2018/04/28 - 2018/05/05
2位(同エリア4件中)
なかさん
「レバノン一周」のツアーに参加。
中東は、2017年1月のイスラエル以来。
4月28日(土)空路でアラブ首長国連邦のドバイへ。
4月29日(日)ドバイ到着後、乗り換えて、レバノンの首都ベイルートへ。着後、ブシャーレへ。途中、ハリッサ観光。
4月30日(月)レバノン杉の森、ビブロス遺跡の見学。
5月1日(火)シドン観光、ティール遺跡の見学。
5月2日(水)ベイルート近郊、アンジャール遺跡見学。
5月3日(木)バールベック遺跡見学。クサラのワイナリー訪問。
5月4日(金)ベイルート市内観光。その後、空路でドバイへ。
5月5日(土)ドバイ着後、乗り換えて帰国の途に。
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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観光開始して3日目。
ベイルートで泊まったホテル「ベラリバ」からの景色。地中海がすぐ近く。 -
朝食はビュッフェ。チーズの種類が多い。
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出発まで時間があるので、ベイルート最大の繁華街「ハムラ地区」まで行ってみる。メイン通りのハムラ通りは商業施設が並ぶ目抜通りとのことだが、朝早すぎて人もまばら。
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車のナンバープレート。
レバノンで人気の車種は、ベンツ。次にトヨタ、ニッサン。普通車のプレートの色は白だが、タクシーは赤色で、観光関係は青色。 -
西へ進んで、海岸通りを歩く。
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真ん中の建物が、ホテル「ベラリバ」。
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地中海沿いの遊歩道は整備されており、ジョギングやウォーキングする人がちらほら。
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9時にホテルを出発。すぐに「鳩の岩」に到着。
ここは、ベイルートのシンボル。移民でベイルートを去った友人や家族が、ここから伝書鳩を飛ばしていたというのが名前の由来。 -
この前辺りは、地価が一番高い「ラウシェ地区」。
海沿いの建物は、景観維持のため遊歩道より高くならないように制限をしているそう。街頭には監視カメラ。 -
ベイルートから40キロ南下。沿岸にあるレバノン第三の都市シドン(現在はサイダ)の郊外にある「エシュムーン神殿遺跡」に10時に到着。
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フェニキアの時代はそれぞれの町に主要神がいて、シドンの守護神はエシュムーンだった。
狩り好きな美青年エシュムーンは、美の女神アシュタルテ(アフロディーテと同一視)に言い寄られるが、それを拒否して自殺してしまう。その死を悲しんだアフロディーテは彼を蘇らせる。
そんな伝説が残る、紀元前5世紀にフェニキア人が建てた神殿。 -
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エシュムーンに求愛したアシュタルテの玉座。
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子どもとラクダの壁画が残っている。
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シドンの中心地に移動。
この街は、古代フェニキアの都市国家として栄えたが、十字軍、オスマントルコ等に支配された。内戦時にはイスラエルによる攻撃を受けて市街は荒廃。しかし、内戦終結後に急速に復興した。
写真の「ファラーフェル」の店で小休憩。ファラーフェルとは、有名なヒヨコ豆のコロッケ。 -
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揚げたては特に美味しい。
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その後、「海の城塞」の見学。
元々、フェニキア人がメルカルト神殿を建てていた小島に、13世紀頃、十字軍が港の防備のため築いた。 -
昔は跳ね橋だったが、現在は石橋で陸地と繋がっている。
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学生の社会見学みたい。
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会議室だったそう。
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城塞の上からの眺め。
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南側には、ファラーフェルを食べた店等、旧市街が広がる。
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東側。高い建物が並ぶ辺りは新市街。
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徒歩で道路を渡って、「ハーン・エル・フランジュ」に。
ここは、17世紀にシューフ山脈の領主ファハルッディン2世によって造られた隊商宿(キャラバン・サライ)。 -
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中庭を囲む建物。1階はラクダや馬等の動物を繋ぐ所で、2階は宿泊施設。
後にフランス領事館として使われ、今はシドン出身の故ハリーリ首相(2005年2月に暗殺)の作ったハリーリ財団の持ち物。 -
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その後は、旧市街を散策。
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包装したピタパン。
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昔ながらのアラブらしい雰囲気のスークが続く。
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スィーツ屋。レバノン人は気さくで陽気な人が多い印象。
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しかし、多彩な選挙ポスターの大きさと多さを見ると、この国の政治状況の複雑さを実感する。
レバノンには20近い宗派が存在し、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はシーア派から選ばれる。また、議員定数も各宗教、宗派別に割り振られている。 -
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石けん博物館の見学予定だったが、祝日のため休館。明日に変更。
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海の城塞の目の前にある、ZAWAT RESTAURANTで昼食。
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上の、パセリ、ミント、トマト、玉ネギのみじん切りサラダは「タッブーレ」 。その下はビネガーライスをブドウの葉で包んだ「ワラク・イナブ」。
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メインは、チキンライス。
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デザートは、フルーツ盛り合わせとアラビックコーヒー。
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食後、さらに南下して、ティール(現在のスール)へ。外務省海外安全ホームページでは「渡航中止勧告」が出ている地域。
車窓から、緑色のイスラム教シーア派の政治組織「アマル」の看板を撮影。左の男性は、国民会議議長をしている。 -
南部になるとイスラム勢力が強くなり、街頭はずっとアマルの旗が並ぶ。
公道に政党の旗が並ぶことは問題がないのかガイドさんに尋ねたが、この辺りは支持が多いため問題ないとの返答。ちなみに、ガイドさんはムスリム。 -
14時半過ぎ、「ティール遺跡」に到着。
ティールは、シドンと同様にフェニキアの海上貿易の拠点として栄え、紀元前10世紀頃最盛期。内戦時はイスラエルの占領下だった。
遺跡は、1984年世界遺産登録。東側に陸地、南側に海の二か所の遺跡がある。まずは陸の遺跡の見学。両側は、ネクロポリスと言われる墓地になっていて、ローマから輸入した大理石の石棺が並ぶ。 -
東ローマ帝国のビザンチン時代の石畳。
現在はフェニキアの遺跡はなく、ローマ帝国やビザンチン時代の建造物が残っている。 -
ビザンチン時代の教会。
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墓。
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屋根に装飾された天使。
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人骨。
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ハドリアヌス帝の凱旋門から向こうは、ローマ帝国時代のもの。地面に段差がある。真ん中の道は馬車用なので敷石が大きく、左の道は歩行者用。
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歩行者用。
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ヒッポドローム(競馬場)。
当時二番目に大きく2万人収容でき、広さは、480m×174m。近くに「青チームに勝利を」と書いた風呂場跡もあった。 -
観客席の土台。上部はなくなった。
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自由時間に、競馬場の一番奥まで行って観客席の最上階まで登ってみる。
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この後、海の遺跡に移動。
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車窓から、右手の奥に見える岬が海の遺跡。
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紀元前332年、マケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の進軍に対し、フェニキア人の中で唯一最後まで激しく抵抗したが、7か月の戦闘の末陥落される。その際、アレキサンダー大王が攻略のために島との間を埋め立てて土手道を築いた。それが現在、陸続きの海の遺跡として後世に残されている。
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陸の遺跡とは違い、快楽を追求した遊びの街とか。中央道、北東から。
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商店跡。床はギリシャから輸入した大理石のモザイク。
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陸の遺跡から続いていた列柱通り。
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貯水槽。
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長方形の競技場。
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多くの人が訪れたであろう、広いパレストラ(スポーツの訓練場)。手前は、浴場跡。エジプトのアスワンから輸入した花崗岩を使用。
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住居地区。
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突き当りは地中海。
ガイドさんから、「半島の先はパレスチナ」と説明あり。ガイドさんは現イスラエル領を絶対に「イスラエル」とは言わない。半島の上のポッコリ出た所にイスラエルの監視塔があるよう。 -
中央道、南西から。自由時間にぶらつくが、世界遺産なのに他の観光客はほとんど見ない。
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一旦退場して、北側から撮影。八角形の建物跡。
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帰りのバスで、ガイドさんからヒズボラの説明。
レバノンに来る観光客が多かった時にイスラエルが空爆をしてきた。それに対して、ヒズボラがイランから支援を受けてイスラエルに空爆し返した。ヒズボラをテロリスト呼ばわりしているのは、アメリカとイスラエルだけで、レバノンでは国民的ヒーロー。ISを国内に入らないよう防いでいるのも、ヒズボラだと。 -
ホテル「アブディーブ」に到着。
部屋のライトを点けたらピンク色で、可愛い装飾。新婚用の部屋だったみたい。 -
ホテル入口。バナナ畑に囲まれた、通称「バナナホテル」。
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19時にホテルで夕食。
いつも通り前菜(メッゼ)は豊富。 -
メインは、魚の王様と呼ばれているハムールという魚と、エビ。ビールはレバノンの「アルマザ」。4USドル。添乗員さんが日本から持参した冷やしうどんを用意してくれた。
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