2020/11/09 - 2020/11/14
82位(同エリア116件中)
ちゃおさん
志度寺のあるさぬき市には、四国霊場八十八ケ寺の最後の霊場3ケ寺がまとまってある。長い道のりを歩いてきたお遍路さんも、ここまで来れば、残り3ケ寺、漸く先が見えてきたし、結願満願の確信も持てただろう。ここまでの苦労は報われつつあると。その最後の3つ目の最初のお寺、志度寺の駐車場のすぐ前は海だ。志度湾だ。
江戸時代、この海は志度浦と呼ばれ、この浜辺に面する集落で、高松藩下級武士の長男として生まれたのが平賀源内だ。江戸中頃の才人で、多種多芸に秀で、多方面で活躍していた。浜辺は今は埋め立てで姿を消しているが、幼少の頃の源内もこの浜辺で遊んでいたに違いない。海と湾とその先の半島、五剣山と八栗寺のある庵治半島は昔のままだ。子供の目には五剣山の異様な姿は、他との比較経験もないので、奇異には映らなかったに違いない。今日の頁は巡礼を離れて、少しこの源内について触れてみたい。
幼少の頃より才気煥発、元気な子供であったに違いない源内は、既に10代前半から本草学や儒学を学び、俳諧グループにも属していたという。二十歳で家督を継ぐが、24歳になって、志度寺住職の計らいで1年間長崎に留学することとなり、オランダ語、医学、絵画などを学ぶが、帰ってきた直後に家督を義弟(妹の連れ合い)に譲り、自身は大阪、京都、更には江戸に出て研鑽を深めた。
彼はその後、伊豆で鉱床を発見したり、秩父の山奥で鉱山開発に着手したり、最後は秋田まで出向いて、鉱山開発の指導もした。その間、老中田沼意次の知己を得たり、杉田玄白との交友を持ったが、最後は刃傷事件を起こし投獄され、52歳で獄死した。葬儀は杉田玄白らによって執り行われ、墓所として浅草橋場にある寺に葬られた。一方で、故郷の志度では義弟によって平賀家の菩提寺である自性院に遺骨はないが墓が建てられ、参墓とされた。自性院は志度寺の塔頭の一つで、山門の直ぐ前の寺である。自分も志度寺の参詣の後、当然ながら源内の墓にもお参りした。
彼は今でいう、かなりハチャメチャな生き方だった。異能の持ち主によくあることかも知れないが、玄白の追悼碑文「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」が彼の生涯を表している。「非常の人、非常を好み、行った。死すらも非常だった」との玄白からの碑文は、彼から見て、源内は全く並外れた才能の持ち主と映ったのかも知れない。事実彼はエレキテルの源内と言われていたように、科学技術鉱物に秀でていただけでなく、文芸、絵画にも秀でていて、人形浄瑠璃などの多くの作品も残し、戯作者としても名を馳せ、戯作の開祖とも言われている。長崎に2回も留学し、中国からの文物が豊富に移入された彼の地で、明末から清初にかけて流行りだした男女間の大胆な性表現、等々に啓発され、所謂江戸期の下世話物、戯作者の先駆けとなったものである。
生涯を通して独身で、当時としてはそれ程珍しくもなかった男色家で、有名歌舞伎役者との間も取り沙汰されていたが、著作としては「男色細見」、「菊の園」、「陰間茶屋」、「萎陰隠逸伝」などを著していた。玄白も「蘭学事始」の中で源内との対話篇を設けているが、確かに事業家だった頃の「天竺浪人」、貧乏人だった時の「貧家銭内」、浄瑠璃作家の「福内鬼外」、戯作者の「風来山人」等々、彼の豊富な才能の面目躍如の名前である。嘗て、江戸時代の日本にも、こうした才能豊かで、破天荒な日本人もいたのだ。刃傷沙汰も男色の結果とも言われていて、あたら豊かな才能を毀してしまった。様々な複雑な思いを持って、源内の墓を後にした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- レンタカー
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