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写真は、墓碑の脇にある寿能城跡の説明文です。<br /><br />城趾探訪ということで大宮にある寿能城跡に行ってきました。場所は、さいたま市立大宮球場にあるテニスコートのそばで、現在は、本丸跡が寿能公園(児童公園?)になっていて堀(空堀)や土塁の類いは見当たりませんでした。<br /><br />現在は、住宅地に囲まれている寿能城跡ですが、築城当時は三方を沼地に囲まれていたとのことです。芝川を渡って高台から大宮球場方面をみると、全体像がおぼろげに見えてきます。そして、そういう目で見ると、さぞ堅固な城だったと想像できます。<br /><br />それと、近くに大和田陣屋跡があるというので行ってみましたが、現在は、「跡の碑」さえなく、単に大きな民家になっていました。(なかなか見つからず、地元の人に聞いて、やっと分かりました)<br /><br /><br />なお、この城は戦国時代に造られた城です。したがって、東に見沼代用水路西縁がありますが、この代用水路は江戸時代に出来たものですから、城の堀代わりではありません。<br /><br />それよりもっと東を流れている芝川が堀の役目を果たしていたかも知れません。もっとも、芝川は見沼沼地(見沼湿地)の中を流れる川であり、こちら方面は歩行が困難な広い沼地(湿地)であって、もともと堀はなかったのかも知れません。<br /><br /> 

寿能城趾探訪 

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2021/02/18 - 2021/02/18

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自炊おやじさん

写真は、墓碑の脇にある寿能城跡の説明文です。

城趾探訪ということで大宮にある寿能城跡に行ってきました。場所は、さいたま市立大宮球場にあるテニスコートのそばで、現在は、本丸跡が寿能公園(児童公園?)になっていて堀(空堀)や土塁の類いは見当たりませんでした。

現在は、住宅地に囲まれている寿能城跡ですが、築城当時は三方を沼地に囲まれていたとのことです。芝川を渡って高台から大宮球場方面をみると、全体像がおぼろげに見えてきます。そして、そういう目で見ると、さぞ堅固な城だったと想像できます。

それと、近くに大和田陣屋跡があるというので行ってみましたが、現在は、「跡の碑」さえなく、単に大きな民家になっていました。(なかなか見つからず、地元の人に聞いて、やっと分かりました)


なお、この城は戦国時代に造られた城です。したがって、東に見沼代用水路西縁がありますが、この代用水路は江戸時代に出来たものですから、城の堀代わりではありません。

それよりもっと東を流れている芝川が堀の役目を果たしていたかも知れません。もっとも、芝川は見沼沼地(見沼湿地)の中を流れる川であり、こちら方面は歩行が困難な広い沼地(湿地)であって、もともと堀はなかったのかも知れません。

 

  • 寿能城跡を示す道標です。公園の遊具はブランコのみかな。よく見てこなかった。<br /><br />奥の公園が城趾です。

    寿能城跡を示す道標です。公園の遊具はブランコのみかな。よく見てこなかった。

    奥の公園が城趾です。

  • 階段を上がった一段高いところが本丸跡かな。左奥の潮田資忠の墓碑が物見櫓の跡でしょう。旅行記の概要の写真(一番最初の写真)の説明文(墓碑の脇にある寿能城跡の説明文)には、そのように書いてありました。

    階段を上がった一段高いところが本丸跡かな。左奥の潮田資忠の墓碑が物見櫓の跡でしょう。旅行記の概要の写真(一番最初の写真)の説明文(墓碑の脇にある寿能城跡の説明文)には、そのように書いてありました。

  • 潮田資忠の墓碑と寿能城跡の説明の石版です。説明の石版は文字が風化して読めません。

    潮田資忠の墓碑と寿能城跡の説明の石版です。説明の石版は文字が風化して読めません。

  • 公園内には、たぶん、もうすでに桜が咲いています。たぶんというのは、この時期は梅の花と頭から決めつけていたので確認しませず、この写真を見てサクラと思いました。

    公園内には、たぶん、もうすでに桜が咲いています。たぶんというのは、この時期は梅の花と頭から決めつけていたので確認しませず、この写真を見てサクラと思いました。

  • 見沼代用水です。<br /><br />金網が景観を台無しにしています。しかし、安全のためにはしょうが無いのでしょう。

    見沼代用水です。

    金網が景観を台無しにしています。しかし、安全のためにはしょうが無いのでしょう。

  • 見沼代用水西縁に架かっている橋(潮田橋)の説明と寿能城の説明案内です。これを見ると東側に「出丸」があるようです。なお、墓碑の脇にある寿能城跡の説明文では、南東に「出丸がある。」となっています。説明文の位置が異なっているので方角が違うのでしょう。

    見沼代用水西縁に架かっている橋(潮田橋)の説明と寿能城の説明案内です。これを見ると東側に「出丸」があるようです。なお、墓碑の脇にある寿能城跡の説明文では、南東に「出丸がある。」となっています。説明文の位置が異なっているので方角が違うのでしょう。

  • 大宮二十景の案内板、全体の形からすると、ここが出丸跡のような気がします。

    大宮二十景の案内板、全体の形からすると、ここが出丸跡のような気がします。

  • 出丸の全体像かな。なにしろ何の案内もなく想像するだけです。

    出丸の全体像かな。なにしろ何の案内もなく想像するだけです。

  • 芝川を渡って大和田陣屋跡を探している時に見つけた小さな神社です。

    芝川を渡って大和田陣屋跡を探している時に見つけた小さな神社です。

  • 神社の裏手にある案内板に「明治時代初期までに真福寺という寺院があった。」とあります。<br />この案内板はかなり薄れて一部読めないところがあります。とりあえず読んでみました。<br /><br />真福寺跡の庚申塔<br />当地には明治時代初期までに真福寺という寺院があり、大和田の旧家の墓地が多く見られます。<br />道沿いにある庚申塔は高さ170cmと大きく、天保14年(1843)に地元の方々19人が合同で建てたも<br />ので、「北 はらいち一里 東 いわつき一里半 西 大○○(ミヤ?) 十八丁」と刻まれており、道しるべ<br />としての役割がありました。江戸時代の後半になると人々の行動範囲が広がっていったことを示<br />すものです。刻まれた方角から考えて、旧原市道と大宮・岩槻道との交差点付近にあったものと<br />推察されます。原市と岩槻は当時から商業地として栄えており、大宮の人々も日用品をはじめと<br />する品々を購入していました。この敷地内には合計3基の庚申塔がありますが、いずれも大きい<br />もので当地での庚申信仰が盛んであったことがわかるものです。また、秩父・西国・坂東観音霊場<br />記念碑も残されており、地域の信仰を知る上で貴重な資料となっています。<br /> 東は、第二産業道路を越え大和田駅へ、あるいは長屋門や屋敷林の風景を楽しみつつ蓮沼を経<br />て岩槻方面へ続き、西は、大和田陣屋跡・芝川・見沼代用水西縁を過ぎ、寿能城跡(寿能公園)、氷川神社方面へと結ばれています。

    神社の裏手にある案内板に「明治時代初期までに真福寺という寺院があった。」とあります。
    この案内板はかなり薄れて一部読めないところがあります。とりあえず読んでみました。

    真福寺跡の庚申塔
    当地には明治時代初期までに真福寺という寺院があり、大和田の旧家の墓地が多く見られます。
    道沿いにある庚申塔は高さ170cmと大きく、天保14年(1843)に地元の方々19人が合同で建てたも
    ので、「北 はらいち一里 東 いわつき一里半 西 大○○(ミヤ?) 十八丁」と刻まれており、道しるべ
    としての役割がありました。江戸時代の後半になると人々の行動範囲が広がっていったことを示
    すものです。刻まれた方角から考えて、旧原市道と大宮・岩槻道との交差点付近にあったものと
    推察されます。原市と岩槻は当時から商業地として栄えており、大宮の人々も日用品をはじめと
    する品々を購入していました。この敷地内には合計3基の庚申塔がありますが、いずれも大きい
    もので当地での庚申信仰が盛んであったことがわかるものです。また、秩父・西国・坂東観音霊場
    記念碑も残されており、地域の信仰を知る上で貴重な資料となっています。
     東は、第二産業道路を越え大和田駅へ、あるいは長屋門や屋敷林の風景を楽しみつつ蓮沼を経
    て岩槻方面へ続き、西は、大和田陣屋跡・芝川・見沼代用水西縁を過ぎ、寿能城跡(寿能公園)、氷川神社方面へと結ばれています。

  • 明治初期までお寺があったということは、廃仏毀釈運動で、この寺は廃寺となったのではないかと想像します。<br /><br />この神社の脇に名前は分かりませんが、仏教の神様が彫られた石の像(なんというのだろう)があります。そうすると、この真福寺は神仏習合の寺であったと想像します。<br /><br />それとも、寺の跡に神社を建てたが、石の像は神様なので破毀(破棄)が出来なかったのか。

    明治初期までお寺があったということは、廃仏毀釈運動で、この寺は廃寺となったのではないかと想像します。

    この神社の脇に名前は分かりませんが、仏教の神様が彫られた石の像(なんというのだろう)があります。そうすると、この真福寺は神仏習合の寺であったと想像します。

    それとも、寺の跡に神社を建てたが、石の像は神様なので破毀(破棄)が出来なかったのか。

  • 庚申塔です。「武州足立郡南部領大和田村」と書いてありますが、「大和田村」は南部藩の飛び地だったのだろうか。

    庚申塔です。「武州足立郡南部領大和田村」と書いてありますが、「大和田村」は南部藩の飛び地だったのだろうか。

  • 寺があった証(あかし)として、六地蔵が庚申塔の隣にありました。風化したのか、廃仏のせいなのか、顔がつぶれているものもありました。<br /><br />この後、大和田陣屋跡を探したのですが、googleの航空写真で「大和田陣屋跡」と思われるところを確認したところ民家しかありません。<br /><br />それで、地元の人に聞いたところ「民家が建っているところです。陣屋跡は更地にしました。遺構としては、はじに少し土塁があるだけ。」と言われました。もともとの土塁を知っている人は分かると思いますが、初めて見た私には、どこが土塁なのか、さっぱり分かりませんでした。<br />

    寺があった証(あかし)として、六地蔵が庚申塔の隣にありました。風化したのか、廃仏のせいなのか、顔がつぶれているものもありました。

    この後、大和田陣屋跡を探したのですが、googleの航空写真で「大和田陣屋跡」と思われるところを確認したところ民家しかありません。

    それで、地元の人に聞いたところ「民家が建っているところです。陣屋跡は更地にしました。遺構としては、はじに少し土塁があるだけ。」と言われました。もともとの土塁を知っている人は分かると思いますが、初めて見た私には、どこが土塁なのか、さっぱり分かりませんでした。

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