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9月下旬、我が家の新聞に「世界が恋した彼女のすべて 写真展 オードリー・ヘプバーン」の折り込みチラシが入っていました。<br />おそらく、我々の年代では”「オードリー・ヘプバーン」「エリザベス・テイラー」の名前は知らない人はいないだろう”と思われるくらい、記憶に残っている有名な女優です。<br /><br />過去を思い出すと、1995年「イタリア周遊10日間」の旅行をした時、ベネティアの或る島で宿泊したホテルが偶然にも「ベネティア映画祭」のパーティ会場になっていました。<br />その時、ホテルのEVホールに、真赤なドレスを着ていた一人のオバサンが立っていました。よく見ると「エリザベス・テイラー」でした。まさか、数メートル離れて手が届くところに、スクリーンでしか見たことがない往年の大女優「エリザベス・テイラー」が立っているとは・・・。<br />その後、パーティ会場の扉が開いていたので中を覗いて見ました。会場では多くの男優&女優たちがひしめいていましたが、個々の名前はまったく判りませんでした。冷静に見ていたら、数名くらいの男優&女優の名前は知っていたと思いますが・・・。<br />翌朝、エリザベス・テイラーは、ホテルの船着場の船上から皆んに投げキッスをして去っていきました。<br /><br />それから数日後、ローマのホテルに2泊した時には、「オードリー・ヘプバーン」と「グレゴリー・ペック」が共演した映画「ローマの休日」のワン・シーン(スペイン広場&真実の口、等々)が頭に浮かんできました。<br />今では、25年前の懐かしい良き思い出となっています。<br /><br />コロナウイルス感染防止のためには、まだまだ「3密」を避けなければいけない時期ですが、「オードリー・ヘプバーン 」の魅力に負けて、「写真展」に出かけることにしました。

「オードリー・ヘプバーン(AUDREY HEPBURN)写真展」を見て、「人間・オードリー」としての素晴らしさを再認識する。(2020)

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2020/10/06 - 2020/10/06

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hy-2217

hy-2217さん

9月下旬、我が家の新聞に「世界が恋した彼女のすべて 写真展 オードリー・ヘプバーン」の折り込みチラシが入っていました。
おそらく、我々の年代では”「オードリー・ヘプバーン」「エリザベス・テイラー」の名前は知らない人はいないだろう”と思われるくらい、記憶に残っている有名な女優です。

過去を思い出すと、1995年「イタリア周遊10日間」の旅行をした時、ベネティアの或る島で宿泊したホテルが偶然にも「ベネティア映画祭」のパーティ会場になっていました。
その時、ホテルのEVホールに、真赤なドレスを着ていた一人のオバサンが立っていました。よく見ると「エリザベス・テイラー」でした。まさか、数メートル離れて手が届くところに、スクリーンでしか見たことがない往年の大女優「エリザベス・テイラー」が立っているとは・・・。
その後、パーティ会場の扉が開いていたので中を覗いて見ました。会場では多くの男優&女優たちがひしめいていましたが、個々の名前はまったく判りませんでした。冷静に見ていたら、数名くらいの男優&女優の名前は知っていたと思いますが・・・。
翌朝、エリザベス・テイラーは、ホテルの船着場の船上から皆んに投げキッスをして去っていきました。

それから数日後、ローマのホテルに2泊した時には、「オードリー・ヘプバーン」と「グレゴリー・ペック」が共演した映画「ローマの休日」のワン・シーン(スペイン広場&真実の口、等々)が頭に浮かんできました。
今では、25年前の懐かしい良き思い出となっています。

コロナウイルス感染防止のためには、まだまだ「3密」を避けなければいけない時期ですが、「オードリー・ヘプバーン 」の魅力に負けて、「写真展」に出かけることにしました。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 写真は、我が家の新聞に入っていた「世界が恋した彼女のすべて 写真展 オードリー・ヘプバーン」のチラシです。<br /><br />チラシを読むと・・・。<br />開催日:10月1日(木)~12日(月)<br />場所:高槻阪急 4階 催場<br />「いきいきと輝くオードリーの若き日の姿が、写真とともに今、よみがえります。」<br />☆約150点の写真作品を一挙公開<br />20世紀を代表する女優、オードリー・ヘプバーン(1929~1993年)。<br />〈妖精にたとえられる可憐にして、華麗なその姿は、未だ多くの人たちを魅了してやみません。屋身で大きな瞳と長い脚はそれまでの女優のイメージを一新し、映画での活躍だけでなく、同世代のファッションアイコンとして名を馳せました。本展は、ファッション・映画・プライベートの3部で構成され、若き日のオードリーを数多く撮ったといわれる写真家マーク・ショウなどの作品を中心にご紹介いたします。

    写真は、我が家の新聞に入っていた「世界が恋した彼女のすべて 写真展 オードリー・ヘプバーン」のチラシです。

    チラシを読むと・・・。
    開催日:10月1日(木)~12日(月)
    場所:高槻阪急 4階 催場
    「いきいきと輝くオードリーの若き日の姿が、写真とともに今、よみがえります。」
    ☆約150点の写真作品を一挙公開
    20世紀を代表する女優、オードリー・ヘプバーン(1929~1993年)。
    〈妖精にたとえられる可憐にして、華麗なその姿は、未だ多くの人たちを魅了してやみません。屋身で大きな瞳と長い脚はそれまでの女優のイメージを一新し、映画での活躍だけでなく、同世代のファッションアイコンとして名を馳せました。本展は、ファッション・映画・プライベートの3部で構成され、若き日のオードリーを数多く撮ったといわれる写真家マーク・ショウなどの作品を中心にご紹介いたします。

  • 写真は、「写真展」入り口の壁面に飾られていた「写真展のポスター」です。<br /><br />※「写真展」入り口机の上にあった「パンフレット(表紙)」と同じもの。

    写真は、「写真展」入り口の壁面に飾られていた「写真展のポスター」です。

    ※「写真展」入り口机の上にあった「パンフレット(表紙)」と同じもの。

  • 写真は、「写真展」入り口机の上にあった「パンフレット(裏表紙)」です。<br /><br />「写真展」で展示されている写真3枚と「オリジナル・グッズ(ORIGINAL GOODS)」が掲載されています。

    写真は、「写真展」入り口机の上にあった「パンフレット(裏表紙)」です。

    「写真展」で展示されている写真3枚と「オリジナル・グッズ(ORIGINAL GOODS)」が掲載されています。

  • 「オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)」について、知っているようで知らなかったので、いろいろと勉強しました。<br /><br />【オードリー・ヘプバーンについて】<br /><br />☆生年月日:1929年5月4日(ベルギー・ブリュッセル生まれ)<br />☆没年月日:1993年1月20日(スイスで63歳没)<br />☆貿易商の父とオランダ貴族出身の母の下に生まれ、5歳の時に戦争のためイギリスに渡り、ロンドン郊外の寄宿学校に通った。<br />☆両親が離婚したのをきっかけに、オランダに移住し、バレエのレッスンを始めた。<br />☆1948年、母親とともに再びイギリスに行き、ロンドンでバレエ学校に入学し、同年のミュージカルでコーラス・ガールとしてステージ・デビューを果たした。<br />☆イギリスで数本(7本)の映画に出演した後に、51年にブロードウェイ舞台作品「ジジ」で主役に抜擢された。その舞台を見たウィリアム・ワイラーにより「ローマの休日(1953年公開)」の主役に選ばれる。<br />☆映画では「ローマの休日(1953年公開)」で「アカデミー賞主演女優賞」を獲得した。その後も「麗しのサブリナ(1954年公開)」「尼僧物語(1959年公開)」「ティファニーで朝食を(1961年公開)」「シャレード(1963年公開)」「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」「暗くなるまで待って(1967年公開)」などの人気作、話題作に出演している。<br />☆女優としてのヘプバーンは映画作品では、「アカデミー賞」の他に、「ゴールデン・グローブ賞」「英国アカデミー賞」を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である「オンディーヌ」で「トニー賞」を受賞している。さらにヘプバーンは死後に「グラミー賞」「エミー賞」も受賞しており、「アカデミー賞」」「エミー賞」「グラミー賞」「トニー賞」の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。<br />☆国籍はイギリスですが、ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびに、ファッション界のアイコンとしても注目された。<br />☆アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている<br />(AFIのランキング・リスト・・・参考までに)<br />(女性部門)1位:キャサリン・ヘプバーン、2位:ベティ・デイヴィス、3位:オードリー・ヘプバーン、4位:イングリツド・バーグマン、5位:グレタ・ガルボ、6位:マリリン・モンロー、7位:エリザベス・テイラー、8位:ジュディ・ガーランド、9位:マレーネ・ディートリヒ、10位:ジョーン・クロフォード<br />(男性部門)1位:ハンフリー・ボガート、2位:ケーリー・グラント、3位:ジェームズ・スチュアート、4位:マーロン・ブランド、5位:フレッド・アステア、6位:ヘンリー・フォンダ、7位:クラーク・ゲーブル、8位:ジェームズ・キャグニー、9位:スペンサー・トレイシー、10位:チャーリー・チャップリン<br />☆私生活・・・1回目の結婚(1954年~1968年)ではメル・ファーラーとの間に息子(ショーン)が生まれ、2回目の結婚(1969年~1982年)ではアンドレア・ドッティとの間に息子(ルカ)が生まれた。<br />☆1970年以降、ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を「交際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。<br />ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である「大統領自由勲章」を授与された。<br />「大統領自由勲章」受勲一ケ月後の1993年に、スイスの自宅で「虫垂癌」のために63歳で死去した。<br />(参照:ウィキペディア&映画.com、写真は「1956年のヘプバーン」)

    「オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)」について、知っているようで知らなかったので、いろいろと勉強しました。

    【オードリー・ヘプバーンについて】

    ☆生年月日:1929年5月4日(ベルギー・ブリュッセル生まれ)
    ☆没年月日:1993年1月20日(スイスで63歳没)
    ☆貿易商の父とオランダ貴族出身の母の下に生まれ、5歳の時に戦争のためイギリスに渡り、ロンドン郊外の寄宿学校に通った。
    ☆両親が離婚したのをきっかけに、オランダに移住し、バレエのレッスンを始めた。
    ☆1948年、母親とともに再びイギリスに行き、ロンドンでバレエ学校に入学し、同年のミュージカルでコーラス・ガールとしてステージ・デビューを果たした。
    ☆イギリスで数本(7本)の映画に出演した後に、51年にブロードウェイ舞台作品「ジジ」で主役に抜擢された。その舞台を見たウィリアム・ワイラーにより「ローマの休日(1953年公開)」の主役に選ばれる。
    ☆映画では「ローマの休日(1953年公開)」で「アカデミー賞主演女優賞」を獲得した。その後も「麗しのサブリナ(1954年公開)」「尼僧物語(1959年公開)」「ティファニーで朝食を(1961年公開)」「シャレード(1963年公開)」「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」「暗くなるまで待って(1967年公開)」などの人気作、話題作に出演している。
    ☆女優としてのヘプバーンは映画作品では、「アカデミー賞」の他に、「ゴールデン・グローブ賞」「英国アカデミー賞」を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である「オンディーヌ」で「トニー賞」を受賞している。さらにヘプバーンは死後に「グラミー賞」「エミー賞」も受賞しており、「アカデミー賞」」「エミー賞」「グラミー賞」「トニー賞」の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。
    ☆国籍はイギリスですが、ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびに、ファッション界のアイコンとしても注目された。
    ☆アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている
    (AFIのランキング・リスト・・・参考までに)
    (女性部門)1位:キャサリン・ヘプバーン、2位:ベティ・デイヴィス、3位:オードリー・ヘプバーン、4位:イングリツド・バーグマン、5位:グレタ・ガルボ、6位:マリリン・モンロー、7位:エリザベス・テイラー、8位:ジュディ・ガーランド、9位:マレーネ・ディートリヒ、10位:ジョーン・クロフォード
    (男性部門)1位:ハンフリー・ボガート、2位:ケーリー・グラント、3位:ジェームズ・スチュアート、4位:マーロン・ブランド、5位:フレッド・アステア、6位:ヘンリー・フォンダ、7位:クラーク・ゲーブル、8位:ジェームズ・キャグニー、9位:スペンサー・トレイシー、10位:チャーリー・チャップリン
    ☆私生活・・・1回目の結婚(1954年~1968年)ではメル・ファーラーとの間に息子(ショーン)が生まれ、2回目の結婚(1969年~1982年)ではアンドレア・ドッティとの間に息子(ルカ)が生まれた。
    ☆1970年以降、ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を「交際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。
    ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である「大統領自由勲章」を授与された。
    「大統領自由勲章」受勲一ケ月後の1993年に、スイスの自宅で「虫垂癌」のために63歳で死去した。
    (参照:ウィキペディア&映画.com、写真は「1956年のヘプバーン」)

  • 「写真展」会場のイメージです。<br /><br />『「写真展」会場入り口付近の壁に掲載されていた説明文』<br /><br />〈Visions of Audrey・・・永遠のオードリー・ヘプバーン〉<br />「ローマの休日(1953年)」で高貴さと庶民的な愛らしさの両方を演じ、世界中の人々の心をつかんだオードリー・ヘプバーン。大きな瞳と天真爛漫な笑顔、優雅なふるまい、生まれつきの上品さをもった、唯一無二のスターの誕生は映画界のビッグ・ニュースだった。<br />女性たちが夢中になったのは、アン王女が纏った美しいドレス”ローブ・デコルテ”以上に、ショートヘアにホワイトシャツ、フレアスカート、スカーフの、ローマの町での姿。シンプルで着心地がよく、機能性の高い日常着はオードリーがプライベートでも好んだコーディネートでもある。<br />例えば、紳士用の真っ白なボタンダウンシャツを着るだけで、このうえなくエレガントに見えるのは、彼女の天性の気品からだろう。フリルやリボン、豪華なジュエリーは彼女の魅力を引き立てるためには必要なかった。そのことに誰よりも早くから気が付いてついていたのはオードリー自身だった。ファッションアイコンとして不動の地位を確立したのは、自分に似合うスタイルを誰よりも熟知していたからだ。

    「写真展」会場のイメージです。

    『「写真展」会場入り口付近の壁に掲載されていた説明文』

    〈Visions of Audrey・・・永遠のオードリー・ヘプバーン〉
    「ローマの休日(1953年)」で高貴さと庶民的な愛らしさの両方を演じ、世界中の人々の心をつかんだオードリー・ヘプバーン。大きな瞳と天真爛漫な笑顔、優雅なふるまい、生まれつきの上品さをもった、唯一無二のスターの誕生は映画界のビッグ・ニュースだった。
    女性たちが夢中になったのは、アン王女が纏った美しいドレス”ローブ・デコルテ”以上に、ショートヘアにホワイトシャツ、フレアスカート、スカーフの、ローマの町での姿。シンプルで着心地がよく、機能性の高い日常着はオードリーがプライベートでも好んだコーディネートでもある。
    例えば、紳士用の真っ白なボタンダウンシャツを着るだけで、このうえなくエレガントに見えるのは、彼女の天性の気品からだろう。フリルやリボン、豪華なジュエリーは彼女の魅力を引き立てるためには必要なかった。そのことに誰よりも早くから気が付いてついていたのはオードリー自身だった。ファッションアイコンとして不動の地位を確立したのは、自分に似合うスタイルを誰よりも熟知していたからだ。

  • 「写真展」会場のイメージです。

    「写真展」会場のイメージです。

  • 「写真展」会場のイメージです。

    「写真展」会場のイメージです。

  • 「写真展」会場のイメージです。<br /><br />『「写真展」後半の壁に掲載されていた説明文』<br /><br />〈何よりも大切にした家族と共に過ごす時間〉<br />ハリウッドでの生活で憔悴した体を癒してくれたのが、自然豊かなスイスの家での生活。オードリーは献身的な妻であり、愛情深い母親として、家族と過ごすことを何よりも大切にした。<br />息子の「ショーン」と「ルカ」が産まれてからは、女優として絶頂期だったにもかかわらず、多くの作品のオファーを断り、子供たちと一緒にいることを選んだ。幼い頃、両親が離婚し、父と会えずに寂しい思いをしたことも影響しているのだろう。<br />料理やガーデニング、読書、朝市での買い物、散歩、限られた親しい友人との食事・・・。自然や動物を愛し、愛犬や「緑の館」で共演した小鹿と一緒の写真も数多く残っている。<br />「田舎に庭と果樹がある家を持つのが夢だったの。これほど心穏やかに過ごせる場所は世界中どこを探しても見つからないでしょう。飾らず、自分らしくいられるのはスイスの田舎で暮らしているおかげです」とオードリーが話すように、ここでの時間は彼女にとって、何にも代えがたい幸福なひとときだった。

    「写真展」会場のイメージです。

    『「写真展」後半の壁に掲載されていた説明文』

    〈何よりも大切にした家族と共に過ごす時間〉
    ハリウッドでの生活で憔悴した体を癒してくれたのが、自然豊かなスイスの家での生活。オードリーは献身的な妻であり、愛情深い母親として、家族と過ごすことを何よりも大切にした。
    息子の「ショーン」と「ルカ」が産まれてからは、女優として絶頂期だったにもかかわらず、多くの作品のオファーを断り、子供たちと一緒にいることを選んだ。幼い頃、両親が離婚し、父と会えずに寂しい思いをしたことも影響しているのだろう。
    料理やガーデニング、読書、朝市での買い物、散歩、限られた親しい友人との食事・・・。自然や動物を愛し、愛犬や「緑の館」で共演した小鹿と一緒の写真も数多く残っている。
    「田舎に庭と果樹がある家を持つのが夢だったの。これほど心穏やかに過ごせる場所は世界中どこを探しても見つからないでしょう。飾らず、自分らしくいられるのはスイスの田舎で暮らしているおかげです」とオードリーが話すように、ここでの時間は彼女にとって、何にも代えがたい幸福なひとときだった。

  • 「写真展」は基本的に撮影禁止であったため、各方面から「オードリー・ヘプバーン」に関するいろいろな写真をかき集めました。集めた写真とエピソード等を添えて、公開年が古い映画から整理してみました。<br />※写真の中には、「写真展」に展示されていた写真もあれば、無かった写真もあります。<br /><br />「ローマの休日(Roman Holiday:1953年公開)」<br /><br />〈裏ばなし〉<br />「ローマの休日」の王女役のテスト時、ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上ったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社は王女役にヘプバーンを決定した。<br /><br />※写真は、「ローマの休日」の衣装テスト時のヘプバーン(1952年)。<br />この写真は、映画の宣伝素材としても使用された。<br />(参照:ウィキペディア)

    「写真展」は基本的に撮影禁止であったため、各方面から「オードリー・ヘプバーン」に関するいろいろな写真をかき集めました。集めた写真とエピソード等を添えて、公開年が古い映画から整理してみました。
    ※写真の中には、「写真展」に展示されていた写真もあれば、無かった写真もあります。

    「ローマの休日(Roman Holiday:1953年公開)」

    〈裏ばなし〉
    「ローマの休日」の王女役のテスト時、ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上ったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社は王女役にヘプバーンを決定した。

    ※写真は、「ローマの休日」の衣装テスト時のヘプバーン(1952年)。
    この写真は、映画の宣伝素材としても使用された。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「ローマの休日(Roman Holiday:1953年公開)」<br /><br />配役:アン王女<br />☆アカデミー賞 最優秀主演女優賞受賞<br />☆英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞<br />☆ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞(ドラマ部門)<br />☆ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞<br /><br />〈映画の裏ばなし①〉<br />1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画「ローマの休日」で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。「ローマの休日」はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。<br />「ローマの休日」の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。後に、ウイリアム・ワイラーは”彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ”と振り返っている。<br /><br />〈映画の裏ばなし②〉<br />製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定であった。しかし、ペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求した。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは”後で恥をかくよ。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ”と主張した。<br />ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックと同じ主演として表示することになった。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。<br />(参照:ウィキペディア)

    「ローマの休日(Roman Holiday:1953年公開)」

    配役:アン王女
    ☆アカデミー賞 最優秀主演女優賞受賞
    ☆英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞
    ☆ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞(ドラマ部門)
    ☆ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞

    〈映画の裏ばなし①〉
    1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画「ローマの休日」で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。「ローマの休日」はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。
    「ローマの休日」の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。後に、ウイリアム・ワイラーは”彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ”と振り返っている。

    〈映画の裏ばなし②〉
    製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定であった。しかし、ペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求した。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは”後で恥をかくよ。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ”と主張した。
    ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックと同じ主演として表示することになった。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「ローマの休日」<br /><br />※「映画スターベスト100」に掲載されていた「オードリー・ヘプバーン」。<br />(参照:ウィキペディア)

    「ローマの休日」

    ※「映画スターベスト100」に掲載されていた「オードリー・ヘプバーン」。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「ローマの休日」<br /><br />(参照:SCREEN ONLINE)<br />

    「ローマの休日」

    (参照:SCREEN ONLINE)

  • 「ローマの休日」<br /><br />ローマ市内をベスパ(イタリア製のスクーターの製品名)で走るシーン。<br />(参照:ウィキペディア)<br />私の頭の中には、映画でのシーンが数10年経った今でも浮かんできますね。

    「ローマの休日」

    ローマ市内をベスパ(イタリア製のスクーターの製品名)で走るシーン。
    (参照:ウィキペディア)
    私の頭の中には、映画でのシーンが数10年経った今でも浮かんできますね。

  • 「ローマの休日」<br /><br />「スペイン広場」でのシーン。(参照:ウィキペディア)<br /><br />

    「ローマの休日」

    「スペイン広場」でのシーン。(参照:ウィキペディア)

  • 「ローマの休日<br /><br />「スペイン広場」での「偶然の再会」を装って2人(アン王女&新聞記者ジョー・ブラッドレー)が語り合うシーン。<br /><br />※ヘプバーンは「ローマの休日」出演での最大の宝物は、ウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている。<br />(参照:ウィキペディア)

    「ローマの休日

    「スペイン広場」での「偶然の再会」を装って2人(アン王女&新聞記者ジョー・ブラッドレー)が語り合うシーン。

    ※ヘプバーンは「ローマの休日」出演での最大の宝物は、ウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />「ローマの休日」で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の「麗しのサブリナ」に出演しました。<br />この作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語です。<br /><br />☆英国アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞<br /><br />※写真は、ウィリアム・ホールデンと共演した「麗しのサブリナ」のワンシーン。<br />(参照:ウィキペディア)

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    「ローマの休日」で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の「麗しのサブリナ」に出演しました。
    この作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語です。

    ☆英国アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞

    ※写真は、ウィリアム・ホールデンと共演した「麗しのサブリナ」のワンシーン。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />ヘプバーンのイメージを作り上げたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、映画「麗しのサブリナ」からであった。<br /><br />〈ヘプバーンとジバンシィとの出会い〉<br />パラマウウントの関係者から”ヘプバーンという女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探している”と言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた。そのため、オードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、”秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はない。すでにある服を試して衣装としてふさわしいなら何とかなるかもしれません”と答えた。<br />ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選び出し、パリ・コレクションの一流モデルな合わせて作られたドレスを着こなしてみせた。<br />その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。<br />後年、ジバンシィはヘプバーンから”あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ”と言われて感激したと話している。

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    ヘプバーンのイメージを作り上げたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、映画「麗しのサブリナ」からであった。

    〈ヘプバーンとジバンシィとの出会い〉
    パラマウウントの関係者から”ヘプバーンという女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探している”と言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた。そのため、オードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、”秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はない。すでにある服を試して衣装としてふさわしいなら何とかなるかもしれません”と答えた。
    ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選び出し、パリ・コレクションの一流モデルな合わせて作られたドレスを着こなしてみせた。
    その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。
    後年、ジバンシィはヘプバーンから”あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ”と言われて感激したと話している。

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />(参照:写真展のパンフレット)<br /><br />

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    (参照:写真展のパンフレット)

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />黒のドレスで横たわるヘプバーン。<br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    黒のドレスで横たわるヘプバーン。
    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)<br />

    「麗しのサブリナ(1954年公開)」

    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「戦争と平和(1956年公開)」<br /><br />ヘンリー・フォンダや夫メル・ファーラーと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした、1955年撮影の3時間28分の超大作。<br />(参照:ウィキペディア)

    「戦争と平和(1956年公開)」

    ヘンリー・フォンダや夫メル・ファーラーと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした、1955年撮影の3時間28分の超大作。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「戦争と平和(1956年公開)」<br /><br />映画撮影中のヘプバーン&夫メル・ファーラー。<br />(参照:ウィキペディア)

    「戦争と平和(1956年公開)」

    映画撮影中のヘプバーン&夫メル・ファーラー。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「パリの恋人(1957年公開)」<br /><br />バレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画。<br />ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役のフレッド・アステア演じるファッションカメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「パリの恋人(1957年公開)」

    バレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画。
    ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役のフレッド・アステア演じるファッションカメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「パリの恋人(1957年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「パリの恋人(1957年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「パリの恋人(1957年公開)」<br /><br />(参照:オードリー・ヘプバーン-映画.com)<br />

    「パリの恋人(1957年公開)」

    (参照:オードリー・ヘプバーン-映画.com)

  • 「パリの恋人(1957年公開)」<br />

    「パリの恋人(1957年公開)」

  • 「昼下がりの情事(1957年公開)」<br /><br />ゲイリー・クーパー、モーリス・シュヴァリエと共演。<br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

    「昼下がりの情事(1957年公開)」

    ゲイリー・クーパー、モーリス・シュヴァリエと共演。
    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「昼下がりの情事(1957年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「昼下がりの情事(1957年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「尼僧物語(1959年公開)」<br /><br />ピーター・フィンチと共演。<br />映画では心の葛藤に苦しむ修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした。<br /><br />☆英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞<br />☆サン・セバスティアン映画祭女優賞受賞<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

    「尼僧物語(1959年公開)」

    ピーター・フィンチと共演。
    映画では心の葛藤に苦しむ修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした。

    ☆英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞
    ☆サン・セバスティアン映画祭女優賞受賞
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

  • 「緑の館(1959年公開)」<br /><br />ヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人・アネラと恋に落ちる。密林で暮らす妖精のような少女・リーマを演じた。<br /><br />※写真は、ヘプバーンとアンソニー・パーキンス<br />(参照:ウィキペディア)

    「緑の館(1959年公開)」

    ヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人・アネラと恋に落ちる。密林で暮らす妖精のような少女・リーマを演じた。

    ※写真は、ヘプバーンとアンソニー・パーキンス
    (参照:ウィキペディア)

  • 「緑の館(1959年公開)」<br /><br />オードリーと小鹿のピピン<br />〈映画の裏ばなし〉<br />映画でベネズエラ人の密林に住む女性を演じたオードリーは、共演する小鹿のピピンと関係を築くために、アニアマル・トレーナーから一緒に時間を過ごすことを勧められたらしい。<br />オードリーはピピンをペットとして迎い入れ、ミルクをあげたり、一緒に寝たり、時にはパーティに連れていったりと行動を共にしたそうである。<br />あまりにも仲良くなったことで、ピピンはオードリーを母鹿だと思っていたとも言われている。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「緑の館(1959年公開)」

    オードリーと小鹿のピピン
    〈映画の裏ばなし〉
    映画でベネズエラ人の密林に住む女性を演じたオードリーは、共演する小鹿のピピンと関係を築くために、アニアマル・トレーナーから一緒に時間を過ごすことを勧められたらしい。
    オードリーはピピンをペットとして迎い入れ、ミルクをあげたり、一緒に寝たり、時にはパーティに連れていったりと行動を共にしたそうである。
    あまりにも仲良くなったことで、ピピンはオードリーを母鹿だと思っていたとも言われている。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「ティファニーで朝食を(1961年公開)」<br /><br />※写真は、「ティファニーで朝食を」のオープニング・シーン。<br />〈撮影の裏ばなし〉<br />この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。<br />カポーティは失望し、主役のホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも”ひどいヒスキャストだ”と公言した。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。<br />しかし、映画のヘプバーンは高く評価され、ホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く、清純派であったヘプバーンが清純でないホリー役を演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。<br />映画の冒頭シーンで、ハプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスは、20世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく、”史上最も有名なドレス”と言われている。<br />(参照:ウィキペディア)

    「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

    ※写真は、「ティファニーで朝食を」のオープニング・シーン。
    〈撮影の裏ばなし〉
    この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。
    カポーティは失望し、主役のホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも”ひどいヒスキャストだ”と公言した。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。
    しかし、映画のヘプバーンは高く評価され、ホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く、清純派であったヘプバーンが清純でないホリー役を演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。
    映画の冒頭シーンで、ハプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスは、20世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく、”史上最も有名なドレス”と言われている。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「ティファニーで朝食を(1961年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)<br />

    「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「ティファニーで朝食を(1961年公開)」<br /><br />サングラスをかけたヘプバーン。<br />(参照:ウィキペディア)

    「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

    サングラスをかけたヘプバーン。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「ティファニーで朝食を(1961年公開)」<br /><br />(参照:オードリー・ヘプバーン-映画.com)

    「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

    (参照:オードリー・ヘプバーン-映画.com)

  • 「噂の二人(1961年公開)」<br /><br />シャーリ・マクレーン、ジェムズ・ガーナーと共演。<br />レズビアンをテーマにした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルになっていくという物語。<br />レズビアンを取り上げた作品としては、ハリウッドで最初の映画のひとつだと言われている。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

    「噂の二人(1961年公開)」

    シャーリ・マクレーン、ジェムズ・ガーナーと共演。
    レズビアンをテーマにした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルになっていくという物語。
    レズビアンを取り上げた作品としては、ハリウッドで最初の映画のひとつだと言われている。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

  • 「噂の二人(1961年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「噂の二人(1961年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「シャレード」(1963年公開)<br /><br />ケーリー・グラントと共演。<br />ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付き狙われる未亡人ジーナ・ランパートを演じた。<br /><br />☆英国アカデミー最優秀主演英国女優賞受賞<br />(参照:ウィキペディア)

    「シャレード」(1963年公開)

    ケーリー・グラントと共演。
    ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付き狙われる未亡人ジーナ・ランパートを演じた。

    ☆英国アカデミー最優秀主演英国女優賞受賞
    (参照:ウィキペディア)

  • 「シャレード(1963年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「シャレード(1963年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「シャレード(1963年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「シャレード(1963年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「シャレード(1963年公開)」<br /><br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

    「シャレード(1963年公開)」

    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「パリで一緒に(1964年公開)」<br /><br />ウィリアム・ホールデンと共演。<br />〈映画の裏ばなし〉<br />”監督、ホールデン、ヘプバーンは、この映画の撮影を通して人生をエンジョイしていた。このときのオードリーは最高の輝きを見せていた”と言われている。<br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

    「パリで一緒に(1964年公開)」

    ウィリアム・ホールデンと共演。
    〈映画の裏ばなし〉
    ”監督、ホールデン、ヘプバーンは、この映画の撮影を通して人生をエンジョイしていた。このときのオードリーは最高の輝きを見せていた”と言われている。
    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」<br /><br />〈映画の裏ばなし〉<br />ヘプバーンが演じた下町訛りの花売り娘イライザの配役決定の経緯は大きな論争を巻き起こした。<br />この作品は、同名の舞台ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の映画化であった。舞台でイライザを演じていたのはジュリー・アンドリュ-スだったので、彼女にスクリーン・テストを持ちかけたところ”スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることは知っているはずよ。”と拒否された。<br />ジャック・ワーナーは、ワーナー史上最大の制作費を回収するために、実績のあるヘプバーンにイライザ役を持ちかけたが、”アンドリュースがイライザ役を自分のものにしている”として一旦は断った。<br />ジャック・ワーナーは、アンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラーに役を回すとわかり、ヘプバーンは最終的に引き受けた。<br />(参照:ウィキペディア)

    「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」

    〈映画の裏ばなし〉
    ヘプバーンが演じた下町訛りの花売り娘イライザの配役決定の経緯は大きな論争を巻き起こした。
    この作品は、同名の舞台ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の映画化であった。舞台でイライザを演じていたのはジュリー・アンドリュ-スだったので、彼女にスクリーン・テストを持ちかけたところ”スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることは知っているはずよ。”と拒否された。
    ジャック・ワーナーは、ワーナー史上最大の制作費を回収するために、実績のあるヘプバーンにイライザ役を持ちかけたが、”アンドリュースがイライザ役を自分のものにしている”として一旦は断った。
    ジャック・ワーナーは、アンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラーに役を回すとわかり、ヘプバーンは最終的に引き受けた。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」<br /><br />マイ・フェア・レディの撮影現場のヘプバーン&撮影監督のハリー・ストラドリング。<br />(参照:ウィキペディア)

    「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」

    マイ・フェア・レディの撮影現場のヘプバーン&撮影監督のハリー・ストラドリング。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)<br />

    「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「マイ・フェア・レディ(1964年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「おしゃれ泥棒(1966年公開)」<br /><br />白ブチのサングラスをかけたヘプバーン。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「おしゃれ泥棒(1966年公開)」

    白ブチのサングラスをかけたヘプバーン。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「いつも2人で(1967年公開)」<br /><br />共演は、アルバート・フィニー。<br />一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという物語。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

    「いつも2人で(1967年公開)」

    共演は、アルバート・フィニー。
    一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという物語。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

  • 「暗くなるまで待って(1967年公開)」<br /><br />サスペンス・スリラー映画で、ヘプバーンは脅迫を受ける女性を演じた。<br />〈映画の裏ばなし〉<br />ハプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設で数週間目隠しをして訓練をした。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

    「暗くなるまで待って(1967年公開)」

    サスペンス・スリラー映画で、ヘプバーンは脅迫を受ける女性を演じた。
    〈映画の裏ばなし〉
    ハプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設で数週間目隠しをして訓練をした。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10&ウィキペディア)

  • 「暗くなるまで待って(1967年公開)」<br /><br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)<br /><br />

    「暗くなるまで待って(1967年公開)」

    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「華麗なる相続人(1979年公開)」<br /><br />ベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダー共演。<br />大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマにした映画。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「華麗なる相続人(1979年公開)」

    ベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダー共演。
    大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマにした映画。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「オールウェイズ(1989年公開)」<br /><br />ヘプバーン最後の出演映画となった。<br />(参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

    「オールウェイズ(1989年公開)」

    ヘプバーン最後の出演映画となった。
    (参照:一度は観ておくべきオードリー・ヘプバーンの出演作BEST10)

  • 「その他」のヘプバーン<br /><br />ファッションアイコンを決定づけたパリモード。<br />(参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

    「その他」のヘプバーン

    ファッションアイコンを決定づけたパリモード。
    (参照:オードリー・ヘプバーンとパリが舞台の名作映画6選)

  • 「その他」のヘプバーン<br /><br />車に乗り込む「オードリー」。<br />(参照:写真展のパンフレット)<br />

    「その他」のヘプバーン

    車に乗り込む「オードリー」。
    (参照:写真展のパンフレット)

  • 「その他」のヘプバーン<br /><br />スカーフが似合う「オードリー」。

    「その他」のヘプバーン

    スカーフが似合う「オードリー」。

  • 「その他」のヘプーバーン<br /><br />ビバリーヒルズ自宅アパート周辺のオードリー。

    「その他」のヘプーバーン

    ビバリーヒルズ自宅アパート周辺のオードリー。

  • 「その他」のヘプバーン<br /><br />当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン&ヘプバーン&オランダ俳優ロバート・ウォルダース(1981年)。<br /><br />1980年から死去するまでヘプバーンは、ロバート・ウォルダースと恋愛関係にあった。1982年二人目の夫「ドッティ」との離婚が成立すると、一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。しかし、ジャーナリストのインタビューで”ウォルダースと暮らした期間は、人生で最良の日々であった”と振り返っている。<br />(参照:ウィキペディア)

    「その他」のヘプバーン

    当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン&ヘプバーン&オランダ俳優ロバート・ウォルダース(1981年)。

    1980年から死去するまでヘプバーンは、ロバート・ウォルダースと恋愛関係にあった。1982年二人目の夫「ドッティ」との離婚が成立すると、一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。しかし、ジャーナリストのインタビューで”ウォルダースと暮らした期間は、人生で最良の日々であった”と振り返っている。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「その他」のヘプバーン<br /><br />ヘプバーン&ユベール・ド・ジバンシィ。<br /><br />☆ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズであった。<br />☆二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。<br />☆ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、ロサンジェルスの病院からスイスの自宅へと送り出すことを決めた。しかし、身体がかなり衰弱していたので、通常の国際便での旅には耐えることができない状態であった。このことを知ったジバンシィは友人に頼んで、友人が所有するプライベート・ジェット機をヘプバーンのために手配した。<br />それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでジバンシィに電話したが、胸がいっぱいで言葉にならず、”ああ、ユベール・・・本当に感激だわ”と呟くのがやっとだったらしい。<br />(参照:オードリー・ヘプバーン-映画.com&ウィキペディア)

    「その他」のヘプバーン

    ヘプバーン&ユベール・ド・ジバンシィ。

    ☆ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズであった。
    ☆二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。
    ☆ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、ロサンジェルスの病院からスイスの自宅へと送り出すことを決めた。しかし、身体がかなり衰弱していたので、通常の国際便での旅には耐えることができない状態であった。このことを知ったジバンシィは友人に頼んで、友人が所有するプライベート・ジェット機をヘプバーンのために手配した。
    それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでジバンシィに電話したが、胸がいっぱいで言葉にならず、”ああ、ユベール・・・本当に感激だわ”と呟くのがやっとだったらしい。
    (参照:オードリー・ヘプバーン-映画.com&ウィキペディア)

  • 「その他」のヘプバーン<br /><br />スイスのトロシュナを一望できる小高い丘にあるヘプバーンの墓。<br /><br />ヘプバーンの葬儀は1993年1月23日、トロシュナの教会で行われた。<br />ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子が弔辞を述べ、高官たちが参列した。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄、元夫のアンデレア・ドッテイとメル・ファーラー、ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーア等が参列した。<br />また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室から献花が届けられた。<br />(参照:ウィキペディア)

    「その他」のヘプバーン

    スイスのトロシュナを一望できる小高い丘にあるヘプバーンの墓。

    ヘプバーンの葬儀は1993年1月23日、トロシュナの教会で行われた。
    ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子が弔辞を述べ、高官たちが参列した。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄、元夫のアンデレア・ドッテイとメル・ファーラー、ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーア等が参列した。
    また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室から献花が届けられた。
    (参照:ウィキペディア)

  • 「写真展」の会場を出た後、「オリジナル・グッズ・ショップ」でお気に入りのポスト・カードを数枚購入しました。<br /><br />ポストカード①「ローマの休日(1953年公開)」<br />

    「写真展」の会場を出た後、「オリジナル・グッズ・ショップ」でお気に入りのポスト・カードを数枚購入しました。

    ポストカード①「ローマの休日(1953年公開)」

  • ポストカード ② 写真のタイトル:メイン~「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br />

    ポストカード ② 写真のタイトル:メイン~「麗しのサブリナ(1954年公開)」

  • ポストカード③ 写真のタイトル:サブリナカラー~「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br />

    ポストカード③ 写真のタイトル:サブリナカラー~「麗しのサブリナ(1954年公開)」

  • ポストカード④ 写真のタイトル:花束~「麗しのサブリナ(1954年公開)」<br /><br />

    ポストカード④ 写真のタイトル:花束~「麗しのサブリナ(1954年公開)」

  • ポストカード⑤ 写真のタイトル:ケーキ~撮影時期は不明。<br /><br />

    ポストカード⑤ 写真のタイトル:ケーキ~撮影時期は不明。

  • ポストカード⑥ 写真のタイトル:緑の館~「緑の館(1959年公開)」

    ポストカード⑥ 写真のタイトル:緑の館~「緑の館(1959年公開)」

  • ポストカード⑦ 写真のタイトル:サイクリング~撮影時期は不明。<br />

    ポストカード⑦ 写真のタイトル:サイクリング~撮影時期は不明。

  • ポストカード⑧ 写真のタイトル:キセル~「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

    ポストカード⑧ 写真のタイトル:キセル~「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

  • ポストカード⑨ 写真のタイトル:ティファニー~「ティファニーで朝食を(1961年公開)」<br />

    ポストカード⑨ 写真のタイトル:ティファニー~「ティファニーで朝食を(1961年公開)」

  • ポストカード⑩ 写真のタイトル:ベレー帽~撮影時期は不明。<br /><br />〈事実かどうかは知りませんが・・・〉<br />ヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大き過ぎると悩んでいた。それ以外にも歯並びが悪く、鼻孔が広いのを気にしていた。”映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに”とヘプバーンは言っていた。<br />だから、目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊厳を忘れなかった。<br /><br />今までヘプバーンについては、映画での顔しか知りませんでした。今回開催された「写真展」が縁で、ヘプバーンの「幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代」「キャリア初期」「女優時代」「1990年以降」「私生活」「ユニセフ親善大使」「死去」等を読んで、「人間・ヘプバーン」としてのすばらしさを再認識しました。<br />ヘプバーンは63年の短い人生でしたが、精一杯生きてきたすばらしい女性だと思います。亡くなって27年余りが経ちますが、私の頭の中には”20世紀最高の美女””史上最高の美女””大きな瞳を持つ細身で優雅な女優”のイメージはいつまでも消えることはありません。

    ポストカード⑩ 写真のタイトル:ベレー帽~撮影時期は不明。

    〈事実かどうかは知りませんが・・・〉
    ヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大き過ぎると悩んでいた。それ以外にも歯並びが悪く、鼻孔が広いのを気にしていた。”映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに”とヘプバーンは言っていた。
    だから、目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊厳を忘れなかった。

    今までヘプバーンについては、映画での顔しか知りませんでした。今回開催された「写真展」が縁で、ヘプバーンの「幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代」「キャリア初期」「女優時代」「1990年以降」「私生活」「ユニセフ親善大使」「死去」等を読んで、「人間・ヘプバーン」としてのすばらしさを再認識しました。
    ヘプバーンは63年の短い人生でしたが、精一杯生きてきたすばらしい女性だと思います。亡くなって27年余りが経ちますが、私の頭の中には”20世紀最高の美女””史上最高の美女””大きな瞳を持つ細身で優雅な女優”のイメージはいつまでも消えることはありません。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ふわっくまさん 2020/10/27 12:55:10
    オードリー・ヘップバーン展・・
    hy-2217さん、こんにちは。
    はじめまして・・実は私もcherico330さんからご案内頂き、オードリーヘップバーン展に行ってきました。

    展示会の内部がカメラ撮影NGだったので、ほんの3枚くらいしか彼女の写真が撮れなかったのですが・・
    お陰様で旅行記を拝見して、詳しく知ることが出来ました。

    ありがとうございました。   ふわっくま

    hy-2217

    hy-2217さん からの返信 2020/10/30 11:44:08
    RE: オードリー・ヘップバーン展(書き込み、ありがとうございました)
    ふわっくま 様

    おはようございます。
    ”いいね!の投票&書き込み”有難うございました。

    > hy-2217さん、こんにちは。
    > はじめまして・・実は私もcherico330さんからご案内頂き、オードリー・ヘップバーン展に行ってきました。
     ↓
    cheriko330さんが、3年前に「オードリー・ヘップバーン展(福岡)」に行った「旅行記」を投稿されていました。そのようなご縁で彼女に、写真展が「高槻阪急」で開催されることを「掲示板」で連絡しました。
    早速、彼女から”私の友人にも連絡します”との返信が届きました。

    > 展示会の内部がカメラ撮影NGだったので、ほんの3枚くらいしか彼女の写真が撮れなかったのですが・・
    > お陰様で旅行記を拝見して、詳しく知ることが出来ました。
     ↓
    多くの写真が展示されていたのに、撮影不可であったのは非常に残念でしたね。しかし、撮影不可であったため、「オードリー・ヘップバーン」に関するいろいろな資料を勉強することができました。調べれば調べるほど、彼女の人間としての魅力を感じてきました。
    「オードリー・ヘップバーン」といえば、先ず「ローマの休日」が頭に浮かんできますね。それほど、印象に残る映画だっのだと思います。
    >
    > ありがとうございました。   ふわっくま

    <余談になりますが・・・。>
    ☆「ふわっくま」さんは、国内で多くの都道府県に行かれていますね。すごい行動力だと思います。
    私は学生時代、周遊券を購入して、リュックを背負って、ユース・ホステルに宿泊しながら日本国内(栃木県、群馬県、茨城県は除く)を旅行したことがあります。白黒写真が多く残っていますが、今では懐かしい、良き思い出となっています。
    日本も、その頃とは、随分変わっていると思いますが・・・。

    「ふわっくま」さんの「旅行記」随時拝読させていただきます。
    有難うございました。

    from hy-2217

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