2019/05/08 - 2019/05/08
122位(同エリア288件中)
杏仁豆腐さん
草加松並木から西新井大師まで歩いてみました。約1年前に、同じように草加松原から西新井大師まで歩きました。
今回は少しルートを変えての散策です。約11km、3時間ほどかかりました。
☆1年前の旅行記はこちら
草加松原松並木から西新井大師まで歩いてみた☆珈琲 はんなり☆2018/05/01
https://4travel.jp/travelogue/11354863
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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草加松原「松並木」(国指定名勝おくのほそ道の風景地草加松原)
花崗岩で作られたドーナッツ型のオブジェ。「草加松原 ・ 北端」です。1年前と同じく、ここからスタートです。 -
旧日光街道の松並木が草加市北部の綾瀬川沿いに1.5kmに渡って続きます。千本松原とも呼ばれています。
夏になると子供たちが水遊びをするせせらぎエリア。 -
1987年(昭和62年)に、日本の道100選に選定されています。
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百代橋
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ハープ橋からの風景
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成長する松
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矢立橋
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ここで綾瀬川と別れます。
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松尾芭蕉像と札場河岸(ふだばかし)公園内にある望楼
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伝右川を渡ります。
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この道を入ると旧道ですが、今日は県道49号足立越谷線を歩きます。
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明治天皇草加行在所記念碑です。
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大川弥惣右衛門(おおかわやそうえもん)家は、明治9年(1876年)の奥羽巡幸及び明治14年(1881年)の東北・北海道巡幸の際に明治天皇の行在所として指定されました。
昭和8年(1933年)には史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定され、翌9年(1934年)、これを記念し草加町が明治天皇草加行在所記念碑を建立しました。
行在所は平成4年(1992年)に解体され、現在では記念碑が行在所の所在地及び中大川家の由緒を伝える貴重な資料となっています。
現在、行在所の所在地に設置されている記念碑は複製品であり、元の記念碑は歴史民俗資料館にて保管されています。 -
高砂八幡神社
創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿には「正徳(1711-1715)の頃神主長太夫なるもの」八幡の神体を稲荷社に合殿として祀ったとあります。 -
高砂三峯神社
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旧道と県道が交わる付近。
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ひあぶり地蔵
奉公に出ていた娘が母危篤を知り暇を願い出たが許されず。主人の家が焼ければ母に会えると放火。捕らえられ、火あぶりで処刑されたのだとか。 -
富士浅間神社
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毛長川を渡ります。
東京都に入ります。 -
西保木間付近。県道49号足立越谷線の起点です。
ここから、西保木間アパートの中を通り、旧日光街道に入りました。 -
保木間氷川神社です。
創建は詳らかでありませんが、保木間氷川神社前を東西に通る流山道が戦国時代以前に成立しており、また当地に千葉氏の陣屋跡があったことから、慶長年間(1596年ごろ)以前に宝積院と時期を同じくして創建されたと考えられます。 -
神社の前に流山道の説明があります。
本説明板の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間で日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。
この道を東進すると花畑大鷲神社や成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。 -
保木間氷川神社拝殿
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榛名神社
富士塚もあります。 -
疱瘡大神が合祀されています。
疱瘡神(ほうそうがみ、ほうそうしん)は、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種です。 -
天宇須女尊
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保木間氷川神社と田中正造との関係も。
1890年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。1898年(明治31)9月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京した。
被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年9月28日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は淵江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。 -
保木間氷川神社の説明
祭神として、須佐之男命、豊受姫命、菅原道真を祀る。
当社の創建は明らかではないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ、妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった、それ故に隣接の天神社別当寺宝積院は、その山号を北斗山と称するという。
江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社もそこに合祀されたが、明治5年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。
この地域一帯は、伊興地区について早く開け、平安期末から鎌倉期にかけて発展した。保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。 -
更に西新井方面に進むと、鷲神社参道の案内。
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足立区島根にある鷲神社。
社伝によると文保2年(1318)の中興です。古代の海岸線とされる所が南にあり島の根の様にでた当地に祭神が船で到着したことから浮島明神とも呼ばれたと言います。 -
鷲神社拝殿
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社殿は昭和31年の建造。
なかなかの威厳を保っています。 -
将軍石
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富士塚
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享和2年(1802)寄進の鳥居
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大燈籠
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境内には足立の夏菊の説明がありました。
足立の花栽培は、農家が稲作のあいまに、菊などの花を栽培して、江戸の町へ行商したことが始まりと言われています。
明治6年の「東京府志料」によると、西新井村の物産に「菊花二千七百把」の記述があり、西新井の菊栽培が当時から盛んであったことがわかります。明治から大正期にかけて菊の品種改良も進み、当鷲神社周辺の島根、上沼田、下沼田(現在の島根・江北)、本木(現在の扇・本木)地域などへ栽培地も広がりました。
江戸川区の秋菊栽培に対して、足立区では菊の少ない初夏に咲く中輪の露地夏菊の栽培を専門としています。また、大正初期には、島根の鴨下金三氏ほかにより、チューリップの球根を冷蔵処理して開花を早める促成栽培の技術も開発され、先駆的な花の産地として有名になりました。
このように菊の栽培から始まった足立の花栽培は、近郊農村としての地の利を生かして発達し、現在も「足立の花」として市場より高く評価されています。 -
鷲神社を出て、環七方面に歩きます。
疲れてきました。やがて環七に出ました。島根交差点。 -
環七に沿って歩きます。
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12時を回っているので、ランチタイムです。
エンブレムホステルの2階にあるエンブレムホステル西新井カフェ&バーで。 -
エンブレムホステル西新井はホステルとは思えないスタイリッシュなホステルです。2階に上がります。
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カウンターで注文して、好きなテーブルで待ちます。
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まずはアイスコーヒーで喉を潤します。
かなり歩いて疲れました。 -
店内は空いていました。近所の人たち、外国からの旅行者、仕事をする人などさまざまな客層です。
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ゴルゴンゾーラチーズバーガーをいただきました。
ポテトたっぷり。 -
ゆっくりとランチ&休憩ができました。
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店を出て、東武スカイツリーラインを渡ります。目的の西新井大師までもう少しです。
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西新井大師に到着!!
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お参りをしました。
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人もまばらな西新井大師でした。
参道のお店もかなりしまっていました。 -
西新井大師駅から東武大師線に乗って帰宅しました。
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