2020/02/01 - 2020/02/01
10位(同エリア274件中)
ベームさん
今年のスギ花粉の飛散は早いようで、飛散が始まる前にと出かけました。
前回に引き続き中央区です。
この地域一帯は徳川家康関東入府以前は葦の茂る湿地帯でした。江戸になり、東京湾の最深部に位置することから船便の為縦横に運河が開削され、掘り上げた土で埋め立てが行われました。
実は明石町から築地まで回ろうと計画したのですが、佃島を終わった所で足に引きつりが起こり歩けなくなりました。やむなく中断しタクシーで新橋駅まで行き帰りました。前回本所を歩いたときは大丈夫だったので少し油断したようです。築地方面は他日とします。
写真は佃島風景。高層マンションと掘割と佃小橋。
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スタートは地下鉄茅場町駅から。9時20分ころ。
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今日の前半のコースです。
左上の地下鉄茅場町駅から右下の佃大橋まで。 -
地上は茅場町、永代通り。
軒並み証券会社です。明治の初めからこの界隈に種々の商品取引所が出来、その後株式取引所、東京証券取引所が出来るに従い続々と証券会社、早く言えば株屋が集まってきました。 -
みずほ銀行の建物の右下隅に小さな石碑があります。
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江戸初期の俳人宝井其角の住居跡です。1661~1707年。
松尾芭蕉門下。蕉門十哲のうち第一の門弟と言われる(他に服部蘭雪、向井去来、森川許六、杉山杉風など)。
儒学者荻生徂徠も隣接して住んでいたはずですが、そのような跡は見当たりませんでした。其角の句に「梅が香や隣は荻生惣右衛門(徂徠の事)」というのがあるから間違いないでしょう。 -
その路地の先に日枝神社がありました。
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山王日枝神社の摂社です。寛永年間の創設。
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手水舎。
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社殿。
祭神は日枝大神と菅原道真。 -
境内。
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日枝神社の向かいにある智泉院。
明治の廃仏棄釈までは日枝神社の別当寺でした。 -
地蔵尊は、関東大震災の犠牲者慰霊のため、日本橋魚河岸の依頼により建立されたものです。昭和2年。
左下の天水桶は天保12年、1841年に当時の坂本町(今の兜町)の住民により奉納されたもの。 -
永代通りを東に、亀島川に架かる霊岸橋です。橋を渡ると新川地区です。
今の新川一帯は葦の生い茂る低湿地だったのを、江戸初期に埋め立てられ霊岸島と呼ばれました。
今深川にある霊巌寺は当初ここにあったものです。 -
橋の左に日本橋水門。その向こうは日本橋川です。ここで亀島川が分岐しています。
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亀島川は、日本橋川から別れ、霊岸橋、南高橋をくぐり隅田川に注いでいます。
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れいがんばし。
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霊岸橋を渡って新川1丁目の交差点の角に、ヴィラ・フォンテーヌというホテルがあります。
ここに幕府御用商人である河村瑞賢(1618~1699年)の広大な屋敷がありました。 -
瑞賢は材木商として、1657年の明暦の大火のとき木曽の木材を買い占め江戸にもたらし莫大な利益を上げます。安治川、淀川など畿内の治水工事にも力を入れ、奥州、出羽の幕府米を江戸に廻送する航路を開拓するなどの功績をあげ幕府、諸大名から重んじられました。
”火事と喧嘩は江戸の華”と言われたように、江戸は世界中の大都市の中で最も火事の多かった町でした。したがって木材の需要が多く、紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門、河村瑞賢など豪商には材木で財を成した者が多かったのです。 -
永代通りをさらに東に進みます。陸橋の上から茅場町方向。
新川は江戸から明治にかけて全国に名だたる酒問屋が集まる地域でもありました。新川の両岸は全国各地から運ばれてきた酒樽を保管する酒蔵が櫛比していたそうです。
幸田露伴の娘文はここの酒問屋の息子に嫁いでいます。のち離婚。 -
永代橋に出る手前を左に入ると豊海橋(とよみばし)があります。
当初の橋は元禄11年、今のは昭和2年、震災復興事業として造られました。 -
日本橋川が隅田川に合流するところに架かっています。
橋の向こうは日本橋箱崎町です。
本所の吉良邸討ち入りを果たした赤穂義士たちは、本所一の橋、永代橋から豊海橋を渡り泉岳寺まで行進したといいます。 -
橋の上から、日本橋川。
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右手は隅田川に合流するところ。
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右に永代橋が見えます。
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反対、箱崎町側から。
梯子を横にしたようなユニークですっきりした構造です。 -
永代橋に来ました。中央区の新川と江東区永代を結んでいます。
当初の橋は元禄11年(1698年)、5代将軍綱吉生誕50年を記念して造られた。それまでは深川大渡しという渡し場がありました。
この橋の事件として、1807年の深川八幡の祭礼で大勢の群衆が押し寄せ橋の一部が崩落、1400人以上の人が隅田川に落ちて亡くなったとも言われます。
その時の蜀山人太田南畝の狂歌。
「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」
今でしたら悲惨な事故を狂歌に詠うとは何事かと非難されることでしょう。 -
隅田川上流方向。左から日本橋川が注いでいます。
遠くにスカイツリー、橋は隅田川大橋だと思います。
今の永代橋は大正15年竣工。長さ185m。勝鬨橋、清洲橋とともに国の重要文化財に指定されています。 -
橋の中ほどから。先ほどの豊海橋が見えました。
ビルの建つのは日本橋箱崎町。近代的な今の眺めも良いが、江戸時代は橋の上から富士山、筑波の山、箱根の山、安房上総の山が見えたといい、江戸屈指の眺望の良い場所でした。寺門静軒の「江戸繁盛記」には、伊豆大島がぼんやり霞んで見えると書いてますが、高い山ならいざ知らず、いくらなんでも大島はどうか。静軒は押しなべて大げさに書いています。
永井荷風もここの眺望、大川端一と称しています。 -
下流には佃島の大川端リバーシティの高層マンション群がそびえています。
北原白秋、木下杢太郎、小山内薫などパンの会のメンバーもこの永代橋界隈で盛宴を張ることもあったそうです。その会場となった「都川」という鳥料理屋が今もあるか調べましたがもうないようです。 -
佃島の先端です。
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反対側から。
アーチが長く裳裾を引いているようで優美な姿です。 -
永代橋東詰。永代1丁目。
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橋を新川に戻り、西詰に「船員教育発祥の地」の碑があります。
先進国の海運に立ち向かうため船員の育成が急務として、明治8年政府が岩崎弥太郎に命じてこの地に設立した三菱商船学校。これが東京商船大学、今の東京海洋大学となったのです。 -
永代橋全景。
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桜の時期はいい眺めでしょう。
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川沿いの新川公園。
新川一帯は北を日本橋川、西と南を亀島川、東を隅田川に囲まれた地です。
こんな碑がありました。明治33年設立で、今の中央学院大学だそうです。 -
この辺り、亀島川からさらに分岐し隅田川につながる新川運河がありました。1660年頃河村瑞賢が諸国から船で集まる物資を陸揚げするため開削しました。
昭和23年埋め立てられます。 -
隅田川から離れ鍛冶橋通りを横切ると、越前堀児童公園があります。
穏やかな天気で、その名の通り何組もの親子が遊んでいました。 -
越前堀児童公園。
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江戸時代、この地に越前藩主松平越前守の屋敷があり、三方を堀に囲まれ「越前堀」と通称されました。
明治になり堀は埋め立てられ、町名も越前堀から新川に変わります。今越前堀の名を残すのは公園だけです。 -
公園の縁を固めている石。
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ただの石ではないようです。
越前堀は石で護岸されていました。平成18年の発掘調査で出土した石を公園の堀跡に移設したものです。 -
出土の様子。
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公園の隅に「霊巖島之碑」があります。
1624年、霊巌上人によりこの地に霊巌寺が創られた。寺は明暦3年の振袖火事で全焼し深川に移ったあともこの地は霊巌島と呼ばれる。
昭和46年、住居表示実施により、霊巌島、越前堀、新川の町は新川に統一された。
町名には歴史があります。効率一本やりの浅はかなお役人により全国の由緒ある町名が消えていったのは真に残念なことです。 -
再び鍛冶橋通りを渡り少し行くと於岩(おいわ)稲荷田宮神社があります。。
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明治13年、四谷にある田宮神社がこの地に遷座したものです。
鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」のお岩の伝承を持つ神社です。お岩はこの神社を深く信仰し、死後合殿に合祀されました。 -
手水舎。
以降世の不幸、不遇な女性の守護神として信仰を集めました。また芝居俳優、芸妓の参詣も多かったそうです。 -
拝殿。
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拝殿の横に古い鳥居があります。
明治30年のもので、中央区で2番目に古いそうです。 -
百度石。
これは中央区最古です。
側面に「大阪浪花座興行記念 四代目市川右団次」と彫られています。
それほど昔でもない、私の母などもお百度参りをしていましたが、今はどうですか。 -
末社稲荷社。
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この狐、怖い顔をしていますね。
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蕾がふっくらしています。
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於岩稲荷から南へ。左手に佃島にかかる中央大橋が見えます。
新川地区と佃島を繋いでいます。奥の建物は佃島の高層マンション。 -
南高橋の袂にきました。
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徳船稲荷神社です。
この地の越前藩主松平家の屋敷内にあった神社です。
御神体が徳川家の遊船の舳を切って彫られたものでこの名がついています。 -
南高橋。
亀島川が隅田川にそそぐ河口に架かっています。震災復興事業の一つです。
旧両国橋の中央部分を移築し再利用したそうです。 -
橋の上から。亀島川。
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亀島川水門。
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反対側から。
新川から南高橋を渡ると湊1丁目です。 -
左の川に囲まれた四角い所が新川、右の尖ったのが佃島。
隅田川はここで二手に分かれて、佃島の上が晴海運河、下が隅田川本流。 -
隅田川沿いに少し歩きました。
亀島川水門が見えます。 -
正面に中央大橋。
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亀島川が隅田川と合流し、広々とした長閑な眺めです。
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目を右に向けると対岸に佃島の突端の大川端リバーシティの高層マンション群。
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白い建物は月島の石川島灯台跡。
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川沿いから離れ鉄砲洲通りを渡ると、鉄砲洲児童公園がありました。
ここでも親子連れが陽光を楽しんでいます。 -
公園に隣接して、鉄砲洲稲荷神社があります。
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鉄砲洲は家康入府のころ、隅田川河口にあった鉄砲の形をした細長い洲です。今の湊、明石町あたりです。
創建は平安時代に遡るようです。
もともとは東京湾の一番奥深くに鎮座する産土神でした。埋め立てで海岸線の移動により移転を繰り返しますが、江戸寛永年間に地続きとなった鉄砲洲にもとからあった八幡神社を摂社としてこの地に遷座しました。 -
手水舎。
必ず手水舎の写真を撮っています。 -
社殿。
年中行事で有名なのは一月に無病息災を願って行われる寒中水浴大会です。
境内に氷柱を入れた大きな水槽を設け、大勢の男女が飛びこみます。 -
一部工事中。
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天水桶?
す組となっています。江戸火消の奉納でしょうか。 -
摂社八幡宮。
永井荷風の日記「断腸亭日乗」昭和9年6月26日。
「晴れてむしあつし。・・・・。黄昏銀座に行き銀座食堂に夕飯を食す。・・・・。歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚(ものあげ)波止場に至り石に腰かけて名月を観る。」 -
神楽殿。
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針塚。
これなら少々目が不自由でも大丈夫。 -
富士塚、富士浅間神社があります。
富士山の溶岩で築かれています。 -
危険だから登らないように、との注意書き。子供なら登ってしまいそうです。
標高5.4m。 -
富士塚の麓に末社富士浅間神社。
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鉄砲洲通りを南下して佃大橋に来ました。
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佃島に渡ります。
橋としては面白みのない橋です。橋にはやはりアーチが相応しい。 -
しかし橋の上からの眺めは素晴らしい。
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上流方向。
遠くに中央大橋と佃島の高層マンション群。 -
水も温んでいるように見えます。
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中央大橋。ズーム。
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佃島。
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下流には勝鬨橋かな。
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聖路加のツインタワー。
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渡り終えました。
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後半、佃島です。佃大橋から入り、佃大橋から出ました。
右下、切れましたが海水館跡です。
佃、月島、勝鬨、豊海、晴海エリアは江戸時代から明治、大正、昭和にかけて埋め立てられ、隅田川と運河に囲まれた人口の島です。
関東大震災や先の戦争の被害を受けていない地域もあり、特に佃、月島の路地にはいまなお下町の情緒が見られます。一方再開発が急速に進み、未来都市・ウオーターフロントゾーンとして超高層マンションが林立するようになりました。新旧が混在する古くて新しい街なのです。(中央区パンフレットより) -
橋を降りてすぐ左に行くと、何軒か佃煮屋の店が並んでいます。
家康入府の際従ってきた摂津の漁師が保存食として作ったのが始まりだそうです。
でも材料はここらや東京湾で採れたものだけではなく、おそらく全国各地、あるいは外国からのものもあるのではないでしょうか。これは推測です。 -
ご多聞に漏れづどこも本家、元祖を謳っています。
このお店でお土産に佃煮を数種買いました。 -
許しを得てショーケースを写しました。
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佃まちかど展示館。
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まちかど風景。
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佃島渡船場跡です。
明治時代、渡し賃5厘だったので「5厘の渡し」と愛称されました。昭和31年の記録では、一日平均60往復、1万6千人の利用となっています。
昭和39年の佃大橋の完成により廃止。この工事に伴い、佃島と月島の間の佃川が埋め立てられ地続きになっています。 -
劇作家北条秀司の句碑がありました。
雪降れば 佃は古き 江戸の島 -
佃島の風情を愛した北条は新派の代表演目「佃の渡し」を残しました。
明治35年生まれ、平成8年没。 -
掘割を住吉小橋で渡ります。
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石川島灯台があった所。
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石川島灯台跡。
慶應2年(1886年)、航行する船舶のために築いた灯台。 -
灯台から先一帯が元の石川島で、江戸時代に石川島人足寄場があった所です。
石川島と佃島はもとは別で、石川島のほうが先に造成され、のちに地続きになりました。石川島は石川島播磨重工業の立地となり、それが豊洲に移転し今は高層マンション群が立ち並んでいます。 -
石川島人足寄場。
火付盗賊改方だった長谷川平蔵の建議により1790年設置された、比較的軽い犯罪人、浮浪者の自立支援施設。
口を割らない罪人には厳しかった「鬼の平蔵」だったが一方ではこのようなことをしたのです。
明治になり廃止。 -
中央区平和都市宣言。
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住吉神社に来ました。
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徳川家康関東入府のさい伴った摂津佃の漁師33人と住吉神社の神官が鉄砲洲向かいの小さな干潟を賜り、築いたのが佃島の始まりです。
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珍しい陶製の扁額。
明治15年。題字は有栖川宮幟仁(たかひと)親王の筆だそうです。
1646年、漁師たちが摂津、住吉神社を勧請して創建したのが佃島の住吉神社です。江戸湊の入り口に位置し、海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。 -
手水舎、ここでは水盤舎といいます。
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水盤。
かって佃島といえば白魚でした。佃島の漁師が獲る白魚は天下一品で、徳川将軍家の食膳に献上されました。
江戸っ子の好む食べ物は房総沖の春の初鰹、東京湾の夏の江戸前鰻、佃島の冬の白魚と浅草海苔だそうです。 -
社殿。
初鰹なんかは将軍家の献上の済むのを待って、いの一番に食べるのが江戸っ子の自慢で、そのためには着ているものを質に入れ、女房を蹴飛ばすのもはばからなかったなんて話もあります。
「鯖の生き腐れ」と言いますが、鯖よりさらに足の速い鰹を房総の漁場から江戸の城中までどのくらいの速さで運んだものでしょう。多分海路も陸路も”そこのけそこのけ鰹が通る"といったあんばいだったでしょう。 -
境内。
白魚も初鰹も将軍への献上が済むまでは庶民は口にすることが出来なかったのです。 -
境内社の龍神社。
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龍神社。
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入船稲荷神社。
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欄間には細かい龍の彫り物があります。
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神輿。
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5世川柳水谷緑亭句碑。
和(やわら)かで かたく持ちたし 人ごころ
佃島の名主を務めたこともあるという。 -
神社の裏に掘割があり、
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朱色の佃小橋が架かっています。
佃島造成時からあった橋ですが、今の橋は昭和59年のものです。 -
掘割風景。
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佃小橋。
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後ろの高層ビルともマッチして綺麗な風景です。。
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島内を散策します。
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ちょっと横道に入るとこんな風景が残っています。
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手前のインドカレーの店で昼にしました。
中辛にしたのに辛かった。インドの平べったいパンみたいな物を食べてる人もいましたが、私はライス。サラダとコーヒーセットで950円。
隣の肉のたかさごというお店、評判なのかお客が一杯いました。 -
島を横切り、晴海運河を跨ぐ相生橋に来ました。関東大震災で焼失し、震災復興事業として大正15年再架橋。
老朽化により平成10年今の橋となった。 -
対岸の江東区越中島を結んでいます。通る道は清澄通り。
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対岸の越中島、東京海洋大学越中島キャンパスあたりです。
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大学の練習船明治丸でしょうか。
平成15年、東京商船大学と東京水産大学が合併したのが国立東京海洋大学です。 -
橋の途中で中の島に降りられます。
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小さな公園になっています。
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中の島公園。
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晴海運河。
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下流方面。
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佃島に戻り、運河沿いに下流方面に歩きました。
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相生橋。
隅田川の岸辺を歩くのはとても気持ちが良いです。
よくパリのセーヌ河と対比されますが、私は隅田川の開けた景色の方をずっと好みます。セーヌには春のうららといったのどかな風情はありません。 -
海水館跡を目指します。
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堤防下の風景。
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護岸を利用した園芸です。
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もう梅の鉢物が咲いていました。
日当たりが良く、護岸が川風を遮ってくれるので早いのでしょうね。 -
海水館跡に来ました。
ここに明治時代「海水館」という割烹旅館兼下宿屋がありました。当時は房総の山々も見渡せる風光明媚なところで、明治末から大正年間には多くの文化人が訪れ書斎
がわりとし、歓談を尽くしました。和風二階建で間数25ほどだった。 -
島崎藤村は明治40年から41年にかけここに逗留し「春」を朝日新聞に連載し、小山内薫は明治42年から44年にかけここで「大川端」を執筆しています。
藤村の母校、明治学院大学の関係者がこの碑を建てました。 -
その他荒畑寒村、木下杢太郎、竹久夢二、吉井勇、三木露風などが利用しています。
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これで佃島散策を終わり、佃大橋のほうに戻ります。
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佃島にはこのような町屋造の風景があちこちに残っています。
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いづれはマンションになってしまうのか。
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魚がし江戸家の看板。
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畳店とガラス窓に書かれています。
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大きい道と道を繋ぐ路地です。
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このポンプ現役のようです。
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こんな家に住んでみたい。私が小学校のころ住んでいた住まいはこれに近いような家でした。
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佃小橋の見える掘割に戻ってきました。
佃大橋を本土に渡ります。渡った所でふくらはぎに引き攣りが起こり今回終わりです。 -
山本松谷:新選東京名所図会より。
明治34年頃の築地側から見た佃島。
中央の漁船は勇壮な佃の漁師のさまを忍ばせます。昭和の初めまでこのあたり白魚が獲れたと言います。時期は寒の入りから立春まで、時間は午後10時から真夜中、篝火をたいて漁をしました。
白魚獲りの漁師の啖呵がいい。
「白魚の色を見分けることも知らねえで、江戸っ子でござるもねえもんだ。佃の白魚は白くなくって青いぜ。底から青みを含んで、骨が透き通って見えるのが、江戸っ子の喰う白魚だ」
画面右上に住吉神社の鳥居と社が見えます。右下には佃の渡し、丁度渡し船が漕ぎ出たところです。船には荷車も乗っています。 -
昭和2年の地図。
真ん中の石川島と佃島はまだ繋がっていません。
永代橋と相生橋はありますが、佃大橋、勝鬨橋は無く、佃の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しが通っています。
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この旅行記へのコメント (6)
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- pedaruさん 2020/11/06 06:44:08
- 東京都の散歩
- ベームさん おはようございます。
感心して拝見しております。たくさんの町の名前、必ず一度は聞いたことのある地名です。
特に佃島の風景は、前から一度は訪れたい気持ちを増幅させました。昔の姿が残っているうちに出かけたい、これだけが今の私の今生の願いです(笑)。
私は東京の歴史散歩という本を見つけまして、これを参考に2,3編アップしてみましたが、コロナの影響で出かけるのが中断しております。やっと出かけることができても、ベームさんの旅行記を見る限り、これ以上のものは書けそうもないし、そのまま真似をする形になりそうです。いわゆるコピー旅行記になりそうです。
しかも、ベームさんほどの健脚でもないし、どこかで自転車を借りて、足代わりにしようと計画を練っております。ベームさんには笑われそうですが、自分の能力の範囲で
書いてみるつもりです。
pedaru
- ベームさん からの返信 2020/11/06 15:55:00
- Re: 東京都の散歩
- pedaruさん、
買い被りすぎです。やたらに撮った写真に寄せ集めの知識を鋏と糊でまとめているだけです。
私もご同様コロナ蔓延化で呑気にカメラをもって街歩きする気が起こりません。加えて慢性の腰痛が収まらず、目下のところ長時間歩くことが出来ません。健脚は過去のこととなってしまいました。
pedaruさんは東京都内にお住みのようで結構ですね。歳と腰痛で横浜・東京往復の電車もままなりません。いつの日か街歩き再開の日が来ることを願っていますが。
ベーム
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- mistralさん 2020/09/21 04:39:28
- 春のうらら。
- ベームさん
ご無沙汰しておりました。
mistralの、古い寄せ集めの旅行記にご投票いただきまして
ありがとうございました。
久しぶりにベームさんの旅行記を拝見しましたら
沢山の、東京文学散歩シリーズがアップされていて驚きました。
拝見しましたのは早春の隅田川界隈のお散歩、
それにしましても、かなりの歩数を歩かれたのではないでしょうか!
足がひきつりを起こすほどですもの。
時折通り過ぎる区域ですが、丹念に辿られていて、写真に収められ
おかげさまで新たな発見やら、そうそう、こんな景観!
などなど想いながら、楽しませていただきました。
水門、こうして拝見しますとあちこちにあるんですね。
護岸を風除けにしての鉢物、春の息吹を感じられるシーンです。
佃島界隈の郷愁を感じられます古い家々の佇まいなどなど。
おっしゃいますように、春のうららの感じられるのは
まさに隅田川ですね。
いつまで続くのやら先の見えないコロナ禍の日々
ベームさんのように、身近な光景に目を止めながら
歩いてみたいと思いました。
mistral
- ベームさん からの返信 2020/09/21 13:57:01
- Re: 春のうらら。
- mistralさん、
こちらこそご無沙汰しております。
隅田川界隈の散策記に好意をお持ちいただき有難うございます。
2017年のフランス旅行を最後に海外旅行を撤退(大袈裟ですね)して以来国内派に転じています。でも他の方の旅行記を拝見してはかっての自分の旅行を思い出し懐旧に耽っています。
その国内もコロナ禍としつこい腰痛に悩まされいつ再開できるか分からない状況です。それに未だコロナの蔓延が収まらない状況下、国の観光助成策に乗っかって旅行したり、のんきにカメラを抱えて街を歩く気分になれません。
mistralさんもいずれは旅行を再開されることでしょう。新作をお待ちしています。 ベーム
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- frau.himmelさん 2020/02/04 20:51:30
- 足の引き攣り!?
- ベームさん、こんばんは。
あれだけ歩かれたら引き攣りも起こりますよ。
地図をみて、えっ~~、こんなに~と思いました。
足が痛い痛いとおっしゃっていますが、ベームさん、外国でも国内でも相当歩いていらっしゃいますね。
今回もそう、私が昨年隅田川クルーズのツアーで船で回ったところを徒歩でまわっていらっしゃる、痛くもなりますよ。
もうお年(失礼!)なのですからご自愛のほどを。お互いにですけど。
もうそこまで花粉の季節も近づいていますね。同病相憐れむの夫も、既に気配を感じると言っています。
どうかこちらもご自愛くださいませ。
himmel
- ベームさん からの返信 2020/02/05 16:56:54
- Re: 足の引き攣り!?
- himmelさん、
おっしゃる通りです。それに、前回人形町とか本所を歩いた時は無事だったので、今回薬を飲まず、足にサポーターもつけずで油断しました。
himmelさんもよく歩いておられます。どちらが先にダウンするか。
パリを離れてドイツ入りですね。
オルセーとかモンマルトルは堪能されたようですが、工事中のコンコルド広場とかアレクサンドル3世橋、バスティーユ広場などいささか不本意だったでしょうね。でもこれからは勝手知ったるドイツですから、存分に楽しまれたことでしょう。
ご主人様も花粉アレルギーをお持ちですか。しばらく我慢の季節です。
ベーム
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