2019/03/21 - 2019/03/24
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3日目。国会議事堂のツアーに参加しました。
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
英雄広場
Hősök tere
ブダペスト国立西洋美術館
Szépművészeti Múzeum
国会議事堂(ツアー)
Országház
ドナウ川遊歩道の靴
Cipők a Duna-parton
ルダシュ温泉
Rudas Gyógyfürdő és Uszoda
- 旅行の満足度
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
3日目、今日もこの広場から出発。ちなみに右手に見えるのは、王宮の丘の下を貫いて向こう側にいくトンネル。
ブダ城
Budavári Palotaクラーク アーダーム広場 広場・公園
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マーチャーシュ聖堂
Mátyás Templom -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
セーチェーニ鎖橋の名前の由来になった人物、セーチェーニ・イシュトヴァーン(Széchenyi István, 1791年9月21日 - 1860年4月8日)は、19世紀前半に活躍したハンガリーの自由主義貴族。政治家。
国立セーチェーニ図書館の生みの親として知られているセーチェーニ・フェレンツ伯の3男として生まれた。彼の家庭はハンガリー語が日常語ではなく、ドイツ語を使用していた。彼は、ナポレオン戦争にも参加している。一時は青年期に放蕩生活を続けるが、やがてハンガリーへの民族愛にかられ、ハンガリーの近代化に力を注ぐようになる。ハンガリー科学アカデミーの創設に理念、資金面で全面的に協力した。改革のモデルとしてイギリスを想定し、1830年に著した『信用』において、封建的諸制度の撤廃を含む改革案を示した。しかし、反ハプスブルクの立場にたちハンガリー独立を掲げるコシュート・ラヨシュら急進派とは見解は一致しなかった。1848年革命の際、一時的に樹立されたバッチャーニ・ラヨシュ率いる革命政府に入閣するが、革命側が劣勢になると発狂し、精神病となり辞職する。1860年に精神病が原因で自殺した。(Wikiより)セーチェニ イシュトヴァーン広場 広場・公園
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聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
ローマ・カトリック教会のバシリカ。
聖遺物箱に収められている右手のミイラの主、ハンガリー王国の初代国王イシュトヴァーン1世にちなんで名づけられた。
ハンガリー国会議事堂と並んで、ブダペストで最も高い建造物である。建物高96m、幅55m、奥行87.4m。 1851年に着工し、54年後の1905年に完成した。この遅滞の大半は、完成したにもかかわらず手がつけられないほど崩壊し、一から作り直すことになった1868年のドーム倒壊が起因している。建築様式は新古典主義様式であり、平面図はギリシャ十字を模している。正面には2つの大きな鐘楼がある。南の鐘楼にある鐘は重量9トン以上あり、ハンガリーで最も大きな鐘である。現在の物は2代目であり、初代の物はほぼ8トン近くあったが、第二次世界大戦の際鋳潰されて軍用に使われた。
観光客は、エレベーターまたは364段ある階段でドームに昇ることができ、ブダペスト街を360度見渡すことができる。(wikiより)
https://www.bazilika.biz/en -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
「イシュトヴァーン」の洗礼名は、聖ステファノからきており、キリスト教、最初の殉教者として崇敬されている。
ステファヌス(ラテン語)
ステファノス(ギリシャ語)
スティーヴン(英語)
エチエンヌ(フランス語)
シュテファン(ドイツ語・セルビア語)
エステーベ、エステバン(スペイン語)
ステファン、ステパン(ロシア語等スラヴ語圏)
イシュトヴァーン(ハンガリー語) -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
初めは観光客向けの民族衣装を着て、記念撮影を一緒に取る人達と思っていたら、違っていた。 -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika聖イシュトヴァーン大聖堂 寺院・教会
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聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
ミンツェンティ・ヨージェフ(Mindszenty József, 1892年3月29日 - 1975年5月6日) は、ハンガリーのカトリック教会の枢機卿。第二次世界大戦後の1945年10月から約28年間、エステルゴム大司教(ハンガリーの首都大司教)を務めた。教会の自由の一貫した擁護者であり、逮捕・投獄を経験しながらも共産主義やその迫害の反対者として知られた。 -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
ちなみにこれは聖遺物「聖なる右手」の写真。
1083年に列聖されたイシュトヴァーン1世の右手のミイラが、聖遺物として保管されている。遺体から失われていた右手がトランシルヴァニアで発見されてから各地を転々とし、1771年マリア・テレジアによってブダに戻されたものである。 -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
イシュトヴァーン1世(969年または975年 - 1038年8月15日)は、ハンガリー王国の初代国王。ハンガリーのキリスト教化に貢献し、カトリック教会では聖人として列聖されている。8月15日に亡くなり、その遺体はブダペストの西方にあるセーケシュフェヘールヴァールの大聖堂に埋葬されたが、右手が行方不明に。無傷で発見されてからは、トランシルバニアのBIHAR(ビハル)、ラグーザ(ダルマチア(現クロアチア)のドブロヴニク)、さらに、ウイーン(オーストリア、ハプスブルグ家)と所有者が変わるが、国家によって重宝された。1771年にマリアテレジアによって、ブダに戻された。1944年に西方へ持ち運ばれたが(戦時中の疎開?第2次世界大戦では、ハンガリーは枢軸国側。ソ連の侵攻直前)、1945年8月19日に戻ってきた。 -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
1930年代、上空からの写真。 -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika
1900年頃 -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
聖イシュトヴァーン大聖堂
Szent István Bazilika -
ハンガリー国立歌劇場
Magyar Állami Operaház
大聖堂から、アンドラーシ通りを通って、英雄広場まで歩くことにした。(ちょっと距離があるのと、交通量の多い通りで見どころも少ないので、あまりお勧めはしない。地下鉄を使った方がいいかも)ハンガリー国立歌劇場 (オペラ座) 劇場・ホール・ショー
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Drechsler-palota
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恐怖の館
Terror Háza
矢十字党政権時代のファシズムやハンガリー人民共和国時代の共産主義等の20世紀のハンガリーに関する展示をしており、またそれらの時代の犠牲者や抑留者、詰問された者等の記念碑の役割も兼ねている。ナチス・ドイツやソビエト連邦との関係、及びそれを受け入れたハンガリーについての展示がなされている。多くの情報や展示はハンガリー語でなされているが、大きな情報板は英語でも書かれている。また、英語とドイツ語のオーディオガイドがある。(wikiより)
ちょっと見学して内容を理解するには厳しそう。
https://www.terrorhaza.hu/en恐怖の館 博物館・美術館・ギャラリー
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恐怖の館
Terror Háza
HŐSÖK FALA 1956 -
恐怖の館
Terror Háza
ベルリンの壁がここに。 -
英雄広場
Hősök tere
アンドラーシ通りの突き当たり。ようやく到着。この広場の左側にはブダペスト西洋美術館が、右側にはブダペスト現代美術館が位置している。英雄広場 広場・公園
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英雄広場
Hősök tere
英雄広場の中央には聖イシュトヴァーンの王冠と大主教十字を握っているガブリエルを戴く柱がある。また、左右七つずつの像の建立場所があり、建設当初、九部族の英雄の像を右から作っていった。当時のハンガリーはオーストリア=ハンガリー帝国であったので、残りの五つの場所はハプスブルク朝の人々の像が建てられた。しかし、第二次世界大戦で像が被害を受けると、ハプスブルク朝の人々の像は現在の像に取って代られた。(wikiより) -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere
イシュトヴァーン1世 -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
英雄広場
Hősök tere -
ブダペスト国立西洋美術館
Szépművészeti Múzeum西洋美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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ブダペスト国立西洋美術館
Szépművészeti Múzeum
エジプト展もやっていたので立ち寄る。絵画展の方は別の旅行記で紹介できたらと思います。 -
美術館後、国会議事堂に移動。地下鉄1号線を利用。
1896年開業のユーラシア大陸初、ロンドン地下鉄に次ぐ史上2番目の地下鉄である。アンドラーシ通りの地下を走っており、現在はともに世界遺産に登録されている。デアーク・フェレンツ広場Deák Ferenc térで乗り換えて、Kossuth Lajos térまで移動。(2号線) -
結構深いところ走っている。
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国会議事堂
Országház国会議事堂 (ブダペスト) 現代・近代建築
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国会議事堂
Országház
II. Rákóczi Ferenc equestrian statue
ラーコーツィ・フェレンツ2世の騎馬像
ラーコーツィ・フェレンツ2世(1676年3月27日 - 1735年4月8日)は、ハンガリーの大貴族で、反ハプスブルク独立戦争の指導者。ハンガリー王国等族連盟の統治首長(1705-1711)、独立国家トランシルヴァニア公国の君主を務めた。ハンガリー王国では最も富裕な領主であり、1694年以後はシャーロシュ伯爵の称号を帯びた。金羊毛騎士団の騎士でもあった。現在、ハンガリーの国民的英雄とされている。(wikiより) -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház
ようやく見つけたここがツアーへの入り口。 -
国会議事堂
Országház
時間毎に予約が分かれているので、自分の時間になったら集合する。 -
国会議事堂
Országház
順路。最初にセキュリティーチェックがあります。 -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház
正面の大階段。豪華です。 -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház
聖イシュトバーンの王冠や、宝珠、宝剣がみることができますが、写真撮影禁止です。常に厳重に警備員により見張られています。12世紀以降、王冠はハンガリー王が代々受け継いできたもの(マーチャーシュ聖堂にあったものはこのレプリカ)。
この王冠は聖イシュトヴァーンの王冠の地(ハンガリー、クロアチア、リエカ周辺)からの持ち出しが禁じられている。ハンガリー王はこの冠を受けない限り、正式な戴冠を受けたと認められない。ハンガリー史上の50人以上の王がこの冠を受けてきた。この冠を受けなかったのはヤーノシュ・ジグモンドとヨーゼフ2世の2人のみである。聖イシュトヴァーンの王冠が聖冠(Szent Korona)と呼ばれるようになったのは1256年からである。14世紀頃から、王家の権力は単純に君主に象徴されるものではなくなり、明確で客観的な事物である冠が象徴としての役割を持つようになった。言い換えれば、ハンガリー王国は王を飾る王冠を求めるのではなく、王冠に合う王を求めるようになったといえる。これはヨーロッパでも珍しい状況である。(Wikiより) -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház
葉巻を置くところらしい。 -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház
そのまま、博物館みたいなところに繋がっている。 -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház
外に出てきました。 -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
Attila József Statue
József Attila-szobor
ん、でかい人が座っていると思ったら、銅像でした。
ヨージェフ・アティッラ (József Attila, 1905年4月11日 ? 1937年12月3日)は、ハンガリーの詩人。綴りからヨージェフ・アッティラとも表記される場合もあるが、Attila の実際の発音はアッティラではなく、アティッラである。なお、姓のヨージェフも普通に男性名として使われるため、ハンガリーでは彼の名前を姓だけでヨージェフと呼ぶことはなく、必ずヨージェフ・アティッラと姓名で呼ぶのが習わしである。
1905年にハンガリーのブダペストで生まれる。父はバナト地方のフェーレジハーズ村の出身で、石鹸工場の労働者、母はハンガリー大平原のサバドサーッラーシュ市生まれの農家出身であり、のちにブダペストで洗濯女になった。3歳で父が蒸発。14歳の時に母は死去。高校在学中、17歳で初の詩集『A szépség koldusa』を発表する。高校卒業後、南ハンガリーのセゲド市のフェレンツ・ヨージェフ大学に入学。1925年に2作目の詩集『Nem én kiáltok』を発表するが、一部の詩の内容から大学を除籍される。その後、ウィーンに行き、それから1926年から1927年までパリに滞在、ソルボンヌで学ぶ。フランス文学を耽読し、特にフランソワ・ヴィヨンの詩に惹かれ、ハンガリー語に翻訳した。また、ヘーゲルやマルクスを読み、影響を受ける。ハンガリーに帰国後、3作目の詩集『Nincsen apám se anyám』を発表した。1930年、ハンガリー共産党に入党するが、1934年に党を除籍される。文芸誌『Szép Szó』を旗揚げするが、いつしか精神疾患にかかり、病院で精神科医から治療を受ける。1936年に最後の詩集『Nagyon fáj』を発表。1937年、ハンガリーのバラトン湖近くの村バラトンサールソーで鉄道の線路上に飛び込み自殺。(wikiより) -
ドナウ川沿いを歩きます。
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対岸には、ブダ城。
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ドナウ川遊歩道の靴
Cipők a Duna-parton
必ず立ち寄ってほしい場所。ハイヒールや子供の靴も見られる、慰霊の鉄製の靴(モニュメント)が多数ドナウ川を向いて置かれています。
1944年、ハンガリーではナチス・ドイツの支援を受けた「矢十字党」という反ユダヤ・ファシストの政党が権力を握っており、ブダペストのユダヤ人を、暴行と虐殺によって恐怖のどん底に突き落とした。8000人近いユダヤ人がハンガリーを追い出され、収容所が待ち受けるオーストリアの国境まで、”死の行進”をさせられた。そのうち約2000人が、ドナウ川の堤防で無惨に射殺され、凍てつく川に流されていったのである。第二次世界大戦終結によって矢十字党は消滅したものの、次は共産党の秘密警察による恐怖支配が続く。ドナウ川遊歩道の靴 モニュメント・記念碑
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ドナウ川遊歩道の靴
Cipők a Duna-parton -
ドナウ川遊歩道の靴
Cipők a Duna-parton -
ドナウ川遊歩道の靴
Cipők a Duna-parton -
路面電車も走っている。
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Börze
この後に温泉に行くので早めに夕食を取ることに。喫茶店っぽい感じのレストランに入る。最初にビール。
http://borzeetterem.hu/en/ -
Börze
ハンガリーの料理って洗練されていて美味しい。 -
Börze
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Börze
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Börze
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セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd
今夜も鎖橋を渡ります。 -
マーチャーシュ聖堂
Mátyás Templom -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
国会議事堂
Országház
ドナウ川沿いの夜景は見ていて飽きない。 -
マーチャーシュ聖堂
Mátyás Templom -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
国会議事堂
Országház -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
アパートメントに戻った後、支度をして、昨晩、入ることができなかった温泉へ。路面電車を使い、南下します。
写真は自由橋。
Liberty Bridge
Szabadság híd -
ゲッレールト温泉
Gellért Gyógyfürdő és Uszodaゲッレールト温泉 温泉
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ルダシュ温泉
Rudas Gyógyfürdő és Uszodaルダシュ温泉 温泉
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ルダシュ温泉
Rudas Gyógyfürdő és Uszoda
入り口に立つ銅像。ここの温泉のお勧めは、最上階にあるドナウ川が一望できる露天風呂。ちなみに水着を付けて入ります。混浴です。景色はいいのですが、狭いので結構、混みます。あと、カップルが目の前でいちゃつきます。ルダシュ温泉 温泉
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セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd -
アパートメントに戻ってきました。
写真は今日までの晩酌用の缶ビール。
右端は、Soproni Démon 黒ラガー -
翌朝。4日目で最終日。今日は帰国日。アパートをチェックアウトして、近くで朝食を取れるところ、地下鉄の駅まで移動。移動距離的には、ドナウ川を渡れるぐらいは歩いてしまっている。
Calvinist Church 寺院・教会
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クレープ屋
Nagyi Palacsintázója -
クレープ屋
Nagyi Palacsintázójaナジ パラチンターゾーヤ 地元の料理
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クレープ屋
Nagyi Palacsintázója
2階があり、見晴らしの窓際の席を選ぶ。木々に遮られているがバッチャーニ公園(Batthyány tér)の向こうに、国会議事堂の真正面というロケーション。食パンが付いてくる。。。 -
クレープ屋
Nagyi Palacsintázója -
クレープ屋
Nagyi Palacsintázója -
川沿いを走る車道。
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ドナウ川ぞい。
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最後に一目目に焼き付けようと立ち寄る。国会議事堂。
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国会議事堂
Országház -
Felsővízivárosi Szent Anna templom
Budapest-Felsővízivárosi Szent Anna plébániatemplom
聖アンナ教会
バッチャーニ公園(Batthyány tér)に隣接する教会。聖アンナ教会 寺院・教会
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バッチャーニ広場駅 Batthyány tér
最後は昨日乗った地下鉄M2で、空港行きバスの出発地点、デアーク・フェレンツ広場まで移動。バッチャーニ広場 広場・公園
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