり遠出であり外食です。できれば春のうららの隅田川の時期がが好ましいのですが、春は人が多いし、なによりも高齢の身で半年後にはわが身がどうなっているか分かりません。
気になるのが長期間蟄居による足腰の弱りでした。案の定昼過ぎから足が引きつりを覚えるようになり、予定をこなせずに途中で帰ることになりました。残りは他日とします。
計画は荒川から分岐して隅田川が始まる岩淵水門から河口の築地大橋まで、
隅田川に架かる橋とその周辺の史跡を訪ねようというものです。もっとも全てというわけではなく、実質千住大橋から下流の橋です。岩淵水門から千住大橋の間にもいくつか橋はありますが、いずれもアクセスが悪く、私の身体ではとても回ることが出来ません。まあ体調に気を付けて数回で完了できたらと思っています。
その1では岩淵水門から赤羽、北千住を回り、千住大橋、南千住までです。
写真は新岩淵水門/青水門。
-
隅田川に架かる橋です。
隅田川に架かる橋は道路橋、鉄道橋を合わせ30以上あり、うち歩けるのは26だそうです。最初に架けられたのは千住大橋、1594年徳川家康関東入府後で、最も新しいのは2018年の築地大橋です。
江戸時代に架けられたのは古い順に千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋で、それ以外は明治以降の架橋です。明治大正期に造られた橋は木造だったため多くが関東大震災で焼け落ち、昭和初期に関東大震災復興事業により再建されました。
今回は隅田川の始まる岩淵水門から千住大橋までです。 -
スタートは赤羽駅。9時20分。
横浜から湘南新宿ラインでも上野東京ラインでも1本で行けます。
橋の博物館と言われるほど隅田川に架かる橋は多様性を持っています。専門的なことは分かりませんが、アーチ橋、斜張橋、吊り橋、跳開橋、桁橋などがあります。 -
赤羽駅東口。
赤羽駅で下車するのは初めてです。目指すは隅田川の始まり、岩淵水門。 -
駅前風景。北区の交通、商業の中心地です。
ある不動産業者の東京住みたい街ランキングで4位だそうです。 -
飲み屋街「一番街」入口。
ここは後にして先に岩淵水門に行きます。足と時間を大切にタクシーで行きました。820円。帰りは歩いて駅まで戻ります。 -
新河岸川を新志茂橋で渡ったところでタクシーを降り、土手に上ると目の前に荒川が広がっていました。
-
広々とした風景。
遠くの橋は新荒川大橋。対岸は埼玉県川口市。 -
かっては今の隅田川が荒川の本流でした。荒川の度々の増水で下流域、向島、本所、深川など低地は水害で悩まされていました。そこで明治43年の大洪水を契機に荒川放水路建設が始まり昭和5年に完成しました。その時荒川の水を隅田川と放水路に振り分ける目的で造られたのが旧岩淵水門です。
したがってここから東京湾に流れる今の荒川は人工の川、放水路なのです。 -
荒川上流河川事務所のWEBより借用しました。
旧岩淵水門が老朽化したことと水門の高さの不足から昭和57年新たに新岩淵水門が造られ、旧岩淵水門はその役目を終わりました。。
上流からの荒川の水が岩淵水門で隅田川に流れるのと荒川放水路に流れるのとを調整しています。岩淵水門の右の荒川が放水路です。 -
旧岩淵水門。
赤水門と呼ばれています。歴史的建造物として保存されています。
この水門完成後隅田川の氾濫は起こっていないそうです。 -
旧岩淵水門。
橋とは川のあちら側とこちら側を結ぶものとすれば、水門とはいえ通路で彼岸と此岸を結んでいますから、これを隅田川橋巡りの第一歩とは出来ませんかなあ。やや苦しいか。 -
荒川の増水を記録したポール。
1番上:昭和22年カスリーン台風。8.60m。
2番目:昭和16年台風。8.27m。
3番目:昭和33年狩野川台風。7.48m。
東京湾霊岸島量水標零位を基準とした水位。
荒川上流河川事務所WEBより。 -
右手に新岩淵水門が見えます。水門の先から隅田川です。
今日は三つの扉のうち一つは閉じています。隅田川への流入量を三分の二にしているということか。 -
赤水門の通路を渡ると小さな中の島があります。
島より新荒川大橋を眺める。 -
中の島に建つオブジェ「月を射る」。
-
この時は全くの逆光だったのでWEBから借用したものです。
-
草刈りの碑。
農民魂は先ず草刈りから。
昭和13年から18年まで荒川土手で毎年草刈り競技が行われて、草刈り日本1を競ったそうです。 -
中の島より赤水門。
-
土手伝に新岩淵水門に向かいます。
-
青く塗られているので通称青水門。
-
-
青水門。
-
青水門より赤水門の眺め。
-
赤水門と中の島。
-
右下2枚の写真。
左は平常時。荒川の水は荒川放水路と隅田川に分流しています。
右は増水時。荒川の水は新岩淵水門で遮られ隅田川には流れ込みません。濁流は荒川放水路に流れています。 -
水門を渡った先からの写真。
ここから左、隅田川が始まります。 -
付近一帯は格好のサイクリングロードです。次々と走り抜け、休んでいきます。
これ立派な橋じゃないですか。名前を付ければ隅田川最初の橋となります。 -
赤水門のほうに戻り、土手を下ると水神社がありました。
-
荒川知水資料館というのがあります。治水でなく知水です。
-
一寸入ってみました。無料。説明熱心な係員に捉まりましした。ふらっと入ってふらっと出ようとする輩にはちょっと有難迷惑の感も。
-
荒川には随分多様な魚がいるものです。
上、中流。 -
中流。
-
下流、河口。
-
ジオラマ。位置関係がよく分かります。
-
資料館3階からの眺め。荒川上流方面。
-
同。新岩淵水門方面。
-
赤羽駅に戻るため新志茂橋を渡ります。
-
橋の上から新河岸川。新河岸川は荒川に並行して流れる川で、新岩淵水門の先で隅田川に合流しています。
-
新河岸川、青水門が見えています。その先で隅田川に注いでいます。
-
歩いて赤羽駅に戻ります。
赤羽の北部にある岩淵は日光御成道最初の宿場として、赤羽に鉄道が来るまでは
栄えていました。 -
新河岸川沿いから志茂旧道に曲がる角に岩淵八雲神社があります。
-
創建は不明ですが、江戸時代日光御成道岩淵宿の鎮守だったそうです。
-
二の鳥居。
-
手水舎。
-
拝殿と左神楽殿。
-
末社。
-
ここにも水神社があります。
-
水神社。
-
志茂旧道。
-
道端の庚申塔。
-
東京メトロ南北線、岩淵赤羽駅。
王子から延びる北本通りに出ました。 -
赤羽駅近く、飲み屋街に入ってきました。
-
なんと飲み屋が取り巻く中に小学校があります。
区立赤羽小学校です。 -
校庭では元気に子供たちが運動しています。
将来ののん兵衛予備軍となるのか。 -
飲み屋関連が密集している一番街。
評判の店には早くから行列ができています。 -
伊勢屋。
豆大福が有名のようです。 -
まるます家。
鯉と鰻料理が人気。2階で飲食できるようです。 -
魚豊。
-
丸健水産。
おでんが評判のようで立ち飲みできます。 -
魚料理の居酒屋。
赤羽でセンベロという言葉があります。1000円あればベロベロに酔えるそうです。 -
赤羽駅前、一番街の入り口です。
-
次に来たのが北千住駅。
千住大橋を目指します。 -
北千住駅前通り。
東京北部の町はあまり馴染みがありませんが、赤羽にせよ北千住にせよ活気があり賑わっていました。 -
駅裏のここで昼にしました。ネギトロ丼、650円(税込み)。
コロナ発生以来初めて飲食店に入るので、なにか時別なマナーがあるのかすこし不安でした。消毒液による手洗いと、熱を測られました。プラスチックの衝立も珍しかったです。 -
北千住を南北に貫く商店街、旧日光街道を歩いてみます。
北のはずれに名倉医院と言うのがあります。創業1770年という名だたる接骨医でした。今全国に名倉とつく整形医、接骨医は250以上あるそうです。名倉は骨接ぎの代名詞でした。
地方からやってくる患者のための宿屋もあったという。 -
夏目漱石も子供のころ名倉の世話になったことがあるようです。
「道草」に、あるとき健三が縁側から庭に転げ落ちて腰を抜かした。親は驚いて彼を千住の名倉に連れて行った、ということが書かれています。
「道草」にはほぼ漱石の体験したことが描かれており、健三は漱石のことです。
子供のころ養子に出されていた漱石の住まいは内藤新宿に在りました。新宿から千住まで連れて行ったのです。いかに名倉が流行っていたかが窺がわれます。
建物と庭園も江戸時代のものだそうです。 -
北へ 旧日光道中。
右へ 旧水戸佐倉道。 -
板垣家。昭和初期。
街道沿いには古い建物が散見します。 -
横山家。
江戸時代後期。上野戦争で敗れた彰義隊の一員が切りつけた柱の傷跡があるという。 -
絵馬吉田屋。
-
吉田屋の絵馬。足立観光協会の資料より借用。
-
降ろされたシャッターには道中の絵が描かれています。
-
サンロード宿場通り商店街。
旧日光街道の北部の商店街の名前です。 -
千住街の駅。
観光案内所です。大正期に建てられた建物で、元は魚屋だったそうです。ここで地図を貰いました。 -
-
日本橋を起点とする5街道の最初の宿場を江戸四宿といい、千住宿は奥州道、日光道の最初の宿場でした。
他は板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州道)、品川宿(東海道)。 -
本陣があったところ。
江戸後期には四宿のうち最大となり、本陣、脇本陣、旅籠55軒を数え、参勤交代で千住宿を往来する大名は64だったという。
本陣があり旅籠があれば当然遊里があります。千住柳町の遊郭は昭和34年の売春禁止法施行まで存続していました。 -
旧街道を幾筋か入ったところにある勝専寺。
門が赤いので通称赤門寺。1260年開基。
木造千手観音立像は千住の地名の起源の一つとされます。1789年作の木造閻魔大王座像もあります。 -
勝専寺。
-
本堂。
-
旧日光街道のほぼ中間に一階に東武ストアが入るバカ高い建物があります。
-
その建物の植え込みに石碑があります。
-
森鷗外の父森静男が開業していた橘井堂(きっせいどう)医院があった所です。
津和野亀井藩の典医をしていた静男は明治5年、一家を上げて上京、向島の亀井家下屋敷に住まう。鴎外東京大学医学部で学ぶ。 -
明治12年、静男は南足立郡郡医になり千住に移り橘井堂医院を開業。
明治14年、東大を卒業した鴎外は陸軍軍医に任じられるまでの一時ここに住んで父の医院を手伝う。鴎外が生涯唯一開業医を経験した時です。 -
その時東京府士族森林太郎(鴎外の本名)が内務省に宛てた医術開業免状願上書とその許可書が残っています。
陸軍軍医に任官した鴎外はドイツ留学から帰国して結婚するまでの間にもここに住んでいます。
明治25年、鴎外が千駄木団子坂上に観潮楼を建てると静男もそこに移る。
明治29年、静男死去。61歳。 -
旧日光街道は南北に長いので商店街の名前も変わります。
千住本町商店街。 -
あだち産業芸術プラザ。この21階に東京芸術センター天空劇場があります。多目的劇場です。
-
ここで初めて気が付きました。ここは北区でなく足立区なんだと。赤羽は北区でした。
-
足立成和信用金庫の建物の角に立つ芭蕉像。
鹿沼杉材をチェーンソーだけで彫りだしたものだそうです。 -
-
源長寺。
旧日光街道が墨堤通りと交差する角にあります。
山門わきの大きな仁王像が睨みを利かしていました。 -
本堂。
-
「千住の酒合戦」
文化12年(1815年)、粋人が集まって酒合戦を開きました。谷文晁、酒井抱一、市河寛斎、亀田鵬斎などの文人墨客が集まったそうです。 -
その模様。
画面左、なみなみと注がれた大盃を飲んでおり、右では芸者が大盃に酒を注いでいます。 -
江戸時代から戦前までここ旧日光街道一帯は青物問屋が軒を連ね「やっちゃ場」と言われていました。神田、駒込と並び江戸の3大市場でした。
今の足立市場は魚類専門となっています。 -
昭和5年千住市場問屋配置図。
当時この街道の両側には主に青物問屋がずらりと並んでいました。 -
当時の標札があちこちに掲げられています。
-
-
千住宿歴史プチテラス。
-
小さなギャラリーで、誰かの個展を開いていました。
建物は江戸期の蔵だそうです。 -
ようやく千住大橋が見えてきました。
-
振り返ると京成本線千住大橋駅のガードです。
-
千住大橋の手前に千住奥の細道プチテラスがあります。
-
矢立初めの芭蕉像が建っています。
芭蕉像は千住大橋の北にも南にもあって、矢立の初め争いをしています。 -
鮎の子のしら魚送る別哉
一般に芭蕉矢立初めの句は「行く春や鳥啼き魚の目は泪」とされていますが、それは後に差し込まれたもので、実際は「鮎の子の・・・・」が初句ともいわれます。 -
-
その隣が東京都中央卸売市場足立市場です。
-
都内唯一の魚類専門卸売市場だそうです。
-
場内マップ。
-
橋のたもとに小さな大橋公園があります。
-
ここから芭蕉の奥の細道の旅が始まったのです。
-
芭蕉とは関係ありませんが、葛飾北斎の富岳三十六景の一つ、「従千住花街眺望ノ不二」の絵。
-
奥の細道行程。
1689年(元禄2年)。千住から下野、奥州、出羽、越後、加賀を経て岐阜大垣に至る150日、600里(2400キロ)に及ぶ旅でした。 -
いよいよ千住大橋です。
今回隅田川橋巡りで最初の橋です。大橋の名の通り貫禄があります。
通るのは国道4号線。昭和48年、4号線の交通量増加の為この旧橋に並行して新橋が造られました。 -
千住大橋。
初代架橋は1594年、徳川家康入府直後で、隅田川唯一の橋でした。
今のは昭和2年架橋。長さ91.6m。意外に短い橋でした。
「大橋」とのプレートが架かっていますが、当初は唯「大橋」と呼ばれていて、その後隅田川にほかの橋も架けられるようになって「千住大橋」となりました。 -
歌川広重「千住の大はし」。名所江戸百景より。1856年。
遠くに日光連山、隅田川には高瀬舟が浮かんでいる。 -
橋の下に降りてみました。テラスになっています。
-
手前は大橋に並行に掛かる水道管でしょうか。
橋の下に小さな橋があります。 -
千住大橋の下をくぐるせんじゅこばし/千住小橋です。
これにより千住大橋の上流側と下流側のテラスが繋がりました。
平成16年架橋、31m。 -
水道橋が邪魔です。
-
少し下流に常磐線の鉄橋があります。
-
テラスにはいろいろ絵や説明が書かれていました。
徳川将軍の御用船が接岸するところ。千住大橋とその上に船。葵のご紋の吹き流しがなびいています。 -
この絵の原本は与謝野蕪村です。
描かれているのは松尾芭蕉と河合曾良。 -
では橋を渡ります。
この辺りからふくらはぎが攣り始めました。 -
上に弓なりになる構造体、タイドアーチとしては日本最古だそうです。
-
千住大橋南詰め。
橋を渡ると荒川区になります。今日は北区、足立区、荒川区を歩いたことになります。 -
橋の袂に建つ八紘一宇(はっこういちう)の碑。
本来は「全世界を一つの家にすること」の意だが、実際には太平洋戦争で日本の中国、東南アジア侵略を正当化するスローガンとして使われました。
今時こんな軍国主義の亡霊のような碑を堂々とおったてている役所の神経が疑われます。歴史の一部ならどこかの博物館にでも放り込んどけば良い。
字は陸軍大将林銑十郎。昭和6年の満州事変拡大の張本人。 -
その隣に建つ説明版。
元禄二年三月二七日、深川の庵を出た芭蕉は船で隅田川を上り千住大橋の袂で降り、奥の細道の旅をスタートしました。
ところがそこが千住大橋の北岸か南岸かがはっきりしない。そこで北岸の足立区と南岸の荒川区が互いにそこは我が方だと本家争いをしているそうです。
ベームの推理です。遥かなる東北への旅立ちです。日光道の最初の宿、千住から発つには千住大橋を自分の足でしっかりと踏みしめて渡りたい、と思うのが人情でしょう。
したがって芭蕉が上陸したのは南岸だったと私は推理します。 -
しばらく南下すると素戔雄(すさのお)神社があります。
ちなみに「奥の細道」から拾い出すと:「千住といふ所にて船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。行く春や鳥啼き魚の目は泪 これを矢立の初めとして・・・」 -
平安時代、795年の創建と伝えられています。
南千住、三ノ輪、三河島、町屋の総鎮守。天王様とも呼ばれています。 -
七五三祝いの参拝者がちらほらで、氏子か町内会の人たちが世話をしていました。
-
子育ての大銀杏。
-
神楽殿。
-
-
社殿。
祭神は天照大御神の弟、素戔雄大神。 -
怖い顔した狛犬。
-
拝殿の前に碁盤が置いてあります。
-
七五三の時期だけ置いてあるようです。
-
手水舎。
地下140mから御神水をくみ上げているという。 -
傘みくじ。
-
綺麗です。初めて見ました。
-
境内社飛鳥社。
-
奥の細道矢立初めの句碑。
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」。
足立区も荒川区も芭蕉矢立の初めの奪い合いです。 -
さらに南に歩くと小塚原回向院に出ます。
-
1651年に作られた小塚原刑場の刑死者を弔うため、1766年本所回向院の別院として創設された。現在は独立して、豊国山回向院、通称小塚原回向院という。
-
入り口わきに建つ吉展地蔵尊。
昭和38年に起こった吉展ちゃん(当時4歳)誘拐殺人事件。亡くなった吉展ちゃんの供養のため建立された。
小塚原回向院は吉展ちゃんの家の菩提寺だそうです。 -
観臓祈念碑。
1771年、蘭学者杉田玄白、前野良沢らが刑死者の腑分け(解剖)に立ち会ったことを記念して1922年建てられた。 -
これを基に彼らがオランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳したのが「解体新書」です。
-
安政の大獄で刑死した吉田松陰、橋本佐内などのお墓が一画に纏まっています。
-
相馬大作。
1821年に起こった相馬大作事件の首謀者。参勤交代で帰国の途にあった津軽藩主暗殺未遂事件。
捕らえられた相馬大作はここで獄門の刑を受けた。 -
右:腕の喜三郎。
左:高橋お伝。
腕の喜三郎:江戸時代初期の侠客。旗本奴との喧嘩で片腕をなくし、こう呼ばれた。講談や歌舞伎でもてはやされた。 -
俗名高橋お伝。
明治9年、金の為古物商殺しの廉で明治12年市ヶ谷監獄で斬首刑。明治の毒婦と言われたが実際は相手に非があったとされる。
歌舞伎、講談などでもてはやされ、戯作者仮名垣魯文の「高橋阿伝夜叉譚」は大ヒットとなった。儲けた魯文は谷中墓地にも彼女の墓を作っている。 -
鼠小僧治郎吉。
江戸中期の盗賊。義賊と言われているが実際は盗んだ金で酒を飲み女を買い博打を打つ悪党だったそうです。小塚原で処刑。本所回向院にも墓があります。 -
頼三樹三郎。鴨崖は号。儒学者。1825~1859年。
幕末の攘夷派の志士。安政の大獄で捕らえられ伝馬町牢屋敷で処刑される。
頼山陽の三男。 -
橋本佐内。1834~1859年。福井藩士。
将軍継嗣問題に連座し、安政の大獄で伝馬町牢屋敷で斬首。 -
橋本佐内。
-
吉田松陰。1830~1859年。長州藩士。思想家、教育者。
明治維新で活躍した久坂玄端、高杉晋作など多くの志士を育てた。安政の大獄に連座し、伝馬町牢屋敷で斬首。 -
その一画。
突き当りが吉田松陰の墓。 -
-
JR南千住駅。
足が引きつりこれで本日は終わり。常磐線、上野東京ラインで帰宅。
次はいつになるか。 -
駅前に建つ芭蕉像。これも矢立を持つ姿です。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- pedaruさん 2021/10/27 06:02:25
- 隅田川橋巡り
- ベームさん おはようございます。
タイムラインにウェンディさんというトラベラーの10個近くのクチコミに挟まれて、かろうじて発見したベームさんの旅行記、見逃すところでした。
以前自転車で隅田川の橋を渡った時、あれ? さっき渡った覚えがあるぞ、という事がありましたが、千住大橋付近の蛇行した部分を渡ったものと思われます。
岩淵水門の成り立ち、役割、この歳になって初めて知りました。大変興味がありました。
川の付近には必ずどこでも水神様を祀っていますね、危険な時の神頼み、治水はやはり為政者に頼むのが近道ですね。
赤羽の飲み屋街、そのなかに小学校があるのですね、
>将来ののん兵衛予備軍として楽しみ。
門前の小僧習わぬ経を読む、朝な夕な少なからず影響があるかも知れません。笑わせてもらいました。
朝から客が並ぶ店、センベロ、活気がありますねー、しかも嬉しい昭和の佇まい。こんなのもいいですねー。
名倉はここ発祥なのですね、・・・回向院の政治犯の墓やいろいろな所の紹介、次が楽しみです、腰をお大事に、腰は要ですからね。
余談ですが、本所回向院の別院が市川にあり、pedaruはここに墓を買いました。
格安、超狭、ちなみに刑死の予定はありません(笑)。
pedaru
- ベームさん からの返信 2021/10/27 19:46:38
- Re: 隅田川橋巡り
- pedaruさん、
私の写真を見つけ出し、関心を持っていただき有難うございます。
東京の北部、馴染みのないところでしたが、歩いてみるといろいろ知ることがあり勉強になりました。ただ久しぶりの歩きでしたので疲れました。
横浜からですと東京往復もかなりの労力を使いますが(電車で座れないと特に疲れます)、何とかあと数回通って完成させたいと思っています。
タワシ治療の件、情報有難うございます。
ただし長年腰痛と付き合っていて、どうすればどうなる、というのは大体分かっていますのでこれからも今の調子で対処していこうと思っています。お礼申し上げます。
ベーム
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
161