2019/11/10 - 2019/11/10
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西のマーガレットさん
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秋の一日、歴史好きの先輩方と山口県内の毛利氏に関係する遺跡を訪ねました。本日は一般の人が、毛利家永代家老福原越後の墓所に1年に一度だけお参りできる日でした。
- 旅行の満足度
- 4.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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まずは、美祢市にある明林時へ。最初の目的地は宇部市小野にある「二の丸様」関係地なのですが、「二の丸様」の従姉妹が嫁いだのではないかと言われている明林寺が途中にあるということで寄りました。
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とても立派なお寺です。
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紋が洒落ています。後で調べると、このお寺には県下でも有数の巨樹であるイヌマキの木があるそうです。江戸時代前期の池泉鑑賞式庭園も。知らずに行ったのでスルーしてしまいました。残念!
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宇部市小野にある、長州藩初代藩主毛利秀就公の生母、「二の丸様」関係地にやってきました。周りは静かな田園地帯です。
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毛利秀就公誕生の地の説明版です。秀就は広島で生まれたというのが定説ですが、実はそうではなく、ここ小野の地で誕生したという説があります。宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があり調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書から財満忠久・就久父子の屋敷が出生地であると結論付けられたようです
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財満忠久が小野村の領主になったことを説明するものです。
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数年前にこのような碑や説明板が造られたようです。中央に見えるのは財満家関係者の墓が集められ建立されている財満苑です。
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説明文に、財満就久が秀就を小野で出生させたとあります。この説によると輝元の正室、南の方を非常に恐れていた側室の二の丸様は、懐妊が分かると秘密裏に財満家に匿われて、密かに秀就を生んだとされています。出生後の処置について小早川隆景に相談した記録や、産湯の池や、暗殺を逃れるための穴蔵などが残り、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っているそうです。
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毛利輝元の側室となった二の丸様の生涯が書かれています。彼女は広島城二の丸に住んだために、二の丸様と呼ばれています。もともとは、杉元宣の妻であったのですが、輝元が強引に側室にしたのです。毛利家家臣の児玉元良の娘であった幼少の周姫(後の二の丸様)が自宅前で遊んでいたところ、美少女ゆえに輝元の目に留まり、輝元はしばしば訪問するようになります。これを嫌った元良は、急いで杉元宣に嫁がせたのです。ところが、輝元は諦めきれず、家臣に命じて無理やり側室にしてしまったのです。夫の杉元宣は後に殺害されてしまいます。
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毛利輝元の重鎮、山本市左衛門は、「財満越前守忠久が毛利輝元から小野村の領主に任ぜられたとき、財満忠久の目付け役として広島からきて、財満領内に居留していた」とあります。輝元の長男秀就の誕生に際して献身的な世話をしたとも書いてあります。
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二の丸様の顕彰碑です。輝元と二の丸様の間にはその後、竹姫、就隆が生まれています。だから愛されてはいたのでしょうね。やがて、毛利家の転封により二の丸様は広島城に戻れなくなり、正室である南の方が許さなかったので移封先の萩城にも入れませんでした。結局、山口の覚皇寺に入り、32歳の若さで病死してしまいます。美貌の姫だったが故に辛い生涯を送ることになった悲哀の女性です。二の丸様の話とよく似た内容で山口には「姫山伝説」が伝えられています。興味のある方は調べてみてください。
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次に向かったのは宇部市奥万倉の蓬莱山天龍寺です。こじんまりとしています。ここに江戸末期の長州藩家老だった国司信濃親相夫妻のお墓があります。天龍寺は国司家の菩提寺で、国司家歴代の墓所があります。
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お寺の建物は、この坂道の左側の木が茂っているところ、国司夫妻のお墓は、建物の正面、坂道の右手を上がったところでした。
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少し山道を登ると見えてきました。
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国司親相(くにしちかすけ)は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現していったようです。八月十八日の政変の後、他の家老らと京都に向けて挙兵し禁門の変を引き起こしています。やがて第一次長州征伐で、西郷隆盛が長州藩に対して親相ら三家老の切腹を要求したため自刃して果てました。享年23歳。他の二家老、益田や福原は永代家老でしたが、国司は実力で昇進した家老でした。
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責任をとったとはいえ、あまりに若い。気の毒に思います。
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続いて向かったのが、厚狭毛利家の菩提寺、山陽小野田市にある宝珠山洞玄寺です。厚狭毛利氏の祖は毛利元就の五男の元秋です。
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立派な門構えです。
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この山門は1770年に建立され、老朽化のため平成16年に改築されたとあります。
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寺内にある宝塔形の石塔です。
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寺内の庭園
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厚狭毛利家の家紋、立ち沢瀉(たちおもだか)を見つけました。
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昼食は、山陽小野田市にある貝汁で有名な「ドライブインみちしお」に行きました。陳列ケースの中から好きなお皿を取り出せます。この貝汁は普通サイズです。
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これはセットメニューです。少し小さめの貝汁がついています。
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これは特大サイズの貝汁です。これを頼んだ先輩はあまりの多さに食べきれず残してしまいました。でも、とてもおいしい貝汁です。満足しました。
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午後は最初に、宇部市の松江山宗隣寺に向かいました。宗隣時は777年に唐から来朝した為光和尚によって松江山普済寺として創建され、その後1670年に長州藩永代家老で宇部領主であった15代福原広俊が、菩提寺として宗隣寺を再興した禅宗の名刹です。
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庭園は「龍心庭」と呼ばれ、山口県最古の庭園です。約650年前の南北朝時代に築庭された池泉式庭園です。
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屋根も立派な造りです。
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池泉式庭園
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国の名勝庭園に指定されています。
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イチオシ
現存するものは、全国にここと平泉の毛越寺にしかないという「干潟様」は、大変貴重なものだそうです。
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書院前です。敷石が敷かれています。
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書院の下は「四半敷き」になっています。正方形の石が、縁に対して45度になるように斜めにして敷く敷き方です。
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この上が福原家の墓所となっています。今日は一年で唯一、一般の人が墓所に入れる日です。毎年11月の第2日曜日に入ることができるようです。
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福原家の歴代の方々のお墓が並んでいます。
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もう一段上があるようです。この階段を上ります。
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福原越後のお墓まで来ました。福原越後は江戸時代末期の長州藩の永代家老です。長州藩支藩の周防徳山藩主毛利広鎮の六男で福原家に養子に入っています。午前中に訪問した国司信濃親相と共に、第一次長州征伐で責任を取り自害しました。享年50でした。責任を取らされた三家老のあと一人は、益田親施です。
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お墓の正面です。夫婦墓なのでしょうか。名前が並んでいます。
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裏に回ると大江姓福原越後元僴 元治元年11月12日とあります。命日ですね。だから一番近い11月の第二日曜日が入場できる日なのかなという話になりました。
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次に、宇部市善和にある霜降山に登りました。車で山頂付近まで行くことができます。宇部市街を見渡すことができます。
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標高は約250mで、1179年に厚東武光が霜降城を築いたと言われています。後に大内弘世によって攻められて落城しました。大内氏は毛利氏以前に山口を支配した守護大名ですが、厚東氏とは長い間戦いを繰り広げました。
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この先を上ると頂上に行くようです。
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厚東氏の墓所の一つ清泰山浄名寺です。
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こちらが厚東氏のお墓です。
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厚東氏の墓所はもう一か所、鳳凰山安国東隆禅寺にもあります。
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安国東隆禅寺の入口です。
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この先です。
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市指定史跡となっています。
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ここには説明板もありました。今日は一日がかりで宇部市や山陽小野田市の史跡を見て回りました。美味しい貝汁もいただけ、意義深い一日となりました。
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